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THIS IS JAPAN IN TOKYO 〜永遠の日本美術の名宝〜 オンライン展覧会

東京富士美術館で2020年9月1日から11月29日まで開催された企画展「THIS IS JAPAN IN TOKYO 〜永遠の日本美術の名宝〜」展のオンライン展覧会です。

ごあいさつ

2019年9月、ICOM(国際博物館会議)京都大会を記念して、東京富士美術館が所蔵する日本美術の名品から選りすぐった「百花繚乱 ニッポン×ビジュツ」展が、京都文化博物館にて開催され、京都を訪れた訪日外国人をはじめ、多くの来館者から好評を博しました。本展はその里帰り展となるものです。


当館が所蔵する日本美術作品は、平安時代から近現代に至る多様な分野にわたっています。本展では千年の歴史の中で育まれてきた日本文化の豊穣な芸術世界のエッセンスをコンパクトにわかりやすく楽しむことができるように「キモカワ」「サムライ」「デザイン」「黄金」「四季」「富士山」など日本美術を特色付けるキーワードを通し、ニッポンのビジュツを俯瞰的に横断します。絵画、浮世絵版画、漆工、刀剣、武具甲冑などの多様な分野におよぶ93点の名品を通して、日本の歴史と文化の多様性について理解していただけるとともに、日本美術の豊かさに触れる絶好の機会となるでしょう。


本展は、東京富士美術館がこれまで世界各国の政府・文化機関等の要請を受けて、海外15カ国1地域で24回にわたり開催してきた、当館所蔵日本美術の名宝展の集大成ともいえる展覧会です。来館者の皆さまにとって本展が、日本の歴史と文化の多様性や、日本美術の豊かさに触れる機会となれば幸いです。

展覧会紹介映像(YouTube)

「THIS IS JAPAN IN TOKYO 〜永遠の日本美術の名宝〜」展ムービー(日本語版)
展覧会の見どころについて学芸員による解説をつけた約15分の特別映像で詳しくご紹介します。

キモカワ × 日本美術 "Kawaii" Japan

日本美術に登場するモチーフは、現代の私たちから見ると、ときに大変かわいく思われます。たとえば、円山応挙の描く犬や、長澤蘆雪の描くウサギは愛おしさを感じさせるカワイイ魅力を放っています。一方、曾我蕭白の描く仙人、東洲斎写楽の描く人物などは、デフォルメが強く、気持ち悪さや不気味さを持ちながらも、それゆえに可愛らしく感じられる、今でいう「キモカワ」的な印象を受けるかもしれません。「カワイイ」「キモカワ」の持つ多義的な魅力は、日本美術の特徴の一つともいえるかもしれません。

[重要美術品]猛虎図

右奥から流れ出る水流の縁に手をかけて佇む虎。その口元を見ると薄く彩色があり、口を開けているのか、舌を出しているのかは判別できないが、水をありつこうとする瞬間を捉えていると分かる。周囲を窺うような視線を送る表情は、まるで猫のようで愛くるしい。大胆な余白の活用が尚信画の特長ともいえるが、ここでも横長の大きな画面に余計なものは描かず、主題に視線を向かせるようなすっきりとした画面構成が見られる。

象図

象を画面いっぱいに真正面から描く。細長い画面を逆手にとった意表を突く大胆な構図である。象の背景となる部分を全て墨で塗りつぶし、象を着色せず引き立てる手法も効果的で、これは拓版画の効果を肉筆画に応用したものと推測される。単純な作風に見えるが、淡墨と濃墨を細心の配慮を払って用いていることが理解できる。背中を三本の曲線だけで表わすなど抽象化されていて興味深い。その落款と印章から若冲70歳代半ばの作と知れる。享保13年(1728)、第8代将軍徳川吉宗の要請で実際の象が日本に持ち込まれ、その翌年、長崎から江戸まで歩いて移動したという。14歳を迎えた若冲は、おそらく京都の地でその象を実見したとみられる。本作は、実際に見たであろう象の記憶そのままに、畳一畳近くある大型の画牋紙からはみ出るほどの迫力で描かれている。若冲が手がけた「正面書きの象」は、代表作として名高い「樹下鳥獣図屏風」「鳥獣花木図屏風」を合わせて、現在確認できるのは5点のみ。本作はそのうちの稀少な1点である。

群鶏図

雄鶏の奥から雌鶏が顔を出し、手前に描かれた雛を見守っている。雄鶏の姿は鶏冠や肉髥から羽、尾、脚にいたるまで濃密に描かれているのに比べ、雌鶏と雛が単純化されているため、見逃してしまいそうな構図である。雄鶏の背中の羽の部分にはわずかではあるが、墨の滲みの効果を利用した若冲特有のいわゆる「筋目描き」の描写も見られる。左端に記された落款には「米斗翁行年七十九歳画」とあり、若冲が天明8年(1788)の天明の大火後に石峰寺(現在の京都市伏見区深草)の門前に構えた庵で制作していた時期でもある寛政6年(1794)の作と分かる。

鶏図

若冲は庭に鶏を数十羽飼い、写生していたことで知られる。本作ではそのうちの1羽を捉えたものであろうか、米俵に乗り、まるでサーカスのように片脚でバランスをとる鶏が描かれる。正面向きの鶏は若冲の代表作である《動植綵絵 群鶏図》(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)や《仙人掌群鶏図》(西福寺蔵)にも登場するが、横向きの鶏に比べ、よりユニークな表情を見せる。本作は粗く描かれたように見えるが、米俵のしめ縄や、鶏の顔、羽、脚にいたるまで墨の濃淡を使い、丁寧に描写しており、よく見ると鶏冠や肉髯には微細な点状の模様が施されている。

鶴図屏風

六曲一隻屏風に墨画淡彩で二羽の鶴を描く。鶴の周囲を外隈が施され、その白い身体が強調され、さらに頭部に用いられた朱がアクセントとなり効果的である。鶴の表現や、速筆で描かれた画面を突き抜ける大きな松、没骨で描かれた下草類などに蕭白の水墨技術が看取される。画面左に後補があり、引手跡も確認できることから、襖が屏風形式に改装されたことがわかる。作風、落款、印章などから20代末から30代前半頃の制作と考えられる。

亀寿老図(亀仙人)

太い尾のような苔を従えた亀は蓑亀ともいわれ、吉祥の図案としてよく絵画に用いられた。亀に乗る仙人は中国の仙人についてまとめた『列仙伝』(巻之二)に登場する黄安仙人が知られる。同書には「赤い銅色の身体を露出し、年中衣服を着ることがなかった」とあり、その容姿について挿絵入りで紹介した『繪本故事談』には亀の上に乗り、伸び切った髪と髭を生やした半裸姿の黄安仙人が描かれている。しかし本作に見られる仙人は、服を着込み、長い禿頭が特徴的に描かれ、明らかに七福神の一人である寿老人を思わせる風貌をしている。現に亀に乗る寿老人をモティーフとした絵画や置物なども残っていることから、本作のように別の仙人を七福神に見立てた図案が、蕭白の生きた時代に吉祥図の一つとして流通していたということも考えられる。いずれにしても、やや企み顔の仙人と存在感のある亀の顔つきに蕭白特有の愛嬌があり面白い。また、もう一つ注目すべきは本作に付された印(朱文壺印)である。この印は元々正方形であったが、時代を経て欠損が進み、印影がまるで壺の形のように変化することで知られる。蕭白作品には珍しく「安永七戊戌春」との年記が入った《蘭亭曲水図》(個人蔵)には、本作よりもやや欠損が進む前の状態にある朱文壺印が見られることから、本作は安永7年(1778)以降に描かれたものと推察することができる。

蝦蟇仙人図

蝦蟇仙人は中国の仙人葛玄あるいは劉海蟾をさす。3本足の蝦蟇(ヒキガエル)を操るとされる。仙人はお腹の着衣の中に蝦蟇を抱え、西王母と蝦蟇との逸話にちなみ仙桃を想起させる桃の枝を手にしている。蝦蟇仙人は鉄枴仙人との対で描かれることが多いが、本作もそうした対幅のうちの一幅と考えるのも面白い。いずれにしても「曾我暉雄」「蕭白」「鸞山」印とその状態からして30代前半頃の比較的早い時期の作と考えられる。

狗子之図

3匹の仔犬が愛らしい表情を見せながら佇んでいる。画面左側に何か興味をそそるものがあったのだろう、2匹は左に視線を送っており、その心の動きをも感じ取ることができる。明和8年(1771)頃には《写生図巻》を制作し、小動物を複数の角度から写生して残している。「狗子図」では天明4年(1784)に手がけた《朝顔狗子図杉戸絵》が代表的であるが、本作はその後、人気を博した応挙の狗子図の派生作品の一つといえる。

南天に雪兎図

雪に佇む2匹の兎。一見して、師である円山応挙の《木賊兎図》(天明6年[1786]作)を想起させる。本作は楷書体の署名や白文方印から盧雪の作画の最初期にあたる天明元年頃の作とみられる。この頃の盧雪は応挙の画風に忠実に描くことが多かった。本作に登場する黒と白が混じる兎は、応挙が明和7-安永元年(1771-72)に手がけた《写生図巻・甲巻》にも描きとめられており、盧雪はおそらくこれを参考に制作したのではないかと推察される。

うそ姫の縁起(ふくろふ)

