旅路の風景─北斎、広重、吉田博、川瀬巴水─ オンライン展覧会
東京富士美術館で2022年4月2日から6月5日まで開催された企画展「旅路の風景」展のオンライン展覧会です。
あいさつ
春夏秋冬の四季をともなう日本の景観は、古くから文学や芸術の題材として人々のインスピレーションの源となってきました。また近代になって開かれた海外への扉は、私たちに、その土地の気候風土によってつくり出された壮大な景観や人々の営みに触れる機会を与え、驚きと感動を提供してくれました。まだ見ぬ風景への欲求は、いつの時代も私たちを旅に誘うのです。
「旅路の風景-北斎、広重、吉田博、川瀬巴水-」展では、当館が所蔵する日本の木版画コレクションの中から、「江戸の風景」と「近代の風景」に分けて、時代を代表する4名の作家の作品をご紹介します。
「江戸の風景」では、江戸時代を代表する浮世絵師、葛飾北斎の《冨嶽三十六景》全46図と歌川広重の《東海道五拾三次》全55図を展示します。日本人の心のふるさと、富士山を望む各地の風景を描いた《冨嶽三十六景》と、江戸から京都までの東海道の宿場町の景色をユーモラスに描き出した《東海道五拾三次》は、浮世絵風景画を代表するシリーズとして知られています。ここでは両シリーズの競演を通して、江戸時代の旅路の風景や自然と共生する人々の営みを見ていきたいと思います。
「近代の風景」では、明治から昭和にかけて、風景画の分野で活躍した2人の画家、吉田博と川瀬巴水の作品を紹介します。洋画家として活躍した吉田博は、新版画の版元、渡邊庄三郎との出会いを経て、渡米からの帰国後、自ら木版画の出版に取り組むようになり、西洋の写実的な表現と日本の伝統的な木版技術を融合させた新しい木版画を生み出しました。日本画を学んだ川瀬巴水は、やがて版画家に転向して、日本各地の風景を詩情豊かに描き出し、北斎、広重と並び称される画家となりました。ここでは風光明媚な風景や何気ない日常にあらわれる一瞬の美の諸相を、木版画に新しい息吹を吹き込んだ二人の画家の作品を通して見ていきたいと思います。
北斎、広重、吉田博、川瀬巴水という4人の卓越した画家たちの心の琴線に触れた美しい風景や出来事を追体験することによって、旅から少し離れてしまった私たちの日常に、旅の感動や魅力を取り戻す一助となれば幸いです。
目次
第1章 江戸の風景Ⅰ 葛飾北斎(1760-1849) 『冨嶽三十六景』の旅
江戸時代の幕藩体制のもと、庶民が自由に物見遊山や遊興目的で旅に出ることは許可されませんでしたが、一方で寺社詣でなど遊びではない旅については容認されていました。そこで人々の間では伊勢神宮(三重)、金刀比羅宮(香川)をはじめ、厳島神社(広島)や善光寺(長野)、清水寺(京都)、成田山新勝寺(千葉)など全国各地の寺社参拝を名目として、旅に出たのです。とくに江戸時代半ば以降、街道や宿場が整備され、経済が上向いてくると、お参りを目的としながらも、各地の名所旧跡や娯楽を楽しみつつ旅をすることが大ブームとなりました。
また日本では古来より、山岳信仰も盛んでしたので、富士山をはじめ筑波山や(茨城)大山(神奈川)などにも多くの人々が押し寄せました。江戸の人々にとって信仰の対象であり、「富士見」などの地名が示すように、日常生活において身近な山だった富士山。葛飾北斎は『冨嶽三十六景』において、富士山という庶民の生活に根ざした信仰の対象を、場所、季節、気候条件などを変えて、自由自在に描き出しました。
さらに北斎はこの『冨嶽三十六景』を出版するにあたり、当時の最先端の輸入染料だったベルリン藍(通称ベロ藍)を使い、それまでの植物性の藍には無い鮮烈な青色の画面を創り出しました。北斎の卓越した表現力と青色の斬新な色彩によって、『冨嶽三十六景』は大評判となり、浮世絵における「名所絵」を確立することになりました。
冨嶽三十六景 深川万年橋下
冨嶽三十六景 武州千住
冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷
冨嶽三十六景 隅田川関屋の里
冨嶽三十六景 甲州犬目峠
冨嶽三十六景 青山円座松
冨嶽三十六景 東都駿台
冨嶽三十六景 駿州江尻
冨嶽三十六景 下目黒
冨嶽三十六景 身延川裏不二
冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二
冨嶽三十六景 東海道金谷ノ不二
冨嶽三十六景 武陽佃島
冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見
冨嶽三十六景 東海道江尻田子の浦略図
冨嶽三十六景 甲州石班沢
冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏
冨嶽三十六景 武州玉川
冨嶽三十六景 上総ノ海路
冨嶽三十六景 常州牛堀
冨嶽三十六景 江戸日本橋
冨嶽三十六景 甲州三嶌越
冨嶽三十六景 遠江山中
冨嶽三十六景 本所立川
冨嶽三十六景 尾州不二見原
冨嶽三十六景 穏田の水車
冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二
冨嶽三十六景 駿州大野新田
冨嶽三十六景 登戸浦
冨嶽三十六景 相州江の嶌
冨嶽三十六景 礫川雪の且
冨嶽三十六景 信州諏訪湖
冨嶽三十六景 相州七里浜
冨嶽三十六景 東海道吉田
冨嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどう
冨嶽三十六景 甲州三坂水面
冨嶽三十六景 凱風快晴
冨嶽三十六景 山下白雨
冨嶽三十六景 相州梅沢左
冨嶽三十六景 相州箱根湖水
冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二
冨嶽三十六景 東都浅草本願寺
冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図
冨嶽三十六景 甲州伊沢暁
冨嶽三十六景 相州仲原
冨嶽三十六景 諸人登山
第2章 江戸の風景Ⅱ 歌川広重(1797-1858) 『東海道五拾三次』の旅
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府が開かれると、全国の大名が一年おきに領地と江戸を往復する「参勤交代」が制度化されました。全国に300近くある藩の藩主と多くの家臣たちが安全に移動することができるよう、街道と宿場の整備が進められ、それに伴って街道に設置された宿場町が大いに栄えることになります。全国を結ぶ主要な道を「東海道」「中山道」「甲州街道」「日光街道」「奥州街道」といい、江戸の日本橋が起点となりました。
その五街道のうち江戸から京都の約500キロを結ぶ「東海道」は、古来より日本の東西を結ぶ重要ルートとして栄え、江戸時代の初めには53の宿場が整備されました。この東海道を主題に、1802年(享和2年)には戯作者の十返舎一九が「東海道中膝栗毛」で弥次・喜多の江戸から伊勢までの旅をコミカルに書いて大ヒットし、また1833-34年(天保4-5年)頃にかけて、新進気鋭の浮世絵師、歌川広重が『東海道五拾三次』を発表して、北斎とともに風景版画の第一人者となりました。広重はこのシリーズで、東海道の街道沿いの風景を、季節や気象の変化という装いをまとわせて、旅情豊かに描き出しています。
弟子の三代広重の伝えたところによると、広重は1832年(天保3年)、数え年36歳のときに、幕府から朝廷へ馬を献上する公式の儀礼に同行して京都へ上ったといわれ、『東海道五拾三次』はその道中の様子を描いたともいわれますが、真偽のほどは定かではありません。
東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景
東海道五拾三次之内 品川 日之出
東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡舟
東海道五拾三次之内 神奈川 台之景
東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋
東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道
東海道五拾三次之内 藤沢 遊行寺
東海道五拾三次之内 平塚 縄手道
東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨
東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川
東海道五拾三次之内 箱根 湖水図
東海道五拾三次之内 三島 朝霧
東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図
東海道五拾三次之内 原 朝之富士
東海道五拾三次之内 吉原 左富士
