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北海道

蝦夷地と称されたアイヌの地

日本の最北端に位置する。「道(どう)」は日本の行政区画の一つ。津軽海峡を挟んで南の本州と対峙する。石狩平野と勇払(ゆうふつ)平野を境として東側の胴体部と渡島(おしま)半島を中心とした南西半島部に2分される。胴体部の中部を北見山地、日高山脈が南北に走り、その間に石狩山地がある。東部には十勝平野、白糠(しらぬか)丘陵、根釧(こんせん)台地があり、東端には知床半島と根室半島が突出している。一般に冷涼な亜寒帯性の気候で、日本海側は冬季に積雪が多く、太平洋沿岸部は夏季に海霧が発生する。内陸部は大陸性の気候で、夏は高温、冬は寒さが厳しい。オホーツク海では冬季に流氷が見られる。かつて蝦夷地と呼ばれ、アイヌ民族が居住していたが、鎌倉時代の頃から次第に和人が移住した。そのためアイヌと和人との対立が生じ、室町時代中期のコシャマインの蜂起、寛文9年(1669)のシャクシャインの蜂起などが起きている。江戸時代には松前藩松前氏による統治が進み、和人地は松前地などとも呼ばれ、蝦夷地と区別されていた。幕末には、江戸幕府が北辺防備の必要から蝦夷地を幕府直轄地としている。明治維新後は蝦夷地を北海道と改め、開拓使を置いて移民を招き、屯田兵による開拓と防衛が実施された。明治15年(1882)に開拓使が廃止され、同19年に北海道庁を開設。行政区画として同30年に19の支庁が設置され、編入や再編を経て14支庁となっていたが、平成22年(2010)の支庁制度改革に伴って総合振興局または振興局へと移行した。同17年には「知床(しれとこ)」が世界自然遺産に登録され、令和3年(2021)に世界文化遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」には北海道の6ヵ所の遺跡が含まれている。

ゆかりの人物

源義経

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。「判官(ほうがん)びいき」で知られ、伝説が多い。江戸時代には義経が蝦夷ヶ島(えぞがしま、北海道)に渡って大王となったとする説が現われ、明治時代には大陸に渡ってジンギスカン(チンギス・ハーン)になったとする説も広まった。北海道南部の平取(びらとり)町に、義経を祭神とする義経神社が鎮座する。

弁慶

源義経の家臣として知られる豪勇の法師。義経に随行して蝦夷ヶ島(えぞがしま、北海道)に渡ったとの説がある。北海道南西部の寿都(すっつ)町の弁慶岬は、一行が滞在した地と伝えられている。

コシャマイン

15世紀のアイヌの首長。和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発し、1457年(長禄元年)に起きたアイヌ蜂起を指導。渡島(おしま)半島南端に館(たて)を築いて群雄割拠していた和人小豪族の諸館が相次いで陥落したが、武田信広(松前氏の祖)が和人軍を指揮して反撃を加え、コシャマイン父子は射殺された。これによってアイヌ軍の勢力は急速に弱まり、戦いは鎮圧された。画像は渡島半島南西部の上ノ国町でのコシャマイン慰霊祭の様子。

蠣崎波響(かきざきはきょう)

江戸時代後期の画家。画像は波響筆「蝦夷紋別首長東武画像」(東京国立博物館所蔵)。「波響」の落款(らっかん)がある最も早い例で、天明3年(1783)の20歳の作。波響は蝦夷松前藩主の松前道広の弟で、蠣崎家の養子となる。江戸で南蘋派(なんぴんは)の建部凌岱(たけべりょうたい)や宋紫石(そうしせき)に学び、松前藩の要職に携わりつつ作品を制作した。

土方歳三(ひじかたとしぞう) 外部サイト

幕末の新選組副長。武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市)で生まれる。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍として敗れたが、各地を転戦したのちに陸奥仙台から箱館に逃れ、榎本武揚の指揮下に入った。しかし、翌年5月の箱館戦争(五稜郭の戦い)で戦死。

