奇蹄目ウマ科の哺乳類。ウマ類は5000万年前に北アメリカに出現したが、第四紀(260万年前~現代)の初めにアジア大陸に渡り、旧世界で現在のウマ類へ進化した。ロバ類、シマウマ類を除く狭義のウマ類のうち、現生の真の野生種はモウコノウマ(プルジェワリスキーウマ)だけである。家畜のウマはモウコノウマの1亜種を飼いならしたもので、イラン高原、西トルキスタンなどで前3000年代頃に家畜化されたと考えられる。大きさや形の違う200ほどの品種がある。肩高は1.2~1.8mで、多くは1.5mほど。頭頂部から肩までに長毛のたてがみがあり、蹄(ひづめ)は大きく頑丈である。性質はおとなしく、乗用、運搬用、農耕用などに使われ、特に交通や機械の発達していなかった昔は、最も重要な家畜の一つであった。肉はさくら肉といって食用にされ、骨、皮も利用される。
日本で古くから飼育されてきたものには、道産子(どさんこ)の名で知られる北海道和種、木曽馬や宮崎県都井岬の御崎馬(みさきうま)や対州馬(たいしゅうば)など7種がある。明治以降にはさまざまな品種が輸入された。比較的小柄で、乗馬用や競走用とされるアラブ種やサラブレッド種、乗用馬よりは頑丈で、軽い車を引くのに適するアングロノルマン種やハクニーホース種、大型かつきわめて頑丈で力が強く、荷車や重いすきを引くのに使うペルシュロン種などである。
洋の東西を問わず、馬は戦車や騎馬など、軍事用に使われてきた。日本でも大和朝廷は東国に牧をつくり、馬が朝廷に献ぜられる8月には駒牽の儀式が行われた。しかし、日本では軍事用、移動用での用途が重視され、車両の牽引や耕作器具を引かせるための利用は発達しなかった。軍隊の移動や武将の騎乗を目的に育成され、駅を設けて馬を常備する(駅伝制)など、通信・連絡のための利用がこれに次ぐ。牛に比べて暑さに弱いため、西日本では耕作用など動力源としての利用は牛が中心となり、馬を用いたのは、寒冷な東国であった。
古くから、馬は神霊の乗り物とされ、神社に奉納する習俗があったが、馬を奉納できない階層が板絵として収めたのが絵馬の起源とする説がある。また馬を競走させて豊作を祈ったり、吉凶を占ったりした。飼い馬が死ぬと馬頭観音として祀(まつ)られた。白馬は神聖なものとして神祭に供せられ、貴人の乗用となった。白馬を「あおうま」と言うのは、正月7日に天皇が馬を見る白馬節会(あおうまのせちえ)に由来する。白馬とは、白または葦毛の馬で、もとは「青馬」と書いていたが、後に「白馬」と書き改めた。古来名馬に関わる話は多く、『平家物語』の宇治川の先陣争いに出てくる池月と磨墨は著名である。
関連するひと・もの・こと
齧歯(げっし)目ネズミ亜目の動物。農産物や食糧、家屋に被害を及ぼす害獣だが、それだけに人間社会との関わりも深い
古くから神話や物語に描かれた、人間と親密な動物
家畜として最も歴史のある動物。日本でも古くから猟犬や番犬として用いた
年賀状にも使える十二支セレクション
食肉目ネコ科ネコ属の動物で、猫という場合は家畜化されたイエネコを指し、日本にも広く分布している。
偶蹄目シカ科の動物。日本国内では北海道から沖縄まで分布する。
明治のはじめまでは東北地方から九州まで広く生息していた小型のオオカミ。現在は絶滅したとされる。
本で知る
写
21頭の外国産馬の図が描かれた図巻。馬の原産地は、ハルシヤ(ペルシャ)、ジャワ、アラヒヤ(アラビア)で、年齢や毛の色、各馬の特徴を記す。本図巻は慶応義塾大学所蔵『唐蘭船持渡鳥獣之図』(長崎・高木家伝来)とほぼ同構図で、その写しか。
幸若舞曲。頼朝挙兵の際の兵馬集合を題材とする。「馬揃」は、兵馬を集め、集団として、その良否、調練、装備のようすを観閲すること。
馬の病気の治療法を説いた書。寛永頃の刊行。第1冊「はれものの類ひ條々」「けつ馬の次第」、第2冊「しよ病らうやくの次第」、第3冊「内らの次第條々」となっているが、これで完本かどうか明らかでない。原装とおもわれる藍色表紙があるが、題簽は痕跡のみ。書名も仮に付したものである。
似山子,菱屋孫兵衛[ほか3名]
江戸時代の獣医書。馬の病気とその治療法についての本。原本は、宝暦9年(1754)の刊行だが、掲出本は、安政6年(1859)の再版本。
菊池東水,刊
わが国初の本格的な馬の解剖書。菊池東水著。嘉永5年(1852)刊。東水は、 江戸後期の獣医師。一橋家につかえ、馬の解剖を数回こころみ、「解体新書」などの西洋医学書、漢方書なそをを参考に『解馬新書』を刊行した。
総計170人の戦国武将の馬印を集めた図巻。寛永年間の刊。馬印は、先陣で大将が馬の側に立てて、居所や陣地を示すもの。彩色方法は、金銀泥などは手彩色だが、朱や藍、胡粉の白などは木版印刷によっているようである。天地や左右下方に見当の跡らしき黒線が見られる。墨刷り印刷と色刷り印刷の両方が使われていることから、18世紀に始まる多色刷り印刷錦絵の源流とみられ、江戸初期の最も重要な彩色刷り資料である。上質の料紙が用いられている。伝本は少ない。特に武田信玄、明智光秀などを収録した掲出の巻6はこれまで知られておらず、6巻6軸の全巻揃いは国会図書館所蔵本が唯一のものである。
写
江戸中期におこった和流馬術の新流派「大坪本流」の伝書。流祖は斎藤主税定易 (ちからさだやす、1657―1744)。同流は、門弟3000、免許を受けた者90余名という盛況を誇ったとされる。掲出は、
栗原信充 編,金花堂