御伽草子絵巻。加賀国に住む83歳の梟(ふくろう)は、美しい鷽(うそ)姫に一目惚れする。山雀(やまがら)の協力で片思いは実り、姫の心をつかめなかった諸鳥は恋の歌を詠む。しかし、失恋した鷲(わし)は逆上して姫を殺害、梟は出家し、彼女の菩提を弔ったという。大型奈良絵本を改装したこの絵巻は物語後半を欠くが、数少ない『ふくろふ』の作例として貴重。華麗な挿絵には、当時の機智なども盛りこまれている。例えば、山雀の前に胡桃が置かれているのは、慣用表現の「山雀が胡桃回す」(もてあましていじり回すの意)を踏まえたものである。

市川鰕蔵の竹村定之進

寛政6年(1794)の5月に河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」の一場面で、前半の山場・道成寺の主役である能師役の竹村定之進を描いたもの。演ずる市川鰕蔵は5世市川団十郎のことで、当代随一の名優と謳われた。大ぶりの体格、彫りの深い顔と顔全体を使った豊かな表情が、この役者がもつ堂々たる風格を伝えてくれる。また定之進の顔、襟や裃の描線、組まれた両手とがリズミカルかつ安定した構図を巧みに演出している。

源頼家公鎌倉小壺ノ海遊覧 朝夷義秀雌雄鰐を捕ふ圖

海中で鰐を捕まえているのは、この絵の主人公で武勇に優れた鎌倉時代初期の武将、朝比奈三郎義秀。数々の伝説に彩られた人物として物語や歌舞伎にも度々登場する。のちに北条氏に反旗を翻した和田義盛の三男で、安房国朝夷郡(あさいぐん)(現在の千葉県南房総あたり)に生まれたのでその名がある。ここに描かれているのは、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に登場する一場面。正治2年(1200)9月2日、源頼家(みなもとのよりいえ)は小壺(現在の神奈川県逗子市小坪)の海辺を遊覧した際に、いつものように御家人たちに武芸の披露を行わせた。その後、海上に船を浮かべて酒を振舞っていた時に、泳ぎの名人との評判が高かった義秀にその技を披露するように命じた。そこで義秀は見事な泳ぎを見せた挙句、海中に潜ると生きた鮫を3匹捕まえて浮上してきた。驚いた船上の人々は義秀を喝采で迎えた。鮫はここでは鰐として表現されている。この鰐は、江戸時代後期の蘭学者、森島中良が著した『紅毛雑話』(天明7年(1787)刊行)に掲載されている「カイマン」の図をもとに描かれており、その後も同じく国芳の「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(嘉永4年(1851))にも鰐鮫として登場する。

相馬の古内裏

山東京伝の読本『善知安方忠義伝』に取材した本図は、国芳の代表作の1点。相馬の古内裏は、相馬小次郎こと平将門が下総国に建てた屋敷で、将門の乱の際に荒れ果ててしまっていた廃屋。妖術を授かった将門の遺児滝夜叉姫と良門は、父の遺志を継いでこの廃屋に仲間を募り、やがて妖怪が出没するようになる。それを知った源頼信の家臣、大宅太郎光国は妖怪を退治してその陰謀を阻止する。原作では複数の骸骨が現れるが、国芳はこれを巨大な一体の骸骨に置き換えることによって、迫力ある画面構成を生み出すことに成功している。

里すゞめねぐらの仮宿

天保の改革によって役者絵や遊女に関わる絵が禁止され、浮世絵界は大打撃を受けたが、国芳は役者や遊女を動物に見立てて描き、その規制をかいくぐり、ユーモア溢れる世界を創出した。本図は吉原の格子先の賑わいが題材となっている。弘化2年(1845)の暮れ、吉原が火災に遭い、仮宅(吉原以外の仮の営業所)での営業を余儀なくされた模様を取り上げているが、先の理由で、登場人物全てを雀の姿に見立てて描いたのが本図である。

みかけハこハゐがとんだいゝ人だ

戯画のうち「寄せ絵」と呼ばれるもので、人間の目、鼻、口から眉毛、丁髷にいたるまで、そしておそらくは着物の中の身体つきについても、さまざまな姿態の人間を組み合わせて表現するというユニークな趣向に富んだ作品。西洋の画家・アルチンボルトが植物や果物などを使い、同じ手法で人体を表現する試みをしているが、両者の関係性については定かでない。また着物の文様から鎌倉時代の武将・朝比奈義秀の関係性も取り沙汰されている。

名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣

格子の外を見つめる猫の後ろ姿が可愛らしく印象的だが、格子窓のこの部屋は吉原の妓楼の二階であろう。飼い主の遊女は接客中のようで、畳には客が持参したものか、浅草の鷲神社の酉の市土産の熊手型の簪が転がっている。窓の外には浅草の田んぼの向こうに熊手を持って行き交う人々の姿が描かれ、遠く富士山と空高く雁行する雁の群れが見える。空は夕日に赤く染まって、吉原も忙しくなる頃合いである。猫は、縁起物の熊手を買い求める参詣客で賑わう酉の市の喧騒に耳をそばだてているようだ。

名所江戸百景 深川洲崎十万坪

「十万坪」は現在の江東区千田および千石周辺に当たる。享保8年(1723)から行われた干潟の埋め立てにより10万坪に及ぶ新田が開発されたため、「十万坪」と呼ばれていた。高潮の被害が発生するなど居住には適さない土地で、一時幕府が鋳銭場(いせんば)を置いたりしたが、寛政8年(1796)には)には一橋(ひとつばし)徳川家の所有となった。江戸時代後期には、この付近は春の海辺での潮干狩りや初日の出、月見を楽しめる名所として人気を集めるようになり、海岸に面した洲崎弁天社(すさきべんてんしゃ)(現在の洲崎神社)にも多くの参拝者が訪れていた。天保年間に出版された広重の『東都名所』や『江都名所』などのシリーズでは、そのような潮干狩りや初日の出、洲崎弁天社の賑わいの様子が描かれている。広重は『名所江戸百景』で再び同地を描くにあたり、それまで描いた題材から大きく趣向を変えて、海側からの鳥瞰(ちょうかん)という大胆な構図によって、湿地帯の荒涼とした冬の雪景として描き出した。しんしんと雪が舞う浜辺に静けさが漂う一方で、大きく翼を広げた鷲が上空から獲物を狙う様子は躍動感に溢れており、この静と動の対比が本作の大きな魅力となっている。遠方には、富士山と並ぶ関東の霊峰、筑波山が静かに下界を見下ろしている。

鯱形兜

兜鉢は薄鉄の五枚張りで、その上に鯱の形を和紙で厚く張り抜いてある。全体を厚く漆で塗り固め、口と鼻孔は朱漆塗り。目は金胴の薄板を貼り付け、錏(しころ)は鉄板付盛上札を朱漆塗りとし、その上から黒漆を塗っている。日根野形五段を紫絲威とし、吹返しは一段丸形で、黒漆塗りとして銀の覆輪をめぐらせる。作域は、張り抜き技術、漆仕事にすぐれ、まとまりのよい張懸兜である。

サムライ × 日本美術 Samurai Japan

絵巻や屏風などの合戦絵に描かれた武士は、武具甲冑を身に帯び、日本独自の戦闘図の主人公として存在感を示しています。そしてもともと武士の身の回りの実用品でありながら、現在は「美術品」として鑑賞される武器や武具の数々。現在見ることができる武士の遺品は、消費され失われた多くの実用品とは一線を画し、いずれも当時の武士のこだわりや美意識を反映し、贅を尽くした逸品です。刀剣はぜひ武士が手に取って鑑賞したスタイルで名刀の美をあますところなくお楽しみください。

源平合戦図屏風

源平合戦の中でも有名な一の谷合戦を右隻に、左隻に屋島合戦を描く。右隻には平家の陣屋の後方から攻め入ろうとする、源義経によるいわゆる「鵯越の逆落とし」の場面や、熊谷直実と平敦盛による「敦盛最期」のシーンが描かれる。左隻には陣屋に攻め入る義経軍と海上に逃れる平家の軍勢とが、陸上と海上に対峙する屋島合戦の模様を描く。所狭しと金雲をあしらい、極彩色と繊細なタッチで兵士一人一人の表情まで丹念に描き、見る者を魅了する。

後三年合戦絵巻(写)

後三年の役は永保3年(1083)から5年間、奥羽の清原氏の血族の争いからおこった合戦で、陸奥守源義家と奥羽の豪族清原一族の間で戦われ、義家はこの乱によって武名をあげ、またこの乱が奥州藤原氏繁栄の基礎ともなった。後三年合戦絵巻は鎌倉期の代表的戦記絵巻であり、元々播磨の池田家の重宝として伝世したが、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。本作はその写本である。特に凄惨な合戦の場面は観る者の眼を引きつける。

川中島百勇将戦之内 義将 武田左馬之助

武田左馬之助信繁は武田信玄の弟。知勇に優れ、武田の副大将として信玄の右腕となって活躍した。川中島の合戦では、死を覚悟した信繁は家臣に息子への形見を託して、討死したとされる。『甲陽軍鑑」では「毎事相整う真の副将なり」と評され、嫡子武田信豊に残した「武田信繁家訓」は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれていた。まさしく文武両道の士として人気を博していた。

宇治川先陣

『平家物語』に登場する「宇治川の戦い」の一場面。平安時代末期の寿永3年(1184)1月、木曽義仲と源頼朝が派遣した源範頼・源義経との間で行われた合戦の様子が描かれる。雪解け水で増水して激流が渦巻く宇治川を前に、先陣争いをする2騎の武者、佐々木四郎高綱(ささきしろうたかつな)と梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ)。頼朝より賜った名馬「生唼(池月)いけづき」を駆る高綱は何としても先陣を切りたい。そこで先を行く景季に馬の腹帯が緩んでいると声をかける。慌てて帯を締め直す景季。その横を追い越し、川に飛び込む高綱。当代一の名馬「生唼(池月)」(いけづき)は、宇治川の速い流れを、力強く一文字に対岸へと渡りきる。磨墨(するすみ)に乗った景季は、流れに押し流されて遥か下流の岸へ。見事先陣を切った高綱は、大声で名乗りをあげながら敵陣に突撃したのである。画面中央、連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬にまたがる勇壮な武者姿の人物が佐々木四郎高綱。波しぶきを上げながら勢いよく岸に駆け上がっている。その右側後方には、黒馬とともに必死に川を渡る梶原源太景季の姿がある。