榎本武揚(えのもとたけあき) 外部サイト

幕末・明治時代の軍人、政治家。江戸で生まれる。幕府軍に属し、江戸開城後に主力艦を率いて北海道に渡って蝦夷島総裁に選ばれたが、明治2年(1869)に新政府軍の総攻撃を受けて箱館戦争(五稜郭の戦い)で降伏。出獄後に黒田清隆開拓次官の下で北海道開発を手掛け、同7年に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに赴き、樺太・千島交換条約を締結した。

黒田清隆(くろだきよたか) 外部サイト

明治時代の軍人、政治家。薩摩国の鹿児島城下で生まれる。早くから西郷隆盛と大久保利通の知遇を得ており、明治3年(1870)開拓次官に任ぜられ、北海道の開拓・殖産および教育に専念した。同14年に開拓使官有物払下問題に端を発した政変(明治14年の政変)で内閣顧問の閑職に追われたが、同21年に内閣総理大臣となっている。

ウィリアム・スミス・クラーク

アメリカの化学者、教育家。北海道開拓事業をつかさどる明治政府の機関である開拓使の懇望によって、明治9年(1876)6月にマサチューセッツ農科大学の大学長のまま来日。同年8月開校の札幌農学校(北海道大学の前身)初代教頭に就任し、事実上の創設者となった。翌年4月の帰国に際し、「Boys, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.」(青年よ、人間の本分をなすべく大望を抱け)の名言を残した。

荻野吟子(おぎのぎんこ) 外部サイト

日本近代女医の草分け。婦人運動にも関与して婦人の地位向上に努めた。武蔵国大里郡秦村(現埼玉県熊谷市)の出身。自らが病気(淋病)になった経験から女医の必要性を痛感し、自らが女医になる決心をしたが、先例がないため苦難の道を歩んだ。明治18年(1885)に医術開業試験の後期試験に合格、日本における女性の第一号医籍登録者となった。同27年に北海道に渡り、瀬棚郡瀬棚村(現せたな町)で開業した。

ジョン・バチラー

アイヌ救済に生涯を献げたイギリス聖公会宣教師。バチェラーともいう。明治10年(1877)に来日。アイヌ伝道に使命を覚え、宣教師として勉学のためにいったん帰国。同16年に再来日し、有珠・平取などでのコタン伝道と福祉のために尽力した。その間、アイヌ語聖書・祈祷書や『アイヌ英和対訳辞典』をはじめ、英文・邦文のアイヌ関係書数十点を発表した。画像はバチラーの著書『アイヌ語より見たる日本地名研究』の表紙。

金田一京助(きんだいちきょうすけ) 外部サイト

言語学者。アイヌ文学の研究およびアイヌ語学の創設者。明治15年(1882)岩手県盛岡に生まれる。旧弊として顧みられなかったアイヌ語の研究をライフワークとし、初めてアイヌ叙事詩ユーカラを紹介した。『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』2巻、『アイヌ叙事詩 ユーカラ集』などのユーカラやアイヌ語文法に関する著書は多数。

知里真志保(ちりましほ)

言語学者。登別(のぼりべつ)のアイヌ首長の家柄に生まれる。姉は『アイヌ神謡集』の著者、知里幸恵(ゆきえ)。金田一京助の世話で上京。アイヌ語をアイヌ同族の生活意識のなかから研究することを目的とし、ライフワークだった『分類アイヌ語辞典』はアイヌ文化研究者にとって必携の書となっている。画像は知里真志保の収集資料(登別市郷土資料館所蔵)のうちのキテ(銛頭)。シㇼカㇷ゚(メカジキ)を獲るための銛(もり)で、矢じりは鉄製、胴部は鹿角製。

伊藤整(いとうせい) 外部サイト

詩人、小説家、評論家。本名は整 (ひとし)。松前郡炭焼沢村(現松前町)に生まれる。第2次世界大戦後に詩、小説、評論、戯曲などの形式を組み合わせた現代知識人文学の代表作『鳴海仙吉』を発表。同時に日本近代小説の私小説的性格を西欧と対比させながら明らかにした評論集『小説の方法』を出した。昭和25年(1950)に翻訳・出版したD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が猥褻 (わいせつ) 文書の疑いで起訴され、いわゆるチャタレイ裁判が起こった。

