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第36回新収蔵品展 ふくおかの歴史とくらし

令和3年度収集資料を紹介した展覧会 会期:令和6年10月9日~12月22日

 福岡市博物館は、開館の7年前(昭和58・1983年)の博物館建設準備室発足以来、考古・歴史・民俗・美術の各分野の資料収集を続けてきました。寄贈や寄託、購入によって収集した資料の数は19万件以上にのぼります。

 収集した資料を後世に確実に引き継ぐため、当館では新たに収蔵されるすべての資料について調査と整理を行い、そのリストを『収蔵品目録』として刊行し、公式ホームページにおいて「福岡市博物館収蔵品データベース」を公開しています。目録刊行にあわせて、博物館の資料収集活動を広く市民の皆様に知っていただくため、『新収蔵品展」を開催し、新たに加わった資料をご覧いただける機会を設けています。


 36回目を迎えた今回は、『収蔵品目録』第39号に掲載した令和3年度収集資料2548件の中から「ふくおかの歴史とくらし」に関わる約80件の資料を厳選し、「福岡の歴史と記録」「近現代のふくおか」「くらしとまつり」「芸能と美術」の4つの章で紹介します。

 このオンライン展覧会では寄贈、寄託、購入の資料群を章ごとに紹介し、収集資料を一覧でご覧いただけます。


※資料群‥‥寄贈・寄託元または購入別の資料のまとまり

 本展の開催にあたり、貴重な資料をご提供いただきました皆様に厚く御礼申し上げます。この展覧会がふくおかの歴史と人々のくらしのついて、より一層の関心を寄せていただく機会となることを祈念するとともに、福岡市博物館の資料収集活動に、ご理解とご協力いただける機会となれば幸いです。

第1章 福岡の歴史と記録

瓦経 仁王般若波羅蜜経 巻上十

本資料は、筥崎宮の境内から発見された、仁王般若波羅蜜経を写した36枚の瓦経の一部である。瓦経とは、仏教の経典を瓦ほどの大きさの粘土板に刻み、焼いたもの。人々は来る末法の世(仏の教えが衰える乱世)に備え、仏の教えが失われないように願い、瓦経を地中に埋めたと考えられている。〔第36回新収蔵品展〕

瓦経 仁王般若波羅蜜経 巻上十三

本資料は、筥崎宮の境内から発見された、仁王般若波羅蜜経を写した36枚の瓦経の一部である。瓦経とは、仏教の経典を瓦ほどの大きさの粘土板に刻み、焼いたもの。人々は来る末法の世(仏の教えが衰える乱世)に備え、仏の教えが失われないように願い、瓦経を地中に埋めたと考えられている。〔第36回新収蔵品展〕

鉄錆地桃形兜・紺糸素掛威五枚胴具足 小具足付 

2代福岡藩主黒田忠之の側近・小河久太夫に始まる小河家伝来の当世具足一式。兜は、福岡藩で流行の桃形に、小河家の家紋の鷹の羽をあしらった脇立、日輪の描かれた軍扇の前立を持つ。重臣用の五枚胴は鋲留、胸板中央が衝角のような縦線を持つ頑丈な作りである。

銀泥塗波頭形兜

兜の鉢の上に、波頭の立つ様と広がる波紋をあらわし、銀泥塗の張掛が乗せられた、奇抜な兜。水面から頭を擡げる怪獣のような現代風の造形をしている。収納のために独自の長い箱も作られている。江戸時代中頃の、すでに合戦のない時代に、人目を驚かす奇抜さを楽しんだ変わり兜であろうか。

諸葛武侯図

古代中国・三国志の蜀に仕えた名臣で、忠義の人として知られた諸葛亮(孔明)を描いた画像。優れた軍師を示す白扇を持っている。武侯は死後に送られた称号。小河家は藩主側近として仕えたことを誇りとし、とくに明治維新期には藩財政難を打開するため、奔走している。

荻野流往来之巻

荻野流は福岡藩で習得する藩士の多かった砲術の流派の秘伝書や相伝書。福岡藩は長崎警備で、火力に優れた異国船に対抗するため、砲術が盛んであった。石火矢は、火薬の力で大形の火矢を発射する武器で、手持ちの大形砲から発射し威嚇や船体破は壊などに使用された。

荻野流木筒残月之巻

荻野流は福岡藩で習得する藩士の多かった砲術の流派の秘伝書や相伝書。福岡藩は長崎警備で、火力に優れた異国船に対抗するため、砲術が盛んであった。石火矢は、火薬の力で大形の火矢を発射する武器で、手持ちの大形砲から発射し威嚇や船体破は壊などに使用された。