四条畷手の戦い

ここに描かれているのは、楠木正成の息子正行が壮絶な討ち死を遂げた四條畷の戦いである。四條畷は現在の大阪府四條畷市にあたる。正行は父正成の死後、南朝方として北朝の足利尊氏を討つべく準備をしていた。父譲りの戦略でいくつかの戦では勝利を得たものの、勢力の差はいかんともしがたかった。四條畷において、決死の覚悟で敵陣に突っ込み、無数の弓矢を射かけられるなか敵の大将高師直まであと一歩とせまるが取り逃がし、最後は自刃して果てたと言い伝える。この模様は「太平記」に詳しく書かれ、忠孝の父子として江戸の庶民に広く読み継がれていた。

鉄錆地六十二間筋兜 三日月前立

「常州住早乙女家成」の銘を鐫(ほ)る六十二間の筋兜である。筋兜は縁を折立てた矧板を、頭が平坦な鋲で留めたもので、鉢表は一面に折立てた縁の筋が並ぶことからその名があり、その筋間の数を「間(けん)」と呼ぶ。鉢は比較的穏やかな形で、四方に響孔(ひびきあな)を開け四天(してん)の鋲を打つが、後頭部の笠標付(かさじるしつけ)の鐶は設けていない。天辺(てへん)は六重の菊金物の八幡座で飾り、角本に立てた革製金箔押の大きな三日月の前立が印象深い。眉庇(まびさし)は斜め下方に突き出したいわゆる駒の爪形である。𩊱は黒漆塗鉄板札五段を紺糸で素懸に威し、一段の吹返に「丸に三柏」の据文金物(すえもんかなもの)を打っている。早乙女派の主要な拠点は常陸の下妻(茨城県下妻市)が有力視されているが、膨大な在銘品を残しながら良質な史料に乏しく不明な点が多い。家成の在銘品は六十二間筋兜が多く、六十二間小星兜がこれに次ぎ、江戸時代前期から中期にかけて複数代続いたようである。

鉄錆地六十二間筋兜 鹿角脇立

本作は、六十二間の筋兜の代表的なものの一つ。兜鉢の周囲に取り付けられた錣は、金漆塗りの地に古代紫糸を切付小札で五段に威しており、装飾物の脇立には、木彫に金箔を押した鹿角型のものを置いている。吹返の「六文銭」から、信州(現在の長野)の松代城主真田家伝来の兜と知ることができる。

白糸裾萌葱紺威鎧 兜・大袖・小具足付

幕末の薩摩藩主島津斉彬が着用したと伝えられる大鎧。制作当初の状態で各部が完全に揃っているものとして、大変貴重である。兜の鉢は、古く鎌倉時代のものを転用しており、各所に取り付けられた金具の装飾は豪華な作りで、他に例を見ないほど手の込んだ金具である。また胴前面の獅子牡丹文様の弦走の韋、籠手の蒔絵に加え、白色、萌黄色、紺色の三段の威絲など、全体に勇壮さ、重厚さに優雅さ、軽快さの感じられる上品な作風である。昭和3年5月に東京美術倶楽部で開催された公爵島津家藏品入札目録に目録番号375番として掲載されている。

[重要文化財]太刀 銘 一

本作は、身幅(みはば)広く腰反(こしぞ)り高く、中鋒(ちゅうきっさき)詰まって猪首(いくび)になるなど鎌倉時代中期の力強い太刀姿を呈し、平肉(ひらにく)も良く付き、往時の姿を留めている。よく練(ね)れた地鉄(じがね)には乱れ映(うつ)りが立ち、足(あし)・葉(よう)が豊富に入り、華やかな重花丁子に蛙子丁字(かわずこちょうじ)を交えた大模様の刃文は力強さと迫力に満ちており、福岡一文字派の真価が十二分に発揮された屈指の一口といえる。細川護貞氏旧蔵。昭和25年(1950)、国の重要文化財に指定されている。

刀 銘 和泉守藤原兼定作

本作は、先反(さきぞ)りのついた典型的な末古刀(すえことう)姿で、鍛(きた)えは板目(いため)肌が流れて柾(まさ)がかり、地沸(じにえ)が厚くつき、関物(せきもの)特有の白(しら)け映(うつ)りが立つ。刃文は、互の目に小湾(このた)れ、尖(とが)り刃、丁子など交(ま)じり小足(こあし)入り、匂口(においぐち)締(し)まりごころに小沸(こにえ)つく。茎(なかご)の鑢目(やすりめ)は鷹の羽、目釘孔(めくぎあな)横、鎬地(しのぎじ)に和泉守藤原兼定作とノサダ八字銘がある。この刀は、ノサダの優れた技量が発揮された代表作といえる。

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹/(金象嵌)寛文五年十二月十六日 山野加右衛門六十八歳永久(花押) 四ツ胴截断

本作は、反(そ)り浅く、鋒(きっさき)が詰(つ)まり、鎬幅(しのぎはば)広く鋭い感じがする姿。地鉄(じがね)は小板目(こいため)がよく詰み美しく、刃文は、湾(のた)れて刃縁(はべり)に小沸(こにえ)が微塵(みじん)につき明るく冴えるなど、まさに虎徹の典型作である。なお、虎徹の刀には、本刀のように幕府の試役(ためしやく)を勤めた山野加右衛門永久・勘十郎久英親子の裁断(せつだん)金象嵌(ぞうがん)銘を入れたものが多数あるのも特徴である。一般に三ツ胴(みつどう)以上の截断銘は少なく、四ツ胴截断銘の入る本作は、虎徹の作のなかで最も切れた記録を残すもののひとつ。

刀 銘 武蔵守藤原兼中/越前住

本作は、越前関の代表刀工兼中の作で、反り浅く、元先幅の差が付く典型的な寛文体配。鍛えは板目が肌立ち、処々黒い肌合いを見せる越前肌。刃文は先の尖る互の目に匂口締まりごころで数条の砂流しがいる。帽子は、乱れ込んで小丸。茎は生ぶ、鑢目は勝手下がり、目釘孔一個、先は入山形、銘は、表に作者銘、裏に国銘を切る。良く練れた肌合いと関伝を彷彿とさせる三本杉の刃文は見事である。

デザイン × 日本美術 "Rimpa" Design Japan

俵屋宗達に始まり、尾形光琳が発展させ、酒井抱一や鈴木其一に代表される「琳派」の絵師。彼らの活動は、直接の師弟関係によらず江戸時代を横断し、京都から江戸へ広がり、絵画や工芸をまたぐという既成の流派の概念に収まらないものでした。宗達、光琳、抱一、其一と描き継がれた風神雷神図、其一は抱一までの二曲一双で並び立つ二神を、大胆に襖四面の広大な空間の表裏に描き分けます。斬新な発想力に由来する独自の造形=デザインに彼らの真骨頂があります。

白菊図屏風

垣根の周囲を覆い尽くすように咲き誇った大ぶりの白菊に花の持つ強い生命力を感じる。六曲一双という金地の大画面に白菊と垣根、土坡、水流のみを描く豪快な表現様式は桃山時代全体の障屏画における大きな特長といえる。中でも自然そのものが持つ美しさを単純かつ明快に表現した大らかな作風は長谷川派のそれに近いものを感じさせる。垣根や水流に変化を持たせながら、主題である白菊の端正な美しさを見事に伝えた桃山障屏画の品格溢れる名品。

松桜図屏風

画面を対角線で区切るように夥しいまでの松の緑の塊が連なり、左上方の金地空間と鮮やかな拮抗をなす斬新で奇抜な構図。松といえば養源院の《松図襖》が有名であるが、本作では松の葉をより簡略化して描いている。松の樹間には宗達がモティーフとして採用した槙や檜も描かれており、宗達作品を想起させる。右上部の八重桜は、独特の盛り上げ彩色による厚みを備え、松葉の群れに負けじと咲き誇って、画面にひときわ興趣を添えている。

波濤図屏風

比較的小さな寸法に仕立てられた八曲一隻の屏風。画面右下に「対青印」らしき朱文円印があるが、にわかには判読しがたい。本作では俵屋宗達・尾形光琳の双方が描いた《松島図》にも見られる波頭の図案が簡潔にリズムよく描かれ、波の躍動感を伝えている。波形の描写は波の外側にだけ濃い群青色を引き輪郭を際立たせ、波頭部に胡粉で白を着彩し、飛沫や波のうねりの部分に金泥の線で調子をつけて仕上げている。

白梅図屏風

しなやかに枝を伸ばし、ちらほらと蕾が咲きだした梅を、金地の対角線状に配置した意匠性の高い作品である。画面の上下をはみ出して描かれた梅は枝振りや幹の一部のみを描き、独特の形態の美しさを捉えて簡潔にまとめ上げられている。薄墨のたらし込みで表された樹幹に、点苔として加えられた緑青が潤いを感じさせる。梅の花は尾形光琳がよく用いたモティーフで、花弁をひとつなぎの輪郭線のみで描いた梅は「光琳梅」とも称された。