井上靖(いのうえやすし) 外部サイト

小説家。旭川の生まれ。昭和11年(1936)毎日新聞大阪本社に入社。『あした来る人』、『氷壁』などで新聞小説作家としての地歩を固め、『天平の甍 (いらか) 』、『楼蘭 (ろうらん) 』、『蒼き狼 』、『風濤 (ふうとう) 』で歴史小説の手法を確立、さらに『おろしや国酔夢譚 (すいむたん) 』でその手法をいっそう深化させた。昭和51年(1976)文化勲章受章。

名物・特産

サケ目サケ科の魚。古代より日本の食文化を支え、親しまれる。 北海道では、秋になると産卵のために戻ってくるので「秋サケ」「秋味(あきあじ)」とも呼ばれる。江戸時代には蝦夷松前藩から正月の献上品として荒巻鮭が届けられていた。アイヌ民族にとっても重要な食糧で、「カムイ・チェップ」(神の魚)と呼ばれた。

ニシン

ニシン目ニシン科の魚。鰊、鯡と書き、春告魚(はるつげうお)とも呼んだ。魚肥としても利用され、江戸時代のニシン漁は蝦夷松前藩の重要な産業であった。19世紀後半から定置網が使われ始めるとニシン漁は全盛期を迎え、明治時代中頃に漁獲量がピークに達した。それによって贅沢な普請で有名なニシン御殿が建てられた。

コンブ

褐藻(かっそう)類コンブ科コンブ属およびそれに近縁な海藻の総称。昆布と書く。古くからダシとして使われ、寒流の影響の強い北海道や東北地方の海岸に分布する。函館市を中心に松前町から室蘭市までの沿岸の真コンブ、利尻島・礼文島・稚内市を中心とした利尻コンブ、羅臼町沿岸の羅臼コンブは日本の三大コンブと呼ばれており、いずれも産地は北海道である。

ハナサキガニ(花咲ガニ)

十脚目タラバガニ科の甲殻類。近縁のタラバガニなどに比べると分布が狭く、カムチャツカ半島から千島列島を経て積丹(しゃこたん)岬以北の北海道沿岸に分布し、浅海の岩場にすむ。生息密度が高いのは千島列島から根室市の近海にかけてで、幼ガニは岩礁でも見られる。和名は根室半島の別名である花咲半島にちなむ。

ツル科4属15種の大型の鳥の総称。「ツルは千年、亀は万年」と言われるように長寿、および健康のシンボルとされる。松に鶴のモチーフは多くの絵画に描かれている。釧路湿原周辺の留鳥であるタンチョウ(国指定特別天然記念物)は有名。

マリモ

緑藻植物、アオミソウ科の淡水藻。釧路市北部の阿寒湖、その北部の水深1メートルの湖底に生息するものが有名。大きな球状体(直径25㎝以上)のマリモが群生しているのは世界でも珍しい。阿寒湖のマリモは国の特別天然記念物に指定されている。

奇蹄目ウマ科の哺乳類。軍事用・移動用など、古くから日本人の生活とともにあった動物。道産子(どさんこ)の名で知られる北海道和種は、日本で古くから飼育されてきた。現在の日高地方などでは、サラブレッド種など日本の競走馬の大半を生産している。

ジャガイモ畑

北海道のジャガイモ(馬鈴薯/ばれいしょ)は収穫量が全国一位。広大な農地を有するオホーツク地方と十勝地方が2大産地とされている。画像は北海道中央部の美瑛(びえい)町のジャガイモ畑。

木彫りの熊

北海道名産の木彫りの熊。木彫りの熊といえば鮭を咥えた姿が有名。

旭川ラーメン

北海道の人気グルメとして知られるラーメン。各地にそれぞれの味と特徴があるが、札幌・函館・旭川が北海道三大ラーメンとされる。札幌ラーメンはこってり濃厚な味噌味、函館ラーメンはあっさりとした塩味、旭川ラーメンは香ばしい醤油味が特徴。