鉄錆地金小札白韋威面頬

兜は62 枚もの鉄板を、小星と呼ばれる鋲で留た兜。鉄錆地に白革で金の小札を威した面頬と、現在は緑色に変わった青色の糸で威した二枚胴など、華やかな具足。半田氏は幕末から維新期に藩財政面の実務家として活躍し、明治3 年の贋札事件処罰に連座している。〔第36回新収蔵品展〕

青糸素掛威二枚胴具足 小具足付

兜は62 枚もの鉄板を、小星と呼ばれる鋲で留た兜。鉄錆地に白革で金の小札を威した面頬と、現在は緑色に変わった青色の糸で威した二枚胴など、華やかな具足。半田氏は幕末から維新期に藩財政面の実務家として活躍し、明治3 年の贋札事件処罰に連座している。〔第36回新収蔵品展〕

朱漆塗木彫重箱

明治43 年に福岡市西中洲で開催された第13 回九州沖縄八県連合共進会で購入した漆器。山水の楼閣に人物が遊ぶ姿が、朱塗の下地に、沖縄の伝統工芸漆の技法である堆錦と螺鈿で表現される。本来四段の重ねが、二段二段の重箱に別かれるなど豪華な漆器である。〔第36回新収蔵品展〕

四季和歌詠併画

四季の物や花鳥を題材にした和歌と、それに則した小さな絵が描かれる。幕末に活躍した福岡藩の御用絵師・尾形洞霄の作。右上の初日を歌う「如淵」は12代藩主黒田長知。また各和歌は、前後の和歌で触れている風物をテーマするなど、連歌にも似ている。〔第36回新収蔵品展〕

具足勝注文目録

西川善兵衛が注文した具足の仕様を記した、延宝2(1674)年2月16日付の目録を、福岡藩の御料理方を務めた髙橋家の4代当主・直房が書き写したもの。西川善兵衛は福岡藩の御料理人頭を務めた人物。直房は西川家から髙橋家へ養子に入っているため、その関係で伝来したものと思われる。〔第36回新収蔵品展〕

氏祖髙倍神社神号書上

福岡藩士の髙橋家に伝来した、歴代当主の神号を書き上げた掛軸。髙橋家は、福岡藩の御料理方を代々務めた家。この掛軸は、幕末期の当主・直時によって掛軸の下部に記された文章によれば、先祖を祀るための霊璽(故人の御霊を移す依り代)であったことが分かる。〔第36回新収蔵品展〕

墨竹図

亀井南冥の孫娘・亀井少琹(友)が描いた竹の絵に、広島の儒学者で歴史家の頼山陽(襄)が、絵を誉めた文章である賛文を書いたもの。この年に頼山陽は、亀井派を援助する豪商松永氏などに博多に招かれ滞在し、小琹の父・昭陽など亀井派の学者たちと交流した。〔第36回新収蔵品展〕

三行書「天地有万古」

福岡藩の儒学者・亀井南冥の書。南冥は藩校・甘棠館の館長をつとめたが、同校廃校後、唐人町の屋敷に逼塞していた。その後屋敷の火災で、樋井川を挟んだ対岸の百道松原に引き移り、翌年新屋敷「百道林亭」に住んだ。この書でそこで隠棲生活を送ったことがわかる。

二川相近扁額「福善」

福岡藩の書道方を勤め、独自の筆法を編み出した、二川相近の書を、板額にして飾ったもの。「福善」というおめでたい文字が彫られている。相近は自分の書を筑前周辺の御堂や神社に求めに応じて揮毫し、書は額にされて飾られた。本額は佐賀地方で発見されたもの。〔第36回新収蔵品展〕

筆巻

明治初年頃に硝子製造業を始めたと考えられている小川六三郎による製作と推測される筆巻。六三郎は、弘化4(1847)年に博多・中島町(福岡市博多区)に開設された福岡藩の精錬所で、硝子研究に携わっており、明治初年頃に上名島町に硝子工場を開いたと考えられている。〔第36回新収蔵品展〕

ガラス杯(瑠璃色)

明治時代から昭和時代前期にかけて、福岡・上名島町(福岡市中央区)で硝子製造業を営んでいた小川家に伝来したガラス製の杯。小ぶりで瑠璃色の美しいこの杯は、型を用いて成形されており、非常に薄くて軽い。明治初年頃に硝子製造業を始めたとされる小川六三郎による製作と推測される。〔第36回新収蔵品展〕