馬術本。江戸末期の故実家、栗原信充(1794-1870)の著。栗原は、江戸の人。幕府に仕え、「古今要覧稿」の編集に参加したが、のち、病のため辞し、家で著述に従事した。掲出は、馬を走らせて的を射る「騎射」の図。朝廷の行事で、5月5日の端午の節句では、射場の馬場殿(武徳殿)に天皇の行幸を仰ぎ、衛府官の騎射を天覧に供すのを例として騎射の節と呼んだ。
下村時房
古活字版の『平家物語』の中でも最初期の刊行とされ、巻末に「下村時房刊之」とあることから、「下村本」と称されるもの。物語の名場面とされる「宇治川の戦い」では、名馬・磨墨に乗る梶原景季と池月に乗る佐々木高綱の先陣争いが描かれる。
武川清吉
國貞 画,清水屋常次郎
山内義人 著,有隣堂
馬を題材にした文芸作品
賀川豊彦 著,日曜世界社
大正・昭和期の社会運動家、賀川豊彦が手がけた童話作品集。「馬の天国」ほか4篇がおさめられている。
吉田絃二郎 著,実業之日本社
大正から昭和期にかけて活躍した、小説家・随筆家の吉田絃二郎。同作は昭和16年に文部大臣賞を受賞している。
野口雨情 著,新潮社
明治から昭和にかけて活躍した詩人・童謡作詞家の野口雨情による作品集『蛍の灯台』におさめられた作品。
北原白秋 著,アルス
明治、大正、昭和にかけて活躍した詩人・童謡作家の北原白秋による作品集。
高木敏雄 著,実業之日本社
大正3年、ドイツ文学者・神話学者の高木敏雄がまとめた『大正新イソップ』。「塞翁が馬」のほか、「馬の喧嘩」「白馬と黒馬」などがおさめられている。
堤吉兵衛 編,堤吉兵衛
明治20年に出版された絵本。
アンナ・スウェル 著,小出正吾 訳,向井潤吉 絵,羽田書店
1877年、イギリスの女流作家アンナ・シュウエルによる小説。日本語訳は数多く出されているが、本書は昭和24年に刊行された、児童文学作家・小出正吾役によるもの。
もっと知りたい
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>馬の医者の秘伝書で、古の著名な馬医と名馬の姿、馬の薬として用いる薬草の図を表わす。奥書には、文永4年(1267)正月に西阿(せいあ)が七郎兵衛尉忠泰(しちろひょうえのじょうただやす)にこの巻物を与えたと記されている。馬、人物、植物が写実的に、そして生き生きと写し取られている。<br /></p><br /><p> 鎌倉時代の馬の医者の秘伝書として伝えられた絵巻です。古の和漢の馬の名医十人と馬、続いて薬師草、法薬草、阿度者崎(あとはざき)、仏前(ほとけのまえ)、馬頭草、甘草伝、仏座(ほとけのざ)など17種類の薬草の図があります。<br /> 馬は武芸をたしなむものにとって宝です。けがをしたり病気になったりしたときの薬の使い方は、とても大切な事柄だったのでしょう。奥書には、文永4年(1267)正月に西阿(せいあ)が七郎兵衛尉忠泰(しちろひょうえのじょうただやす)に相伝したこと、またこの絵巻の存在や内容は秘密にしなければならないということが記されており、この絵巻の重要性を伝えています。ただし、秘伝書とはいえ、同様の絵巻がほかにも伝わっていることから、広く流布していたと考えられます。<br /> 淡彩を施した薬草の写生的な描写にもご注目ください。</p>
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
従来は足利尊氏の姿を写したものと伝えられてきた騎馬武者像。馬具に描かれた家紋から、近年では家臣の高師直を描いたものとも推定されている。
与謝蕪村,Yosa Buson,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
<p>高価な絖(ぬめ)を使って屏風を描きたいと思っていた蕪村(1716~1783)のために、弟子たちが屏風講を組織して十二双の屏風を描かせたという逸話が残っており、この屏風もその内のひとつと思われる。江戸中期に来日して日本画壇に強い影響を与えた中国の画家・沈南蘋の画風があらわである。</p>
陸軍省兵器取纏所寄贈,東京国立博物館
1月7日に行われる宮中行事「白馬節会」の様子をまとめた絵巻。江戸時代前期に制作されたものとされる。
土佐派,Tosa School
『平家物語』の中の源平合戦の名場面である宇治川先陣争いの場面。宇治川の合戦の先陣を切ろうと先を進む梶原景季に対して後に続く佐々木高綱が馬の腰帯の緩みを指摘し、景季がそれを直そうとする間に高綱が先陣を奪いとるというシーンが描かれる。高綱の素朴な仕草が愛くるしい。代赭の色遣いが印象的で、周囲の添景である緑青による松や柳、群青の海や川の流れに映えて美しい。人物や馬の描写も細部まで丹念に仕上げられている。
歌川広重,Utagawa Hiroshige
現在の静岡県藤枝市にあたる。「人馬継立」とは運ばれる荷物の人足と馬が交代することをいい、本図はその様子が描かれている。右上の問屋場の役人が見守るなか、荷物の引き継ぎ作業が行われ、汗をふき、休みをとる者や荷物を積み直す者など、思い思いの姿が見られる。当時の風情を知れる興味深い図案である。人足が担ぐ荷物に立てられた名札には、版元の「保永堂」、馬のお腹には版元の主人、竹内孫八にちなむ「竹内」の文字が見える。
