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旅路の風景─北斎、広重、吉田博、川瀬巴水─ オンライン展覧会

東京富士美術館で2022年4月2日から6月5日まで開催された企画展「旅路の風景」展のオンライン展覧会です。

あいさつ

春夏秋冬の四季をともなう日本の景観は、古くから文学や芸術の題材として人々のインスピレーションの源となってきました。また近代になって開かれた海外への扉は、私たちに、その土地の気候風土によってつくり出された壮大な景観や人々の営みに触れる機会を与え、驚きと感動を提供してくれました。まだ見ぬ風景への欲求は、いつの時代も私たちを旅に誘うのです。


「旅路の風景-北斎、広重、吉田博、川瀬巴水-」展では、当館が所蔵する日本の木版画コレクションの中から、「江戸の風景」と「近代の風景」に分けて、時代を代表する4名の作家の作品をご紹介します。


「江戸の風景」では、江戸時代を代表する浮世絵師、葛飾北斎の《冨嶽三十六景》全46図と歌川広重の《東海道五拾三次》全55図を展示します。日本人の心のふるさと、富士山を望む各地の風景を描いた《冨嶽三十六景》と、江戸から京都までの東海道の宿場町の景色をユーモラスに描き出した《東海道五拾三次》は、浮世絵風景画を代表するシリーズとして知られています。ここでは両シリーズの競演を通して、江戸時代の旅路の風景や自然と共生する人々の営みを見ていきたいと思います。 


「近代の風景」では、明治から昭和にかけて、風景画の分野で活躍した2人の画家、吉田博と川瀬巴水の作品を紹介します。洋画家として活躍した吉田博は、新版画の版元、渡邊庄三郎との出会いを経て、渡米からの帰国後、自ら木版画の出版に取り組むようになり、西洋の写実的な表現と日本の伝統的な木版技術を融合させた新しい木版画を生み出しました。日本画を学んだ川瀬巴水は、やがて版画家に転向して、日本各地の風景を詩情豊かに描き出し、北斎、広重と並び称される画家となりました。ここでは風光明媚な風景や何気ない日常にあらわれる一瞬の美の諸相を、木版画に新しい息吹を吹き込んだ二人の画家の作品を通して見ていきたいと思います。 


北斎、広重、吉田博、川瀬巴水という4人の卓越した画家たちの心の琴線に触れた美しい風景や出来事を追体験することによって、旅から少し離れてしまった私たちの日常に、旅の感動や魅力を取り戻す一助となれば幸いです。

第1章 江戸の風景Ⅰ 葛飾北斎(1760-1849) 『冨嶽三十六景』の旅

江戸時代の幕藩体制のもと、庶民が自由に物見遊山や遊興目的で旅に出ることは許可されませんでしたが、一方で寺社詣でなど遊びではない旅については容認されていました。そこで人々の間では伊勢神宮(三重)、金刀比羅宮(香川)をはじめ、厳島神社(広島)や善光寺(長野)、清水寺(京都)、成田山新勝寺(千葉)など全国各地の寺社参拝を名目として、旅に出たのです。とくに江戸時代半ば以降、街道や宿場が整備され、経済が上向いてくると、お参りを目的としながらも、各地の名所旧跡や娯楽を楽しみつつ旅をすることが大ブームとなりました。

 

また日本では古来より、山岳信仰も盛んでしたので、富士山をはじめ筑波山や(茨城)大山(神奈川)などにも多くの人々が押し寄せました。江戸の人々にとって信仰の対象であり、「富士見」などの地名が示すように、日常生活において身近な山だった富士山。葛飾北斎は『冨嶽三十六景』において、富士山という庶民の生活に根ざした信仰の対象を、場所、季節、気候条件などを変えて、自由自在に描き出しました。

 

さらに北斎はこの『冨嶽三十六景』を出版するにあたり、当時の最先端の輸入染料だったベルリン藍(通称ベロ藍)を使い、それまでの植物性の藍には無い鮮烈な青色の画面を創り出しました。北斎の卓越した表現力と青色の斬新な色彩によって、『冨嶽三十六景』は大評判となり、浮世絵における「名所絵」を確立することになりました。

冨嶽三十六景 深川万年橋下

見事な曲線を描いた橋がまず目に飛び込んでくる。万年橋は東西に流れる小名木川と南北に流れる隅田川の合流地点に架けられた橋。海抜の低かった深川では洪水対策のため、川の両岸の石積を高くしていたという。この石積の上に架けられた橋は周囲よりも高い位置から富士を臨める絶好の見物スポットだったのかもしれない。富士は橋桁の間にひっそり描かれるが、そこに視線が向くようにとの思いか、水上の舟は富士に舳先を向けて浮かんでいる。

冨嶽三十六景 武州千住

千住は現在の足立区。かつては奥州街道の起点で、水戸街道、日光街道へも続く交通の要衝であり、江戸四宿のひとつとして有名であった。ここでは宿場の風景は描かず、ややはなれた隅田川上流の荒川水門脇のあたりを描いている。リズミカルな水門の柱の間にあえて富士を配置し、構図に一工夫加えている。頭を下げ、山なりになった馬の体躯と富士の姿を相似させている点も面白い。

冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷

程ヶ谷は現在の神奈川県横浜市保土ヶ谷区。程ヶ谷宿近くの品濃坂は松並木が見事であったという。北斎はその松の枝振りを見事にとらえて描いている。また松の前ではさまざまな人間模様も描かれて、左側の駕篭を担ぎ、一旦休憩する二人の男とその中で熟睡する客。汗を拭く左側の男のしぐさは何ともコミカルで憎めない表情を浮かべている。また右側の草鞋の紐を結び直す男の描写も巧みで北斎の技量を感じさせる。

冨嶽三十六景 隅田川関屋の里

関屋の里は現在の足立区千住付近の隅田川に面する一帯のことを指す。鎌倉時代に関所が設けられていたことからその名がついたという。朝霞がたちこめる早朝であろう。遠方には朝の日に照らされた赤富士が見える。田畑にのびる堤の上を疾駆する3騎の早馬の臨場感がよく伝えている。右端に描かれているのは法令などを掲示する高札場。中央に伸びる松の木は明らかに富士の山容を意識した枝振りをしている。

冨嶽三十六景 甲州犬目峠

犬目峠は現在の山梨県上野原市に位置する。ここの峠は富士の眺めが良いことで知られていた。本図で北斎は、高さによって見え方が変わっていく富士山の表情を白、藍色、茶色の三色で摺り分けることによって巧みに描き出している。一面緑に覆われた坂道を2組の旅人が歩みを運んでおり、峠の高みから見る富士の景色に思わず目を止めている。小さく描かれた人物が、この眺望の雄大な景色と緩やかな時間の流れを強調している。

冨嶽三十六景 青山円座松

円座松とは現在の渋谷区神宮前にある龍岩寺の庭にあった笠松のこと。「枝のわたり三間(約5.6m)あまりあり」ともいわれ、山のようにも見えるこの松は江戸の名所であった。富士の姿は霞雲をはさみ、実際よりも大きめ描かれているとみられる。画面右下には酒に興じる一行がおり、通りすがった通行人もこの景色に見入っている。よく見ると画面左下には、松の添え木にまじり、落葉を掃除している者の足と箒だけが描かれている。

冨嶽三十六景 東都駿台

駿台は現在の文京区本郷に位置する神田駿河台のこと。神田界隈ではここだけが高台であったため、富士がよく見えたという。季節は新緑の時期であろうか、周囲に繁る木々や野に生えた草を3種の鮮やかな緑で表し、眼下に見える神田川の青とも見事に調和して、画面全体が爽やかにまとめ上げられている。荷を担ぐ行商人の姿、巡礼をする者、お供を連れた武家の姿、額に扇をかざす者など、画中に描かれた人物たちの動きもさまざまで面白い。

冨嶽三十六景 駿州江尻

江尻は清水港に隣接した東海道の宿駅で、現在の静岡県静岡市清水区にあたる。富士山麓特有の強風に苦しむ旅人と、それとは対照的に泰然と佇む富士の姿を輪郭線だけを用いて描いている。当の本人たちには気の毒だが、菅笠や懐紙が風に乗って飛ばされる様は、殊の外リズミカルで、この瞬間に居合わせた面白みを感じさせる。樹木が傾くほどの凄まじい風の動きと背景の富士とが見事なコントラストをなしている。

冨嶽三十六景 下目黒

下目黒は現在の目黒区の一帯を指している。当時は田畑が多い農村で、将軍が鷹狩りをする御鷹場としても知られていた。画面の中央、道端で話をしている2人の男は鷹匠で、男たちの手の先には鷹が止まっている。また田畑には、畑仕事をしながら鷹匠たちの話に耳を傾ける農夫やクワを担いで畑へ向かう農夫の姿も見え、農家の母子が描かれている。富士山は起伏に富む小高い丘の間から遠慮がちに顔を出している。

冨嶽三十六景 身延川裏不二

当館所蔵の収蔵番号6269-EA328と同じ図柄だが摺りが違う。本作では富士の左側に競り立つ山肌の茶色が反転している。後年に違う摺りのパターンの一つとして摺られたものと考えられる。違いを比較してみるのも面白い。

冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二

千住は日光街道最初の宿場で、本図はその南に位置する山谷(現在の台東区浅草)から花街である新吉原(現在の台東区千束)を眺めた構図。手前には鉄砲や槍をもった大名行列が国元へと向かう様子が描かれるが、一人一人が手にしている赤い色の兵具入れが明らかにリズミカルに配置されていることに気づかさざるを得ないであろう。隊列の向こうには稲刈りを終えた2人の農婦が田んぼの畦道に腰を下ろし、物珍しそうに行列を眺めている。

冨嶽三十六景 東海道金谷ノ不二

「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所である大井川。金谷は現在の静岡県島田市に位置する。江戸時代、架橋、渡船が禁じられていた大井川では川越しの人足や馬の背に荷駄や人を乗せる徒渡しが行われていた。まるで、海のように波打つ川を、金谷宿と島田宿の双方から徒渡しで往きかう旅人や荷駄が描かれている。向こう岸には堤防が波のうねりと呼応するような形で描かれている。

冨嶽三十六景 武陽佃島

佃島は元々、隅田川の河口に自然にできた寄洲。徳川家康は幕府を江戸に置くにあたり、摂津国佃村の漁民を江戸に呼び寄せ、ここに漁村を作った。幕府は佃島の漁民たちに江戸近海で優先的に漁が出来る様な特権を与えて保護したといわれ、毎年冬から春にかけては白魚漁がさかんに行われ江戸風物のひとつとなった。西の空が夕暮れに染まる時間帯、人を乗せる船、物を乗せる船、漁船など、さまざまな用途の船が島の周囲を行き来している。

冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見

御厩川岸は隅田川の両国橋と吾妻橋の中間、現在の厩橋が架かる付近。本図は富士の位置からして厩橋の北側からのアングルを捉えており、まさに今、渡し船が対岸の浅草方面に向け離岸した刹那を描いている。船は帰路を急ぐ客で溢れ返り、一日の疲れからかうずくまる客もいれば、汗を拭こうとしているのか、水面に手拭いを濡らしている客もいる。船を漕ぐ船頭の視線の先には、夕日に浮かんだ富士の美しいシルエットを臨むことができる。