東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪
東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺
東海道五拾三次之内 奥津 興津川
東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望
東海道五拾三次之内 府中 安部川
東海道五拾三次之内 丸子 名物茶店
東海道五拾三次之内 岡部 宇津之山
東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立
東海道五拾三次之内 嶋田 大井川駿岸
東海道五拾三次之内 金谷 大井川遠岸
東海道五拾三次之内 日坂 佐夜ノ中山
東海道五拾三次之内 掛川 秋葉山遠望
東海道五拾三次之内 袋井 出茶屋ノ図
東海道五拾三次之内 見附 天竜川図
東海道五拾三次之内 濱松 冬枯ノ図
東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景
東海道五拾三次之内 荒井 渡舟ノ図
東海道五拾三次之内 白須賀 汐見阪図
東海道五拾三次之内 二川 猿ヶ馬場
東海道五拾三次之内 吉田 豊川橋
東海道五拾三次之内 御油 旅人留女
東海道五拾三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図
東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図
東海道五拾三次之内 岡崎 矢矧之橋
東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市
東海道五拾三次之内 鳴海 名物有松絞
東海道五拾三次之内 宮 熱田神事
東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口
東海道五拾三次之内 四日市 三重川
東海道五拾三次之内 石薬師 石薬師寺
東海道五拾三次之内 庄野 白雨
東海道五拾三次之内 亀山 雪晴
東海道五拾三次之内 関 本陣早立
東海道五拾三次之内 阪之下 筆捨嶺
東海道五拾三次之内 土山 春之雨
東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢
東海道五拾三次之内 石部 目川ノ里
東海道五拾三次之内 草津 名物立場
東海道五拾三次之内 大津 走井茶店
東海道五拾三次之内 京師 三条大橋
第3章 近代の風景Ⅰ 川瀬巴水(1883-1957)
「私の仕事は御同好の皆様の目の玉の代表となり御鑑賞の全権となつていゝ風景よい情景を写生し版画に製作し其場所に時も日も天候も同じに皆様を立たして御見せしたと同様になればそれでいゝので、筆者の満足此上なしです。」(「版画の漫談」より)
川瀬巴水は、「何が好きかと聞かれましたら即座に旅行!と答へます」という程の旅好きで、画家仲間からは「旅情詩人」と呼ばれていました。
1883年、東京に生まれた川瀬巴水は、25歳で画家の道に進み、洋画家、岡田三郎助の門下を経て、27歳で日本画家、鏑木清方門下となりました。1918年、若き版元、渡邊庄三郎との出会いが、風景版画に取り組む契機となります。浮世絵の伝統的な技法を継承しつつも、新しい時代に相応しい版画、「新版画」の創作を目指していた渡邊庄三郎とタッグを組んだ巴水は、欧米人にも魅力的な、新たな日本の風景版画を生み出したのです。近年では、アップルの創業者スティーブ・ジョブズが巴水の版画を好んで蒐集していたことが話題になりました。
「昭和の広重」とも呼ばれた巴水ですが、広重が各地の名所風景を描いたのに対して、巴水は興の赴くままに、訪れた土地の何気ない日常の情景を、まるで詩人が歌を詠むように、詩情溢れる風景として描き出しました。巴水は自身の版画について、広重よりも、明治の小林清親や西洋の挿絵画家に影響を受けたとも語っていますが、日本画と洋画から学びつつも、写生を基にした巴水独自の魅力的な表現を生み出したのです。