長谷川等伯筆,By Hasegawa Tōhaku (1539–1610),東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>右に春、左に秋の景色を描き、山野に遊ぶ馬と調教する武人たちの姿を描きます。当時、調馬図(ちょうばず)や厩図(うまやず)といった馬を主題とする作品が多く描かれましたが、等伯のこの作品は松や柳といった花鳥画の要素を盛り込んだ景観の中に、さまざまな模様の馬を丹念に描写しています。</p><br /><p> 左右でセットになった屏風に、ところ狭しとたくさんの馬が描かれています。毛色もからだの模様もさまざまですが、立派な馬ばかり。水辺で馬が駆けたり、首を振り立てたり、うしろ脚を跳ね上げたり、あるいは地面に伏せて休んだりする活き活きとした姿が描写されています。馬に乗る、あるいは調教する武士の姿も見えます。こうした美しく立派な姿の馬は、単なる動物ではなく、いつか乗りこなしてみたい、憧れのスーパーカーのような存在でした。気性が激しいほど良い馬とされ、それを乗りこなしてこそ武士、という感覚もあったようで、馬が非常に躍動的に描かれているのもうなずけます。<br /> 周囲には、さまざまな種類の樹木や草花が丹念に描き込まれています。向かって右側の屏風には藤や柳の若葉といった春の景色、左側の屏風には紅葉や薄、菊、萩などの秋の草花があらわされています。<br /> 馬は、もともとは中国で好まれた画題ですが、日本では武士を中心に広く受け入れられました。こうした中国風の画題に、日本の草花が描きこまれているのがこの作品の特徴的なところです。<br /> 作者の長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師です。これは「信春(しんしゅん)」と名乗っていた若い頃の作品で、かつて押されていた「信春」印がいつしか消されてしまったと伝えられます。</p>
中林竹渓,Nakabayashi Chikukei
彼方の空が朝焼けに染まる頃、雄馬と雌馬と思われる一組の双馬が川のほとりで休息する情景が描かれる。竹渓は馬の絵を得意とし、ある時には一頭の馬を借り庭に放ち一日中写生したこともあったという。本作からもその巧みな技量が見てとれる。また竹渓は晩年、真景図にも取り組むが、遠景の山々は実景に近い雰囲気も漂わせる。画面左上に書された書き付けから、本作が万延元年秋に京都東山の草堂で描かれたことが分かる。
歌川広重,Utagawa Hiroshige
現在の愛知県知立市にあたる。首夏、すなわち夏の初めの馬市の様子を描いている。ここでは毎年4月の末から5月の頭にかけて馬市が開かれていた。野原に立つ杭に多くの馬がつながれており、今まさに馬を連れてきた者の姿も見える。中央の一本松の下では馬喰と呼ばれる馬の仲買人による取引が行われており、そのため、この松は談合松と呼ばれた。様々なポーズをした馬の姿、風になびく草原の描写は動きに満ち、観る者を飽きさせない。
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
<p>韃靼(ダッタン)とは蒙古を意味している(『和漢三才図会』)。本図は韃靼人が野馬を捕獲する場面を画くものだが、普通には、小動物を狩猟する有様が画かれる。武家の御用絵師たる狩野派得意の画題である。</p>
一休宗純筆,By Ikkyū Sōjun (1394–1481),広田松繁氏寄贈,Gift of Mr. Hirota Matsushige,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>一休は臨済宗の禅僧。室町時代後期に京都大徳寺47世となった。後小松天皇の子とも伝えられる。書画に優れ、狂歌が巧みであった。著作に詩集『狂雲集』がある。この作品は、驢馬に乗った詩人杜甫の図に七言絶句の賛を書いたたものである。<br />(田良島哲氏執筆)<br /></p><br /><p> 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の初めから半ばにかけての禅僧です。6歳のときに京都の禅寺、安国寺(あんこくじ)に入り修行をつみました。詩文に優れ、後に京都・大徳寺の住持をつとめるなど、禅僧として名をなしました。江戸時代に、子どものころの逸話としてとんち話が作られて広まり、いまも絵本やアニメにも登場するなど、多くの人に親しまれています。実際に、既存の権威を怖れない自由奔放な生き方が、戦乱の続いた室町時代の世相に訴えかけるものがあったため、多くの人から帰依されました。<br /> そんな一休の生き方を示す逸話をひとつご紹介しましょう。あるとき、きらびやかな衣に身を包んだ僧侶が集まっているところに、一休ひとりみすぼらしいかっこうで乗り込んできました。なんでそんなかっこうできたのかと問われたところ、「皆さんを引き立てるためだ」と答えました。<br /> この作品は、中国、唐時代の詩人、杜甫(とほ)が驢馬(ろば)に乗って旅する様子を描いた絵に、賛がつけられています。杜甫は、世の中の変動に振り回されて官職を失い、流浪の身となった人です。驢馬に乗った杜甫は、その不遇な身の上を表わすものです。<br /> 賛に書かれているのは、こんな内容です。<br /><br />蜀(しょく)の河は広くはてしなく <br />役人の乗る馬に乗ることはできず、ただ驢馬に乗っている。<br />もう70歳になって不遇をかこっている。<br />陽は短く、この世界の中にひとり、惨めなわたしがいるだけだ。<br /><br /> 驢馬に乗る杜甫に託して、自らの鬱屈した気分を詠んだのでしょうか。枯れた趣きの墨の線にもご注目ください。</p>