冨嶽三十六景 東海道江尻田子の浦略図

田子の浦は現在の静岡県富士市一帯の海岸を指し、富士の真南に当たり、海と富士の距離が最も近いエリアでもある。『百人一首』にも「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(山辺赤人)と詠まれたように古くから名所として知られていた。富士の手前に顔を見せるのは愛鷹山。そのふもとの浜辺では塩田で黙々と働く人びとの姿が見られる。遠景と対照をなすかのように、近景では4隻の船が荒れた海の中で格闘している。

冨嶽三十六景 甲州石班沢

海の断崖で漁をする姿かと見紛うほど、迫り出した岩と波しぶきが目に止まる。描かれた場所は、富士山北西部を流れる笛吹川と釜無川が合流し富士川となる地点、鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡)付近とみられる。漁をする父と魚籠を覗き込む息子、それを見下ろす富士の姿、三者三様の光景が画面を飽きさせないものにしている。富士の山容と、突き出た岩と漁師、そして漁師から放たれた網とが三角の相似をなしているのも面白い。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏

眼前で激しく逆巻く大波と波間の遥か遠くに鎮座する富士山。動と静、遠と近を対比させる絶妙な構図は、海外でも「グレート・ウェーヴ」と称され、画家ゴッホや作曲家ドビュッシーをはじめ世界的に賞讃を受けた。波に翻弄される3艘の船は「押送り舟」と呼ばれる舟で、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していた。千葉県木更津方面から江戸湾を臨んで描いたとの説もある。

冨嶽三十六景 武州玉川

玉川は多摩川のこと。山梨から東京を経て神奈川に流れる川で、この図では川の中流域にあたる調布あたりの渡し場からの眺めと思われる。川のほとりには1組の人馬がおり、波立つ川の上を1艘の船が対岸を目指している。中景の霞雲を隔てて見える、遠景の富士の姿は明らかに大きく描かれている。多摩川の流れの手前側は空摺(色を使わず圧力で紙に凸凹をつける技法)を用いて表現されている。

冨嶽三十六景 上総ノ海路

上総は現在の千葉県中南部一帯を指す。この一帯は江戸時代、海運で大いに賑わっていたようだ。本図は、浦賀水道付近からの眺めと推測される。同型の2隻の船が精巧な描写で描かれているが、よく見ると側面に開いた窓からは乗客であろうか、3人の男たちが顔を覗かせているのが分かる。その男たちの顔の縮尺からすると、この船は10m近くあるとみられるが、実際は定かではない。富士は大きく弧を描いた帆の彼方に小さく配されている。

冨嶽三十六景 常州牛堀

牛堀は霞ヶ浦の東岸、現在の茨城県潮来市に位置する。画面の中央に「苫舟」と呼ばれる霞ヶ浦付近の航行に適した船底の浅い舟が、右下から対角線上に突き出るようにして描かれている。また朝食の支度にかかっているのか、舟から身を乗り出した男は米のとぎ汁を川に流し、その音に驚いた2羽の白鷺が舞立つ様子も捉えられている。大胆な構図の中にも、夜明け前の静まり返った空気を感じさせる抒情性にあふれた作品といえる。

冨嶽三十六景 江戸日本橋

日本橋から西方向を臨んだ情景。川の両岸に立ち並ぶ蔵は西洋の透視画法を用いて描かれ、その消失点には江戸城、そしてその彼方に富士山が配される。画面手前に描かれた日本橋には、最早まっすぐ歩くことが許されないほど、往来する商人たちの姿で埋め尽くされており、江戸ならでは活気を感じさせる。またこの日本橋の模様を大胆に切り取ることで、静かに佇む遠景の江戸城と富士山との対比が生まれ、画面にさらなる面白みを与えている。

冨嶽三十六景 甲州三嶌越

三島越とは、甲府盆地から富士山麓を経て駿河国・相模国へと続く鎌倉往還(各地方と鎌倉を結ぶ古道)を指す。本図は、鎌倉往還の甲駿国境にある籠坂峠から臨んだ富士の姿とみられる。画面中央を巨木が貫き、背後に富士がそびえる圧巻の構図である。3人の旅人が手をつないで巨木の大きさを計ろうとするしぐさがいかにも人間らしい。富士の周囲に漂う雲の形もユニークな雰囲気を醸し出している。

冨嶽三十六景 遠江山中

遠江は現在の静岡県西部に位置する。巨大な材木を人の高さの倍以上もの高さにまで立て、2人木梚き職人が大きな歯の特別なのこぎり使い、1人は材木によじ登り、上から丹念に切れ目を入れ、1人は下から切れ目を入れている。富士は材木を支える支柱が作った三角形の間から顔を覗かせている。職人たちが働く傍らでは、子どもが焚火をしており、その煙は富士を取り巻く雲と連動するように、バランスよく材木と対角線の方向に伸びている。

冨嶽三十六景 本所立川

現在の墨田区に位置する本所立川には当時多くの材木問屋があった。明暦の大火の以後、火事が起きた際に建替えで必要となる材木がここに蓄えられていたという。本図では材木置場に立てられた無数の材木の向こうに富士が顔をのぞかせている。また、中央で木挽きをする人をはじめ、材木を高々と放り投げる人、それを受け取る人などそれぞれの職人の動きに北斎の巧みな人体表現を見ることができる。

冨嶽三十六景 尾州不二見原

描かれているのは、現在の愛知県名古屋市中区不二見町の付近の光景と思われる。職人が自身を取り巻くほどの大きな桶の製作に一心不乱に取り組んでいる。その桶の中を通して遠方に小さな富士の姿を捉えるという大胆奇抜な構図に感嘆させられる。桶の大きな円と富士の小さな三角形という組み合わせにも北斎の遊び心を感じる。画中に描かれた職人は、約15年前に刊行されている『北斎漫画』にも登場している。

冨嶽三十六景 穏田の水車

青山穏田村は現在の渋谷区神宮前の原宿あたり。当時は至るところでこのような水車が見られるような田園地帯であったとみられ、近くには今では地下に埋設されてしまった渋谷川(隠田川)が流れていた。この水車は、渋谷川沿いに作られたもので、江戸名所のひとつにもなっていた。賑やかに働く人びとや激しい水流によって回る水車と、彼方にそびえる孤高の富士との対比が面白い。

冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二

駿河国は現在の静岡県東部付近をいう。片倉という地名は存在しないため、静岡県駿東郡清水町にある徳倉の誤刻の可能性が指摘されている。駿河は茶の名産地であったことから、このような大規模な茶園が多く見られたと考えられるが、霞の向こう側に見える小屋の一帯も同じ敷地内だとすれば相当な面積を有していたとみられる。画面の中央2ヶ所の茶畑に笠を被り並んで茶摘みをする女性たちが見られ、男性はひたすら茶葉を運ぶ仕事に従事している。

冨嶽三十六景 駿州大野新田

大野新田は現在の静岡県富士市につくられた新田集落である。大野新田を通る東海道からの富士の眺め。時間帯は東の空が染まる早朝の頃と考えられる。農夫たちが葦を背負った牛を引き連れて歩く様子を捉えている。牛に積まれた葦、また牛の足が一定のリズムで並ぶ様子は滑稽みがあり、先頭を行く農夫とその前を歩く農婦が同じポーズをとっている姿もまた面白い。奥には富士沼が広がり、牛の列に驚いた数羽の白鷺が飛び去る姿が見える。

冨嶽三十六景 登戸浦

登戸浦は現在の千葉県千葉市中央区に位置する。地名は「のぼと」又は「のぶと」と呼ばれ、浅瀬に立った鳥居は登渡神社のものとされる。鳥居の周辺には潮干狩りを楽しむ人々が描かれ、画面左側にははしゃぎ回る子どもたちの姿も見える。中央に大きく描かれた鳥居の中に富士が描かれるが、鳥居の大きさや角度、海面と陸地の配分など、全て計算されたかのような構図は極めて精巧といえる。

冨嶽三十六景 相州江の嶌

神奈川県藤沢市に位置する江の島は当時も人気の観光名所であった。現在は橋が架かっているが、当時は本図のように干潮時に現れた砂州を歩いて江の島へ渡っていた。限られた時間の中で江の島の弁財天詣でに急ぐ人々の動きが伝わってくる。また渡った先には大きな石灯籠が見え、そこが参道の入口であることが分かる。参道脇にはすでに店が軒を連ねており、ここに多くの人が訪れていたことを窺わせる。砂州の両側に寄せる波の点描表現も面白い。

冨嶽三十六景 礫川雪の且

礫川は現在の文京区小石川付近。画題の「雪の且」の「且は「旦」の誤り。高台にあった茶屋の2階からの眺めと考えられる。雪の降った朝、茶屋は雪見を楽しむ女性たちで賑わいを見せている。澄んだ空気の向こうに白雪をいただく富士が見える。富士の上空には三羽の鳥が舞っていて、空の広さを強調している。茶屋の客の中にもその鳥の存在に気づき、指を差している者もいる。「冨嶽三十六景」シリーズのなかで唯一の雪景色である。

冨嶽三十六景 信州諏訪湖

よく晴れた日には諏訪湖からも富士を眺望でき、渓斎英泉や歌川広重も好んでその光景を描き残している。画面を遮るようにV字に大きく描かれた二本の松から見下ろすように諏訪湖を配し、富士の形と相似するように弁財天の祠を置くなど、北斎の構図への強いこだわりを感じさせる。本作のような大胆な構図は、印象派の画家モネにも影響を与えたとされ、彼が描いた崖のほとりに立つ税関吏小屋のシリーズへの影響が示唆されている。

冨嶽三十六景 相州七里浜

七里ヶ浜は、現在でも多くの観光客が訪れる神奈川県鎌倉市に位置する海岸。前景にあるのは鎌倉山で、中景には七里ヶ浜の集落が描かれている。その左側に見える島が相模湾に浮かぶ江の島と思われる。描かれた時間帯は西の空が染まる夕方頃と考えられ、逆光で暗がりとなっていく集落や島の色合いも見事に表現されている。本作の摺りでは退色のため判別しづらいが、富士の左側の空には夏の湧き立つ入道雲が描かれている。

冨嶽三十六景 東海道吉田

吉田は現在の愛知県豊橋市に位置する東海道の宿場。「不二見茶屋」はまさに富士が見える茶屋として有名であったのだろう。お座敷の一角を陣取った2人の女性客も見物を楽しんでいるようだ。軒下には「御茶津希(=おちゃつけ)」との看板が掲げられており、その下には「根元吉田ほくち」とこの地の名産であった火口(火打ち石の火を受けるもの)の掲示も見える。駕篭者の一人が草鞋を履きやすくするために木槌でたたく姿も興味深い。