感謝状

警固神社(福岡市中央区)から上名島町の奏楽人たちに宛てられた感謝状。上名島町は、古くから警固神社の祭礼における音楽奉納を担っていた。一度中断したものの近年再興し、毎年の三大祭に加え、県社昇格(大正5年)に伴い行われた祭礼でも奉納を務めたことに対し感謝の意を表している。〔第36回新収蔵品展〕

清法院大盃

画面上:大盃  画面下:盃台  明治20(1887)年、崇福寺(福岡市博多区)で行われた福岡博物展覧会に出品された大盃。収められた箱の蓋の裏書によれば、加藤清正の家臣・清法院が、加藤家を離れる際に清正から拝領したもので、筑前国に立ち寄った際、別れを惜しみ知人に贈ったものという。

盃台

画面上:大盃  画面下:盃台  明治20(1887)年、崇福寺(福岡市博多区)で行われた福岡博物展覧会に出品された大盃。収められた箱の蓋の裏書によれば、加藤清正の家臣・清法院が、加藤家を離れる際に清正から拝領したもので、筑前国に立ち寄った際、別れを惜しみ知人に贈ったものという。

萬水帳

春日家は江戸時代から明治時代初めは、屋号を八百屋といい、野菜や乾物といった食品類、生活の雑貨などを商った。萬水帳でも、商売相手と代金(銭)、売った品物が順に記載される。なお江戸時代の八百屋弥助は、西新町で組頭などの町役人も務めている。〔第36回新収蔵品展〕

大福帳

大福帳とは商店で、商品の基本台帳で、商売の相手ごとに付箋(インデックス)を付けてまとめる。春日商店は明治20年代以降、西新や近くの千眼寺、さらには現在早良区周辺の農村一帯を中心に手広く商った。なお八百屋弥助を継いで春日熊次郎の代にかわった。〔第36回新収蔵品展〕

大福萬覚帳

現在の福岡市早良区西新で、江戸時代後期から現代にいたるまで、商家を営んだ春日家が使用した商用帳簿のなかで、現存する最も古い万延元年のもの。 萬覚では、商売の内容が、心覚え的に、日付に沿って相手、代金品物の順で記載されている。〔第36回新収蔵品展〕

祝凱旋

日清戦争(1894-95)に出征し凱旋した姪浜町(西区)の軍人に対する祝辞。祝辞では、召集された姪浜の青年たちが進取の気持ちを持って戦場を進み、大国である清を退却させたことは、国家の安全を保ち、近隣町村の若者たちの心を奮い立たせるものであったと賞賛する。〔第36回新収蔵品展〕

集合写真(紅葉八幡宮鳥居竣工)

江戸時代初期から百道松原に鎮座した紅葉八幡宮は、明治43年(1910)の北筑軌道開通後、境内を電車が横断するようになったため、大正2年(1913)に高取(早良区)に遷座した。この写真は、新たに建造した鳥居の前での撮影されたもので、関係者や付近の住民が写っていると思われる。〔第36回新収蔵品展〕

明治32年度教按 各学年分合綴

福岡市の水道布設は、大正2年(1913)に国から認可を受けた。用地取得に時間がかかり工事開始が遅れ、第一次世界大戦の影響で資材が高騰したことにより諸経費が増えた。大正12年に曲淵ダムや平尾浄水場などの水道施設が完成し、3月から福岡市内への給水が始まった。〔第36回新収蔵品展〕

学期試験表

上月隈小学校(現・月隈小学校 博多区)簡易科1年生の成績表。明治19年の小学校令で、就学率を高めるために、3年制で4教科(読方・作文・習字・算術)のみの簡易科の設置が認められたが、就学率は好転せず児童の向学心を挫くとして、23年の小学校令改正で簡易科は廃止された。〔第36回新収蔵品展〕

学校日誌 明治29年中明治30年中明治31年中合綴

席田尋常小学校の日誌。学校での出来事を簡潔に記録している。明治29年(1896)から34年は元日から記述が始まるのに対し、明治42年度からは4月始まりの記載。福岡の小学校では明治21年以降、学年は4月始まりに定まったが、文部省が4月始まりを明文化したのは明治33年のこと。〔第36回新収蔵品展〕

神社由緒調

席田村(博多区青木、上臼井、下臼井、金隈、雀居、上月隈、下月隈、東平尾、立花寺など)の神社の由緒をまとめた文書。江戸時代中期以降、立花寺に居住し、近隣の神社の神職をつとめていた大谷家に伝わった。〔第36回新収蔵品展〕