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で被災した巴水は、それまで描き貯めてきた190冊近くともいわれる写生帖や家財を焼失してしまう。そんな失意の巴水を励まし、再び絵筆を握らせ、日本全国を巡る写生の旅に送り出したのは、自らも被災していた版元の渡邊庄三郎だった。この写生旅行は102日間に及び、以後の巴水の画風の転機ともなった。「旅みやげ第三集」は、写生旅行の成果を発表した最初のシリーズともなった。画風は震災前と比べてより写実的になり、全体的に明るく鮮やかな色調へと変化して行く。ここに描かれている松江は、宍道湖の東岸にある松江城の城下町で、堀を中心に街中を水路が縦横に走り、水の都とも呼ばれている。巴水はこの年の12月に松江を訪れ、同じ構図で「曇り日」「おぼろ月」「三日月」と題した3つの作品を制作した。ここでは、冬の曇り空を背景に、印象的な土蔵の白壁が描き出されている。建ち並ぶ白壁が、緩やかに流れる川面に反射して美しい。
大正11年(1922)年の春、巴水は次回作の取材のために九州方面へ旅行し、そこから広島、岡山、神戸、大阪、京都と巡る大旅行を敢行した。この旅行の成果として出版されたのが「日本風景選集」のシリーズで、全36図で完結という大作となった。しかしこのシリーズの32図目を制作後、関東大震災の発生により、版元である渡邊版画店は焼失し、巴水もこれまでの画業の成果である写生帖を全て失ってしまい、刊行は中断される。その後、巴水の102日間に及ぶ写生旅行を経て、その新たなスケッチをもとに、このシリーズは、大正15年(1926)に完結した。この作品は震災前に刊行された1点で、坂の町・長崎の石畳が象徴的に描かれている。その手前には、桜であろうか、花の枝を担いだ女性が、画面に華やかな雰囲気を与えている。
巴水は、大正13年(1924)から昭和5年(1930)にかけて、関東大震災から復興を遂げる東京の風景を、20図の連作として描いた。この「東京二十景」シリーズからは、巴水の代表作となる《芝増上寺》や《馬込の月》が生まれている。大森海岸は江戸時代から昭和初期にかけて、海苔養殖で質・量ともに日本一の生産量を誇り、ここで生産された海苔は、将軍家に献上される最上級品として、「御膳海苔」とも呼ばれていた。海苔の養殖は大森で始まり、その後江戸時代後期に有明海や瀬戸内海に広がっていった。大森の海苔養殖は、昭和30年代からの港湾開発によって終わりを迎えたが、現在でも多くの海苔問屋や加工業者が残り、海苔の街としての姿を留めている。本作には、当時の大森の海苔養殖を物語るように、護岸には、海苔養殖に使用する海苔篊(のりひび)(海苔を付着させるための竹や木の枝)が積み上げられ、岸辺にはベカ船と呼ばれる海苔採取用の小舟が繋留されている。この絵はもともと霧雨が降る夕方の情景を想定して制作されたが、その後、雨の効果を試行錯誤する中で、最終的に霧雨は採用されなかった。その名残として、雨は降っていないが、桟橋には傘をさす人物が残されて、この絵のアクセントとなっている。透明な藍色を幾度も摺り重ねることで、宵の浜辺の清澄な空気感が見事に表現されている。
風景版画での名声が確立するにつれ、巴水は歌川広重と比較されるようになり、「広重の再来」「昭和の広重」などと称されるようになる。ただ巴水自身は、それを必ずしも名誉とは考えておらず、むしろ広重との違いを主張していた。やがて巴水は、広重の「東海道五拾三次」を意識するように、昭和6年(1931)「東海道風景選集」シリーズに着手する。広重が東海道の賑やかな宿場町を描いたのに対し、巴水は東海道を独自の視点で捉え直し、心地よさを与えてくれる場所を選んで描き出したのである。半田は愛知県南部、知多半島の東岸に位置する。知多湾に面する天然の良港として、江戸時代から海運業で栄え、酒や酢、醤油などの醸造業も盛んであった。そのため街中を通る運河沿いには、黒板囲いの蔵が建ち並んでいた。しんしんと雪が降る運河沿いの道を、傘を差した人物が犬を連れて歩いている。白を基調とした雪景色の中に、人物と犬の黒いシルエットが浮かび上がり、印象的な画面となっている。
「駿河由比町」は、昭和6年(1931)から同22年(1947)にかけて制作された「東海道風景選集」シリーズ26枚のうちの一枚。由比は現在の静岡市清水区に位置する。本図に描かれているのは、東海道五十三次の16番目の宿場として知られる由比宿である。街道沿いに立ち並ぶ家屋には、江戸時代の宿場町の面影が感じられる。遠景には赤く染まり始めた空を背景に、雪化粧の富士山が堂々とした姿で描き出されている。この由比宿から次の興津宿へ向かう道中の薩埵峠(さったとうげ)は、東海道最大の難所の一つであるとともに、富士を眺める絶景スポットとしても知られている。由比を描いた作品としては、歌川広重の「東海道五拾三次」が知られるが、広重は由比を描く際に険しい薩埵峠からの富士の眺望をモチーフとした。巴水は、本図で由比を描くにあたって、有名な薩埵峠ではなく、由比の宿場町の風景を選択した。富士を背景にした情趣ある町並みが清澄な空気とともに巧みに表現されており、「旅情詩人」と呼ばれた巴水らしさが画面に溢れている。
