ザ★刀剣 ─ 千年の匠の技と美 オンライン展覧会
東京富士美術館で2016年3月29日から7月3日まで開催された企画展「ザ★刀剣 ─ 千年の匠の技と美」展のオンライン展覧会です。
ごあいさつ
一千有余年の伝統を持つ世界に誇る日本独自の美──日本刀。本展は、平安時代から現代までの所蔵刀剣の中から重要文化財3 口を含む約40 口の名品をご紹介する、当館で初めての開催となる本格的な刀剣展です。
古代、大陸より鉄器が伝来し、日本に刀剣がもたらされ、平安時代後期には鎬造と緩ゆるやかな反りを持つ日本刀独自の姿が名工・伯耆国安綱の時代に完成します。当館が所蔵する最も古い作は、平安時代後期、その安綱の孫とも伝えられる有綱の現存作品の中でも最上位に位置する太刀(重要文化財)、平安時代末期~鎌倉時代前期の正恒の太刀(前期展示)があります。
鎌倉に武家政権が確立し、武士の文化が花開くとともに日本刀も黄金時代を迎えます。鎌倉武士の美意識を反映し、各国各派の刀工による鍛錬・焼入れ技法が発達し、山城、大和、備前、相模を中心に数多の名工が生まれました。中でも備前福岡一文字派は華麗な作風で知られ、当館が所蔵する「一」の銘を刻む太刀(重要文化財)は、この派の最盛期の名刀として知られています。また、鎌倉一文字派の助真の太刀(前期展示)、片山一文字派の則房の太刀(後期展示)、相州行光の短刀(前期展示)など備前・相州を中心とする古刀を所蔵しています。
続く南北朝時代には、戦乱の影響を受け、刃長3 尺(約90cm)以上もある大きな太刀が流行するなど豪壮な造りが特色となります。長船派の名工・長光の弟子とされる近景の太刀(重要文化財)をはじめ、山城国の来国真の刀(後期展示)、石見国の直綱の刀(後期展示)はこの時代の気風を伝える名品です。
江戸時代、乱世から天下泰平の時代が到来すると、幕府により武士の大小二本指しが規定され、刀は宝物・贈答品としての性格を強めます。各地の大名は刀工を抱え刀剣を作らせますが、刀工が活躍した中心地は江戸と大阪でした。江戸時代前期に活躍した長曽祢乕徹、長曽祢興正の刀、江戸石堂派を代表する刀工・石堂常光、江戸時代後期では斎藤清人の刀(前期展示)や第十代水戸藩主・徳川慶篤(順公)の脇指などを所蔵しています。
本展では刀身を間近に鑑賞することのできる工夫を凝らした展示で刃文の美を鑑賞して頂くとともに、刀装具や武具甲冑、屏風や絵巻、浮世絵などの合戦絵・武者絵等の絵画、書跡なども展示し、日本独自の美として一千年にわたり育まれてきた刀剣美の世界とその魅力をわかりやすく楽しめる展示でご紹介します。
このたびの展覧会の開催にあたっては、ご後援いただいた公益財団法人日本美術刀剣保存協会(刀剣博物館)より作品の展示構成指導・展示指導等の多大なご協力をいただくとともに、刀剣博物館ご所蔵の貴重な名刀をご出品いただきました。また、本展の開催にあたり、刀工月山派800 年の歴史をたどる刀剣をご出品いただくとともにご支援・ご指導を賜りました刀匠・月山貞利氏と月山貞伸氏、貴重なご所蔵品をご出品いただいた佐藤彦五郎新選組資料館、ご所蔵家各位に心より感謝の意を表しますとともにご後援、ご協力を賜りました関係各位に対し、厚く御礼申し上げます。
展示室映像(YouTube)
目次
一章 刀剣・五大流派(五箇伝)の時代:古刀期(平安時代後期〜室町時代末期)
古代、大陸より鉄器が伝来し、日本に刀剣がもたらされ、平安時代後期には鎬造と緩やかな反りを持つ日本刀独自の姿が完成します。鎌倉に武家政権が確立し、武士の文化が花開くとともに日本刀も黄金時代を迎えます。鎌倉武士の美意識を反映し、各国各派の刀工による鍛錬・焼入れ技法が発達しました。古刀期における主な産地の技術を五箇伝と称し、具体的には山城伝(京都府)、大和伝(奈良県)、備前伝(岡山県)、相州伝(神奈川県)、美濃伝(岐阜県)に分けられ、多数の名刀を輩出しました。