歌川広重,Utagawa Hiroshige
現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。宮とは熱田神宮のこと。ここでは毎年5月5日に馬の塔といわれる、近郊の村々から馬を奉納するという神事が行われていた。本図では、裸馬に荒薦を巻き、人々が伴走しながら献馬する、俄馬の場面を描いている。奥の藍染めの半纏を着た一群と手前の赤い有松絞の半纏を着た一群が競り合う迫真のシーン。人馬が通り過ぎるスピード感を強調するように、鳥居の左側部分だけが画面の中に収まっている。
岡崎正也氏寄贈,Gift of Mr. Okazaki Masaya,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p> 左右一対の屏風を連続した画面にして、厩(うまや)につながれた6頭の馬を描いています。<br /> むかって右の3頭はおとなしくつながれていますが、左の3頭は脚を跳ね上げた躍動感あふれる馬です。名馬の力強く美しい姿は、権威の象徴としてしばしば絵画のモチーフになりました。しかし、この屏風について、どんな人が作らせたのか、どんな意味がこめられているのか、実はあまりよくわかっていません。この馬たちは武芸用の馬で、その美しい姿を愛でたものかもしれませんし、あるいは神馬で、なにか願いをこめて描かれたのかもしれません。<br /> よく見ると、厩には様々な人が集まっています。どうやら様々なボードゲームを楽しんでいる様子。むかって右の屏風では囲碁、左の屏風では将棋と双六(すごろく)で遊んでいます。そのほかにも、寝そべっている人、茶を運んでいる人、馬をじっと見ている人などがいますが、それぞれがどんな関係で、画面全体ではどんな場面を表わしているのか、よくわかっていません。<br /> さらに、右の屏風には犬、左の屏風には猿が登場します。猿は厩の守り神とされ、しばしば馬とセットで描かれます。犬は、もしもこれらの馬が武芸用だとすると、鷹狩りなどの際に馬とともに使われたものかもしれません。<br /> さらに興味深いのは、屏風の両端に描かれた厩の外の風景です。右は、松に藤、白鷺と亀、左には桜に柳、鶴と鴛鴦(おしどり)。いずれも吉祥のモチーフをちりばめた風景が描かれています。</p><br /><p>厩舎に繋がれた六頭の馬を中心に、その前には囲碁、将棋、双六に興じる人々、犬や猿も見えます。屋外には右隻に松、藤、鷺、亀、左隻に桜、柳、鶴、鴛鴦など、おめでたい動植物も添えられています。馬は富の象徴でもあり、多くの馬を描いた屏風は室町時代に流行しました。<br />きゅうしゃ、いご、しょうぎ、すごろく、さぎ、おしどり<br /></p>
川合玉堂氏寄贈,Gift of Mr. Kawai Gyokudō,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p> 聖徳太子(しょうとくたいし)は、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家の体制をうちたてた、飛鳥時代(あすかじだい)の政治家です。四天王寺(してんのうじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)を建てるなど、仏教の興隆にもつとめました。<br /> この作品は、聖徳太子の生涯を描いた3幅の掛け軸です。第一幅は太子が16歳から21歳までの間の11場面、第二幅は22歳から29歳までの間の13場面、第三幅は太子の死からその24年後の大化(たいか)の改新(かいしん)により蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺されるまでを描いています。場面の内容からすると、もとは8幅(ぷく)一組で太子の全生涯の物語をカバーしていたと考えられます。<br /> 興味深いエピソードがたくさん描かれているのですが、とても全部は紹介できませんので、ここではそのうちの一つをご紹介しましょう。<br /> 第二幅の下のほうを見てください。黒い馬に乗った聖徳太子が描かれています。これは、太子がまだ20代の頃のお話。太子が諸国から馬を献上させたところ、その中に1頭の神馬がいることを見抜きました。太子がその馬にまたがると、馬は天高く駆けて雲の中に消えていき、富士山を越え、現在の長野県、信濃国(しなののくに)まで行き、さらに今の福井県から新潟県にあたる越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)を通って3日で都に駆け戻ったという伝説の場面です。雪をかぶった富士山を、聖徳太子をのせた馬が軽々と越えていく様子が描かれています。</p><br /><p>日本仏教興隆の祖として知られる聖徳太子の生涯の事蹟を描いた図です。各幅とも上から下へ順に事蹟が配されています。事蹟内容から本来は八幅一組と推測され、独自の場面選択や図様が特徴的です。品のある穏健な描写と彩色が美しい作例です。<br /></p>
葛飾北斎,Katsushika Hokusai
関屋の里は現在の足立区千住付近の隅田川に面する一帯のことを指す。鎌倉時代に関所が設けられていたことからその名がついたという。朝霞がたちこめる早朝であろう。遠方には朝の日に照らされた赤富士が見える。田畑にのびる堤の上を疾駆する3騎の早馬の臨場感がよく伝えている。右端に描かれているのは法令などを掲示する高札場。中央に伸びる松の木は明らかに富士の山容を意識した枝振りをしている。