「元吉原之朝」は、昭和6年(1931)から同22年(1947)にかけて制作された「東海道風景選集」シリーズ26枚のうちの一枚。元吉原は現在の富士市南西部の海沿いに位置する場所で、もともと東海道の吉原宿はこの地にあったが江戸時代に高潮の影響を避けて内陸部に移動したため、もともと吉原宿があったこの地は元吉原と呼ばれるようになった。本図では、視点をやや高い位置に取ることによって、元吉原の家々に視線を遮られずに、白雪をかぶる堂々たる富士山を描き出している。眼前の家並みを強い線で描き出す一方で、遠景の富士は薄く淡い色調で表現することによって、画面に遠近感を生み出すとともに、霊峰富士の神々しさを見事に表現している。
昭和5年(1930)、巴水は馬込町(現在の大田区南馬込)に洋館を新築して移り住んだ。この一帯は江戸時代までは郊外の農村地帯だったが、明治9年(1876)に大森駅が開通したことから、別荘地としての開発が進み、多くの文士、芸術家が移り住み、「馬込文士村」とも呼ばれていた。煌々と輝く満月を背景に、三本の松が美しいシルエットを形作っている。農家の窓からもれる灯りが、夜の帳が下りた田園風景に、人の温もりを添えてくれる。ここに描かれた三本松は馬込のランドマークとして親しまれていた松の木で、昭和初期に失われてしまったが、現在も「三本松塚」や「三本松」バス停、「三本松交番」などにその名を留めている。この絵は、巴水の作品の中でも《芝増上寺》に次ぐ人気を誇り、巴水の代表作の一点として知られている。
嵐山は京都の西部に位置し、桜や紅葉の名所として、平安時代より風光明媚な景勝地として天皇や貴族から愛され、多くの絵画や詩歌の題材とされてきた。嵐山を流れる桂川(流域によって「保津川」「大堰川(おおいがわ)」とその名称を変える)は、江戸時代より丹波から山城までの物資を運ぶ重要なルートとして高瀬舟が行き交った。明治以降、鉄道の普及によって水運は衰退したが、庶民のレジャーが普及したことによって、美しい景観を利用した川下りで賑わうようになる。この作品では、数本のアカマツが画面の上下を大胆に貫き、その隙間から、桂川の穏やかな流れと対岸の新緑を望む。観光客を乗せた舟が川面を静かに下っていく様子が、ゆったりとした時の流れを感じさせ、都会の喧騒を忘れさせてくれる。松の間に配された桜の若木が美しく咲き誇り、画面に彩りを添えている。
静岡県富士市西部を流れる富士川河岸から眺めた富士山が描かれている。現在の富士川サービスエリアあたりであろう。画面手前には、柔らかい光を反射しながら悠然と流れる富士川が、そして画面奥には堂々とした富士の泰然自若とした姿が描き出されている。中景の左側から延びる緑の丘は梅や桜の名所として有名な岩本山で、山頂には雄大な富士を眼前に仰ぐことができる岩本山公園がある。この「富士川」には2種類の擦りがあり、本図とは別のバージョンでは、雲を従え、赤く照らされた富士の姿が描かれる。印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)が《積みわら》や《ルーアン大聖堂》で試みたように、巴水はたびたび、全く同じモチーフと構図で、いくつかの色や版木を変更することによって、移ろいゆく時間の経過を、異なる大気、異なる光の効果によって連作として描き出したのである。
巴水は、大正11年(1922)に行った九州旅行の成果を、「日本風景選集」として出版し、《天草より見たる温泉ケ嶽》(大正11年)という作品を発表した。この天草の風景は、巴水の心に印象深く残ったのだろう。本作は15年後の昭和12年(1937)に、その作品をもとに、雲仙の眺望をよりクローズアップして再制作したものである。荷を背にした馬と馬子が、交互に編み込まれた網代文様のように美しい畑のあぜ道を歩く。遠景には島原半島の雲仙岳が悠然と聳えている。前面に広がる海には、白い帆を張った1隻の船が行き過ぎる。この海は、島原湾(有明海)の入口に位置する早崎瀬戸と呼ばれる海峡で、湾に出入する船の通り道となっている。陸の道をゆく馬と馬子、海の道をゆく帆かけ舟が、画面の中でシンクロしているようで面白い。
