弁慶
源義経の家臣として知られる豪勇の法師
源義経(みなもとのよしつね)の家臣。豪勇の法師として知られ、武蔵坊(むさしぼう)と称する。生年不詳で、没年は陸奥衣川(ころもがわ、岩手県奥州市)の合戦で義経に殉じたとする伝承に基づいて文治5年(1189)という。実在の人物とされるが、詳細は不明。『吾妻鏡』文治元年11月3日・6日条に、源頼朝(みなもとのよりとも)の追討を受けて京都を逃れる源行家(みなもとのゆきいえ)・義経の従者の一人として「弁慶法師」、「武蔵房(房は史料ママ)弁慶」の名が見える。『平家物語』や『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』などにもその名が見える。『義経記(ぎけいき)』などによると、紀伊熊野の別当の子として生まれ、鬼若と名づけられ、比叡山延暦寺の西塔(さいとう)で修行するが、たびたび乱行を働いたため放逐(ほうちく)された。のち四国の霊山を巡り、播磨国の書写山(しょしゃざん、兵庫県姫路市の円教寺)に入るが、ここでも騒ぎを起こしたという。そして、京都に出て千本の太刀を奪うという悲願を立て、千本目に五条橋で牛若丸(幼名牛若、のちの源義経)の太刀をねらったが果たせず(橋弁慶伝説)、義経の家臣となった。平氏滅亡後には頼朝の追討を受けて義経が西国落ちするが、その際に海上に現れた平知盛(たいらのとももり)の怨霊(おんりょう)を鎮め(船弁慶伝説)、北国落ちの際には加賀の安宅(あたか)の関(石川県小松市)で知謀をめぐらして義経を助け(安宅伝説)、衣川の合戦では敵の矢を受けながら立ったまま死んだという(立往生伝説)。これらの伝説は、謡曲の『船弁慶(ふなべんけい)』『橋弁慶』『安宅』、歌舞伎の『勧進帳(かんじんちょう)』『弁慶上使(じょうし)』などに描かれており、英雄的な人物として扱われている。なお、俗説では弁慶は七つ道具を所持していたといわれ、『義経記』は太刀、刀、鉞(まさかり)、薙鎌(ないがま)、熊手、櫟(いちい)の木を鉄伏せにした棒を挙げているが、道具の種類には諸説があり一定していない。
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| タイトル | 主催者 | 会場 | 開始 | 終了 |
|---|---|---|---|---|
| 逓信総合博物館(ていぱーく) | 2005/2/4 | 2005/2/20 | ||
| 国立公文書館 | 2011/4/2 | 2011/4/21 | ||
| 林原美術館 | 2005/6/12 | 2005/7/17 |
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嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁の開山。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われた。
北海道寿都町(すっつちょう)のHPより。奥州平泉を逃れた源義経・弁慶一行は、蝦夷ヶ島(北海道)に渡り、この地に滞在したと伝えられています。
平成23年度 春の特別展「国立公文書館創立40周年記念貴重資料展Ⅰ 歴史と物語」より。展示された資料は寛文10年(1670)刊で、紅葉山文庫旧蔵のもの。
和歌山県田辺市の田辺観光協会が運営するサイト。トップ画面の「ジャンルから探す」の中の「モデルコース」をクリックし、「武蔵坊弁慶ゆかりのコース」を選択すると、田辺市内の弁慶に関わる名所・旧跡を知ることができる。
島根県立古代出雲歴史博物館の指定管理者の一員でもある「ミュージアムいちばた」が運営するサイト「いずもる」より。島根県松江市内の伝説地を、動画とともに紹介している。
公文教育研究会が運営するサイト。トップページの左上に「弁慶」と入力し、浮世絵を検索する。
江戸東京博物館HPより。平成9年(2005)の展覧会「安政の江戸大地震150年」の紹介ページがあり、そのうちとして「弁慶なまづ道具」の画像が見られる。
参考文献
- 上横手雅敬 編著,文英堂
- サンプルページ「弁慶」の項
- 「弁慶」の項
- 「弁慶」の項
- 「弁慶」の項
- 歴史学研究会 編,岩波書店
- 『義経記』が載っている。
- サンプルページ「義経記」の項