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
<p>上半身は紅絞染の角立石畳(すみだちいしだたみ)文様、下半身は斜に京・上賀茂神社の5月5日の行事・競馬(くらべうま)を、主として友禅染であらわしている。友禅染の細部は白い糊糸目(のりいとめ)や各種の多彩な色差しが特に精緻で、江戸時代中期の友禅染技法の高い水準をしめす。また楓葉のざわめくように乱れた表現は、2馬の馳けぬける速さや、見物する人々の熱気さえ感じさせ、上下の技法の対照的な扱いや、構成の巧みさとともに、丹念に練られた優れた意匠力をうかがわせる。現状は通例の小袖ながら、もとは小児の衣裳であったと考えられる。</p>
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>公家や武家、そして庶民にいたる様々な階層の風俗を描く。右端には旧暦正月の羽根つきや毬打*だきゅう*、二番目の画面には三月の花見、左端には十二月の雪遊びなどが見える。季節や月ごとの行事を描く、伝統的なやまと絵画題である月次絵*つきなみえ*の形式を継承したもの。<br /></p><br /><p> 日本の伝統的な大和絵の画題のひとつに、1年12ヵ月の行事や風俗、自然の美しい景観などを月の順に並べて描く「月次絵」(つきなみえ)があります。平安時代中期(9世紀末~10世紀)以降に、和歌と結びついて流行したもので、画面にはそれぞれの月の情景を詠みこんだ和歌が書かれていることも多く、歌枕(うたまくら)などで知られた諸国の名所が、それにふさわしい月の風景として描かれる名所絵風のものもありました。<br /> この作品は、その「月次絵」の形式を継承して、室町時代・16世紀に描かれたものです。公家や武家、そして庶民にいたるまで、様々な階層の人々の風俗が描かれています。<br /> 向かって右から、旧暦正月の羽根つきと打毬(だきゅう)、2枚目のパネルは3月の花見を、3枚目と4枚目は5月の田植えの風景を連続して描いています。以下、5枚目は5月で競馬(くらべうま)と衣更(ころもがえ)、6枚目は月が不明ですが犬追物(いぬおうもの)と蹴鞠(けまり)、7枚目は8月で富士山麓の巻狩りと十五夜の満月、8枚目は12月で雪遊びなどが描かれています。<br /> それぞれの場面に描かれる人々の生き生きとした姿をお楽しみください。</p>
一蕙斉芳幾
船橋市金杉の御滝山不動堂(滝不動)の四季を芝居絵仕立てで描いたもの。春は現在の御滝公園付近で行なわれた競馬。夏は今も残る竜の口から滝の水が流れ落ちる修業場。秋は境内で行なわれた夜踊り(盆踊り)。冬は境内の池に面した石段下が描かれている。
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p> 天野社に伝来したもの。婦人乗馬、胡蝶舞のどちらも木板製彩色で、大きさ、作風とも同様であり、同じ時期の製作と見られる。社殿装飾としての華鬘で、風俗画が描かれており、華鬘の形を踏襲しながら、意匠は仏教からかけはなれたものとなっている。<br /></p>
後藤貞行作,By Gotō Sadayuki (1849–1903),東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>後藤貞行は軍馬局に勤めながら彫刻を学び、明治天皇所有の馬である金華山号の彫刻を制作した。明治23年(1890)には東京美術学校に転じ、高村光雲(たかむらこううん)による監督のもと、皇居前に建つ楠木正成(くすのきまさしげ)銅像の馬の原型制作たずさわった。写実を徹底するため馬の解剖も行なったという。</p>
馬具(鞍・鐙など)
奈良国立博物館,Nara National Museum
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p> 鞍は馬の背中に人を乗せるための道具です。日本の鞍は馬に乗る人物が腰を乗せる居木(いぎ)、その前に立てる前輪(まえわ)、後ろに立てる後輪(しずわ)の三つのパーツからできています。この鞍は、萩の文様を、前輪と後輪のゆるやかにカーブした形を生かして伸びやかにあらわし、巧みなデザイン感覚がうかがえます。貝がらの内側を平らに加工して文様の形にカットしたものを鞍に貼り、一度黒い漆を塗ってから研ぎ出してあらわしています。この技法は「螺鈿(らでん)」と呼ばれ、真珠のように七色に輝くその文様表現は日本の漆工芸で広く用いられています。平安時代特有の優美で繊細な感覚がみられる日本の鞍を代表する作品です。</p><br /><p>前輪[まえわ]や後輪[しずわ]の外面には海・磯とよばれる起伏があり、前輪の肩には乗馬の手掛かりとする手形[てがた]が見えます。こうした形式は中世鞍に繋がる特徴です。萩の花枝は厚い夜光貝[やこうがい]を用いた螺鈿で、居木[いぎ]の上面にも折枝を散らし、情趣溢れる姿を生み出しています。</p>
銘 正良,Signed Masayoshi
4つの花弁を菱形に合せた花菱紋を菱繫の連続文として蒔絵で表した鞍と舌長鐙。双方が同様の意匠と技法で飾られている。乗馬で用いる馬具の一種である。居木と前輪と後輪の背面は梨子地。鐙は鞍の両側に鐙革で左右一対を吊下げて、乗る人が足を掛けるもの。踏み込みの内部は朱漆塗。紋板は透かし彫りで橘を表わす。鞍の前輪と後輪をつなぐ居木の裏面右側に陰刻銘「京保十二年三月吉日」左側に「政吉(花押)」がある。