昭和11年(1936)から同14年(1939)頃にかけて、戦争前夜の不穏な空気が世間を覆うなか、巴水は気が落ちつかず、写生にも行き詰って変り映えのしない作品が多くなり、いわゆるスランプに陥っていた。そのような時期に、画家仲間から朝鮮旅行に誘われ、同14年(1939)6月1日から7月4日まで、朝鮮各地を旅行した。その旅行でのスケッチをもとに、制作されたのが『朝鮮八景』『続朝鮮風景』のシリーズである。この朝鮮旅行で目にした荒々しい自然の造形美、伝統的な建築物や現地の人々の生活や風俗などは、巴水の創作意欲を大いにかき立てたようである。この朝鮮旅行を転機として、巴水の作品は、それまでの緻密な描写に加えて、大胆で雄大な構図と爽やかな色彩へと変化し、魅力あふれるものとなっていく。本作のタイトルにある金剛山(クムガンサン)は、朝鮮半島東部を縦断する太白(テベク)山脈の名峰で、一万二千峰とも言われる奇岩・奇峰が連なっていることで知られる。ここには、その中でも奇岩の景勝に富む万物相(マンムルサン)地区にある三仙巌(サムソナム)の威容が描かれている。陽光を浴びる急峻な岩山が画面の半分を埋め尽くし、圧倒的な存在感を放っている。
第4章 近代の風景Ⅱ 吉田博(1876-1950)
「画家は自然と人間の間に立って、見能わざる人の為に、自然の美を表して見せるのが天職である。画家がどれ程立派なものを作っても、自然の偉大さに漸く近づき得るだけで、自然と一致する近さ迄は到底寄り付き得ない。之がつまり、美術が年月と共に如何に進歩しても、如何に傑作が出ても、決して頭のつかえぬ所以である。」(「アメリカ・ヨーロッパ・アフリカ写生旅行」1908年2月)
1876年、福岡に生まれた吉田博は、15歳で洋画家吉田嘉三郎に才能を見込まれて吉田家の養子となり、洋画家としての本格的な修行をはじめました。その真面目な性格から、「絵の鬼」と呼ばれるほど一途に絵の修行に取り組み、やがて23歳で同門の画家たちとアメリカに渡ります。自然を畏敬する日本人的な感性をもとに、遠近法や陰影法といったヨーロッパ絵画から学んだ技術によって写実的に描き出した風景画の数々は、現地の人々に大きな驚きを与えました。その後も何度も欧米各地を旅しながら、現地で作品を発表し、当時の日本を代表する画家として、国際的な評価を築きました。
水彩画や油彩画を描いていた博が、本格的に木版画に取り組むようになったのは49歳の時です。三度目の欧米旅行で博は、現地での日本の木版画人気を肌で感じるとともに、帰国後まもなく自らの監修による、新しい時代に即した質の高い木版画の制作を開始しました。自らも彫りと摺りを徹底して習得し、雇った彫師、摺師に細かく注文を出して制作させるこだわりと自負を示すように、版画には「自摺」の文字を刻みました。博は、西洋絵画の風景表現と、日本の伝統的な木版画技法を融合させて、新しい木版画表現の創造を成し遂げたのです。
大正14年(1925)、三度目の外遊から帰国した吉田博は、自身の監修による木版画の制作を開始した。その翌年大正15年(1926)には早くも、博の代表作となる「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」シリーズを含む、実に41点もの作品を意欲的に発表した。本作に描かれている「針ノ木雪渓」は、飛騨山脈の後立山連峰に属する標高2,821メートルの「針ノ木岳」の東面に位置し、白馬、剱沢とともに日本三大雪渓のひとつに数えられている。「登山と絵とは切り離せないもの」と語った博は、毎年夏の時期は一ヶ月から三ヶ月、山に籠るのが年中行事で、30日あまりかけて日本アルプスを縦走するほどであった。その際には登山の案内人とともに登るのが常で、この絵の左から2番目に描かれた人物も、「山に対しては、一種不思議な、動物のように鋭い感覚を持っていた」と、博が全幅の信頼をおいていた小林喜作といわれている。小林は、博がこの「日本アルプス十二題」シリーズを発表する三年前の大正12年(1923)に雪崩に遭い亡くなっている。博は彼との懐かしい記憶をここに刻んだのかもしれない。