神社誌資料提出ニ関スル件

神武天皇即位の年を元年とする皇紀の2600年(昭和15年・1940にあたる)記念事業として、福岡県神社協会は県内の神社誌の編さんに着手した。8月末までに調査記録の提出を求められている。完成した『福岡県神社誌』は、昭和19年1月に福岡県神社庁から発行された。〔第36回新収蔵品展〕

記(下月隈疫神社寄附帳写)

博多区月隈三丁目にある疫除神社に桜の木を寄附した人の名簿の写し。この神社は、明治初年の「悪疫流行」に際し、有志が乙丸八幡神社(飯塚市 別名・疫神社)に参籠して勧請した。後半の記述は欠損しているが、明治33年(1900)・34年のコレラ流行の際も人びとに注目された神社らしい。〔第36回新収蔵品展〕

第2章 近現代のふくおか

絵はがき(衆議院戦時議会記念)大本営

衆議院の戦時議会を記念して発行された絵はがき。明治27年(1894)8月に日清戦争が始まると、広島に大本営が置かれた。明治天皇や政府の関係者が広島に滞在するため、衆議院・貴族院からなる帝国議会も広島で開催されることになった。臨時の議事堂は10月14日に完成した。〔第36回新収蔵品展〕

絵はがき(衆議院戦時議会紀念)

衆議院の戦時議会を記念して発行された絵はがき。明治27年(1894)8月に日清戦争が始まると、広島に大本営が置かれた。明治天皇や政府の関係者が広島に滞在するため、衆議院・貴族院からなる帝国議会も広島で開催されることになった。臨時の議事堂は10月14日に完成した。

絵はがき(伊藤統監・寺内統監・曽禰統監)

韓国統監府の統監をつとめた伊藤博文、曾禰荒助、寺内正毅、および統監府の庁舎の写真を印刷した絵はがき。韓国統監府は、日本が韓国を支配するために明治40年(1907)に設置した統治機構。宛名面に日韓併合記念のスタンプが捺されることから、この絵はがきは明治43年に発行されたと思われる。

絵はがき(紫宸殿上御即位式高御座図)

明治45年(1912)7月に崩御した明治天皇の後を継ぎ践祚した嘉仁親王(大正天皇)は、大正4年(1915)11月に京都御所で即位の儀式を行った。即位記念の絵はがきには、即位礼が行われる紫宸殿、天皇が儀式の際に座る高御座などの写真が使われた。〔第36回新収蔵品展〕

絵はがき(海軍記念日)

海軍記念日を記念して発行された絵はがき。明治39年(1906)3月、日露戦争における日本海海戦の勝利にちなみ、5月27日が海軍記念日(祝日)とされた。この絵はがきには、日露戦争で日本艦隊の指揮をとった軍人東郷平八郎の写真と、日本海海戦をイメージした絵があしらわれる。〔第36回新収蔵品展〕

昭和十三年十二月中線香順番

中洲の芸者の名前を一覧表にしたパンフレット。線香代(代金)が高い順番に芸者の名前を記す。発行者は中洲検番。検番とは芸者と座敷の取り次ぎや代金の精算を行う事務所のことで、中洲検番は福岡市内2番目の検番として明治30年(1897)に成立した。〔第36回新収蔵品展〕

北支 現地編輯10-4山西省特集

本雑誌は、第二次世界大戦中、北京にあった日本の華北交通株式会社が、旅行者向けに編さんした案内書。江戸時代、福岡藩家老三奈木黒田家の家臣であった安陪氏が、福岡市内の病院に勤める傍ら、旅行で何度も中国を訪れ、その際に参考資料として購入したもの。

写真(空襲後の福岡市街地)

アメリカ陸軍および空軍の教育機関に勤務するアメリカ人が撮影した、昭和21(1946)、22年ごろの写真。裏面に「Fukuoka」と撮影者によるメモがあることから、福岡市内の写真と考えられる。詳細な場所は不明であるが、がれきでおおわれた街に立つ大きな建物を撮影している。〔第36回新収蔵品展〕

写真(愛宕神社)

愛宕神社(西区)の鳥居付近から南側を撮影した写真。福岡市西部の愛宕山頂に鎮座する神社で、境内から博多湾を一望することができる。この写真は山の入口付近で撮られたものであるが、前方に室見川と川に架かる鉄橋が確認できる。〔第36回新収蔵品展〕

写真(第118陸軍病院)