ジンギスカン

北海道を代表する郷土料理。マトン(成羊肉)やラム(仔羊肉)などの羊肉を用いた日本の焼肉料理である。画像は椿貞雄作「ジンギスカン」(千葉県船橋市所蔵)で、昭和28年(1953)の作品。

ニシン三平汁

三平汁(さんぺいじる)は、塩サケや塩タラと野菜を煮込んだ北海道の郷土料理。ニシンが豊富に獲れた時代には、塩漬けやぬか漬けのニシンで作られたという。名前の由来は、蝦夷松前藩の齊藤三平が始めた料理という説や、有田焼の三平皿という深皿に盛ることからなどの説がある。

名所・史跡

大雪山(たいせつざん)

北海道中央部に広がる火山群。「だいせつざん」ともいう。北海道の最高峰である旭岳(2291m)をはじめとして、2000m前後の峰々が連なる。大雪山国立公園の中心をなしており、夏の間だけ姿を現す高山植物の群生は、まさしく奇跡の花園である。

羊蹄山(ようていざん)

北海道南西部、渡島(おしま)半島の基部にある火山。標高1898m。富士山に似た山容をもつため蝦夷富士とも呼ばれる。山頂からは東に恵庭(えにわ)岳、樽前(たるまえ)山、支笏(しこつ)湖を見おろし、南の眼下には洞爺湖、昭和新山、噴火湾、西にはニセコ連峰や日本海が臨まれる。

摩周湖(ましゅうこ)

北海道東部の弟子屈(てしかが)町に位置する湖。アイヌの人々は「神の湖」と呼んできた。湖面標高351m、周囲24㎞、面積19.6㎢、最深部212m。透明度は15~32mほどで、昭和6年(1931)には41.6mの世界最高記録を観測した。透明度の高い青色の湖水は「摩周ブルー」と呼ばれる。

北海道洞爺湖町

北海道南西部、虻田(あぶた)郡に位置するカルデラ湖。支笏(しこつ)洞爺国立公園の中心をなしている。水面標高84m、周囲52㎞、面積70.7㎢、最深部179.7m。湖の中央部には中島(最高点は標高455m)をはじめ観音島、弁天島、饅頭島などの中央火口丘がある。南岸には洞爺湖温泉が広がり、付近には活火山の昭和新山や有珠山(うすざん)などがある。

利尻島(りしりとう)・礼文島(れぶんとう)

北海道稚内市の北西20㎞に浮かぶ利尻島と、利尻島から8㎞西にある礼文島。画像は今井八九郎作「礼文島・利尻島測量製図」(東京国立博物館所蔵)で、江戸時代・19世紀の作品(国指定重要文化財)。左下が利尻島図、右上が礼文島図である。浄書本の地図で、経線・緯線ともなく、方位線が数本引かれており、利尻島図は利尻山(利尻富士)を段彩法によって高度をもたせて表している。

知床(しれとこ)

北海道東端、オホーツク海に突き出た半島一帯の地域。平成17年(2005)に世界自然遺産に登録された。最高峰の羅臼岳(標高1661m)などからなる知床連山が縦走するオオワシ、アザラシ、エゾシカなど多数の野生生物の宝庫。画像は知床岬の流氷。

納沙布岬(のさっぷみさき)

北海道東部、根室半島の突端にある岬。根室市に属している。先端に建つ納沙布岬灯台は明治5年(1872)の点灯で、北海道最古の灯台。岬からは珸瑶瑁(ごようまい)水道を隔てて水晶島、勇留(ゆり)島、秋勇留島などの歯舞(はぼまい)諸島の島々を展望できる。

釧路湿原

北海道東部、釧路川と阿寒川の下流部一帯に広がる釧路平野に位置する。標高10m未満の低湿な泥炭地で、釧路市および釧路町、標茶(しべちゃ)町、鶴居(つるい)村 にまたがっている。国指定特別天然記念物のタンチョウなどの野生生物の生息地で、昭和55年(1980)に日本で最初のラムサール条約登録湿地となった。釧路湿原国立公園にも指定されている。

登別温泉

登別市に所在する温泉。画像は大正時代の登別温泉。「青い目の見た大正時代の日本」からのもので、大正6年(1917)から同7年に撮影された日本各地の記録映像。アメリカのスミソニアン博物館とNHKが保管している。登別温泉は江戸時代に硫黄採掘を行いながらつくられた共同浴場が始まりとされる。