高崎市臨時水道部寄贈,Gift of the Provisional Water Supply Department, Takasaki City,東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>轡+くつわ+とは馬を制御する馬具で、銜+はみ+を口にはめ、その両端にf字形の鏡板+かがみいた+を付けて引手+ひって+を手綱+たづな+に繋+つな+ぎます。地板・縁金だけでなく、鋲頭や銜の端にも金銅を被+かぶ+せた装飾性の高い鏡板です。4世紀末に登場した乗馬の風習は馬具の国産化を受けて5世紀後半に広く普及しました。<br /></p>
東京国立博物館,Tokyo National Museum
<p>馬装の装飾化は、轡(くつわ)や鞍(くら)、鐙(あぶみ)にとどまらない。馬具を装着するための革帯から垂下する杏葉(ぎょうよう)・馬鐸(ばたく)・馬鈴(ばれい)、革帯の交差部分を留める雲珠(うず)、歩揺(ほよう)付飾金具等は、視覚的、聴覚的に騎乗者の威信を表象した。銅に金鍍金を施した金銅製、白銅色に輝く鋳銅製のものがみられる。<br /></p>
4つの花弁を菱形に合せた花菱紋を菱繫の連続文として蒔絵で表した鞍と舌長鐙。双方が同様の意匠と技法で飾られている。乗馬で用いる馬具の一種である。居木と前輪と後輪の背面は梨子地。鐙は鞍の両側に鐙革で左右一対を吊下げて、乗る人が足を掛けるもの。踏み込みの内部は朱漆塗。紋板は透かし彫りで橘を表わす。鞍の前輪と後輪をつなぐ居木の裏面右側に陰刻銘「京保十二年三月吉日」左側に「政吉(花押)」がある。
京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
<p> 京都府福知山市の牧古墳群中にある弁財1号古墳から出土した遺物。古墳は直径20m、高5mの円墳で、墳頂に弁財天を祠るほこらが建っている。昭和30年に偶然石室の東側面が掘削され、内部の遺物がとりだされた。<br /> 横穴式石室は長さ5.5m、幅1.8m、高さ2mで、比較的規模のおおきなものであった。正式の発掘調査ではないために遺物の配置状況などは不明である。周囲に鈴を付けた八鈴鏡、金銅製の鈴、馬具の轡・杏葉・辻金具、武器としての鉄刀・鉄槍・鉄鏃、須恵器の高杯や台付き長頸壺などが出土している。とくに馬具の轡が4組もある点が注意される。<br /> 古墳時代後期、6世紀末~7世紀初頭頃の古墳である。</p>
唐三彩の馬
埴輪の馬
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福島県南相馬市で毎年7月に行われる相馬野馬追は、千年の歴史があるお祭りで、国の重要無形民俗文化財に指定されています。かっちゅうに身を固めた500余騎の騎馬武者が疾走する勇壮なお祭りです。また、南相馬市では2013年、太陽光発電所と植物工場を舞台に、子どもたちが自然エネルギーや新しい農業に<br>ついて体験学習出来る施設「南相馬ソーラー・アグリパーク」が建設されました。<br><br>(この動画は、2013年に取材したものです。)
この唄の源流は、関東から東北地方南部にかけて広く分布する酒盛り唄「イッチャ節」のような「甚句」です。<br>それが相馬地方へ伝えられ、合いの手が「ナンダコーラーヨート」に変化し、唄の歌い出し「ハアー」の部分を長くしていったのが「新相馬節」です。 収録/昭和16年<br>【歌詞】<br>ハアー 相馬相馬と木萱もなびくナンダコーラヨート(アー チョイ チョイト) なびく木萱にコラー花が咲くナンダコーラヨート(アー チョイ チョイト)<br>お前来るかと浜まで出たがドシタイコーラヨー 浜は松風音ばかりドシタイコーラヨー<br>相馬中村石屋根ばかりナンダコーラヨート 瓦<変ら>ないので人が好くナンダコーラヨート<br>心せけども 今この身ではドシタイコーラヨー 時節待つより 他はないドシタイコーラヨー
相馬野馬追いの行事唄です。<br>唄の源流の「甚句」を相馬地方で「田植唄」に利用したため、朗々とした節廻しになりました。それを宵宮の行事の待ち時間に歌っているうち、次第に野馬追い行事の中へと取り込まれていきました。 収録/昭和16年<br>【歌詞】<br>相馬流山アー ナアー アアアー アー アー エー ナー アアアー アー ア <br>アー エー 習いーたー アアアー かアー ごオオーざアれ ナアー アアア <br>エー 五月中の申ナアー アアアー エー ナー アア アー アー アアー <br>エー アアノサ おー オオオー 野馬追いナアー アアアー エー<br>向いの小山の崖のつつじ及びなければ みて暮らす
岩手県下の、博労とよ呼ばれる馬の商いをしていた人々が、馬市などへの往来に、何頭もの馬を曳いて、<br>夜間移動する時に歌ってきたものです。<br>南部藩には、もともと御用馬を江戸へ送る御用博労が歌った「南部駒曳唄」があります。おそらく民間博労が、<br>そうした唄を欲しがって歌い始めたのが、「馬方節」ではないかと推測されます。<br>「馬方節」は、南部のものが東北一円に広まっていき、それぞれに県名や藩名を冠した曲名ができました。<br>この「馬方節」は、今日の「南部馬方節」に当ります。<br><br>収録/昭和16年<br><br>【歌詞】<br>アアーエ アアーアーアーエ 南部片富士アーエ裾野の <br>オーエ アー原はト(ハイー ハイ) ハーアア <br>西もエ東もエ 馬ばかりト(ハイー ハイ)