白梅図

花弁の描写を略し、花の輪郭だけを捉えた世に言う「光琳梅」と呼ばれる意匠化された梅の花と、たらし込みの技法を駆使した幹の表現は、琳派を継承した抱一の確かな技量を感じさせる。上部には「梅の花 八千代の春に 匂うとも 赤く色香の なとこもるらん」との歌が添えられている。この歌の作者は京都出身の国学者であり歌人の富士谷御杖で、おそらく抱一と何らかの交友をもっていたと考えられる。

萩月図襖

萩と月は秋を表す好画題といえよう。左右から伸びた紅白の萩は緩やかな動きをもって、対角線上に配置されている。花房と葉の表現には、輪郭線を引かず色の階調を作る付け立ての技法がとられ、葉の葉脈には金泥が施されている。月下の葉色に変化をつけ、絹地の背景に銀泥を引くことで月光を演出するなど、こうした其一の細部へのこだわりが画面に程よい緊張感をもたらすとともに、江戸琳派特有の美麗で瀟洒な品格を醸し出している。

風神雷神図襖

俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一という琳派の巨匠たちによって手がけられてきた重要画題である「風神雷神図」を抱一の高弟其一が再構成した作品。3人の巨匠が二曲の金地屏風に二神を収めたのに対し、其一は絹本の襖四面に各々を描いた。この襖絵は元々4面が表裏にくるよう仕立てられていたという。白と緑の軽やかな色彩を得た風神・雷神は、墨の滲みを使った柔らかな雲を従えて、与えられた広々とした空間を我が物顔で支配している。其一は、師である酒井抱一とともに、大らかで典雅な気風の京琳派に対して、瀟洒で機知的な近代性を併せもった「江戸琳派」を確立させた。本作では風神・雷神の二神の胴体・腕・足の凹凸を表す描線や目玉の周囲にわずかな陰影を施し、立体性をより強調しているのが見て取れ、他の3巨匠にはないリアリティへの追求が窺える。落款には「為三堂」「噲々」の印、「祝琳斎其一」の署名がなされており、抱一の死後、其一独自の作風を確立しゆく30代半ばから40代後半の充溢した時代の作と考えられる。

白鳳図

現在、雪佳の描いた「白鳳図」としてよく知られるのは、大正時代末頃の制作の双幅《朝陽老松・白鳳図》(個人蔵)と、昭和天皇即位の大礼の際に制作された《白鳳図》(細見美術館蔵)である。いずれの作品も本作と類似しており、白鳳の首の角度や顔の表情が違うものの、身体の向きはほぼ同じである。白鳳は松の幹にとまり、視線の先にいる何者かを威嚇するような表情を見せる。松と白鳳という取り合わせは、伊藤若冲の《動植綵絵 老松白鳳図》(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)を想起させるが、その描法を見ると、大らかな線で描かれた白鳳に、たらし込みの技法を使った松の幹、こんもりとした松葉の塊など、琳派作品から継承した画技が冴えわたっている。落款・印章から制作時期は大正末頃から昭和初期あたりと推測される。

[重要美術品]宸翰 朗詠断簡

後柏原天皇の筆による唐の詩人・白居易の詩「華陽洞裏 秋壇上 今夜清光 此處多」と平安時代中期の歌人・藤原雅正の和歌「いつとても 月みぬ あきは なき物 を わきて今夜の めづらしき哉」(『後撰和歌集』)の書写。

[重要美術品]宸翰 朗詠断簡

 後柏原天皇の筆による『和漢朗詠集』の書写。後柏原天皇は後土御門天皇を父とし、その死去を受けて即位した。在位は1500年〜1526年。土御門天皇と同様、応仁の戦乱で衰退した朝儀(ちょうぎ)の再興に尽力する一方、詩歌や管弦などにも長け、歌集『柏玉集(はくぎょくしゅう)』をまとめている。 写されているのは『和漢朗詠集』巻下、慶賀に収められている橘正通(たちばなのまさみち)の漢詩と、作者未詳の和歌である。まず漢詩は「君と私は、花月などを愛でながら交流を深めてきた。しかし、今君は高貴な身分の人となり、微官に留まっている私とは天地ほども離れてしまい、目に届かなくなってしまった」と訳せ、旧友への今昔の感を読み取ることができる。 続く和歌は、「昔は嬉しさを袖に包んだというが、今宵の私の嬉しさは袖に包むどころか、身にも余ってしまうほどである」と訳せる。『和漢朗詠集』では、この歌に作者名は付されていないが、『撰集抄(せんじゅうしょう)』では、藤原斉信(ただのぶ)より先に昇進した藤原公任(きんとう)の喜びを表した歌として出ている。しかし『公任集』(自撰和歌集)では見ることができない。[解読文]「花月一窓 交昔眤 雲泥万里 眼今窮」「うれしさをむかし は袖につゝみけり こよひは身にも 余りぬるかな」[書き下し文・現代表記]「花月一窓(かげついっそう)交(まじわ)り昔眤(むつま)じかりき 雲泥万里(うんでいばんり)眼(まなこ)今窮(きわ)まりぬ」「うれしさを むかしは袖に つつみけり こよいは身にも 余りぬるかな」

[重要美術品]宸翰 御色紙

後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「秋の夜の月 やをしまの あまの原 明方ちかき おきの釣舟」(『新古今和歌集』)の書写。

[重要美術品]宸翰 古歌御色紙

上下二段に割った色紙に金銀泥で肥痩のある流麗な書体で『源氏物語』にある和歌を散らし書きにしている。後陽成天皇の筆による帚木の巻にある男女が詠み交わす和歌の書写。[解読文]「琴のねも 月もえ ならぬ 宿ながら つれなき 人を引や とめける」「こがらし に 吹きあわす める 笛の音を ひき とどむべき ことの葉ぞ なき」[書き下し文・現代表記]「琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめける」「こがらしに吹きあわすめる笛の音をひきとどむべきことの葉ぞなき」

[重要美術品]宸翰 古歌御色紙

後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「ふるさとの庭の日かげもさえくれて桐のおち葉にあられふるなり」(『新勅撰和歌集』)の書写。[解読文]「ふる さと の 庭の ひかげも さえ くれて きりの 落葉 に あられ ふる なり」

[重要美術品]宸翰 源氏詞

 後西(ごさい)天皇筆による『源氏物語』帚木(ははきぎ)の巻の書写。後西天皇は、後水尾天皇の第8皇子として誕生。在位期間は1655年〜1663年。父天皇の資質を受け継ぎ、和歌や連歌に優れ、古典への関心も高かった。ほかにも書道や茶道、香道にも精通し、勅作の香銘も多くある。また、古記録の謄写(とうしゃ)にもあたり、譲位の後もその活動を続けた。 この書は、『源氏物語』帚木巻における雨夜(あまよ)の品定めの一部を書写している。長雨の続く五月のある一夜、光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう)が女性について品評している中に、物忌(ものいみ)で左馬頭(さまのかみ)、藤式部丞(とうしきぶのじょう)がやって来て、四人で女性論を交し合うことになった。左馬頭と藤式部丞は「世のすきもの」(世間で知らない人のいない好色者)で、頭中将はその二人が来たことで話が盛り上がると感じたということが「中将待とりて」(頭中将は待ちかまえていたと言わんばかりに迎え入れて)との言葉からわかる。 なお、この書の頭に「はゝ木々」とあり、その後に「左の馬のかみ・・・・・・」と続いているが、帚木の冒頭の文言とは異っており、抜き書きされたと推定される。[解読文]「はゝ木々 左の馬のかみ藤式部のせう御 物いみにこもらんとてまいれり世のす きものにて物よくいひとほれるを 中将待とりて此品々をわきまへ さためあらそふいと聞にくき 事おほかり」[現代表記]「はは木々 左の馬のかみ 藤式部のぜう 御物いみにこもらんとてまいれり 世のすきものにて 物よくいひとほれるを 中将待とりて 此品々をわきまへ さだめあらそふ いと聞にくき事 おほかり」

黄金の国 × 日本美術 Gold Japan

日本美術といえば、「金」というイメージがありませんか。絵画では金箔や金泥を用いた金屏風、工芸では金を贅沢に使った蒔絵装飾が有名です。古来から金の魅力は日本人の心をとらえ、とりわけ鎌倉時代以降、貴族や武士の生活を飾る美術工芸品に金が多用されました。絵画の装飾や、物語図の場面を仕切る金雲などにも金は多用されました。ここではこれらの屏風が制作された当時、室内の灯明の光で鑑賞した際に、光を反射する金の輝きが絵画の鑑賞に与えた効果を感じてください。

洛中洛外図屏風

洛中洛外図は桃山時代後期に成立し、江戸時代まで続いて制作された風俗画の一種である。京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の名所や旧跡、四季折々の行事などを一望のもとに描く。通常、六曲一双の画面に描かれる。左隻の中央に大きく二条城が描かれ、右隻には豊臣の余光を反映して方広寺の大仏殿が配されている。金雲たなびく眼下に祇園祭などの祭礼・行事や市井の人々の営みが活写され、当時の賑わいが伝わってくるような瑞々しい作品である。

源氏物語図屏風

『源氏物語』を題材にした絵を「源氏絵」といい、原典成立後まもなく絵画化が始まったとされる。以後、中世、近世を通じて、様々な画派によって描かれ、日本絵画の普遍的・古典的テ−マとなった。本作は江戸前期に活躍した岩佐又兵衛の作風に近く、画面を金雲や塀で区分し、源氏物語五十四帖から選ばれた、「桐壺」「明石」など計12場面を配している。左隻上部には「玉鬘」の場面が描かれ、新春に贈る衣装を選ぶ光源氏と紫の上の姿がある。