冨嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどう

五百羅漢寺は当時、深川(現在の江東区大島)にあり、境内にあった三匝堂は三階建ての高層建築で、らせん状の回廊がサザエのようであるため、さざえ堂とも呼ばれた。ここから隅田川を隔てて富士が良く見えたという。遠近法を駆使した安定的な構図が清澄な雰囲気を演出している。欄干にもたれた人々の姿態描写も巧みで、富士を見ながらくつろぐ人々のリラックスしたムードを伝えてくれる。

冨嶽三十六景 甲州三坂水面

現在の山梨県笛吹市に位置する御坂(三坂)からみる河口湖と富士の風景である。中央には赤茶けた山肌をあらわにした夏の富士が描かれている。またここから見る富士の姿は、河口湖の湖面に反射して逆さに見えることから「逆さ富士」としても有名である。ここでも波ひとつない湖面に富士の姿が映し出されている。しかし、湖面に映し出されているのは雪をかぶった冬の富士であり、そこには現実ではありえない虚構の風景が広がっている。

冨嶽三十六景 凱風快晴

冨嶽三十六景シリーズを代表する作品。画題にある「凱風」とは南風のこと。「赤富士」とも称されるこの情景は、夏から秋にかけての早朝にかぎり見られるという。諸説はあるが、右側に寄せられた構図は左側(東)からの光を意識しているとも感じられ、河口湖付近から富士の北側を捉えたと思われる。秋を予感させる鰯雲の中に悠然とそびえるその偉容は、富士を形象化した作品の中でも唯一無二の逸品といえよう。

冨嶽三十六景 山下白雨

冨嶽三十六景シリーズの三役にも挙げられる作品。《凱風快晴》と双璧をなすように、富士の堂々たる姿を表した本図は、《凱風快晴》が「赤富士」と称されたのに対し「黒富士」と呼ばれた。漆黒に包まれた裾野から山頂へのシャープなグラディエーションと頂の尖った形容が、富士の峻厳さとその周辺に立ちこめる静寂な雰囲気を伝えている。画題の「白雨」は夕立を意味する。裾野に描かれた稲光りが画面全体にいっそう鋭さを与えるとともに奥より迫る黒く染まった雨雲が、これから来るであろう俄雨を予兆する。

冨嶽三十六景 相州梅沢左

梅沢は現在の神奈川県中郡二宮町に位置する。「梅沢左」とあるが「梅沢庄」か「梅沢在」の誤刻だと考えられる。梅沢は大磯と小田原の間にあった立場(休憩所)として賑わっていた。左右に配置された雲、水辺に寄り添う5羽の鶴、そして富士に向かって悠然と飛ぶ2羽の鶴は、蓬莱山図など縁起のよい吉祥図を想起させる。本図は発色がよく、当時人気のあった顔料であるベロリン藍(通称ベロ藍)を基調に仕上げた藍摺りと呼ばれる作品。

冨嶽三十六景 相州箱根湖水

箱根湖水は神奈川県足柄下郡に位置する芦ノ湖のことを指す。富士をはさみ左側に見える山は三国山、右側の山は駒ヶ岳であるとみられる。波ひとつない湖面が広がり、湖畔のほとりには杉に囲まれた箱根神社がひっそりと佇んでいる。人物はおらずきわめて静寂な風景が広がる。構図を見ると、横に平たい形で様式化された霞雲と、画面の所々に縦に勢いよく生えた杉の木々とが、画面に縦と横の一定のリズムを生んでいる。

冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二

現在の品川区に位置する御殿山には、江戸時代に桜の木が植樹され、海と桜を一度に楽しめる名所として賑わっていたようだ。富士は計算されたかのように、2本の桜の合間から顔を見せている。本図の画面手前には、御殿山の丘陵にゴザを引いて酒を興じる男衆や、家族連れであろうか、稚児を肩車する男性に同じく稚児をおんぶする女性、はたまた扇を手におどける男たちなど、思い思いに花見を楽しむ人々の姿が生き生きと描かれている。

冨嶽三十六景 東都浅草本願寺

浅草本願寺は現在の台東区浅草に位置する。もともと神田明神下にあったが、明暦3年(1657)の明暦の大火の後、浅草へ移転した。大屋根をもつこの壮大な建築は江戸の市民を驚愕させたという。屋根の職人たちは幾分小さく描かれており、屋根の大きさが強調されている。屋根と同じ高さから町を見下ろすアングルが斬新である。また屋根と富士山との対比も面白い。藍摺りを基調にしながら朱色の凧がアクセントとなっている。

冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図

駿河町は現在の日本橋室町。越後屋三井呉服店は、今の三越百貨店の前身で、日本橋の北側、現在の室町三丁目にあった。看板に「現金、掛け値無し」とあるように、全ての商品に定価をつけた商売は大成功を納め、当時大いに繁盛していた。地上から見上げたような構図で、その視線の先に生き生きと働く屋根職人の姿と風に漂う凧を配する。江戸の庶民の日常生活に静かに溶け込んだ富士の姿が捉えられている。

冨嶽三十六景 甲州伊沢暁

伊沢は現在の石和のこと。山梨県笛吹市にあたる。日の出前の時間帯。宿場町の背後を静かに流れる笛吹川と富士の裾野に立ち込める朝靄が清澄な雰囲気をつくり出し、朝靄の先には朝焼けに浮かび上がる富士山の偉容が姿を現そうとしている。手前に目をやると、林立する小屋がリズミカルに並び、早立ちする人馬が慌ただしく列を作っている。近景の宿場町、中景の笛吹川、遠景の富士の三者がひとつの風景の中で見事に調和を果たしている。

冨嶽三十六景 相州仲原

仲原は現在の神奈川県平塚市中原に位置する。目の前には平野が広がり、悠然とした富士の姿を臨むことができる。富士の手前にあるのは大山で、当時、神仏習合の霊場であった大山を詣でる「大山詣で」は庶民の間で人気を集めていた。画中ではまさに大山詣でに向かう修験者がおり、その人手を見込んだ行商人の姿なども見える。一方、そうした世間のことには見向きもせず、ひたすら川で網をすくう男の姿もありのまま描かれている。

冨嶽三十六景 諸人登山

「冨嶽三十六景」シリーズ中で唯一、富士の山容が描かれていない富士である。描かれた人物は皆、富士講と呼ばれた富士山を信仰する人たちで、白雲が湧き立つ中、杖を使い、険しい山肌を這うようにしながら登っていく。彼らの顔は一様に疲れきっており、登山の過酷さを物語っている。画面右上にあるのは石室で、登山者たちが体を休めるために使用していたようで、すでに数十人がうずくまって休息をとっている。

第2章 江戸の風景Ⅱ 歌川広重(1797-1858) 『東海道五拾三次』の旅

徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府が開かれると、全国の大名が一年おきに領地と江戸を往復する「参勤交代」が制度化されました。全国に300近くある藩の藩主と多くの家臣たちが安全に移動することができるよう、街道と宿場の整備が進められ、それに伴って街道に設置された宿場町が大いに栄えることになります。全国を結ぶ主要な道を「東海道」「中山道」「甲州街道」「日光街道」「奥州街道」といい、江戸の日本橋が起点となりました。


その五街道のうち江戸から京都の約500キロを結ぶ「東海道」は、古来より日本の東西を結ぶ重要ルートとして栄え、江戸時代の初めには53の宿場が整備されました。この東海道を主題に、1802年(享和2年)には戯作者の十返舎一九が「東海道中膝栗毛」で弥次・喜多の江戸から伊勢までの旅をコミカルに書いて大ヒットし、また1833-34年(天保4-5年)頃にかけて、新進気鋭の浮世絵師、歌川広重が『東海道五拾三次』を発表して、北斎とともに風景版画の第一人者となりました。広重はこのシリーズで、東海道の街道沿いの風景を、季節や気象の変化という装いをまとわせて、旅情豊かに描き出しています。


弟子の三代広重の伝えたところによると、広重は1832年(天保3年)、数え年36歳のときに、幕府から朝廷へ馬を献上する公式の儀礼に同行して京都へ上ったといわれ、『東海道五拾三次』はその道中の様子を描いたともいわれますが、真偽のほどは定かではありません。

東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景

現在の東京都中央区にあたる。東海道の起点・日本橋の朝の景色。朝焼けを背に大名行列が橋を渡り始める様子が窺える。先箱持ちを先頭に毛槍と続き、陣笠の従士たちが整然と列をなしている。手前には魚河岸から帰った魚屋や野菜売り、犬の姿を見ることができる。左右に開いた大木戸の間から覗くような視点が面白く、大木戸の縦格子と毛槍の縦のラインと橋の板目の横のラインが画面に一定のリズムを与え、堅固な構図を作り上げている。

東海道五拾三次之内 品川 日之出

現在の東京都品川区にあたる。東海道の最初の宿場町となるのがここ品川である。本図では大名行列のしんがりの姿が描かれている。「日之出」という画題からして、明け方近くの情景であろう。街道脇の店のほとんどは閉まっているが、手前の茶屋だけは店を開け、中には客らしき女の姿も見える。品川は吉原につぐ遊里としても栄えていたという。右側の切り立つ山が八ッ山、左に開ける海が品川湾だが、今日ではいずれも見ることはできない。

東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡舟

現在の神奈川県川崎市川崎区にあたる。東海道五拾三次の道のりの最初に渡る大きな川が本図で描かれる多摩川である。対岸に見えるのが川崎宿。多摩川は六郷川とも呼ばれ、ここを渡す船は「六郷の渡し」といわれた。もともとは大きな橋が架けられていたが、たびたび洪水で流されたため、舟で渡河するようになったという。画面奥には西日で真っ赤に染まった空と雪化粧した富士の姿のコントラストが美しく、情感をかき立てられる。

東海道五拾三次之内 神奈川 台之景

現在の神奈川県横浜市神奈川区にあたる。神奈川台と呼ばれた宿場町の情景。急勾配の上り坂の街道沿いにはずらりと茶屋が並んでいる。店の前には客引きの女たちが並び、通行人を盛んに呼び止めており、手を引かれた旅人とのやり取りには活気が感じられる。手前には六部と呼ばれた巡礼者の姿が見え、目の前の光景をよそに静かに歩を進めている。茶屋の海側には露台が設けてあり、茶屋に入った者だけがその絶景を味わえたことも窺える。

東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋

現在の神奈川県横浜市保土ヶ谷区にあたる。夕刻の新町橋(帷子橋とも呼ばれた)の景色。橋の下を流れるのは帷子川である。橋の向こうに保土ヶ谷宿が見え、街道沿いに店が軒を連ねている。一番手前には「二八」の看板を掲げたそば屋があり、客引きの姿も見える。大名行列と思われる男たちの一行、橋を渡ろうとする虚無僧や武士を乗せた駕籠の姿からはこの宿場の活気が伝わってくる。店の裏手には対照的にのどかな田園風景が広がる。

東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道

現在の神奈川県横浜市戸塚区にあたる。橋のたもとには「左かまくら道」との道標が立っている。橋を渡り左へ曲がると鎌倉へ向かう別道があった。「こめや」と書かれた大きな看板を掲げる旅籠が見える。軒先には「大山講中」や「月参講中」など様々な神仏参詣の団体の名前が掛けられており、ここがこれら講中の指定休憩所だったことが分かる。旅人がまさに旅籠に到着した場面。不器用そうに馬から飛び降りる仕草は滑稽味を帯びている。