兵庫県尼崎市の街なかにある、園田競馬場。90年の歴史を持つこの競馬場には様々な熟練のプロたちが。そのひとり、予想屋のよっちゃんこと、田中義彦さん。予想屋とは、その日のレースを独自に分析し、予想を客に売る仕事。よっちゃんはこの仕事一筋62年。自慢の売り口上を武器に4人の子どもを育て上げました。よっちゃんが毎朝通うのは昭和24年創業の場内で一番古い食堂。競馬ファンの胃袋を満たしてきた憩いの場です。ここにはよっちゃんの友達、園田競馬場の名物アナウンサー吉田勝彦さんも集います。吉田さんの熱のこもった実況は「吉田節」とも呼ばれ、全国のファンが聞きに訪れます。そのキャリアの長さはギネス世界記録にも認定されました。ベテランたちが競馬文化を支えてきた、園田競馬場です。<br>(この動画は、2019年に放送したものです。)<br>
十勝地方の中心、帯広。北海道ならではの競馬があります。重いソリを引き、障害を越える「ばんえい競馬」。出走するのは、体重1トン近い大型の馬、ばん馬です。サラブレットに比べ、太い体と足を持ち、農耕や運搬の仕事を担ってきました。開拓時代から北海道の生活に欠かせなかった馬。男たちが自慢の馬を持ち寄って強さを競ったのが、ばんえい競馬の始まりとなった「草ばん馬」です。ばんえい競馬は根強い人気を誇っていましたが、バブル崩壊後、売り上げが低迷。帯広以外に3か所あったばんえい競馬場はなくなりました。帯広でも廃止が議論されましたが、地元の人々は存続の道を模索。市民の協力を得て、廃止の危機を乗り越えることができました。 <br>(この動画は、2018年に放送したものです。)
城下町として栄えた香川県丸亀市。120年続くお餅屋さんで作ってるのは、真っ白な餅の「馬」。3升分の米を使い、ディテールにこだわって作り上げます。旧暦の8月1日、男の子がいる家で飾られる「八朔(はっさく)だんご馬」です。この風習が生まれたきっかけは、丸亀藩にいた馬術の名人・曲垣平九郎(まがきへいくろう)。そのたくましさにあやかり、子どもが健やかに育つことを願って農民たちが始めたといわれています。小分けにしただんご馬は、家族で食べるだけでなく親戚や近所の人たちへ配ります。子どもの成長を願い幸せのお裾分け。家々を駆け巡り人の心をつなぐ、だんご馬です。<br> (この動画は、2018年に放送したものです。)
岩手山の南東に広がる滝沢市。6月、色とりどりの装飾品に身を包んだ馬が町を練り歩く、「チャグチャグ馬コ(うまっこ)」の祭りが行われます。江戸時代、春の田植えが終わると、馬を連れて神社に詣で、労をねぎらったのが始まりと伝えられています。かつて南部藩は、起伏が緩やかな岩手山麓の一帯を放牧地として利用し、名馬を生み出すことで知られました。祭りで馬が身につける錦の装束や金の鈴などの装飾品は、かつて南部藩が幕府への献上品を運ぶ馬につけた飾りに由来しています。チャグチャグとは、全身につけた鈴の音色を表すとか。この年は、81頭の馬が盛岡までおよそ13キロを練り歩きました。<br> (この動画は、2018年に放送したものです。)
大地を蹴り、鼓動を鳴らして駿馬が駆け抜けます。<br><br>(この動画は、2001年に放送したものです。)
最上川の上流、山に囲まれた山形県長井市では、地元の名産品を使った「馬肉ラーメン」が大人気。黒々とした大きな馬肉のチャーシューがのっています。スープは、醤油ベースのサッパリ味。ダシの煮干しと馬肉の甘みが合わさって、絶妙な美味しさです。馬肉のチャーシューは、肩の部分の肉を、醤油でじっくりと煮込んで作ります。長井市では、かつて農耕用の馬が多く、年老いて働けなくなった馬の肉を食すという文化が引き継がれて来ました。安くて、比較的手に入れやすい馬肉を、ラーメンの具材に使うというアイディアは、この土地ならではのものです。<br><br>(この動画は、2009年に取材したものです。)
沖縄県沖縄市にある動物園の広場では、ウチナーンチュが夢中になる競馬「ンマハラシー」が行われています。普通の競馬とは違い、走る姿勢や優雅さで勝敗が決まります。起源は300年前、琉球貴族の遊びでした。次第に庶民の娯楽として広まり、沖縄中に150以上もの会場がありましたが、太平洋戦争の最中、アメリカ軍の上陸に備え日本軍が馬を徴用。ンマハラシーは1943年を最後に途絶えてしまいました。2013年、有志たちの手により70年ぶりに復活したンマハラシーは、若い世代にも広がりを見せています。琉球大学馬術部では学生たちが地元の人から馬を借りて練習に励んでいます。戦争を乗り越え未来へと受け継がれる、ンマハラシーです。<br>(この動画は、2019年に放送したものです。)
高知市の郊外にある高知競馬場は、馬場の砂が他の地方競馬場の平均と比べて5センチも厚いのが特徴。そのクッション性の高さで足への負担が少ないこともあり、故障した馬たちが集まってきます。調教師の雑賀雅光さんは、足を痛め再起不能といわれた馬を何頭もレースに復帰させてきました。実は雑賀さんも調教師となって2年目に地元・和歌山の競馬場が閉鎖、職を失うという挫折を味わいました。34年前に高知にやってきて地道に勝利を重ね、今や日本一勝てる調教師として記録を更新中です。ところでこの高知競馬場も売り上げが低迷し存続が危ぶまれたことが。窮地を脱するため全国で初めて通年のナイターを開催。そして勝てていない馬を集めて競わせる「一発逆転ファイナルレース」を行うなど工夫を重ね、10年で売り上げを10倍に伸ばしました。馬も人も、もう一度立ち上がる高知競馬場です。<br>(この動画は、2019年に放送したものです。)<br>