大船(おおふね)遺跡

渡島(おしま)半島東岸の函館市南茅部(みなみかやべ)地区に所在する縄文時代中期の大規模な集落跡。国指定史跡。令和3年(2021)に世界文化遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産となっている。画像は整備後の竪穴建物跡や盛土遺構が復元された様子。

松前城

江戸時代の城。松前町に所在し、福山城ともいう。国指定史跡。松前城下は蝦夷地唯一の藩である松前藩の城下町。松前城は慶長5年(1600)に松前慶広(よしひろ)が築いた福山館に始まり、江戸幕府は北辺警備の必要から嘉永2年(1849)に松前崇広(たかひろ)を城主大名に格上げして築城を許可、工事は翌年から開始された。戊辰戦争の際には旧幕府軍の榎本武揚らに攻められ、城中は廃墟と化した。

五稜郭(ごりょうかく)跡

函館市にある日本最初の洋式城郭。国指定特別史跡。伊予大洲(おおず)藩出身の蘭学者、武田斐三郎(あやさぶろう)がフランス築城書のオランダ語訳本を参考にフランス軍人の指導のもとで設計し、安政4年(1857)に着工、元治元年(1864)に竣工した。戊辰戦争の際には、箱館戦争(五稜郭の戦い)が終了する明治2年(1869)5月まで、榎本武揚の率いる旧幕府軍に占拠され、その本拠となっていた。

出来事・行事

北前船

江戸時代に蝦夷地~大坂間を往来した大型和船。北方交易に活躍した。積荷は大坂への上り荷が蝦夷地産の胴ニシン・羽ニシン・身欠きニシン・鮭・コンブなどの海産物、下り荷は米・塩・木綿・古着・酒などで、蝦夷地にとって重要な交易であった。

屯田兵(とんでんへい)の兵屋

画像は「新琴似屯田兵屋の写真」(北海道デジタルミュージアム)。入村時の屯田兵(明治期の北海道に配備された開拓と防備を目的とした土着の兵団)の兵屋の写真で、新琴似兵村(現札幌市北区)の兵屋は開墾や農業に便利なように、それぞれの給与地に一戸建てとされていた。木造切妻式の平屋で、土間や炉のついている。

ニシン漁

画像は「北海道鰊大漁概況図」(余市水産博物館所蔵)。明治22年(1889)に描かれたニシン漁場の活況を示したものであるが、特定の場所を描写したものではない。右には沖の建網でのニシン漁獲作業と浜への陸揚げ、左にはニシンをさいて干したり、釜で煮て圧搾したりして、ニシン粕を製造する作業などが描かれている。 

洞爺丸事件

昭和29年(1954)におこったわが国最大の海難事故。旧日本国有鉄道の青函連絡船「洞爺丸」が、台風15号のために函館港で沈没。在船者1314人中1155人が死亡。その事件は世界海難史上、タイタニック号の事件に次ぐといわれる。写真は遭難した洞爺丸(絵葉書写真)。

札幌オリンピック

昭和47年(1972)2月3日から同月13日まで、札幌市を中心会場として開催された第11回冬季オリンピック大会。アジアで初めての冬季オリンピック大会である。画像は「札幌オリンピック冬季大会記念切手シート」。

青函連絡船の終航

昭和63年(1988年)3月、青函トンネルの開通にともなって北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函連絡船は廃止された。前年のJR北海道発足時には、客貨船として八甲田丸、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸などの計8隻が就航していた。現在では青森に八甲田丸、函館に摩周丸が保存、展示されている。

さっぽろ雪まつり

毎年2月に札幌市内の大通公園を中心として開催される祭り。会場には巨大な雪像やバラエティに富んだ雪や氷の像が展示され、海外からも多数の観光客が訪れる。冬の北海道を代表するイベントで、夜になるとライトアップされた雪像がより迫力を増し、幻想的な世界をうみだす。