吉田博の代表的なシリーズ版画に「冨士拾景」があるが、このシリーズ版画は、大正15年(1926)に3点、昭和3年(1928)に7点が制作されて完結している。本作品は、前者の3点のうちの一つ。他の作品には、《河口湖》《朝日》(大正15年)、《船津》《御来光》《馬返し》《山頂劔ヶ峯》《秋》《興津》《むさしの》(昭和3年)がある。「冨士拾景」において博は、四季を通じて時々刻々と変化する富士の姿を、洋風の写実表現と独自に習得した“自摺”の精巧な技法を用いて色彩豊かに表現した。本図では、白雪を頂く富士が、圧倒的な存在感で画面全体を満たしている。本作が制作された大正15年(1926)は、「冨士拾景」シリーズの他にも、「日本アルプス十二題」の全12点、「瀬戸内海集」のうちの8点、「東京拾二題」のうちの5点をはじめ、合計41点もの木版画が発表され、博の木版画制作において最も多くの作品が生み出された年となった。
52歳になる昭和3年(1928)、吉田博は「日本南アルプス集」と題して6点の版画を制作した。この年はその他に、「冨士拾景」の残りの7点、「東京拾二題」の中の5点、欧米の風景や富士、瀬戸内海を題材とした初めての小型木版画10点、日本の風景版画7点、合計35点を発表している。博は「登山と画とは、今では私の生活から切離すことのできないものとなってゐる。画は私の本業であるが、その題材として、山の様々な風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められてゐる。」(吉田博『高山の美を語る』、実業之日本社、昭和6年)と語ったように、人々を感動させる山岳風景を描くために、何日も何週間も山に籠って野営をしながら、山に溶け込み、山と一体となって、千変万化する一瞬の美を捉えようとしたのである。本作では、駒ヶ岳山頂から見渡す美しい景色が、木版画で見事に表現されている。雲を縁取る輪郭線(墨線)の効果によって、瞬時に移り変わる雲海の動きが、躍動感を持って伝わってくる。
静岡県富士市吉原を流れる鈴川に取材した作品で、水面に雪をかぶった富士山が、凛然として格調高く映っている。葛飾北斎「冨嶽三十六景 甲州三坂水面」の逆さ富士とは趣が異なり、あくまでも実景を大切にしている。中景の松木立によって遠近感がよく表され、明暗の表現により松木立や家屋にも立体感がある。単調になりやすい構図を手前の湿地、中景の河川、そして遠く雪をいただく富士の稜線が、画面に見事な変化をつけている。
アメリカ合衆国アリゾナ州北部に位置するグランドキャニオンは、コロラド高原がコロラド川の浸食作用によって生み出された大峡谷で、アメリカで最も有名な観光地のひとつ。大正8年(1919)に国立公園に指定され、昭和54年(1979)にはユネスコの世界遺産に登録されている。関東大震災の余燼がくすぶる大正12年(1923)、吉田博は妻とともに三度目の欧米訪問に旅立った。ボストンをはじめ、フィラデルフィアやデトロイトで展覧会を開催したほか、初めて西海岸の諸都市や景勝地を巡りながら、数多くの写生を行っている。なかでも大自然が作り出した雄大なグランドキャニオンの景観は、「日本に類のない」風景として、山好きの博の心を掴んだようである。本図では、陽光に照らされた悠久の歴史を刻む地層が、オレンジやピンク、ブルー、グレーなどさまざまな色彩のハーモニーを奏でている。同14年(1925)に、1年10ヶ月の長期に渡る欧米旅行から帰国後、博はすぐに独自監修による木版画の制作に着手し、「米国シリーズ」「欧州シリーズ」として旅の感動を描き残したのである。
吉田博が本格的に私家版木版画の制作に着手したのは、三度目の欧米旅行から帰国した大正14年(1925)。その翌年には早くも41点もの作品を精力的に生み出したが、その中には博の木版画を代表する「日本アルプス十二題」「瀬戸内海集」シリーズも含まれている。この作品は、博の海景を代表するシリーズ「瀬戸内海集」(全9点)の第一作目である。時刻は日暮れであろうか。凪の海に二艘の帆船が静かに浮かぶ。水平線に沈みゆく夕陽が、空をほんのり紅く染め、海原に美しい光の道をつくりだしている。波間に反射する光彩が、丸ノミによる彫り跡によって見事に表現されており、博の木版画表現に対する卓越した理解と技術を見ることができる。本図は、故ダイアナ元英国皇太子妃が、ロンドンにあるケンジントン宮殿の執務室に飾っていたことでも知られている。
大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。
大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。