東海道五拾三次之内 藤沢 遊行寺

現在の神奈川県藤沢市にあたる。手前を流れる川は境川、架かる橋は遊行寺橋と見られる。奥の山中にひっそりと佇む遊行寺と、その門前町として栄えた藤沢宿の様子が描かれる。眼前に鳥居を置いた構図は斬新で、広重特有の感性を垣間みることができる。この鳥居は江の島弁財天のもので、江の島を目指す4人の座頭が今まさに通り抜けようとしている。広重はこの鳥居をよほど気に入ったのか、別のシリーズでも違う角度から描いている。

東海道五拾三次之内 平塚 縄手道

現在の神奈川県平塚市にあたる。遠景に見えるまん丸い形をした山は高麗山で、その後ろには小さく富士の姿が見える。縄手道とは畦道のことで、ここでは奥に向かって「く」の字に表現され、画面に奥行きをもたらす効果を生んでいる。中央には道沿いに立つ樹木の合間を上半身裸の状態で先を急ぐ早飛脚と、空になった駕籠を担ぎ、帰路につく駕籠かきが描かれる。街道脇に立つ平塚宿との境を示す榜示杭が、一種のアクセントとなっている。

東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨

現在の神奈川県中郡大磯町あたり。右側に見える山は高麗山。この山には『曽我物語』の曽我十郎と恋仲であった虎御前ゆかりの草庵があったとされる。「虎ヶ雨」とは虎御前が十郎を偲び流した涙を指し、十郎が討死した陰暦5月28日に降る雨のことをいう。構図をみると、左右に立て分け、左側に遠く臨む静かな海を描いたのに対して、右側に立ち並ぶ宿場町の店の重なり、折れ曲がった樹木などを巧みに描き入れ、画面の均衡を保っている。

東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川

現在の神奈川県小田原市にあたる。遠景の様々な色彩と形で構成された山の表現が斬新に映る。山のふもとには小さく小田原城とその城下の町並みが描かれている。手前を横切る酒匂川は幕府の政策により架橋や渡船が禁止され、川越し人足による徒渡しによって渡る方法しかなかった。ここではふんどし姿となった人足の肩車を使って渡る者や、複数の人足が担ぐ輦台(川を渡すための台)で渡る者など、様々な徒渡しの様子が描かれている。

東海道五拾三次之内 箱根 湖水図

現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあたる。主役の富士を凌駕するように極端に競り立った山が画面中央に描かれ、対照的に白く雪化粧した富士が遠景にひっそり佇んでいる。山間を抜ける細く急勾配な坂道を下る大名行列の姿は「天下の嶮、千尋の谷」と謳われた箱根の峠越えの厳しさを物語っているかのよう。モザイク画を思わせる多彩な山の岩肌の表現と連なる大名行列の動きが画面にリズムをもたらし、観る者の好奇心を満たしてくれる。

東海道五拾三次之内 三島 朝霧

現在の静岡県三島市にあたる。早朝に宿を発つ旅人に光をあて、朝霧が立ちこめる情景を描き出している。奥に見える鳥居は三島明神(現在の三島大社)のもの。手前の駕篭の一行は三島から箱根方面へ、左側の3人の人影は沼津方面へと向かっている。背景描写には、あえて輪郭線を用いず、シルエットのみを捉えて描くことで、霧による湿潤な空気感、駕篭の一行を取り巻く空間の広がり、夜明け前の静寂さまでもが見事に表現されている。

東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図

現在の静岡県沼津市にあたる。街道沿いを流れる狩野川に沿って橋を渡った向こうは沼津宿である。本図で注目すべきは中央の男が背負う大きな天狗の面であろう。この男は讃岐の金毘羅参りへの途上で、天狗の面は金毘羅大権現への奉納品とみられる。その前を行く2人連れは比丘尼とその従者。手には布施を受けるための柄杓を持っている。夕闇が迫る黄昏の時間帯。宿場へと急ぐ人々を、皓々と照った月の光がやさしく包み込んでいる。

東海道五拾三次之内 原 朝之富士

現在の静岡県沼津市にあたる。母娘であろうか、2人の女性とお供の男性。その背後には、朝焼けをバックに雪を被る雄大な富士がそびえており、女性たちはその偉容に思わず足を止めている。富士の頂が画面をはみ出すように描かれた斬新な構図には、すでに人気を博していた葛飾北斎の《冨嶽三十六景》シリーズへの対抗心のようなものを感じとることができる。田畑に戯れる2羽の鶴が峻厳な富士の姿を和らげるアクセントにもなっている。

東海道五拾三次之内 吉原 左富士

現在の静岡県富士市にあたる。元吉原から吉原へ、田んぼの中を曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ、皆に親しまれた名所であった。馬に乗る3人の子どものうち、左の2人は眼前に見えてきた富士に気づき、夢中に見つめているが、右端の子どもは居眠りしているのか、頭を右にがっくりと垂れている。松の並木が迫り来るようなリズムを作り出し、画面に何ともいえない臨場感を与えている。

東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪

現在の静岡県静岡市清水区にあたる。深々と降りしきる雪の中、夜道を3人の人物が慎重に足を運んでいる。彼らが被る笠や蓑にもうっすら雪が積もり始めている。人物以外を白と黒で描き、静寂に包まれる雪の夜の心細さを表現するとともに、黄と青に着色した人物を配置して全体に効果的な対比を創出している。舞台となった蒲原付近は元々雪深い地域ではないが、揃物のバリエーションの一つとして雪景の設定で描かれたものと考えられる。

東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺

現在の静岡県静岡市清水区にあたる。薩埵峠は峠に入る前の波打ち際で荒波にさらわれる旅人も多く、「親知らず子知らず」と呼ばれ、東海道の難所の一つとして知られていた。海に面した切り立つ峠を越える際、突然背後に現われる富士の姿に旅人は感動したという。駿河湾越しに見える富士が美しく、急勾配な峠の輪郭とそこに生えた松のフォルムが共鳴するかのように配される。海上に浮かぶ船の四角い帆も画面に一定のリズムを与えている。

東海道五拾三次之内 奥津 興津川

現在の静岡県静岡市清水区にあたる。奥に見える白浜に青松の景色は三保の松原である。その先には船の四角い白い帆が浮かぶ。興津川を渡るのは2人の力士たち。一方は人足が4人掛かりで担ぐ駕籠に乗り、もう一方は馬に乗る。江戸時代、相撲は勧進相撲と呼ばれ、寺社奉行の許可のもとで社寺への寄進や修復費用を賄う目的で開催された。力士の重さに手を焼く人足と馬の姿と、意気揚々とした力士の姿がほのぼのとした滑稽味を感じさせる。

東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望

現在の静岡県静岡市清水区にあたる。江尻は現在の清水港。中央には有名な三保の松原が見え、遠方には愛鷹山がごつごつとした山並みが見える。おそらく愛鷹山の左側には富士も見られたに違いない。春の陽光が海に燦々と降り注ぎ、海面がキラキラと輝いている。本来であれば愛鷹山の先には伊豆半島が続くはずだが、ここでは大幅に省略され、水平線まで見渡すことができ、大小無数の帆船も相まって開放感にあふれた構図となっている。

東海道五拾三次之内 府中 安部川

現在の静岡県静岡市葵区にあたる。安部川の徒渡しの様子が描かれる。3人の女性がおり、駕籠のまま渡る者、蓮台に乗って渡る者、人足に背負われて渡る者と各々の渡り方で渡る姿が見える。女性陣の後には肩車で渡る男性も続いている。向こう岸からは2組の男たちが渡ってきており、一方は馬に荷物を載せて引く2人の人足とその荷を支える馬子、一方は歩いて川を渡る客とそれを導く人足たちである。当時の川越えの苦労が伝わってくる。

東海道五拾三次之内 丸子 名物茶店

現在の静岡県静岡市駿河区にあたる。松尾芭蕉の句に「梅 若菜 丸子の宿のとろろ汁」と詠われた丸子宿の情景。茶店には「名ぶつとろろ汁」との看板が立てかけられ、床几に腰を掛けた旅人が大きな口を開けて、名物のとろろ汁を美味そうに頬張っている。「お茶漬け」「酒さかな」の看板も掲げられ、店内には巻き藁に刺さった魚や干し柿も見える。背景のこんもりとした山は横田山である。本図の後摺りでは「丸子」が「鞠子」と改変される。

東海道五拾三次之内 岡部 宇津之山

現在の静岡県藤枝市にあたる。画面左右から迫ってくる山の斜面の間を通る宇津之谷峠を農夫たちが行き交う。この峠道は桃山時代に豊臣秀吉が整備し、後に街道として利用されるようになったという。道の脇には作られた水路を勢いよく流れる岡部川が描かれている。向こうから歩いてくる3人の中の奥の人物を上半身のみ描き、3人が急な峠を登ってきた様子を巧みに描写している。右側の山中に『伊勢物語』で有名な「蔦の細道」がある。

東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立

現在の静岡県藤枝市にあたる。「人馬継立」とは運ばれる荷物の人足と馬が交代することをいい、本図はその様子が描かれている。右上の問屋場の役人が見守るなか、荷物の引き継ぎ作業が行われ、汗をふき、休みをとる者や荷物を積み直す者など、思い思いの姿が見られる。当時の風情を知れる興味深い図案である。人足が担ぐ荷物に立てられた名札には、版元の「保永堂」、馬のお腹には版元の主人、竹内孫八にちなむ「竹内」の文字が見える。

東海道五拾三次之内 嶋田 大井川駿岸

現在の静岡県島田市にあたる。松尾芭蕉の歌にも「五月雨の雲吹きおとせ大井川」とあるように、大井川の川渡しは東海道中最大の難所で、梅雨の時期に増水した際には嶋田宿に足止めされることも多々あったという。広重はその川渡しの様子を、実際にはありえない、かなり高い視点から俯瞰して描いている。大井川駿岸とは駿州、嶋田宿側の岸という意味。大名行列の一行が人と荷物とに別れながら、次々と川を渡す様子が賑やかに描かれている。

東海道五拾三次之内 金谷 大井川遠岸

現在の静岡県島田市にあたる。大井川の遠州金谷宿側の岸の様子。川を渡る一行は小さく描かれるが、客人や人足一人一人の動きの細部まで描写されているのに驚く。渡り終えた人足たちの中には疲れ果てて寝転ぶ者までおり、当時の徒渡しの苦労が伝わってくる。同シリーズの「大井川駿岸」とともに大井川越えを題材とした図であるが、本図では遠景にごつごつとした山々やさらに遠くの山をシルエットで表すなど、河原のみを捉えた「大井川駿岸」の構図との描き分けを意識している。山の中腹に見える集落が金谷宿である。

東海道五拾三次之内 日坂 佐夜ノ中山

現在の静岡県掛川市にあたる。西行法師が新古今集で「年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山」と詠ったことで知られる。その急勾配の坂は東海道の難所の一つであった。坂下の石は、金谷宿の夫を訪ねる途中に山賊に殺された妊婦の霊が乗り移ったとされ、夜中に泣き声が聞こえてくるとの謂れから「夜泣石」と呼ばれた。後に妊婦の赤子は村人に助けられ、飴で育てられたといい、以来「子育て飴」はこの地の名物になった。