源氏物語(車争)図屏風

『源氏物語』第9巻「葵」を代表する場面である「車争い」のワンシーンを描く。本作は土佐光茂筆と伝わる《車争図》(京都・仁和寺蔵)の写しと考えられる。賀茂祭(葵祭)の当日、女三の宮が賀茂の新斎院になる御禊の行列に源氏の君も加わることになったため、その行列を見ようとする人々で一条大路は混雑していた。源氏の君の愛人六条御息所もひそかに見物していたが、そこへ源氏の君の正妻葵の上も見物に行き、その従者たちが六条御息所の車を喧嘩ごしで押し退けてしまうという場面。右隻には御禊の行列が描かれ、左隻には六条御息所と葵の上の一行が争う場面が描かれている。屛風の大画面いっぱいに物語のハイライトを大きく描くとともに、賀茂祭の喧噪を今に伝える屏風絵となっている。

大織冠図屏風

「大職冠」は藤原鎌足と竜王の宝珠争奪戦を描いた幸若舞の人気の演題。中国から日本に運ばれる宝珠が竜王に奪われ、鎌足の依頼を受けた海女がそれを取り戻す筋書。冠位十三階の最高位である大職冠を得た唯一の人物であることから、大職冠は鎌足の異名となった。本屏風はこの物語を巧みに構成した優品であることから、現在まで詳細が不明の画家「法橋(山本)元休」を知る重要作品と位置づけられる貴重な屏風である。

桐鳳凰蒔絵硯箱

長方形、角丸、被蓋造(かぶせふたづくり)の硯箱で、内外共に総体金梨子地(きんなしじ)に平蒔絵と高蒔絵で表す。蓋甲には桐鳳凰、見返しは松瀧山水、見込みは竹としている。蓋甲は、水辺の桐に雌雄の鳳凰で、小笹や沢瀉も描かれる。桐花に金金貝(かながい)、凰の尾羽と岩には銀金貝があしらわれ、桐の幹や凰の体、岩や雲に金・銀の切金(きりかね)が置かれる。見返しでは州浜に銀金貝、岩や雲に金・銀の切金が置かれ、瀧は銀蒔絵としている。見込みには硯石と金銅製七々子地に蛇目九曜紋(じゃのめくようもん)を高彫(たかぼり)した水滴が据えられている。鳳凰は、鳳が雄で凰が雌の中国で創造された霊鳥。『詩経』では、鳳凰が鳴き、高岡で睥睨(へいげい)すると、梧桐が生えてくるとあり、また梧桐でなければ棲まず、竹の実でなければ食べないとする。日本では、『餝抄』の天養21年(1144)の条に、天皇が「黄櫨染 文竹桐鳳凰」の御袍を常に着たことが記され、鳳凰は天子を表すものと考えられている。この硯箱でも蓋表に桐鳳凰、見込みに竹が描かれているのはこうした背景がある。

[重要美術品]鹿秋草蒔絵硯箱

本作の全面には蒔絵をはじめ、金属の小片を貼り付ける切金や金属を文様の形に切り抜いて貼り付けた平文などの手法が用いられる。蓋表には四頭の鹿と菊、萩などの秋の草花が配され、その図様は蓋裏から蓋表、身の方へと連続している。本作の意匠は『古今和歌集』に収められた壬生忠岑の和歌「山里は秋こそことにわびしけれ 鹿の鳴く音に目をさましつつ」の歌意を表現したもの。文学的な詩情性と蒔絵による装飾性が融合した典雅な作品といえる。

竹雀紋竪三引両紋牡丹唐草蒔絵女乗物

宇和島伊達家の家紋である「竹に雀紋」と「竪三引両紋」が描かれた乗物。駕籠の中でも引き戸が付いている高級なものを乗物と呼ぶ。内装部分には、金地に風景と草花が極彩色で丁寧に描かれている。本作は仙台藩第7代藩主伊達重村の娘順姫が伊予宇和島藩第6代藩主伊達村壽に嫁いだ際に用いられた品と考えられている。大名家にふさわしい豪華な蒔絵、華やかな花鳥画が特徴的である。同種の乗物はわずかしか現存しておらず、文化的にも高い価値がある。

葵紋牡丹紋二葉葵唐草蒔絵茶碗台 同蓋

天璋院篤姫の婚礼調度の一部で、陶磁器製の茶碗をのせる台、および蓋である。篤姫の婚礼調度品はこれまで国内外で4件しか確認されていない希少なもので、東京富士美術館のほかアメリカのスミソニアン協会、徳川記念財団、大阪青山大学短期大学が所蔵する。薩摩に生まれた篤姫は、安政3年(1856)に右大臣近衛忠煕の養女となり、その年の11月に第13代将軍徳川家定の正室となった。近衛家の抱き牡丹紋、徳川家の三葉葵紋を配し、二葉葵唐草の意匠が施されている。

竹貼源氏蒔絵提重

提重は重箱の一種で、花見遊山など屋外での酒宴等に便利なように、携帯用重箱として工夫されたもの。提鐶(さげわ)のついた全体に竹が貼られた枠型の中に重箱、竹製の酒瓶、杯、銘々皿などを一具として組み入れている。竹の生地に、源氏物語の車争いの場面が蒔絵の高度な技術を施して描かれている。手提げ部分に用いられた七宝金具なども質の高い優品。幕末から明治期の富裕層の注文によって作られたものと考えられる。

四季 × 日本美術 Four Seasons Japan

季節の表現は、日本美術の歴史と広がりにおいて大きなウェイトを占めています。古くは平安時代から、自然描写と相まって季節を描くことは広く行われ、とりわけ大画面の屏風では、六曲一双の向かって右側に「春→夏」を、左側に「秋→冬」を描くことが通例となりました。絵画・工芸など幅広いジャンルで、貴族や武士、そして庶民に至るまで人気の画題でした。四季の表現には、季節を表す動植物や情景などが用いられますが、その描写の発展には中国絵画の影響も見られます。

春秋草花図屏風

画面左下に「伊年印」と呼ばれる俵屋宗達が主宰した工房作を示す商標印が付されている。二曲仕立ての屏風には女竹・蔦・もろこし・芥子・すみれ・桜草・つくし・立葵・竜胆・燕子花・撫子・たんぽぽ・鶏頭・芒・萩など十数種の草花を散見することができる。草花の配置や組み合わせには花卉全体を見渡せるよう配慮がなされている。花々の最盛期を捉えた瑞々しい生命感が心地よく、艶やかな花の色と金地が相まって琳派特有の雅な空間を創り出している。

四季草花図屏風

左隻に白菊、野紺菊などの野菊を中心として、桔梗、女郎花、萩、芒、南天、藪柑子などの秋から冬にかけての草花、右隻にたんぽぽ、芥子、野あざみ、すみれ、つつじ、紫陽花、つくし、蕨といった春から夏にかけての植物を描く。横長の金地画面をいっぱいに使って、地面を描かずに一つ一つの植物を点在させる装飾的な表現は琳派が得意としたもの。精細に描写された草花は生き生きとした生命力を宿している。

吉野山龍田川図屏風

江戸時代に入り、桃山時代の豪奢で勇壮な狩野派様式を、瀟洒端麗な様式へと革新したのは狩野探幽であった。探幽は新たにやまと絵の技法も取り入れ、「景物画」と呼ばれる日本の名所における四季や風俗を主題とした新しい絵画の領域を開拓した。本作で描かれる吉野山の桜、龍田川の紅葉は、春秋の季節を代表する景物として和歌にも詠まれ、古来より親しまれてきた伝統的画題の一つである。画面全体の切箔と砂子を用いた金雲や霞の表現、流麗な流水の描写、桜花の春と紅葉の秋との対比が美しい。ここでは狩野派特有の樹木や岩の豪快な描写をおさえ、やまと絵風の花木や山々の大らかで精緻な画風を引き立たせることで、自然の心地よい風情を引き出すことに成功している。

四季山水図屏風

右隻から左隻へと春夏秋冬の季節の移り変わりを描いた四季山水図である。江戸狩野の継承者として活躍した常信が描いた水墨山水で、画面全面に金砂子を散らして装飾性を加えている。こうした「四季山水図」は中国より伝来した「瀟湘八景図」に由来しており、洞庭湖を中心とした8種の構図が四季と組み合わせられ、巧みに画面に取り込まれている。

桜花紅葉山水図

双幅の右側に雉が飛ぶ桜花爛漫の春の野辺を描き、左側に紅葉舞い散る秋の景観とかなたに雁の群れを望む。木々の幹や岩の描写には、狩野派ならではの力強い筆致が見られ、画面にアクセントを与えている。また中景から遠景にかけては西洋の空気遠近法が取り入れられ、奥深くに広がる空間表現にも成功している。東京美術学校の指導教官として1期生を送り出した雅邦円熟期の作。

春秋

右隻に春のしだれ桜とたんぽぽ。左隻に秋の楓とりんどう、おみなえし、芒が描かれる。左右に季節の風趣を対比させて、没線主彩、たらしこみなどを用いながら、琳派風に描いたもの。余白を大きく残すなかに、凛と咲くたんぽぽ、真っ青なりんどうが双方の画面を引きしめ、さらに落ちかかる一葉の楓が一瞬の時の流れを意識させ、静寂な雰囲気を与えている。五浦時代に描かれた優品のうちの一つ。

美人四季 新春の粧(春)

美人と四季の風物を取り合わせたシリーズで、「春」「夏」「秋」「冬」を題材にした4幅の掛軸からなる。それぞれの場面、配された花などから、四季を読みとることができる。また、描かれた女性の髪型や服飾、手にしている小物、道具、インテリアなどの一つ一つにも、作家自身の意図と情趣が感じられ、おもしろみがある。清方ならではの庶民的風情とロマンが漂う美人画シリーズの名作。