大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。
大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。
大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。
大正11年(1920)、渡邊版画店より出版された《帆船》(3部作)に連なる作品で、「瀬戸内海集1」に収録されたもの。本シリーズ制作の翌年、第8回帝展には《帆船》(4部作)を発表している。日本アルプスなどを描いた山のシリーズと対照をなす水のシリーズの代表作。同じ版木を使い、異なった色を用いて帆船が浮かぶ海の情景を6種の時間帯に分けて描いている。こうした試みを作家自ら「別刷」と称した。
描かれた場所の詳細は不明であるが、埼玉県の竹林を描いたと伝わる作品。地面から勢いよく伸びた緑竹が、画面全体を覆う。光が遮られ薄暗い竹林とは対照的に、竹の間から透かし見える遠景は陽光を浴びて輝いている。この明暗の対比が、画面に奥行きを与える効果を生んでいる。また画面下に添えられた鶏と雛たちが、静謐な画面に動きを与え、丁度良いアクセントとなっている。
昭和13年(1938)と同14年(1939)、吉田博は陸軍省嘱託の従軍画家として中国に派遣され、中国各地を訪れてスケッチを残した。その成果として、《河口》《盧山》《小姑山》《星子》《石鐘山》《蘇州》の5点の中国風景を発表している。本図に描かれた小姑山は、中国安徽省安慶市宿松県の南東60キロ、長江河畔にそびえる小さな山で、川の中に孤独に立っている様子から「小孤山」とも呼ばれる。長江の中に突き出した独特な景観は長江第一の絶景として知られ、古来より多くの詩人に歌われ、また歴史の舞台ともなってきた。ここでは、長江の雄大な流れに抗うように佇む巨大な山が、濁った川面をゆく帆船を悠然と見下ろしているようである。
昭和5年(1930)11月、吉田博は息子の遠志を伴ってインド、東南アジアへ向けて旅立った。何ヶ月も前から事前に案内書や旅行記を詳しく調べて日程を組んだというこの旅では、目的地で一日中絵を描いたあとは夜行列車で次の目的地まで移動し、睡眠は寝台車という忙しい旅であったという。また、カンチェンジュンガの日の出を晴天下で見ることのできる季節を選び、また満月の夜のタージマハルを写生できるように月齢を調べてアグラに到着する日を決めるという効率的な旅であった。4度目の海外旅行となったこの旅は、博の外遊の中でも最も実り多いものとなり、この「印度と東南アジア」シリーズでは32点もの版画が制作された。このシリーズで博は、現地で目の当たりにした眩い陽光、大気、色彩といった気候風土を表現するために、淡い色を何度も摺り重ねるなど工夫を凝らした。その結果、まるで画面が光を発しているかのような幻想的に輝く風景をつくり出すことに成功している。ここに描かれているのは、ミャンマーのヤンゴン中心部にある寺院シュエダゴン・パゴダ。約100メートルの黄金の仏塔が、陽光を浴びて美しく光り輝いている様子を、複雑な色調によって見事に表現している。
店から漏れる灯りや街灯が、雨上がりの湿気を含んだ空気のなかで淡く暖かい光を放っている。濡れた夜の神楽坂通りの路が、室内の光や軒灯、街灯を美しく反映する様は、幻想的ですらある。東京都新宿区にある神楽坂は、江戸時代に牛込見附から小浜藩酒井家を結ぶ通りとして整備され、武家屋敷が建ち並んでいたが、寛政4年(1792)に「毘沙門天善國寺」が移転してくると、参拝客で賑わいを見せるようになった。明治時代以降は町人の街へと移り変わるなかで花街も誕生し、赤坂や浅草、向島などと並ぶ「東京六花街」のひとつとして、東京でも指折りの繁華街に数えられるようになった。この「夜」「雨」「光」という魅力的な画題の組み合わせは、吉田博の心に強い印象として残っていたのだろう。本作の4年後に制作した『関西』シリーズ《京都之夜》においても、本作品とほぼ同じ構図で雨の夜の景色を描いている。
































































































































