昭和9年(1934)3月に大濠公園近くに建設された逓信省福岡簡易保険支局は、昭和20年6月の福岡大空襲の際も焼失を逃れた。終戦後は米軍に接収され、陸軍病院として使用された。

写真(新天町)

新天町商店街は昭和21年(1946)に誕生した。福岡大空襲で被災した天神町の再建にあたり、当時横行したヤミ市に対して、公正な価格で販売する場所となった。

千代中学校々歌

福岡市立千代中学校(博多区)の校歌。作曲は、広島出身の作曲家で、福岡教育大学で長く教鞭をとった森脇憲三(1916~96)。森脇は、福岡県内を中心とする多数の学校の校歌等、数多くの曲を残した。作詞は、松源寺(博多区千代三丁目)の住職だった佐々木滋寛(1899~1976)。〔第36回新収蔵品展〕

〔楽譜〕(城西中学校校歌)

福岡市立城西中学校(城南区)の校歌。作詞は、現・福津市出身の日本文学研究者・国語教育学者の八波則吉(1875~1953)。大正7年(1918)から昭和7年(1932)入学の児童が使った国語の教科書『小学国語読本』(巻一の冒頭が「ハナ ハト マメ マス」)の編さん者のひとり。〔第36回新収蔵品展〕

〔楽譜〕(奈良屋小学校校歌)

平成10年(1998)、福岡市立冷泉小学校・御供所小学校・大浜小学校とともに博多小学校に統合された奈良屋小学校(博多区)の校歌。作詞は、奈良屋小学校の卒業生で詩人の持田勝穂(1905~95)。持田は、作曲家の森脇憲三とともに多くの声楽曲やオペラも残している。〔第36回新収蔵品展〕

〔楽譜〕(周船寺小学校校歌)

福岡市立周船寺小学校(西区)の校歌。校歌の制定は昭和26年(1951)11月。作詞の徳永俊夫は、大正14年(1925)、筑肥線(当時は北九州鉄道 福岡市内と唐津市内を結んだ)開通を記念してつくられた「糸島鉄道唱歌」の作詞者でもある。〔第36回新収蔵品展〕

〔楽譜〕(警固中学校校歌)

福岡市立警固中学校(中央区)の校歌。警固中学校は昭和22年(1947)4月に開校した。校歌の制定は、昭和26年3月。校区が隣り合っている福岡市立舞鶴中学校の校歌も、山田繁雄/作詞、森脇憲三/作曲である。〔第36回新収蔵品展〕

〔チラシ〕(昭和59年度福岡市民芸術祭 '84ミュージックフェスティバル)

福岡市民芸術祭は、昭和38年(1963)の福岡市民会館オープンを機に、総合的な芸術祭として翌年誕生し、今年で第61回を迎える。チラシとパンフレットの表紙には、博多祇園山笠、筥崎宮放生会、太宰府天満宮の鷽かえ・鬼すべ神事、博多どんたくがデザインされている。〔第36回新収蔵品展〕

〔パンフレット〕(昭和59年度福岡市民芸術祭 '84ミュージックフェスティバル)

福岡市民芸術祭は、昭和38年(1963)の福岡市民会館オープンを機に、総合的な芸術祭として翌年誕生し、今年で第61回を迎える。チラシとパンフレットの表紙には、博多祇園山笠、筥崎宮放生会、太宰府天満宮の鷽かえ・鬼すべ神事、博多どんたくがデザインされている。〔第36回新収蔵品展〕

〔楽譜〕(カンタータ福岡 第6章まつりの四季序曲)

福岡市民芸術祭のミュージックフェスティバルのなかで、福岡市民会館大ホールで演奏された曲の楽譜。作曲者の森脇憲三(1916~96)が自ら指揮をした。作詞は、博多出身の詩人・持田勝穂(1905~95)。〔第36回新収蔵品展〕

ドライクリーニング師免許証

ドライクリーニング師は、石油質溶剤を使って繊維、皮革製品をそのまま洗濯する事業者に1名以上置かれた専門職。都道府県が行う試験に合格すると免許証が発行される。ドライクリーニング師の名称が法律で使用されたのは、昭和25年(1950)から5年間という非常に短い期間であった。〔第36回新収蔵品展〕

卒業証書

冷泉小学校は、明治6年(1873)に東長寺内に創立された小山小学校が始まりで、数度の統合の結果成立した呉服尋常小学校が上川端に移転した際に、冷泉尋常小学校に改称した。平成10年(1998)に奈良屋、御供所、大浜の各小学校と合併し、博多小学校となった。〔第36回新収蔵品展〕