東海道五拾三次之内 掛川 秋葉山遠望

現在の静岡県掛川市にあたる。掛川宿のはずれ、二瀬川に架かる大池橋の様子が描かれる。橋の向こう側から渡ってくる僧侶に老夫婦が頭を下げ、後ろの童子は空の凧に夢中になりおどけている。遠景には、火伏の神である秋葉権現が祀られている秋葉山が見え、手前にはその秋葉権現の常夜燈が立っている。上空には丸凧が2つ見えるが、一方は糸が切れてしまったのか、空を浮遊し、もう一方は画面をはみ出るほど高々と舞い上がっている。

東海道五拾三次之内 袋井 出茶屋ノ図

現在の静岡県袋井市にあたる。「出茶屋」は葦簀などを使った簡易な作りの茶屋で、道端で旅人が休憩できる憩いの場であった。身をかがめ、石を組み合わせたかまどで火を起こしているのが、この店の主人。木の枝から吊るされた薬缶で湯を沸かしている。使い込まれた薬缶は底が墨で真っ黒になっている。主人の左側には、駕籠かきの一人がかまどから火を貰って一服しようとしている。左側の縁台で腰掛けて休んでいるのは飛脚であろう。

東海道五拾三次之内 見附 天竜川図

現在の静岡県磐田市にあたる。天竜川の渡舟の様子が描かれている。天竜川の水は川瀬を2つに分け、東を大天竜、西を小天竜と呼んだ。画面手前が小天竜、奥が大天竜である。朝のまだ早い時間帯であろうか。遠景にはぼかしの技法を使い、朝霧にむせぶ天竜川の叙情をよく表現している。中州の向こうでは大名行列が何艘かの舟に乗り分けて、大天竜を渡り始めている。手前では渡舟を終えた船頭たちが一息つきながらその様子を眺めている。

東海道五拾三次之内 濱松 冬枯ノ図

現在の静岡県浜松市中区にあたる。街道脇の大きな杉の木の根元で、焚火をしながら暖をとる旅人たち。焚火から立ちのぼる煙が黒から白へ変化している様子も良く捉えている。刈入れの終わった田んぼに立て札の立つ松林があるが、これは「颯々松」と呼ばれた旧跡で、その昔、将軍足利義教が松の下で酒宴を催した際に「浜松の音はざざんざ」と謡ったことで有名になったという。右奥に見えるのが浜松の宿場で浜松城の天守閣も見える。

東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景

現在の静岡県浜松市にあたる。古来、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、室町時代の大地震により湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となった。その決壊した場所を「今切れた」との意味で「今切」と呼ぶようになり、「今切の渡し」と呼ばれた渡し船が行き交うようになった。手前の並んだ杭は波除杭で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたもの。この位置からも遠く富士を臨むことができる。

東海道五拾三次之内 荒井 渡舟ノ図

現在の静岡県湖西市にあたる。舞坂の渡し船「今切の渡し」を描いたもの。先を行く幔幕が張られた船は大名行列の一行を乗せた御座船である。時刻は夕刻頃と見られ、西の空が暮れようとしている。後続の舟には中間と呼ばれるお供たちが欠伸をしたり、身体を丸めて寝入る姿が見える。舟が向かう先に見えるのは新居の関所。この関所は幕府の直轄下にあり、取り調べが特に厳しいことで知られ、船着き場はこの関所の中に置かれていた。

東海道五拾三次之内 白須賀 汐見阪図

現在の静岡県湖西市にあたる。白須賀宿への道中、汐見坂からは遠州灘の絶景が臨まれた。手前の下半分を半円状にくり抜いたように丘陵を描き、その奥の坂道を大名行列の一行が列をなして進む。遠景には真一文字に水平線が引かれ、海上には大名行列と呼応するかのように舟が浮かぶ。行列の一行が担ぐ荷物の中の赤い2つの狭箱には、広重の「ヒロ」を表す紋様があしらわれており、こうしたさりげないところに広重の遊び心が垣間見える。

東海道五拾三次之内 二川 猿ヶ馬場

現在の愛知県豊橋市にあたる。猿ヶ馬場周辺は姫小松の景勝の地として知られ、奥まで見渡せるなだらかな平原にはこの姫小松が無数に繁茂しているのが見える。茶店の看板には「名物かしは餅」とあるように、この辺の名物はかしわ餅であった。道を行く3人の女性は、瞽女と呼ばれた盲目の女性たちで、彼女らは諸国を廻りながら三味線や琵琶を弾いて「瞽女唄」を披露して生計を立てていた。よく見ると3人とも各々楽器を持ち運んでいる。

東海道五拾三次之内 吉田 豊川橋

現在の愛知県豊橋市にあたる。眼下の豊川に架かる豊川橋は長さ200メートルにおよび、吉田大橋とも呼ばれた。画面右に配されるのは吉田城の天守閣であ、城には升目状に足場が組まれ、左官職人が壁の補修を行っている。上に目をやると場違いにも鳶職人が一人、遠くの景色を楽しんでいる。題材を手前に配置し、奥の景色と対比させる手法は、広重が得意とするものだが、ここでも画面に遠近感と興趣をもたらす絶妙な効果を生んでいる。

東海道五拾三次之内 御油 旅人留女

現在の愛知県豊川市にあたる。御油の宿では日暮れになると「留女」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きが盛んで、画中のような光景も大げさではなかった。『東海道中膝栗毛』には「両がはより出くる留女、いずれもめんをかぶりたるごとくぬりたてるが…」とあるが、その情景そのままの図といえる。手前の男は風呂敷を引っ張られ苦しむ顔がいかにも滑稽で、後ろの男も袖を引っ張られ困惑している様子が窺える。画面右の旅籠の中の様子も面白く、留女に観念したのか、草鞋を脱ぐ旅客に足洗い用の盥を差し出す老女も見える。

東海道五拾三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図

現在の愛知県豊川市にあたる。旅籠屋の室内を上から覗き込むような構図。左側の部屋では横たわり煙管をふかす男性のもとへ女中が2膳分の食事を運び入れ、その横では按摩師が懸命に客を口説いている。右側の部屋には飯盛女と呼ばれる招婦たちが念入りに化粧を施している。奥の階段にも下りてくる人の姿が見え、こうした人々の動きからこの旅籠屋の活況が伝わってくる。中庭に配置された蘇鉄と石灯籠も本図に一つの興趣を添えている。

東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図

現在の愛知県岡崎市にあたる。街道と宿場の境界には棒示杭が立てられており、棒鼻とは宿場の出入口のこと。本図では「八朔御馬進献」の行列を宿場の役人が入口まで出迎える様子が描かれる。八朔とは8月1日。幕府はこの日、朝廷に御馬を献上することを重要な儀式としていた。行列の中の御幣を立てた馬が献上される御馬である。広重はこの「八朔御馬進献」に同行し、それが《東海道五拾三次》シリーズにつながったともいわれている。

東海道五拾三次之内 岡崎 矢矧之橋

現在の愛知県岡崎市にあたる。眼前を流れる矢矧川に架けられた矢作橋は、幕府によって架けられた東海道随一の大橋であった。東海道の名所をまとめた書籍である『東海道名所図会』には「長さ二百八間(約370メートル)…東海第一の長橋なり」とある。広重はこの大橋に大名行列の一行をずらりと並ばせることで、その長さをより一層強調したかったのであろう。対岸に姿を見せているのが、徳川家康が生誕したとされる岡崎城の天守閣である。

東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市

現在の愛知県知立市にあたる。首夏、すなわち夏の初めの馬市の様子を描いている。ここでは毎年4月の末から5月の頭にかけて馬市が開かれていた。野原に立つ杭に多くの馬がつながれており、今まさに馬を連れてきた者の姿も見える。中央の一本松の下では馬喰と呼ばれる馬の仲買人による取引が行われており、そのため、この松は談合松と呼ばれた。様々なポーズをした馬の姿、風になびく草原の描写は動きに満ち、観る者を飽きさせない。

東海道五拾三次之内 鳴海 名物有松絞

現在の愛知県名古屋市緑区にあたる。鳴海の名物であり地場産業でもあった有松絞りに因んだ図。街道沿いに建つ2軒の店はいずれも有松絞りを商う店である。2階建ての立派な蔵造りの店構えはこの村がいかに有松絞りで潤っていたかを窺わせる。手前の店を見ると客人が腰をかけ店主と何やら話にふけっており、暖簾には広重の「ヒロ」の組み合わせた家紋があしらわれている。2組の旅人たちはこうした店には目もくれず歩みを進めている。

東海道五拾三次之内 宮 熱田神事

現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。宮とは熱田神宮のこと。ここでは毎年5月5日に馬の塔といわれる、近郊の村々から馬を奉納するという神事が行われていた。本図では、裸馬に荒薦を巻き、人々が伴走しながら献馬する、俄馬の場面を描いている。奥の藍染めの半纏を着た一群と手前の赤い有松絞の半纏を着た一群が競り合う迫真のシーン。人馬が通り過ぎるスピード感を強調するように、鳥居の左側部分だけが画面の中に収まっている。

東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口

現在の三重県桑名市にあたる。宮から桑名までは海路で7里(約28キロメートル)の距離があり、そこを渡す船は「七里の渡し」と呼ばれた。海に大きく突き出た城は桑名城である。2艘の船は帆を降ろし、右下に見える陸地へ今まさに着岸せんとしている。船の帆柱の縦のラインと水平線および城の石垣による横のラインを軸に、手前に波に揺れ動く船、奥に整然とした海と堅牢な城を配して、全体的に調和のとれた構図が作り上げられている。

東海道五拾三次之内 四日市 三重川

現在の三重県四日市市にあたる。三重川は現在の三滝川とみられ、左奥の集落の向こうに立つ帆柱からこの辺りがその河口付近であることが分かる。まず目に飛び込んでくるのは、風に激しく煽られる柳とその根元で風に翻弄される男の姿であろう。吹き飛ばされた笠をあわてて追いかける仕草と表情は何ともユーモラスである。画面右にも強風の中、慎重に歩を進める旅人の姿が見える。広重の作の中でも風の動きを着眼した珍しい作品といえる。

東海道五拾三次之内 石薬師 石薬師寺

現在の三重県鈴鹿市にあたる。遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな山容と色彩が美しい。山のふもとに見えるのが石薬師寺である。田んぼの畔道を突き当たると寺の立派な山門があり、その右手に宿場が広がっている。田んぼではすでに稲刈りが終わっており、周囲の木々が色づいていることからして、季節は晩秋から初冬あたりと思われる。時間帯は夕暮れであろうか、山里にはひと仕事終えたようなのんびりとした時間が流れている。