美人四季 山百合(夏)

美人と四季の風物を取り合わせたシリーズで、「春」「夏」「秋」「冬」を題材にした4幅の掛軸からなる。それぞれの場面、配された花などから、四季を読みとることができる。また、描かれた女性の髪型や服飾、手にしている小物、道具、インテリアなどの一つ一つにも、作家自身の意図と情趣が感じられ、おもしろみがある。清方ならではの庶民的風情とロマンが漂う美人画シリーズの名作。

美人四季 芳宜の細道(秋)

美人と四季の風物を取り合わせたシリーズで、「春」「夏」「秋」「冬」を題材にした4幅の掛軸からなる。それぞれの場面、配された花などから、四季を読みとることができる。また、描かれた女性の髪型や服飾、手にしている小物、道具、インテリアなどの一つ一つにも、作家自身の意図と情趣が感じられ、おもしろみがある。清方ならではの庶民的風情とロマンが漂う美人画シリーズの名作。

美人四季 燈下読書(冬)

美人と四季の風物を取り合わせたシリーズで、「春」「夏」「秋」「冬」を題材にした4幅の掛軸からなる。それぞれの場面、配された花などから、四季を読みとることができる。また、描かれた女性の髪型や服飾、手にしている小物、道具、インテリアなどの一つ一つにも、作家自身の意図と情趣が感じられ、おもしろみがある。清方ならではの庶民的風情とロマンが漂う美人画シリーズの名作。

紅葉小禽

鮮やかな紅葉の中で3羽のシジュウカラと思われる小禽が戯れている。紅葉した葉はそれぞれ赤の色合いに細心の注意を払い彩色されている。一番左に描かれた小禽の首を上げる姿は自身が第11回文展に出品した《春禽趁晴図》(所蔵先不明)の中にも見ることができる。紅葉の葉や幹に輪郭線はなく、隈取りの技法を上手く使い、見事に表現している。落款・印章から、制作は渡欧から帰国した直後の大正10年(1921)頃から昭和初期にかけてと推測される。麦僊は渡欧を通して、改めて日本美術の奥深さや美しさを再考することができたという。それは本作のような日本画特有のぼかしの効果を駆使したような作品からも窺え、新鮮な気持ちで、日本画の制作を楽しんでいるようにも感じられる。

雪中梅

雪が積もった梅の木に5羽の雀がとまっている。枝に積もった雪は彩色をせずに表現しており、雀の身体も塗り残しを上手く利用し、最低限の着彩によって仕上げられている。箱書には「庚申臘月」とあり、本作が大正9年(1920)12月の作であることを伝えてくれる。本作制作の2年前の同7年(1918)に国画創作協会を立ち上げ、翌10年(1921)には渡欧する麦僊の過渡期にあたり、ラフな描法からは新たな日本画表現を模索せんとする作者の旺盛な野心が窺える。

富士山 × 日本美術 Mt. Fuji Japan

富士山はその圧倒的な存在感で、古くから人々を惹きつけてきました。名所絵として、あるいは富士信仰の対象として、日本美術のなかでもしばしば描かれています。江戸後期に、大胆な構図や遠近法を用いた葛飾北斎の「冨嶽三十六景」、諸国を旅して実地のスケッチを重ねた歌川広重の「東海道五十三次」などが出版され、大変な人気を博します。特に、北斎が夏の赤富士を描いた「凱風快晴」や「山下白雨」、荒れ狂う大波と富士を描いた「神奈川沖浪裏」は、日本を代表する美術作品といえるでしょう。

武蔵野図屏風

武蔵野図は、近世初期のやまと絵系諸画派に好まれた構図で、一般に風情あふれる武蔵野の原野を描いたもの。武蔵野とは江戸(東京)の西部に広がる、関東平野の一部であり、古く「万葉集」や「伊勢物語」にもその名がみえ、俗謡に「武藏野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ」とある。一面を無数の秋草で埋めつくし、左隻に雲上の富士を、右隻に草の間に沈む月を配す。銀の顔料で描かれた月は、経年変化で黒く変色している。

富士蒔絵印籠

印籠は元来薬入れを用途とする装身具で、後には薬を入れずに装身具として提げることも多かった。印籠の名称の由来は明らかでなく、室町時代に床飾りであった唐物の印を入れる印籠と薬を入れる薬籠の形状が似ていたためとも伝えられるが定かでない。ともかくも江戸時代の印籠の用途は薬入れであって、印を入れるものはほとんどない。実際に薬がそのまま残されたものや、内側に薬名を墨書したものもしばしばみられ、上等な蒔絵の印籠でも、薬入れとして実用に使われていたことがわかる。本作は、常形4段の印籠で、黒蝋色塗地に肉合研出蒔絵と螺鈿で富士山・三保松原・清見寺を表す。段内部は金梨子地。蓋裏と各段の裏に薬の名が書かれた貼札がある。

三保松原図

謡曲「羽衣」で名高い三保松原は、絵画の画題としても多く描かれてきた。手前に白砂青松、背景に富士を見る構図は今も残されている絶景といえる。この伝統的画題を雅邦は自身の近代的な感性で昇華し、輪郭線を一切排除するとともに、着彩は必要最低限にとどめ、空気遠近法を意識するかのように、前景・中景・遠景と徐々に霞んでいく様を描き、空間を表現している。箱書きには川合玉堂の手によって題字がなされ、大正6年(1917)4月に雅邦の三男である秀邦によって認められた添状が付けられていることから雅邦没後も大切にされた作品であったと推察される。

神嶽不二山

「紀元二千六百筆」との年記があることから昭和15年(1940)の作であることが分かる。同年は神武天皇の即位から2600年を当たる節目の年であることから各地で記念の奉祝展が多く開催された。大観は同年の4月、日本橋の高島屋と三越の2会場でそれぞれ「横山大観紀元二千六百年奉祝記念展」を開催し、そこに《海に因む十題》《山に因む十題》として各々10点ずつを出品し、売上金の50万円を全て陸海軍に献納したことは有名である。本作もこうした奉祝ムードの中で、同様の展覧会もしくは個人の依頼によって描かれたものと思われる。大型の画面に淡墨と胡粉を使い、靄の中からセピア調に浮かび上がらせた富士の姿は壮麗で神々しさすらおぼえる。富士の山頂の形状からすると、南西側の静岡方面から見た富士と思われる。

冨嶽三十六景 山下白雨

「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」とともに、冨嶽三十六景のシリーズの三役のひとつに数えられる。白雨とは夕立のこと。快晴の山頂に対し、山麓に下ると漆黒の闇に包まれ強烈に走る一瞬の稲妻が描かれ、そこに激しい雨が降っていることがイメージできる。自然に超越して、静と動をあわせ持つ、富士の雄大さ見事に表現された一枚である。『富嶽百景』「夕立の不二」には、その裾野の村に視点が移動した光景が描かれている。今日のように飛行機が無い時代にあって、富士を様々な視点からイメージできた北斎の力量に驚くばかりである。この「山下白雨」は、主板、色板の板木に欠落部分があるものが多く、初摺りのイメージを残すものが少ないといわれる。山頂の中心部分の茶色の点の欠落や、落款の「筆」の下部部分の欠落などが見られるものもあるが、この版は、初摺りに近いイメージを残している貴重なものである。後摺りの版では、その裾野に松の木が加えられたものもあり面白い。

冨嶽三十六景 山下白雨

冨嶽三十六景シリーズの三役にも挙げられる作品。《凱風快晴》と双璧をなすように、富士の堂々たる姿を表した本図は、《凱風快晴》が「赤富士」と称されたのに対し「黒富士」と呼ばれた。漆黒に包まれた裾野から山頂へのシャープなグラディエーションと頂の尖った形容が、富士の峻厳さとその周辺に立ちこめる静寂な雰囲気を伝えている。画題の「白雨」は夕立を意味する。裾野に描かれた稲光りが画面全体にいっそう鋭さを与えるとともに奥より迫る黒く染まった雨雲が、これから来るであろう俄雨を予兆する。

冨嶽三十六景 甲州石班沢

海の断崖で漁をする姿かと見紛うほど、迫り出した岩と波しぶきが目に止まる。描かれた場所は、富士山北西部を流れる笛吹川と釜無川が合流し富士川となる地点、鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡)付近とみられる。漁をする父と魚籠を覗き込む息子、それを見下ろす富士の姿、三者三様の光景が画面を飽きさせないものにしている。富士の山容と、突き出た岩と漁師、そして漁師から放たれた網とが三角の相似をなしているのも面白い。

冨嶽三十六景 甲州三嶌越

三島越とは、甲府盆地から富士山麓を経て駿河国・相模国へと続く鎌倉往還(各地方と鎌倉を結ぶ古道)を指す。本図は、鎌倉往還の甲駿国境にある籠坂峠から臨んだ富士の姿とみられる。画面中央を巨木が貫き、背後に富士がそびえる圧巻の構図である。3人の旅人が手をつないで巨木の大きさを計ろうとするしぐさがいかにも人間らしい。富士の周囲に漂う雲の形もユニークな雰囲気を醸し出している。

冨嶽三十六景 駿州江尻

江尻は清水港に隣接した東海道の宿駅で、現在の静岡県静岡市清水区にあたる。富士山麓特有の強風に苦しむ旅人と、それとは対照的に泰然と佇む富士の姿を輪郭線だけを用いて描いている。当の本人たちには気の毒だが、菅笠や懐紙が風に乗って飛ばされる様は、殊の外リズミカルで、この瞬間に居合わせた面白みを感じさせる。樹木が傾くほどの凄まじい風の動きと背景の富士とが見事なコントラストをなしている。