大相撲11月場所観戦招待之記録

福岡藩家老三奈木黒田家の菩提寺、清岩寺で、昭和時代から、檀那関係者に毎年11 月に招待された九州場所入場券半券やパンフレットを記念に集めたもの。現在取り壊された九電体育館などの旧開催場の見取り図のある解説書や、各種貴重な印刷物が含まれる。〔第36回新収蔵品展〕

のぞましい未来 人間賛歌 ふくおか’82大博覧会会場案内図

ふくおか’82大博覧会は、昭和57年(1982)3月10日から5月30日まで、大濠公園と舞鶴公園で開催された。この博覧会では、未来の暮らしを紹介することを目標に、エネルギーの効率的利用、エレクトロニクスの最新技術、宇宙開発、都市交通に関するパビリオンなどが設けられた。〔第36回新収蔵品展〕

車両入場証

アジア太平洋博覧会で使用された業務用車両入場証。この博覧会は、福岡市制施行100周年を記念して地行・百道埋立地で開催された。会期は平成元年(1989)3月17日から9月3日までの171日間で、入場者は822万9399人、海外37の国と地域、2国際機関、国内1056企業・団体が参加した。〔第36回新収蔵品展〕

第3章 くらしとまつり

おきあげ(小串シズノ氏)

社家町(博多区冷泉町)にあった櫛田裁縫専攻学校で小串シズノ氏が卒業制作のために作成したおきあげ。おきあげは、布や綿を使って立体的に盛り上げる押絵の一種。校長だった日本画家・祝部至善が描いたシズノ氏の似顔絵をもとにして製作された。〔第36回新収蔵品展〕

刺繍下絵

小串シズノ氏が作成した刺繍の下絵が描かれた図案見本。中には、小桜や梅などの植物紋様や鶴亀などの吉祥紋様が描かれている。日常的に裁縫手芸の見本として使用し、図案を描きためていたことが分かる。〔第36回新収蔵品展〕

回覧 福岡県内一斉ねずみ駆除運動 ねずみクジつき

福岡県などが配布した「ねずみ駆除運動」実施のお知らせ。この運動は、県民に衛生面で問題となっていたネズミの駆除を奨励し、捕獲した数に応じて「ねずみクジ(抽選券)」がもらえるといった内容。一等・電気冷蔵庫、二等・電気掃除機、三等・トランジスタラジオなど豪華賞品が当たる。〔第36回新収蔵品展〕

案山子

東区松崎の多々良地区で使用されていた害獣除けの案山子。同地で農業を営んでいた寄贈者の曽祖父が手作りし、使用していたものと思われる。顔にはビニールを被せ、マジックで表情を描き、朱で染めた格子柄の野良着を着せている。〔第36回新収蔵品展〕

写真(博多祇園山笠 大黒流 下新川端町 神国之光輝)

明治29年(1896)に下新川端町(博多区下新川端町、川端中央街)が制作した2番山笠の写真。山笠は福岡県によって明治5年から15年まで禁止され翌年に再興した。明治時代初期の山笠は高さ16mに及んだとされるが、この写真の山笠も背が高く、10m以上程度の高さがあったと見られる。〔第36回新収蔵品展〕

博多祇園山笠当番法被

博多瓦町(博多区祇園町)出身の関守氏(1916-2003)が着用した岡流【1949-1966】の当番法被。関家は、昭和10 年代までは瓦町に在住、昭和20 年以降、社家町(同区祇園町・冷泉町・上川端町)、糟屋郡粕屋町に転居したが、瓦町の出身者として転居後も山笠に参加していた。〔第36回新収蔵品展〕

ポスター「博多祇園山笠 飾り山笠」

博多祇園山笠のポスターには、例年、前年の1 番山(舁き山笠)の写真が使われる。令和2 年は新型コロナウイルス感染症対策で延期、櫛田神社の飾り山笠のみ公開された。翌3 年は飾り山笠(12 か所)と神事のみ執り行われた。よって本資料には櫛田神社の飾り山笠が使われている。〔第36回新収蔵品展〕

博多提灯

西区北崎で使用された盆提灯。福岡市域では、初盆の際に親類が博多提灯とよばれる大型の提灯を贈る風習がある。盆の期間中は縁側や玄関先に吊しておき、盆の送り火とともに燃やされるほか、地域の盆行事で使用される。近年は住宅構造の変化にともない飾る家も減っている。〔第36回新収蔵品展〕