へそ祭り

富良野市で毎年7月に行われる祭り。正式には「北海へそ祭り」といわれる。富良野が北海道の中心、すなわち「へそ」にあたることから名付けられた夏祭り。お腹を見せ、へその周りに顔を描き、踊りながら街中を練り歩く。

層雲峡の氷瀑まつり

毎年1月下旬から上川町の層雲峡温泉で開かれる祭り。水と自然の寒さだけで作られた氷の芸術が並び、夜はライトアップされて幻想的な光景となる。

北の大地を踏査した人々

伊能忠敬

日本で初めて実測による日本地図を作製した江戸時代の測量家。上総国山辺(やんべ)郡小関村(現千葉県九十九里町)に生まれる。初め長い南北距離の測量を企て、北辺防備の必要から幕府の許可を得やすい蝦夷地南東沿岸の測量を出願して官許を得た。寛政12年(1800)期待したとおりの成果を収め、のち全国の測量へと発展した。

最上徳内

近藤重蔵とともに蝦夷地を探検・調査した江戸時代後期の探検家。出羽国村山郡楯岡 (たておか) 村(現山形県村山市)に生まれる。天明5年(1785)に蝦夷地に渡り、国後 (くなしり) に至る。寛政10年(1798)近藤重蔵と択捉(えとろふ)島 に赴き、「大日本恵登呂府 (だいにほんえとろふ) 」の標柱を建てた。

近藤重蔵

蝦夷地を踏査した江戸時代後期の探検家。重蔵は通称で、名は守重(もりしげ)。江戸に生まれる。寛政10年(1798)に最上徳内とともに択捉(えとろふ)島に赴き、「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。千島方面を何度も探検し、択捉島への渡航路開設などを指揮した。

高田屋嘉兵衛

蝦夷地開発に貢献した江戸時代後期の廻船業者。淡路国津名郡都志本(つしほん)村(現兵庫県洲本市)に生まれる。文化9年(1812)ゴロブニン(ゴロウニン)幽囚事件の報復として、ロシア船によって国後(くなしり)島沖で捕らえられてカムチャツカに連行された。しかし、翌年に国後島に送還され、ゴロブニンの釈放に尽力し、事件は円満に解決。嘉兵衛も帰国した。

間宮林蔵

江戸時代後期の探検家、測量家。常陸国筑波郡上平柳村(現茨城県つくばみらい市)に生まれる。寛政12年(1800)に箱館 で伊能忠敬に出会って師事。文化6年(1809)に樺太(からふと)が島であることを確認し、間宮海峡の名の由来ともなった。

松浦武四郎

江戸時代末期の北方探検家。伊勢国一志郡須川村(現三重県松阪市)の郷士の子として生まれる。幕末から明治維新期に蝦夷地・アイヌ民族の調査・研究に大きな業績を残した。画像は「松浦武四郎関係資料」で、平成20年(2008)に一部を残して国の重要文化財に指定された。

アイヌの習俗

アイヌ風俗図

平沢屏山筆「アイヌ風俗図」(東京国立博物館所蔵)。屏山は現在の岩手県花巻市生まれ。弘化年間(1844‐1847)に蝦夷地に渡り、十勝地方や幌泉(現えりも町)など豪商杉浦嘉七の請負場所で生活し、アイヌの姿や暮らしを表す風俗図を数多く制作した。画像は、アイヌ装束を着る男女の姿を2面に対で描いたうちの男性図。

アイヌの結婚式

画像はアイヌ風俗絵葉書(たましん地域文化財団所蔵)。白老(しらおい/現白老町)の田邊眞正が出版したもの。

アイヌ村落

アイヌ村落の古写真(東京国立博物館所蔵)。明治時代・19世紀の作品。

アイヌ民家(チセ)(復元)

国立民族学博物館の標本資料。チセとはアイヌ語で家を指し、自然木を素材としたアイヌの伝統的な木造建築である。

アイヌ熊祭図

明治21年(1888)作の「アイヌ熊祭図」(函館図書館所蔵地域資料アーカイブ)。イオマンテ(熊送り)の儀式の過程を描いたもので、アイヌの家とその脇に作られた熊の檻から始まり、小熊と遊ぶ母子、イオマンテに使用するイナヲ(木幣)作り、矢を射かけ丸太で首をしめて子熊をカムイへ送り返すところ、熊祭りの飲酒、奉納の踊りを行う場面を解説を付けて席画風に描いている。