東海道五拾三次之内 庄野 白雨

現在の三重県鈴鹿市にあたる。本シリーズの白眉の一枚。「白雨」とは夕立のこと。手前に置かれた急勾配の坂を必死に駆け登る駕籠かきと、転がり落ちるように下る旅人と農夫が描かれる。坂と直角に交差して降り注ぐ雨脚の描写、どす黒い雨雲を思わせる空のぼかし、雨の飛沫に煙る竹林の濃淡のシルエット、全てが激しい夕立の場面を見事に演出している。旅人の番傘に版元を示す「竹のうち」や「五十三次」とデザインされているのも面白い。

東海道五拾三次之内 亀山 雪晴

現在の三重県亀山市にあたる。《蒲原 夜之雪》に次ぐ雪景の代表作。斜めに画面を二分する大胆な構図がとられ、画面の左側には、朝焼けに染まる中、塵一つない冬の朝の澄んだ空気が見事に表現されている。右側上方には亀山宿の入口で、崖の上に築かれた京口門が姿を見せ、そこを目指し、極端な勾配を登る大名行列が描かれる。白と黒のモノトーンで描かれた雪景色のなか、空と行列をなす人々に施された彩色が画面に生気を与えている。

東海道五拾三次之内 関 本陣早立

現在の三重県亀山市にあたる。鈴鹿の関は、畿内にある逢坂の関、不破の関と並んで三関といわれた。本陣とは参勤交代の大名が宿場で宿泊するところをいう。本陣には宿場の有力者の家があてられた。本図はその本陣を早朝に出発する様子を描いている。支度をする駕籠かきの表情が豊かで、手前の立て札の画面をはみ出す仕掛けも面白い。陣幕には定紋が張り巡らされているが、これは広重の実家、田中家の文字を組み合わせたものである。

東海道五拾三次之内 阪之下 筆捨嶺

現在の三重県亀山市にあたる。画面左に見えるのは岩根山で奇岩や松、滝などで知られていた。山肌には流れ出す2条の滝が見える。室町時代、狩野元信がこの山を描こうとしたが描き切れず、山間に筆を捨てたという謂れから筆捨山と呼ばれている。山と街道の間の窪みには鈴鹿川が流れているとみられる。街道沿いは茶店があり、山の見物に勤しむ客で賑わっている。遠景のなだらかな山のシルエットが筆捨山の奇抜さをより際立たせている。

東海道五拾三次之内 土山 春之雨

現在の滋賀県甲賀市にあたる。京都から江戸を目指すと最初の大きな峠が鈴鹿峠であった。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる」と馬子唄に詠われた土山は、雨の多い場所として知られ、画面右側に描かれた田村川の激しい水流は、そのことを物語っている。《庄野 白雨》のそれとは違い、雨を表す線が無数に交差し、雨足の強さを強調している。降りしきる雨の中、田村川に架かった橋を大名行列の一行が静かに渡り始めている。

東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢

現在の滋賀県甲賀市にあたる。水口の名物である干瓢作りの模様が描かれる。干瓢は夕顔の実の果肉を細く剥き、天日に干して作られる。左側には筵の上に座り一心不乱に包丁を入れる女性の姿が見える。奥の赤子を背負う娘は次に切る夕顔を持ち、手前の娘は細く剥かれた夕顔の実を丁寧に干している。右奥にも立てられた葦簀に夕顔の実を干す女性がおり、こうした女性たちの勤勉な姿から山村のほのぼのとした日常を垣間みることができる。

東海道五拾三次之内 石部 目川ノ里

現在の滋賀県湖南市にあたる。宿場と宿場の間にある休憩所を立場と呼び、そこには名物を出す店があった。本図にも立場の茶屋の様子が描かれ、店の暖簾には「いせや」の文字が見える。『東海道名所図会』には目川にある青菜を炊き込んだ菜飯と田楽豆腐が名物の「伊勢屋」が紹介されており、広重はそれをそのまま取り上げている。店には活気があり、前を通る一行の中の一人の男性が、前を行く女性を呼び止める姿がいかにも滑稽である。

東海道五拾三次之内 草津 名物立場

現在の滋賀県草津市にあたる。草津は東海道と中山道の分岐点にあたり、交通の要所として賑わっていた。ここには名物の「姥が餅」を食べさせる「うばがもちや」があり、この茶屋は旅人の格好の休み処として古くから知られていた。茶屋の店内には、この餅をこねる人、運ぶ人、待つ人、食す人などさまざまな人間模様が描かれている。茶屋の前を横切る道がまさに東海道で、早駕籠と荷物担ぎが休む間もなく往来する様が窺える。

東海道五拾三次之内 大津 走井茶店

現在の滋賀県大津市にあたる。大津宿と京都との山間に走井の里があった。「走井」とは勢いよく湧き出る井戸との意で、ここは良質な水の水量豊かな場所であった。茶店の軒端には湧き出る走井が描かれるが、この水で作られた走井餅は土産物として人気があった。街道には米俵や薪を積んだ牛車がリズミカルに3台並んで下りてくる。遠景に見える山は逢坂山。逢坂山は絶えず湧き水で道がぬかるみ、牛車での運搬には苦労したという。

東海道五拾三次之内 京師 三条大橋

現在の京都市東山区にあたる。江戸の日本橋を起点に始まった《東海道五拾三次》も京の玄関口といわれた三条大橋が終着点である。鴨川に架かる三条大橋。川向こうには京都の町並みが広がり、その背後には東山三十六峰が見える。本図で三条大橋の橋桁は木組みで描かれるが、実際は石製の橋杭だったという。橋上は駕籠持ちや飛脚、茶筅売り、被衣姿の女性、見物客など多種多様な人々で賑わい、古来より栄えてきた京都の活気を思わせる。

第3章 近代の風景Ⅰ 川瀬巴水(1883-1957)

「私の仕事は御同好の皆様の目の玉の代表となり御鑑賞の全権となつていゝ風景よい情景を写生し版画に製作し其場所に時も日も天候も同じに皆様を立たして御見せしたと同様になればそれでいゝので、筆者の満足此上なしです。」(「版画の漫談」より)


川瀬巴水は、「何が好きかと聞かれましたら即座に旅行!と答へます」という程の旅好きで、画家仲間からは「旅情詩人」と呼ばれていました。


1883年、東京に生まれた川瀬巴水は、25歳で画家の道に進み、洋画家、岡田三郎助の門下を経て、27歳で日本画家、鏑木清方門下となりました。1918年、若き版元、渡邊庄三郎との出会いが、風景版画に取り組む契機となります。浮世絵の伝統的な技法を継承しつつも、新しい時代に相応しい版画、「新版画」の創作を目指していた渡邊庄三郎とタッグを組んだ巴水は、欧米人にも魅力的な、新たな日本の風景版画を生み出したのです。近年では、アップルの創業者スティーブ・ジョブズが巴水の版画を好んで蒐集していたことが話題になりました。


「昭和の広重」とも呼ばれた巴水ですが、広重が各地の名所風景を描いたのに対して、巴水は興の赴くままに、訪れた土地の何気ない日常の情景を、まるで詩人が歌を詠むように、詩情溢れる風景として描き出しました。巴水は自身の版画について、広重よりも、明治の小林清親や西洋の挿絵画家に影響を受けたとも語っていますが、日本画と洋画から学びつつも、写生を基にした巴水独自の魅力的な表現を生み出したのです。

出雲松江(曇り日)(「旅みやげ第三集」より)

大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で被災した巴水は、それまで描き貯めてきた190冊近くともいわれる写生帖や家財を焼失してしまう。そんな失意の巴水を励まし、再び絵筆を握らせ、日本全国を巡る写生の旅に送り出したのは、自らも被災していた版元の渡邊庄三郎だった。この写生旅行は102日間に及び、以後の巴水の画風の転機ともなった。「旅みやげ第三集」は、写生旅行の成果を発表した最初のシリーズともなった。画風は震災前と比べてより写実的になり、全体的に明るく鮮やかな色調へと変化して行く。ここに描かれている松江は、宍道湖の東岸にある松江城の城下町で、堀を中心に街中を水路が縦横に走り、水の都とも呼ばれている。巴水はこの年の12月に松江を訪れ、同じ構図で「曇り日」「おぼろ月」「三日月」と題した3つの作品を制作した。ここでは、冬の曇り空を背景に、印象的な土蔵の白壁が描き出されている。建ち並ぶ白壁が、緩やかに流れる川面に反射して美しい。

長崎金屋町(「日本風景選集」より)

大正11年(1922)年の春、巴水は次回作の取材のために九州方面へ旅行し、そこから広島、岡山、神戸、大阪、京都と巡る大旅行を敢行した。この旅行の成果として出版されたのが「日本風景選集」のシリーズで、全36図で完結という大作となった。しかしこのシリーズの32図目を制作後、関東大震災の発生により、版元である渡邊版画店は焼失し、巴水もこれまでの画業の成果である写生帖を全て失ってしまい、刊行は中断される。その後、巴水の102日間に及ぶ写生旅行を経て、その新たなスケッチをもとに、このシリーズは、大正15年(1926)に完結した。この作品は震災前に刊行された1点で、坂の町・長崎の石畳が象徴的に描かれている。その手前には、桜であろうか、花の枝を担いだ女性が、画面に華やかな雰囲気を与えている。

浜町河岸

大森海岸(「東京二十景」より)

巴水は、大正13年(1924)から昭和5年(1930)にかけて、関東大震災から復興を遂げる東京の風景を、20図の連作として描いた。この「東京二十景」シリーズからは、巴水の代表作となる《芝増上寺》や《馬込の月》が生まれている。大森海岸は江戸時代から昭和初期にかけて、海苔養殖で質・量ともに日本一の生産量を誇り、ここで生産された海苔は、将軍家に献上される最上級品として、「御膳海苔」とも呼ばれていた。海苔の養殖は大森で始まり、その後江戸時代後期に有明海や瀬戸内海に広がっていった。大森の海苔養殖は、昭和30年代からの港湾開発によって終わりを迎えたが、現在でも多くの海苔問屋や加工業者が残り、海苔の街としての姿を留めている。本作には、当時の大森の海苔養殖を物語るように、護岸には、海苔養殖に使用する海苔篊(のりひび)(海苔を付着させるための竹や木の枝)が積み上げられ、岸辺にはベカ船と呼ばれる海苔採取用の小舟が繋留されている。この絵はもともと霧雨が降る夕方の情景を想定して制作されたが、その後、雨の効果を試行錯誤する中で、最終的に霧雨は採用されなかった。その名残として、雨は降っていないが、桟橋には傘をさす人物が残されて、この絵のアクセントとなっている。透明な藍色を幾度も摺り重ねることで、宵の浜辺の清澄な空気感が見事に表現されている。

雨の牛堀

尾州半田新川端

風景版画での名声が確立するにつれ、巴水は歌川広重と比較されるようになり、「広重の再来」「昭和の広重」などと称されるようになる。ただ巴水自身は、それを必ずしも名誉とは考えておらず、むしろ広重との違いを主張していた。やがて巴水は、広重の「東海道五拾三次」を意識するように、昭和6年(1931)「東海道風景選集」シリーズに着手する。広重が東海道の賑やかな宿場町を描いたのに対し、巴水は東海道を独自の視点で捉え直し、心地よさを与えてくれる場所を選んで描き出したのである。半田は愛知県南部、知多半島の東岸に位置する。知多湾に面する天然の良港として、江戸時代から海運業で栄え、酒や酢、醤油などの醸造業も盛んであった。そのため街中を通る運河沿いには、黒板囲いの蔵が建ち並んでいた。しんしんと雪が降る運河沿いの道を、傘を差した人物が犬を連れて歩いている。白を基調とした雪景色の中に、人物と犬の黒いシルエットが浮かび上がり、印象的な画面となっている。