祈祷札(海上安全)

金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)から海上安全を祈願して授与された祈祷札。古来、金刀比羅宮は金毘羅大権現と称した海神(水神)を祀り、海上交通の守り神として信仰され、海事関係者の崇敬を集めていた。この祈祷札は江戸時代に廻船業で栄えた西区宮浦の津上家に保管されていた。〔第36回新収蔵品展〕

祈祷札(海上安全)

金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)から海上安全を祈願して授与された祈祷札。古来、金刀比羅宮は金毘羅大権現と称した海神(水神)を祀り、海上交通の守り神として信仰され、海事関係者の崇敬を集めていた。この祈祷札は江戸時代に廻船業で栄えた西区宮浦の津上家に保管されていた。〔第36回新収蔵品展〕

大正十四乙丑年略暦

本資料は、酒造が配布した暦付きの引札。左に支那暦(旧暦)、右に太陽暦が印刷されている。上田醸造場は、享保年間(1716-1736)に糸島で酒造業をはじめたとされ、少なくとも大正時代後期には西唐人町(中央区黒門もしくは唐人町)に転居し営業していた。昭和20年代に廃業した。〔第36回新収蔵品展〕

「太郎飴本舗 松尾商店」(大乗寺前町、下川端町ほか)で使用された博多鋏の飴切鋏。博多鋏の一種として飴切鋏の存在は知られていたが、使用された飴切鋏は確認されていなかったことから、博多鋏の研究の上で重要な資料。博多鋏の製造は技術保持者の死去により途絶えている。〔第36回新収蔵品展〕

下絵(表:小包便 肥とり/裏:かたなのみ)

博多中島町( 博多区中洲中島町) 出身の日本画家・祝部至善(1882-1974)が描いた博多明治風俗図の下絵。明治の博多の街路の日常を描いたもの。右は橋口町(中央区天神)の郵便局から姪浜(西区)へ小包を運ぶ職員、左は近隣の農家が博多へ肥料(糞尿)を引き取りにいく様子。

ハリセンボン

西区玄界島で使用されたハリセンボンの剥製。博多湾岸に特徴的な熨斗のひとつで祝儀や贈り物を相手に持っていく際に使われる。また家によっては魔除けとしても用いられている。熨斗は、タツノオトシゴやタイ・ブリ・トビウオの鰭、ハコフグなどがあり、用途により使い分けされる。〔第36回新収蔵品展〕

手動按摩器

大分市佐賀関町で使用されていた手動式の按摩器。内部構造は不明だが、筐体は木製で胴部についてハンドルを回転させて振動を起こす。中心には銘板「新案特許 第二六二六四号」が取り付けられている。平成時代初期に寄贈者の祖母から母へ形見として譲渡された。〔第36回新収蔵品展〕

電気裁縫鏝

衣類や紙などの皺を伸ばすための電気裁縫鏝。電力で先端の鉄製部を熱して使用する。「入/切」のスイッチのみで、温度調整はできない。専用の木箱に納められており、その蓋の裏には熱された鏝を掛け置くための金具が取り付けられている。寄贈者の祖母が博多区堅粕の自宅で使用していた。〔第36回新収蔵品展〕

機械式計算機

昭和40年代にタイガー計算機株式会社が製造した手廻し式計算機。寄贈者が仕事で使用していたもの。タイガー計算器は大本寅次郎によって開発が行われ、大正12(1923)年から販売が行われた。電卓の普及により、昭和45(1970)年に製造を完了するまで、広く使用された。〔第36回新収蔵品展〕

水神棚

早良区重留5 丁目集落内を流れる金屑川沿いに設置された竹製の棚。7 月の寶満神社の夏季大祭の際に、川沿いの三カ所に設置した棚に酒・魚・塩を供え、参拝後に酒は川へ奉納する。棚は一年間据えられる。棚の由来は明確ではないが、近隣の事例から水神棚ではないかと推測される。〔第36回新収蔵品展〕

第4章 芸能と美術

振袖

ハレの日に着用していた振袖。寄贈者の義母・静子氏(大正10年生まれ)が昭和13年の結婚式で着用し、その他に茶道や華道の習い事などで着用した。赤地に鶴、松、菊、波などの紋様があしらわれている。〔第36回新収蔵品展〕

振袖

ハレの日に着用していた振袖。寄贈者の義母・静子氏(大正10年生まれ)が昭和13年の結婚式で着用し、その他に茶道や華道の習い事などで着用した。黒地に松、菊、貝合わせ、貝桶などの紋様があしらわれている。〔第36回新収蔵品展〕