昔から馬の産地として有名な岩手県。「南部馬」とよばれる馬は、長年、人間の相棒として仕事や生活を共にしてきました。しかし、その風景が見られる場所も今では少なくなっています。<br><br>(この動画は、2011年に放送したものです。)
鎌倉の鶴岡八幡宮。武士の守り神がまつられ、毎年9月16日に流鏑馬神事がおこなわれます。馬上で弓をひくのは、有力武士の流れをくむ小笠原流の門人。その挑戦を描きます。<br><br>(この動画は、2011年に放送したものです。)
「手落とし木遣」は林業の仕事唄で、丸太を運び出す「大木遣」「木出し木遣」と同じ種類のものです。民謡が唄われていた三石という地区は、北海道の襟裳岬にのびる日高山脈の南西にあり、馬産地として知らた所です。 収録/昭和54年<br>【歌詞】<br>アラ来いとサーノ(ヨイショー)アラ来いぼつぼつ(ヨイショー)ぼつぼつやりましょ(ヨイショー)来いさこら(ヨイショー -以下略-)一寸曳きでも十やりゃ尺だ もうけたお金は みんなあの娘の あの娘の化粧代だ 来いサーノー来いとサー ほら 来い晩には 晩には飲ますぞ 皆さん元気で ほら 来い押して来いよー<br>-以下略-
| タイトル | 主催者 | 会場 | 開始 | 終了 |
|---|---|---|---|---|
| 東京都写真美術館 | 2001/12/1 | 2002/2/24 | ||
| 八戸市美術館 | 2002/4/27 | 2002/6/30 | ||
| 高浜市やきものの里かわら美術館 | 2003/7/5 | 2003/8/17 | ||
| 本郷新記念 札幌彫刻美術館 | 2005/6/24 | 2005/8/21 | ||
| 馬の博物館 | 2011/2/17 | 2011/4/17 | ||
| 長野県信濃美術館 東山魁夷館 | 2010/7/15 | 2010/9/28 | ||
| 馬の博物館 | 2011/4/23 | 2011/6/5 | ||
| 馬の博物館 | 2010/10/2 | 2010/12/5 | ||
| 鹿追町民ホール | 2017/10/3 | 2017/10/10 | ||
| 宮崎県立西都原考古博物館 | 2009/1/16 | 2009/3/15 | ||
| 大倉集古館 | 2009/1/2 | 2009/3/15 | ||
| 鹿児島市立美術館 | 2010/5/25 | 2010/7/19 | ||
| 財団法人 島田美術館 | 2010/9/3 | 2010/12/26 | ||
| 馬の博物館 | 2011/2/17 | 2011/4/17 | ||
| JRA競馬博物館 | 2010/10/6 | 2011/2/3 | ||
| 岩手町立石神の丘美術館 | 2010/12/4 | 2010/12/23 | ||
| 清里フォトアートミュージアム | 2002/7/20 | 2003/1/19 | ||
| 馬の博物館 | 2010/12/11 | 2011/2/13 |
見に行く
尻屋崎周辺で放牧されている。雪の中佇む姿が有名。
野生化した御崎馬を見ることができる。御崎馬の歴史などが学べる「うまの館」がある。
木曽馬が放牧されている。馬車で場内を周ることができる。
福島県相馬市で毎年7月末の土・日・月曜日に行われる三つの妙見社の祭礼で、国指定重要無形民俗文化財に登録されている。古式競馬、甲冑競馬、野馬懸などを見ることができる。
国立国会図書館は、国会に属する唯一の国立の図書館です。国内外の資料・情報を広く収集・保存して、知識・文化の基盤となり、国会の活動を補佐するとともに、行政・司法及び国民に図書館サービスを提供しています。
日本と東洋の文化財を守り伝える中心拠点としての役割を担う我が国の総合的な博物館です。
東京富士美術館は、1983年11月3日に東京西郊の学園都市・八王子にオープンしました。「世界市民を育む美術館」をモットーに、世界31カ国・1地域の美術館や文化機関との友好関係を築きながら、各国の優れた芸術を紹介する海外文化交流特別展を企画・開催しています。収蔵品は日本・東洋・西洋の各国、各時代の絵画・版画・写真・彫刻・陶磁・漆工・武具・刀剣・メダルなど約3万点に及び、とりわけルネサンス、バロック、ロココ、ロマン主義、印象派、現代にいたる西洋絵画500年の流れを一望できる油彩画コレクションと、写真の誕生から現代までの写真史を概観できる写真コレクションは国内有数のコレクションとして知られています。
仏教美術及び奈良を中心として守り伝えられてきた文化財を取り扱う博物館です。
平安時代から江戸時代の京都文化を中心とした文化財を取り扱う地域に根ざした博物館です。
ジャパンサーチの外で調べる
「桑島流秘伝馬医巻物」や「馬医醍醐」など貴重書が見られる。
現役から引退した馬や牧場の情報などを調べることができる。
参考文献
- 日立デジタル平凡社,平凡社
- 責任表示
- 国立国会図書館
- 二次利用について
ただし、画像は個々の権利表示による
- 最終更新日
- 2026/01/23