アットゥシ(樹皮衣)

アットゥシは木の内皮の繊維を用いたアイヌの伝統的織物の一種。画像は北海道アイヌの手により、和人の船頭向けに作られたアットゥシ(東京国立博物館所蔵)と考えられており、袖が広袖で、袂のあるものに仕立てられている。こうしたアットゥシは耐水性に優れ、異国情緒に満ちているため、北前船の船頭が好んで使用したという。 

アイヌの刺繍

アイヌの間で伝承されてきた刺繍を紹介する。アイヌの手工芸品には伝統的な文様が装飾され、男性が木・骨・角などの素材に彫刻するものと、女性が布に刺繍するものとがある。衣服の文様は、布に刺繍で施されている。

タマサイ(首飾)

アイヌ文化独特の形態をもつ首飾(東京国立博物館所蔵)。北海道アイヌの作品。玉はシベリアもしくは日本から輸入したものでガラス製。大小さまざまなガラス玉を連ねており、彫刻を施した木箱が附属している。

鉢巻

樺太アイヌの女性が用いた鉢巻(東京国立博物館所蔵)。トムイェという。北海道アイヌとは異なり輪状に作る。表に黒ビロードと色木綿裂を継いで用い、刺繍を施している。              

敷物

アットゥシ地の周縁に紺木綿裂をおいて刺繍した敷物(東京国立博物館所蔵)。樺太アイヌの作品とされる。中央に円文をおき、その周辺を唐草文や花卉文(かきもん)で飾っている。唐草文はモレウ(渦巻文)の起源となる文様であるとの説がある。アイヌには伝承されない技法もみられ、ウイルタ(サハリンの北東部と南部に居住する少数民族)との合作の可能性が考えられる。

アイヌの工芸

アイヌの工芸を紹介する。アイヌの人々は、自然界のすべてのものをカムイ=神として信仰してきた。古来から自然のなかで生活し、その環境から得た美の感覚が工芸にも反映されていると考えられる。

アイヌ鍬形

アイヌが和人から手に入れたものの一つで、本州で用いられた兜の前に立てる飾りである鍬形(くわがた)を模したもの(東京国立博物館所蔵)。北海道アイヌの作品。こうした鍬形は、アイヌ語で「ぺラウシトムカムイ」すなわち「箆(へら)をお持ちになっている宝の神さま」、あるいは「キラウシトミカムイ」つまり「角(つの)をお持ちになっている宝の神さま」と呼ばれる。現在知られているものはすべて偶然に発見されたもので、この作品も大正5年(1916)に栗山町の畑地の開墾中に発見された。

カンジキ

カンジキとは雪上を歩くために用いた歩行具(東京国立博物館所蔵)。北海道アイヌの手になる本例は、一木を曲げて瓢箪形に仕上げており、硬くしまった雪や斜面でも滑りにくくなっている。鹿の毛皮で作った靴をはき、中央のくびれに結んである皮紐で固定する。

アイヌ墓

「史跡モヨロ貝塚ガラス乾板写真デジタルアーカイブ」(東京大学大学院人文社会系研究科附属北海文化研究常呂実習施設所蔵)より。モヨロ貝塚は網走市に所在するオホーツク文化を代表する遺跡で、国指定史跡。大正時代初期からの米村喜男衛(きおえ)による調査研究と保護活動が知られる。画像は東頭位の伸展葬で、鉄鍋・小刀・鎌・ガラス玉、透かし彫りのある青銅製円板、寛永通宝などが副葬されていた。

上川アイヌに関する資料一式 川村カ子トアイヌ記念館

川村カ子トアイヌ記念館は旭川市に所在し、アイヌの運営により1916年に創設された日本最古のアイヌ資料館。施設名は先代の館長、川村カ子ト(上川アイヌの長)にちなむ。アイヌの生活様式を記録した写真資料は特に貴重で、アイヌ楽器、刺繍の体験も行っている。

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参考文献