しらけどり

博多出身のコメディアン・小松政夫氏(1942-2020)の芸のひとつ「しらけ鳥音頭」で小松氏が扮する政太郎が右手にさし持ったパペット。「みじめ、みじめ」と右手を肩に寄せる仕草は多くの人の記憶に残った。制作当初から晩年に至るまで、パペットの羽などを取り替えながら、芸とともに披露されてきた。〔第36回新収蔵品展〕

メガネ

小松政夫氏(1942-2020)が映画評論家・淀川長治氏(1909-1998)のものまねの際に使用した初代のメガネ。「日曜洋画劇場」での淀川氏のセリフをまねたこの芸は、1967年にクレイジーキャッツの舞台でつなぎをつとめるなかで誕生した。その際に裏方スタッフが制作したのがこの眉の動くメガネだったという。

背広

小松政夫氏(1942-2020)は、クレイジーキャッツの植木等氏(1927-2007)の付人兼運転手をつとめていた。「オヤジさん」と呼び師を敬愛していたと伝わる。この背広は、左胸の内側に刺繍で「植木」とあり、もとは植木等氏が着用していたものを小松氏が譲り受け大切にしてきた。〔第36回新収蔵品展〕

博多古図絵

中世博多の街並みを中心に、西は荒津山から東は筥崎宮までを描く。縮尺を度外視して帆船を大きく配す点や、実在が不確かな「袖港」の名も金紙に記す点から、絵の主題は「貿易で栄える博多」という都市イメージと考えられる。縁に使用痕があるものの、かつて本図が飾られていた場所は未詳。〔第36回新収蔵品展〕

博多祇園山笠図

三笘家は、江戸時代中後期の博多で、山笠組立ての棟梁を勤めたる傍ら、御用絵師上田氏に学び、博多から藩に献上する山笠図なども描いた。この山笠は博多石堂流の掛町が仕立てた山で、古代の中国の江南地方にあった国・越での凶賊退治を題材にしている。〔第36回新収蔵品展〕

菊図詩画

作者は江戸時代後期に活躍した女流文化人・亀井少琹(1798-1857)。福岡藩儒を務めた祖父・南冥と父・昭陽の薫陶を受け、家庭に入り主婦となった後も、漢詩や四君子(梅菊蘭竹)の絵をよくした。本資料の賛にも中国の漢詩文化をふまえた引用がみられ、教養の高さが窺われる。〔第36回新収蔵品展〕

競馬図

幕末の復古大和と絵派・浮田一蕙の作。一蕙は同時代の作品や粉本(絵手本)に学ぶのではなく古法の復興を目指し、平安時代頃の大和絵の名品を写し学び、有職故実を研究した。また尊王思想に傾倒し大和絵らしい画題を好んだとされ、本図にも宮中行事に由来する賀茂競馬の神事を描く。〔第36回新収蔵品展〕

撫子蝶図屏風

余白をたっぷりととった金地に、色とりどりの撫子とさまざまな蝶が描かれている。本図は旧前田証券の日田営業所の研修室に長らく展示されてきた。同社は昭和19年(1944)に開業した地元資本による証券会社で、北部九州の経済活動に寄与。近代福岡の経済人による美術愛好の様相を示す資料といえる。〔第36回新収蔵品展〕

梅フク図合作

東区箱崎で90年以上続いた表具店・合屋翠雲堂で収集および表装された一幅。合屋家が支援していた日本画家・小野茂明(1897-1994)と太宰府の絵師・萱島秀峰(1901-73)、同地の書家・古賀井卿(1891-1982)の合作である。表具師を含めた近代福岡画壇の交友の一端が垣間見える。〔第36回新収蔵品展〕

待花

福岡の女流歌人・野村望東尼(1806-1867)が自詠歌を色紙に揮毫したもの。家集『向陵集』の44番目に採録された一首である。望東尼は幕末の勤王派弾圧事件で流刑に処されたことでも知られ、本資料の箱書を「望東会〃長」で第25代福岡市長を務めた進藤一馬がしたためている。〔第36回新収蔵品展〕

板絵馬

『日本書紀』に記された野見宿禰と當麻蹴速が相撲をとった故事を題材に描いた板絵馬。裏面には昭和11年(1936)に行われた相撲の11月場所の番付表が記されており、開催を記念して制作されたものと思われる。寄贈者の曾祖母が収集し、南区寺塚の家で保管していた。