駿河由比町(「東海道風景選集」より)

「駿河由比町」は、昭和6年(1931)から同22年(1947)にかけて制作された「東海道風景選集」シリーズ26枚のうちの一枚。由比は現在の静岡市清水区に位置する。本図に描かれているのは、東海道五十三次の16番目の宿場として知られる由比宿である。街道沿いに立ち並ぶ家屋には、江戸時代の宿場町の面影が感じられる。遠景には赤く染まり始めた空を背景に、雪化粧の富士山が堂々とした姿で描き出されている。この由比宿から次の興津宿へ向かう道中の薩埵峠(さったとうげ)は、東海道最大の難所の一つであるとともに、富士を眺める絶景スポットとしても知られている。由比を描いた作品としては、歌川広重の「東海道五拾三次」が知られるが、広重は由比を描く際に険しい薩埵峠からの富士の眺望をモチーフとした。巴水は、本図で由比を描くにあたって、有名な薩埵峠ではなく、由比の宿場町の風景を選択した。富士を背景にした情趣ある町並みが清澄な空気とともに巧みに表現されており、「旅情詩人」と呼ばれた巴水らしさが画面に溢れている。

元吉原之朝(「東海道風景選集」より)

「元吉原之朝」は、昭和6年(1931)から同22年(1947)にかけて制作された「東海道風景選集」シリーズ26枚のうちの一枚。元吉原は現在の富士市南西部の海沿いに位置する場所で、もともと東海道の吉原宿はこの地にあったが江戸時代に高潮の影響を避けて内陸部に移動したため、もともと吉原宿があったこの地は元吉原と呼ばれるようになった。本図では、視点をやや高い位置に取ることによって、元吉原の家々に視線を遮られずに、白雪をかぶる堂々たる富士山を描き出している。眼前の家並みを強い線で描き出す一方で、遠景の富士は薄く淡い色調で表現することによって、画面に遠近感を生み出すとともに、霊峰富士の神々しさを見事に表現している。

馬込の月(「東京二十景」より)

昭和5年(1930)、巴水は馬込町(現在の大田区南馬込)に洋館を新築して移り住んだ。この一帯は江戸時代までは郊外の農村地帯だったが、明治9年(1876)に大森駅が開通したことから、別荘地としての開発が進み、多くの文士、芸術家が移り住み、「馬込文士村」とも呼ばれていた。煌々と輝く満月を背景に、三本の松が美しいシルエットを形作っている。農家の窓からもれる灯りが、夜の帳が下りた田園風景に、人の温もりを添えてくれる。ここに描かれた三本松は馬込のランドマークとして親しまれていた松の木で、昭和初期に失われてしまったが、現在も「三本松塚」や「三本松」バス停、「三本松交番」などにその名を留めている。この絵は、巴水の作品の中でも《芝増上寺》に次ぐ人気を誇り、巴水の代表作の一点として知られている。

土浦の朝

森ヶ崎の夕陽

春の嵐山(「日本風景集Ⅱ 関西篇」より)

嵐山は京都の西部に位置し、桜や紅葉の名所として、平安時代より風光明媚な景勝地として天皇や貴族から愛され、多くの絵画や詩歌の題材とされてきた。嵐山を流れる桂川(流域によって「保津川」「大堰川(おおいがわ)」とその名称を変える)は、江戸時代より丹波から山城までの物資を運ぶ重要なルートとして高瀬舟が行き交った。明治以降、鉄道の普及によって水運は衰退したが、庶民のレジャーが普及したことによって、美しい景観を利用した川下りで賑わうようになる。この作品では、数本のアカマツが画面の上下を大胆に貫き、その隙間から、桂川の穏やかな流れと対岸の新緑を望む。観光客を乗せた舟が川面を静かに下っていく様子が、ゆったりとした時の流れを感じさせ、都会の喧騒を忘れさせてくれる。松の間に配された桜の若木が美しく咲き誇り、画面に彩りを添えている。

富士川

静岡県富士市西部を流れる富士川河岸から眺めた富士山が描かれている。現在の富士川サービスエリアあたりであろう。画面手前には、柔らかい光を反射しながら悠然と流れる富士川が、そして画面奥には堂々とした富士の泰然自若とした姿が描き出されている。中景の左側から延びる緑の丘は梅や桜の名所として有名な岩本山で、山頂には雄大な富士を眼前に仰ぐことができる岩本山公園がある。この「富士川」には2種類の擦りがあり、本図とは別のバージョンでは、雲を従え、赤く照らされた富士の姿が描かれる。印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)が《積みわら》や《ルーアン大聖堂》で試みたように、巴水はたびたび、全く同じモチーフと構図で、いくつかの色や版木を変更することによって、移ろいゆく時間の経過を、異なる大気、異なる光の効果によって連作として描き出したのである。

飛騨釜ヶ嶽

伊豆湯ヶ島

鳴澤之富士

浮島柳縄(茨城県)

天草より見たる雲仙

巴水は、大正11年(1922)に行った九州旅行の成果を、「日本風景選集」として出版し、《天草より見たる温泉ケ嶽》(大正11年)という作品を発表した。この天草の風景は、巴水の心に印象深く残ったのだろう。本作は15年後の昭和12年(1937)に、その作品をもとに、雲仙の眺望をよりクローズアップして再制作したものである。荷を背にした馬と馬子が、交互に編み込まれた網代文様のように美しい畑のあぜ道を歩く。遠景には島原半島の雲仙岳が悠然と聳えている。前面に広がる海には、白い帆を張った1隻の船が行き過ぎる。この海は、島原湾(有明海)の入口に位置する早崎瀬戸と呼ばれる海峡で、湾に出入する船の通り道となっている。陸の道をゆく馬と馬子、海の道をゆく帆かけ舟が、画面の中でシンクロしているようで面白い。

金剛山三仙巌(「朝鮮八景」より)

昭和11年(1936)から同14年(1939)頃にかけて、戦争前夜の不穏な空気が世間を覆うなか、巴水は気が落ちつかず、写生にも行き詰って変り映えのしない作品が多くなり、いわゆるスランプに陥っていた。そのような時期に、画家仲間から朝鮮旅行に誘われ、同14年(1939)6月1日から7月4日まで、朝鮮各地を旅行した。その旅行でのスケッチをもとに、制作されたのが『朝鮮八景』『続朝鮮風景』のシリーズである。この朝鮮旅行で目にした荒々しい自然の造形美、伝統的な建築物や現地の人々の生活や風俗などは、巴水の創作意欲を大いにかき立てたようである。この朝鮮旅行を転機として、巴水の作品は、それまでの緻密な描写に加えて、大胆で雄大な構図と爽やかな色彩へと変化し、魅力あふれるものとなっていく。本作のタイトルにある金剛山(クムガンサン)は、朝鮮半島東部を縦断する太白(テベク)山脈の名峰で、一万二千峰とも言われる奇岩・奇峰が連なっていることで知られる。ここには、その中でも奇岩の景勝に富む万物相(マンムルサン)地区にある三仙巌(サムソナム)の威容が描かれている。陽光を浴びる急峻な岩山が画面の半分を埋め尽くし、圧倒的な存在感を放っている。

水原華紅門(「朝鮮八景」より)

叢石亭(「朝鮮八景」より)

信州木崎湖

埼玉田宮村

第4章 近代の風景Ⅱ 吉田博(1876-1950)

「画家は自然と人間の間に立って、見能わざる人の為に、自然の美を表して見せるのが天職である。画家がどれ程立派なものを作っても、自然の偉大さに漸く近づき得るだけで、自然と一致する近さ迄は到底寄り付き得ない。之がつまり、美術が年月と共に如何に進歩しても、如何に傑作が出ても、決して頭のつかえぬ所以である。」(「アメリカ・ヨーロッパ・アフリカ写生旅行」1908年2月)


1876年、福岡に生まれた吉田博は、15歳で洋画家吉田嘉三郎に才能を見込まれて吉田家の養子となり、洋画家としての本格的な修行をはじめました。その真面目な性格から、「絵の鬼」と呼ばれるほど一途に絵の修行に取り組み、やがて23歳で同門の画家たちとアメリカに渡ります。自然を畏敬する日本人的な感性をもとに、遠近法や陰影法といったヨーロッパ絵画から学んだ技術によって写実的に描き出した風景画の数々は、現地の人々に大きな驚きを与えました。その後も何度も欧米各地を旅しながら、現地で作品を発表し、当時の日本を代表する画家として、国際的な評価を築きました。


水彩画や油彩画を描いていた博が、本格的に木版画に取り組むようになったのは49歳の時です。三度目の欧米旅行で博は、現地での日本の木版画人気を肌で感じるとともに、帰国後まもなく自らの監修による、新しい時代に即した質の高い木版画の制作を開始しました。自らも彫りと摺りを徹底して習得し、雇った彫師、摺師に細かく注文を出して制作させるこだわりと自負を示すように、版画には「自摺」の文字を刻みました。博は、西洋絵画の風景表現と、日本の伝統的な木版画技法を融合させて、新しい木版画表現の創造を成し遂げたのです。

針木雪渓(「日本アルプス十二題」より)

大正14年(1925)、三度目の外遊から帰国した吉田博は、自身の監修による木版画の制作を開始した。その翌年大正15年(1926)には早くも、博の代表作となる「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」シリーズを含む、実に41点もの作品を意欲的に発表した。本作に描かれている「針ノ木雪渓」は、飛騨山脈の後立山連峰に属する標高2,821メートルの「針ノ木岳」の東面に位置し、白馬、剱沢とともに日本三大雪渓のひとつに数えられている。「登山と絵とは切り離せないもの」と語った博は、毎年夏の時期は一ヶ月から三ヶ月、山に籠るのが年中行事で、30日あまりかけて日本アルプスを縦走するほどであった。その際には登山の案内人とともに登るのが常で、この絵の左から2番目に描かれた人物も、「山に対しては、一種不思議な、動物のように鋭い感覚を持っていた」と、博が全幅の信頼をおいていた小林喜作といわれている。小林は、博がこの「日本アルプス十二題」シリーズを発表する三年前の大正12年(1923)に雪崩に遭い亡くなっている。博は彼との懐かしい記憶をここに刻んだのかもしれない。

吉田村(「冨士拾景」より)