冨嶽三十六景 尾州不二見原

描かれているのは、現在の愛知県名古屋市中区不二見町の付近の光景と思われる。職人が自身を取り巻くほどの大きな桶の製作に一心不乱に取り組んでいる。その桶の中を通して遠方に小さな富士の姿を捉えるという大胆奇抜な構図に感嘆させられる。桶の大きな円と富士の小さな三角形という組み合わせにも北斎の遊び心を感じる。画中に描かれた職人は、約15年前に刊行されている『北斎漫画』にも登場している。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏

眼前で激しく逆巻く大波と波間の遥か遠くに鎮座する富士山。動と静、遠と近を対比させる絶妙な構図は、海外でも「グレート・ウェーヴ」と称され、画家ゴッホや作曲家ドビュッシーをはじめ世界的に賞讃を受けた。波に翻弄される3艘の船は「押送り舟」と呼ばれる舟で、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していた。千葉県木更津方面から江戸湾を臨んで描いたとの説もある。

冨嶽三十六景 凱風快晴

冨嶽三十六景シリーズを代表する作品。画題にある「凱風」とは南風のこと。「赤富士」とも称されるこの情景は、夏から秋にかけての早朝にかぎり見られるという。諸説はあるが、右側に寄せられた構図は左側(東)からの光を意識しているとも感じられ、河口湖付近から富士の北側を捉えたと思われる。秋を予感させる鰯雲の中に悠然とそびえるその偉容は、富士を形象化した作品の中でも唯一無二の逸品といえよう。

東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡舟

現在の神奈川県川崎市川崎区にあたる。東海道五拾三次の道のりの最初に渡る大きな川が本図で描かれる多摩川である。対岸に見えるのが川崎宿。多摩川は六郷川とも呼ばれ、ここを渡す船は「六郷の渡し」といわれた。もともとは大きな橋が架けられていたが、たびたび洪水で流されたため、舟で渡河するようになったという。画面奥には西日で真っ赤に染まった空と雪化粧した富士の姿のコントラストが美しく、情感をかき立てられる。

東海道五拾三次之内 平塚 縄手道

現在の神奈川県平塚市にあたる。遠景に見えるまん丸い形をした山は高麗山で、その後ろには小さく富士の姿が見える。縄手道とは畦道のことで、ここでは奥に向かって「く」の字に表現され、画面に奥行きをもたらす効果を生んでいる。中央には道沿いに立つ樹木の合間を上半身裸の状態で先を急ぐ早飛脚と、空になった駕籠を担ぎ、帰路につく駕籠かきが描かれる。街道脇に立つ平塚宿との境を示す榜示杭が、一種のアクセントとなっている。

東海道五拾三次之内 原 朝之富士

現在の静岡県沼津市にあたる。母娘であろうか、2人の女性とお供の男性。その背後には、朝焼けをバックに雪を被る雄大な富士がそびえており、女性たちはその偉容に思わず足を止めている。富士の頂が画面をはみ出すように描かれた斬新な構図には、すでに人気を博していた葛飾北斎の《冨嶽三十六景》シリーズへの対抗心のようなものを感じとることができる。田畑に戯れる2羽の鶴が峻厳な富士の姿を和らげるアクセントにもなっている。

東海道五拾三次之内 吉原 左富士

現在の静岡県富士市にあたる。元吉原から吉原へ、田んぼの中を曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ、皆に親しまれた名所であった。馬に乗る3人の子どものうち、左の2人は眼前に見えてきた富士に気づき、夢中に見つめているが、右端の子どもは居眠りしているのか、頭を右にがっくりと垂れている。松の並木が迫り来るようなリズムを作り出し、画面に何ともいえない臨場感を与えている。

東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺

現在の静岡県静岡市清水区にあたる。薩埵峠は峠に入る前の波打ち際で荒波にさらわれる旅人も多く、「親知らず子知らず」と呼ばれ、東海道の難所の一つとして知られていた。海に面した切り立つ峠を越える際、突然背後に現われる富士の姿に旅人は感動したという。駿河湾越しに見える富士が美しく、急勾配な峠の輪郭とそこに生えた松のフォルムが共鳴するかのように配される。海上に浮かぶ船の四角い帆も画面に一定のリズムを与えている。

東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景

現在の静岡県浜松市にあたる。古来、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、室町時代の大地震により湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となった。その決壊した場所を「今切れた」との意味で「今切」と呼ぶようになり、「今切の渡し」と呼ばれた渡し船が行き交うようになった。手前の並んだ杭は波除杭で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたもの。この位置からも遠く富士を臨むことができる。

名所江戸百景 水道橋駿河台

本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろしている。駿河台の名は、徳川家康とともに駿河(現在の静岡市)より移住した家臣が居を構えたことに由来する。端午の節句の大きな鯉のぼりが手前にくの字に曲がって翻っている。奥に広がる屋敷の方々で吹き流しや幟旗、魔除けの鍾馗の幟が見られるが、これらは武家の習わしで、鯉のぼりを上げるのは町人の文化であった。遠景には5月の澄み切った富士の姿が見える。

吉田村(「冨士拾景」より)

吉田博の代表的なシリーズ版画に「冨士拾景」があるが、このシリーズ版画は、大正15年(1926)に3点、昭和3年(1928)に7点が制作されて完結している。本作品は、前者の3点のうちの一つ。他の作品には、《河口湖》《朝日》(大正15年)、《船津》《御来光》《馬返し》《山頂劔ヶ峯》《秋》《興津》《むさしの》(昭和3年)がある。「冨士拾景」において博は、四季を通じて時々刻々と変化する富士の姿を、洋風の写実表現と独自に習得した“自摺”の精巧な技法を用いて色彩豊かに表現した。本図では、白雪を頂く富士が、圧倒的な存在感で画面全体を満たしている。本作が制作された大正15年(1926)は、「冨士拾景」シリーズの他にも、「日本アルプス十二題」の全12点、「瀬戸内海集」のうちの8点、「東京拾二題」のうちの5点をはじめ、合計41点もの木版画が発表され、博の木版画制作において最も多くの作品が生み出された年となった。

駒ケ岳山頂より(「日本南アルプス集」より)

52歳になる昭和3年(1928)、吉田博は「日本南アルプス集」と題して6点の版画を制作した。この年はその他に、「冨士拾景」の残りの7点、「東京拾二題」の中の5点、欧米の風景や富士、瀬戸内海を題材とした初めての小型木版画10点、日本の風景版画7点、合計35点を発表している。博は「登山と画とは、今では私の生活から切離すことのできないものとなってゐる。画は私の本業であるが、その題材として、山の様々な風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められてゐる。」(吉田博『高山の美を語る』、実業之日本社、昭和6年)と語ったように、人々を感動させる山岳風景を描くために、何日も何週間も山に籠って野営をしながら、山に溶け込み、山と一体となって、千変万化する一瞬の美を捉えようとしたのである。本作では、駒ヶ岳山頂から見渡す美しい景色が、木版画で見事に表現されている。雲を縁取る輪郭線(墨線)の効果によって、瞬時に移り変わる雲海の動きが、躍動感を持って伝わってくる。

鈴川

静岡県富士市吉原を流れる鈴川に取材した作品で、水面に雪をかぶった富士山が、凛然として格調高く映っている。葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三坂水面」の逆さ富士とは趣が異なり、あくまでも実景を大切にしている。中景の松木立によって遠近感がよく表され、明暗の表現により松木立や家屋にも立体感がある。単調になりやすい構図を手前の湿地、中景の河川、そして遠く雪をいただく富士の稜線が、画面に見事な変化をつけている。

富士川

静岡県富士市西部を流れる富士川河岸から眺めた富士山が描かれている。現在の富士川サービスエリアあたりであろう。画面手前には、柔らかい光を反射しながら悠然と流れる富士川が、そして画面奥には堂々とした富士の泰然自若とした姿が描き出されている。中景の左側から延びる緑の丘は梅や桜の名所として有名な岩本山で、山頂には雄大な富士を眼前に仰ぐことができる岩本山公園がある。この「富士川」には2種類の擦りがあり、本図とは別のバージョンでは、雲を従え、赤く照らされた富士の姿が描かれる。印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)が《積みわら》や《ルーアン大聖堂》で試みたように、巴水はたびたび、全く同じモチーフと構図で、いくつかの色や版木を変更することによって、移ろいゆく時間の経過を、異なる大気、異なる光の効果によって連作として描き出したのである。

駿河由比町(「東海道風景選集」より)

「駿河由比町」は、昭和6年(1931)から同22年(1947)にかけて制作された「東海道風景選集」シリーズ26枚のうちの一枚。由比は現在の静岡市清水区に位置する。本図に描かれているのは、東海道五十三次の16番目の宿場として知られる由比宿である。街道沿いに立ち並ぶ家屋には、江戸時代の宿場町の面影が感じられる。遠景には赤く染まり始めた空を背景に、雪化粧の富士山が堂々とした姿で描き出されている。この由比宿から次の興津宿へ向かう道中の薩埵峠(さったとうげ)は、東海道最大の難所の一つであるとともに、富士を眺める絶景スポットとしても知られている。由比を描いた作品としては、歌川広重の「東海道五拾三次」が知られるが、広重は由比を描く際に険しい薩埵峠からの富士の眺望をモチーフとした。巴水は、本図で由比を描くにあたって、有名な薩埵峠ではなく、由比の宿場町の風景を選択した。富士を背景にした情趣ある町並みが清澄な空気とともに巧みに表現されており、「旅情詩人」と呼ばれた巴水らしさが画面に溢れている。

元吉原之朝(「東海道風景選集」より)

「元吉原之朝」は、昭和6年(1931)から同22年(1947)にかけて制作された「東海道風景選集」シリーズ26枚のうちの一枚。元吉原は現在の富士市南西部の海沿いに位置する場所で、もともと東海道の吉原宿はこの地にあったが江戸時代に高潮の影響を避けて内陸部に移動したため、もともと吉原宿があったこの地は元吉原と呼ばれるようになった。本図では、視点をやや高い位置に取ることによって、元吉原の家々に視線を遮られずに、白雪をかぶる堂々たる富士山を描き出している。眼前の家並みを強い線で描き出す一方で、遠景の富士は薄く淡い色調で表現することによって、画面に遠近感を生み出すとともに、霊峰富士の神々しさを見事に表現している。

富士夕照

牛島憲之は昭和40年代に入ると木版画にも興味を示し、老舗の版元であった加藤版画研究所からいくつかの木版画を出版した。本図は、昭和43年(1968)に『牛島憲之版画集 第二輯』として加藤版画研究所より限定150部刊行された版画のうちの一点。同版画集には本図のほかに、「水郷初秋」「外苑風景」「濹東」「水郷」「下田の漁村」の全6点が収録されている。本図には、青から赤へと変化する美しい夕焼けを背景に、濃紺に染まった富士山が静かに浮かび上がる様子が描かれている。前景の町は単純化されたシルエットとなって、画面に独特の寂寥感と叙情性を生み出している。煙突から上がる細い煙が人の生活の温もりを感じさせて郷愁を誘う。牛島は同50年(1975)に描いた油彩画「夕月」でほぼ同じ構図の作品を手がけているが、そこには月が浮かぶ夕焼けを背景に、ぼんやりと空に同化するように富士が描かれている。そこでの富士山はその存在を希薄にして風景の一部分と化しているが、本図では美しい曲線と柔らかな色彩が富士という荘重な主題を包み込んでいるものの、その主役はやはり富士山である。

東海道五十三次 原(甍富士)

東海道五十三次の十三番目の宿場として知られる原宿は、現在の静岡県沼津市にあたる。原の地名は、湿地帯だったこのあたりを「浮島ヶ原」と呼んでいたことに由来し、ここから眺める雄大な富士の偉容は街道一とも評され、歌川広重をはじめ多くの絵師たちによって描かれてきた。昭和33年(1958)、関野準一郎はアメリカの日米交流団体、ジャパン・ソサエティの招きでアメリカ各地を訪問し、帰路はヨーロッパ各地を旅行して見聞を広めた。この一年間に渡る欧米訪問の体験から、帰国後はそれまで銅版画で行っていた風景画制作を木版画でも手掛けるようになり、色彩も明るく鮮やかなものとなった。関野はこの欧米訪問を契機として、東海道をはじめとする街道シリーズを制作することを胸中密かに決意し、帰国後の同35年(1960)から「東海道五十三次」の制作を開始した。「原(甍富士)」は、関野が展覧会出品制作の合間を縫うようにして毎年数点ずつ制作していた「東海道五十三次」シリーズの一枚である。本作を制作した同39年(1964)には、他に「沼津(なまこ壁)」、「桑名(句碑)」、「亀山(武家屋敷)」が完成している。本作の制作について関野自身が次のようなエピソードを語っている。「富士を描いて、苦心惨憺、描きかけ失敗作が部屋に散乱している画室に、泥酔した駒井哲郎が乱入して、それを見て言った。「関野君も、とうとう富士を描くようになったか」。富士は通俗な売り絵になるばかりだ。まだ富士を描ける齢ではないぞと、慨嘆したのであろう。確かに蒼空いっぱいにひろがる崇高な富士は苦手だ。「原」では美しい富士山に、かぶとをぬいで写生を投げ、宿に帰って、一杯やることにした。夜中に手洗いに起きた。青白い月の光が、キラキラと甍に降っている。その向こうのウルトラマリンの大空に凄艶な富士山。「甍富士」——これを版画に作ろう。甍に投影した富士の画題を得、興奮して、小時、眠れなかった。」(『街道行旅―関野凖一郎画文集』、美術出版社、昭和58年)夜の甍に、月の光に照らし出された富士が映り込むという詩情あふれる光景が、幾何学的な構図と単純な色彩で見事に表現されている。甍と富士という斬新な画題であるが、画家は同34年(1959)にはすでに甍をテーマにした作品「フレンツェの甍」を描き、国際版画展で高い評価を得ている。またその後も「甍12題」と題したシリーズを手がけるなど、「甍」は関野が終生追求したモチーフの一つでもあった。

海外で開催された当館所蔵品による日本美術展一覧

東京富士美術館ホームページの貸出終了した収蔵品一覧ページ(該当展覧会出品作品リスト)が表示されます。

  1. フランス パリ 永遠の日本の名宝展 1988/5/3〜8/24 フランス学士院ジャックマール・アンドレ美術館外部サイト
  2. イギリス タプローコート 日本美術の名宝展 1989/5/29〜7/23 タプローコート・オリエンタルギャラリー外部サイト
  3. ブラジル サンパウロ 珠玉の日本美術の名宝展 1990/2/22〜4/1 サンパウロ美術館外部サイト
  4. アルゼンチン ブエノスアイレス 日本美術の名宝展─日本の美とこころ─ 1990/3/3〜4/10 アルゼンチン国立美術館外部サイト
  5. スウェーデン ストックホルム 日本美術の名宝展 1990/9/26〜12/9 スウェーデン国立東洋美術館外部サイト
  6. イギリス エディンバラ 日本美術の名宝展 1991/8/10〜10/20 スコットランド国立博物館外部サイト
  7. オーストリア ウィーン 日本美術の名宝展 1992/1/26〜3/22 キュンストラーハウス外部サイト
  8. コロンビア ボゴタ 日本美術の名宝展 1993/2/8〜3/14 コロンビア国立博物館外部サイト
  9. 中国 香港 日本美術の名宝展 1994/2/4〜3/27 香港中文大学文物館外部サイト
  10. サンマリノ サンマリノ 浮世絵名品展 1994/3/31〜5/1 サン・フランチェスコ美術館外部サイト
  11. イタリア フィレンツェ 日本美術の名宝展─武士の世界 1994/5/28〜7/18 メディチ・リッカルディ宮殿、メディチ美術館外部サイト
  12. コロンビア ボゴタ 日本の美と心展 1994/6/29〜8/7 コロンビア国立博物館外部サイト
  13. スペイン マドリード 日本美術の名宝展 1994/9/23〜1995/1/22 ホアン・マーチ財団本部展示室外部サイト
  14. スペイン バルセロナ 日本美術の名宝展 1995/2/10〜4/16 ラ・ペドレラ[カサ・ミラ]外部サイト
  15. アメリカ ワシントンD.C. 日本美術の名宝展 1995/3/15〜5/12 米州開発銀行文化センター外部サイト
  16. シンガポール シンガポール 浮世絵名作展 1995/9/16〜10/1 シンガポール高島屋アートギャラリー外部サイト
  17. キューバ ハバナ 日本美術の名宝展 1996/7/2〜8/11 国立装飾美術館[キューバ国立美術館]外部サイト
  18. チリ サンチアゴ 日本美術の名宝展 1997/9/17〜10/19 チリ国立美術館外部サイト
  19. オーストリア ウィーン 日本の蒔絵と中国の陶磁展 1997/9/18〜1998/1/18 オーストリア王宮・銀器博物館外部サイト
  20. 台湾 台北 日本名画文物展 1998/5/1〜6/30 国父記念館外部サイト
  21. ブラジル クリチバ 日本美術の名宝展 2006/8/24〜11/19 オスカー・ニーマイヤー美術館外部サイト
  22. ブラジル ブラジリア 日本美術の名宝展 武士の美 2008/6/19〜8/24 ブラジリア国立美術館外部サイト
  23. ブラジル クリチバ 浮世絵名品展─北斎と広重の競演 2015/6/20〜8/2 オスカー・ニーマイヤー美術館外部サイト
  24. 台湾 台中 浮世絵名品展 2016/6/4〜7/31 国立台湾美術館外部サイト

関連リンク

東京富士美術館ホームページの展覧会詳細ページが開きます。
「THIS IS JAPAN IN TOKYO 〜永遠の日本美術の名宝〜」展の特設サイトが開きます。こちらの特設サイトでは、灯明で見る「源氏物語図屏風」VRデモンストレーションをご覧いただくことができます。江戸時代以前の灯りで屏風を見るとどのように見えるのか、VRで再現しました。作品は、本展出品作品の岩佐派《源氏物語図屛風》右隻です。VRで再現された灯明の光が届く範囲が、およそ物語のワンシーンに相当します。灯明の光が場面を区切る金雲と金色の地面に施された金箔・金泥に反射して、画面が明るく見える効果が認められます。
展覧会の見どころについて学芸員による解説をつけた約15分の特別映像で詳しくご紹介します。
東京富士美術館は、1983年11月3日に東京西郊の学園都市・八王子にオープンしました。「世界市民を育む美術館」をモットーに、世界31カ国・1地域の美術館や文化機関との友好関係を築きながら、各国の優れた芸術を紹介する海外文化交流特別展を企画・開催しています。収蔵品は日本・東洋・西洋の各国、各時代の絵画・版画・写真・彫刻・陶磁・漆工・武具・刀剣・メダルなど約3万点に及び、とりわけルネサンス、バロック、ロココ、ロマン主義、印象派、現代にいたる西洋絵画500年の流れを一望できる油彩画コレクションと、写真の誕生から現代までの写真史を概観できる写真コレクションは国内有数のコレクションとして知られています。