吉田博の代表的なシリーズ版画に「冨士拾景」があるが、このシリーズ版画は、大正15年(1926)に3点、昭和3年(1928)に7点が制作されて完結している。本作品は、前者の3点のうちの一つ。他の作品には、《河口湖》《朝日》(大正15年)、《船津》《御来光》《馬返し》《山頂劔ヶ峯》《秋》《興津》《むさしの》(昭和3年)がある。「冨士拾景」において博は、四季を通じて時々刻々と変化する富士の姿を、洋風の写実表現と独自に習得した“自摺”の精巧な技法を用いて色彩豊かに表現した。本図では、白雪を頂く富士が、圧倒的な存在感で画面全体を満たしている。本作が制作された大正15年(1926)は、「冨士拾景」シリーズの他にも、「日本アルプス十二題」の全12点、「瀬戸内海集」のうちの8点、「東京拾二題」のうちの5点をはじめ、合計41点もの木版画が発表され、博の木版画制作において最も多くの作品が生み出された年となった。

むさしの(「富士拾景」より)

駒ケ岳山頂より(「日本南アルプス集」より)

52歳になる昭和3年(1928)、吉田博は「日本南アルプス集」と題して6点の版画を制作した。この年はその他に、「冨士拾景」の残りの7点、「東京拾二題」の中の5点、欧米の風景や富士、瀬戸内海を題材とした初めての小型木版画10点、日本の風景版画7点、合計35点を発表している。博は「登山と画とは、今では私の生活から切離すことのできないものとなってゐる。画は私の本業であるが、その題材として、山の様々な風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められてゐる。」(吉田博『高山の美を語る』、実業之日本社、昭和6年)と語ったように、人々を感動させる山岳風景を描くために、何日も何週間も山に籠って野営をしながら、山に溶け込み、山と一体となって、千変万化する一瞬の美を捉えようとしたのである。本作では、駒ヶ岳山頂から見渡す美しい景色が、木版画で見事に表現されている。雲を縁取る輪郭線(墨線)の効果によって、瞬時に移り変わる雲海の動きが、躍動感を持って伝わってくる。

鈴川

静岡県富士市吉原を流れる鈴川に取材した作品で、水面に雪をかぶった富士山が、凛然として格調高く映っている。葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三坂水面」の逆さ富士とは趣が異なり、あくまでも実景を大切にしている。中景の松木立によって遠近感がよく表され、明暗の表現により松木立や家屋にも立体感がある。単調になりやすい構図を手前の湿地、中景の河川、そして遠く雪をいただく富士の稜線が、画面に見事な変化をつけている。

グランドキャニオン(「米国シリーズ」より)

アメリカ合衆国アリゾナ州北部に位置するグランドキャニオンは、コロラド高原がコロラド川の浸食作用によって生み出された大峡谷で、アメリカで最も有名な観光地のひとつ。大正8年(1919)に国立公園に指定され、昭和54年(1979)にはユネスコの世界遺産に登録されている。関東大震災の余燼がくすぶる大正12年(1923)、吉田博は妻とともに三度目の欧米訪問に旅立った。ボストンをはじめ、フィラデルフィアやデトロイトで展覧会を開催したほか、初めて西海岸の諸都市や景勝地を巡りながら、数多くの写生を行っている。なかでも大自然が作り出した雄大なグランドキャニオンの景観は、「日本に類のない」風景として、山好きの博の心を掴んだようである。本図では、陽光に照らされた悠久の歴史を刻む地層が、オレンジやピンク、ブルー、グレーなどさまざまな色彩のハーモニーを奏でている。同14年(1925)に、1年10ヶ月の長期に渡る欧米旅行から帰国後、博はすぐに独自監修による木版画の制作に着手し、「米国シリーズ」「欧州シリーズ」として旅の感動を描き残したのである。

光る海(「瀬戸内海集」より)

吉田博が本格的に私家版木版画の制作に着手したのは、三度目の欧米旅行から帰国した大正14年(1925)。その翌年には早くも41点もの作品を精力的に生み出したが、その中には博の木版画を代表する「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」シリーズも含まれている。この作品は、博の海景を代表するシリーズ「瀬戸内海集」(全9点)の第一作目である。時刻は日暮れであろうか。凪の海に二艘の帆船が静かに浮かぶ。水平線に沈みゆく夕陽が、空をほんのり紅く染め、海原に美しい光の道をつくりだしている。波間に反射する光彩が、丸ノミによる彫り跡によって見事に表現されており、博の木版画表現に対する卓越した理解と技術を見ることができる。本図は、故ダイアナ元英国皇太子妃が、ロンドンにあるケンジントン宮殿の執務室に飾っていたことでも知られている。

帆船 朝(「瀬戸内海集」より)

大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。

帆船 午前(「瀬戸内海集」より)

大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。

帆船 午後(「瀬戸内海集」より)

大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。

帆船 霧(「瀬戸内海集」より)

大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。

帆船 夕(「瀬戸内海集」より)

大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。

帆船 夜(「瀬戸内海集」より)

大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。

加茂川(「関西」より)

竹林

描かれた場所の詳細は不明であるが、埼玉県の竹林を描いたと伝わる作品。地面から勢いよく伸びた緑竹が、画面全体を覆う。光が遮られ薄暗い竹林とは対照的に、竹の間から透かし見える遠景は陽光を浴びて輝いている。この明暗の対比が、画面に奥行きを与える効果を生んでいる。また画面下に添えられた鶏と雛たちが、静謐な画面に動きを与え、丁度良いアクセントとなっている。

小姑山

昭和13年(1938)と同14年(1939)、吉田博は陸軍省嘱託の従軍画家として中国に派遣され、中国各地を訪れてスケッチを残した。その成果として、《河口》《盧山》《小姑山》《星子》《石鐘山》《蘇州》の5点の中国風景を発表している。本図に描かれた小姑山は、中国安徽省安慶市宿松県の南東60キロ、長江河畔にそびえる小さな山で、川の中に孤独に立っている様子から「小孤山」とも呼ばれる。長江の中に突き出した独特な景観は長江第一の絶景として知られ、古来より多くの詩人に歌われ、また歴史の舞台ともなってきた。ここでは、長江の雄大な流れに抗うように佇む巨大な山が、濁った川面をゆく帆船を悠然と見下ろしているようである。

石鐘山

ラングーンの金塔(「印度と東南アジア」より)

昭和5年(1930)11月、吉田博は息子の遠志を伴ってインド、東南アジアへ向けて旅立った。何ヶ月も前から事前に案内書や旅行記を詳しく調べて日程を組んだというこの旅では、目的地で一日中絵を描いたあとは夜行列車で次の目的地まで移動し、睡眠は寝台車という忙しい旅であったという。また、カンチェンジュンガの日の出を晴天下で見ることのできる季節を選び、また満月の夜のタージマハルを写生できるように月齢を調べてアグラに到着する日を決めるという効率的な旅であった。4度目の海外旅行となったこの旅は、博の外遊の中でも最も実り多いものとなり、この「印度と東南アジア」シリーズでは32点もの版画が制作された。このシリーズで博は、現地で目の当たりにした眩い陽光、大気、色彩といった気候風土を表現するために、淡い色を何度も摺り重ねるなど工夫を凝らした。その結果、まるで画面が光を発しているかのような幻想的に輝く風景をつくり出すことに成功している。ここに描かれているのは、ミャンマーのヤンゴン中心部にある寺院シュエダゴン・パゴダ。約100メートルの黄金の仏塔が、陽光を浴びて美しく光り輝いている様子を、複雑な色調によって見事に表現している。

神樂坂通 雨後の夜(「東京拾二題」より)

店から漏れる灯りや街灯が、雨上がりの湿気を含んだ空気のなかで淡く暖かい光を放っている。濡れた夜の神楽坂通りの路が、室内の光や軒灯、街灯を美しく反映する様は、幻想的ですらある。東京都新宿区にある神楽坂は、江戸時代に牛込見附から小浜藩酒井家を結ぶ通りとして整備され、武家屋敷が建ち並んでいたが、寛政4年(1792)に「毘沙門天善國寺」が移転してくると、参拝客で賑わいを見せるようになった。明治時代以降は町人の街へと移り変わるなかで花街も誕生し、赤坂や浅草、向島などと並ぶ「東京六花街」のひとつとして、東京でも指折りの繁華街に数えられるようになった。この「夜」「雨」「光」という魅力的な画題の組み合わせは、吉田博の心に強い印象として残っていたのだろう。本作の4年後に制作した『関西』シリーズ《京都之夜》においても、本作品とほぼ同じ構図で雨の夜の景色を描いている。

渓流

吉田博の作品には、海や池、湖、渓流といった水をモチーフに、光の反射や水の流れ、水面に映る風景などを繊細に描き出したものも多い。この作品は、明治43年(1910)の第4回文展に出品した油彩画《渓流》(福岡市美術館蔵)をもとに、流れ落ちる水の動きに焦点を絞って画面を再構成したものである。本図の版木を彫るに当たり、複雑な水の流れの部分は博自身が1週間かけて彫ったといい、あまりにも根をつめたため、歯を痛めてしまったという。淡青の摺り重ねによって表現された水の透明感、鋭いノミの彫り跡によって描写された水流の勢い、線の一本一本までおろそかにせず彫り出された渦巻く波の力強さなど、ここには自然に対する博の畏敬の念が込められているようである。本作は、当時の木版画では規格外の大きさを誇る特大版として制作されている。伝統的な木版画の摺りの工程では、版木や和紙を湿らせて色を摺り重ねるため、それぞれに伸び縮みが生じる。摺師は日頃の勘を頼りに版木と和紙の収縮率を計算しながら作業を行うが、特大版ともなると、全ての色をズレなく正確に合わせて摺ることが非常に困難となる。このような特大版の制作は画家、彫師、摺師にとって、挑戦的な仕事だったのである。

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「旅路の風景─北斎、広重、吉田博、川瀬巴水─」展ムービー
この映像では、伝統木版画の摺師、沼辺伸吉氏・ 広伸氏による摺の様子を8分17秒の映像でご覧頂けます。

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東京富士美術館ホームページの展覧会詳細ページが開きます。
4月2日から東京富士美術館にて開催中の「旅路の風景─北斎、広重、吉田博、川瀬巴水─」。同館が所蔵する日本の木版画のコレクションから「江戸の風景」と「近代の風景」に分けて、時代を代表する4名の作家の作品を紹介している。葛飾北斎の《冨嶽三十六景》全46図、歌川広重の《東海道五拾三次》全55図など、超有名作品を一気に楽しむことができる。このインタビューでは、同展覧会を企画した学芸員の小金丸敏夫さんに、基本的な知識を教えていただいた。ぜひ、予習に活用していただきたい。(ウェブメディアの本展取材記事が開きます)
東京富士美術館は、1983年11月3日に東京西郊の学園都市・八王子にオープンしました。「世界市民を育む美術館」をモットーに、世界31カ国・1地域の美術館や文化機関との友好関係を築きながら、各国の優れた芸術を紹介する海外文化交流特別展を企画・開催しています。収蔵品は日本・東洋・西洋の各国、各時代の絵画・版画・写真・彫刻・陶磁・漆工・武具・刀剣・メダルなど約3万点に及び、とりわけルネサンス、バロック、ロココ、ロマン主義、印象派、現代にいたる西洋絵画500年の流れを一望できる油彩画コレクションと、写真の誕生から現代までの写真史を概観できる写真コレクションは国内有数のコレクションとして知られています。