ザ★展示 I 特別出品〜伝宮本武蔵所持・名物武蔵正宗と妖刀村正〜
正宗は、鎌倉時代末期に鎌倉で活動し「相州伝」と呼ばれる作風を芸術の域にまで完成させた著名な刀工です。刀剣博物館所蔵の刀 無銘 伝正宗(名物武蔵正宗)〈重要美術品〉は、徳川慶喜から山岡鉄舟、そして岩倉具視に伝わった名刀です。宮本武蔵が所持していたとの説もあります。
村正は、現在の三重県桑名で活躍した刀工の名前です。刀 村正(刀剣博物館所蔵)は、室町時代末期の作です。徳川家に害を及ぼす妖刀伝説として知られる村正ですが、徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重され、一説では真田信繁(幸村)も所持していたと伝わります。本作は高松宮家旧蔵品で、もとは有栖川宮熾仁親王が指料(腰に差すこと)とされていた歴史的にも貴重な作品です。
※展覧会開催時に刀剣博物館より借用展示した刀 無銘 伝正宗、刀 銘 村正の2点は本オンライン展示には含まれていません。
本図と《草花図下絵和漢朗詠集和歌》は、もともと六曲一隻の屏風仕立てのものを各扇ごとに表具したもの。本作は第2扇に仕立てられていた。金地の下部に宗達工房の下絵と思われる女郎花、菊、芒といった秋草をあしらい、漢詩が認められている。漢詩は和漢朗詠集・上巻のうち春の雨の部にある平安時代の文人慶滋保胤の詩「斜脚暖風先扇処 暗声朝日未晴程(斜脚は暖風の先づ扇ぐ処、暗声は朝日のいまだ晴れざる程)」の句。
本図と《草花図下絵漢詩》は、もともと六曲一隻の屏風仕立てのものを各扇ごとに表具したもの。本作は第四扇に仕立てられていた。宗達工房の下絵と思われる金地の秋草図に、和歌を認めている。和歌は平安前期の女流歌人伊勢の作で、和漢朗詠集・上巻のうち春の雨の部にある「青柳の 枝にかかれる 春雨は いともてぬける 玉かとぞみる」の句を数行に分かち書きにしている。
山城伝
大和伝
備前伝
相州伝
美濃伝
後三年合戦絵巻(写)
南北朝の戦い/楠木正成・正行父子
ここに描かれているのは、楠木正成の息子正行が壮絶な討ち死を遂げた四條畷の戦いである。四條畷は現在の大阪府四條畷市にあたる。正行は父正成の死後、南朝方として北朝の足利尊氏を討つべく準備をしていた。父譲りの戦略でいくつかの戦では勝利を得たものの、勢力の差はいかんともしがたかった。四條畷において、決死の覚悟で敵陣に突っ込み、無数の弓矢を射かけられるなか敵の大将高師直まであと一歩とせまるが取り逃がし、最後は自刃して果てたと言い伝える。この模様は「太平記」に詳しく書かれ、忠孝の父子として江戸の庶民に広く読み継がれていた。
「楠公父子」とは鎌倉・南北朝時代の武将楠木正成(右幅)とその息子正行(左幅)のこと。正成は後醍醐天皇の討幕運動に加担し、幕府と敵対。本作は正成が最期を遂げる湊川の合戦を前にした桜川での父子の別れの場面に因む。父正成は行く先のある息子正行に後事を託し再起を期待した。右左幅共に「鉄線描」といわれる強弱の少ない簡明な描線と薄い彩色を用いて、厳粛な場面にふさわしい静謐な画調を作り上げている。外遊が契機となり、日本の古典に改めて目を向けた契月は《経正》、《敦盛》(いずれも京都市京セラ美術館蔵)をはじめ、こうした清澄な歴史画を自らの仕事の一つとした。また同時期に《大楠公》(足立美術館蔵)、《小楠公弟兄》(京都市京セラ美術館蔵)、《楠公》(金蓮寺蔵)も手がけている。
「楠公父子」とは鎌倉・南北朝時代の武将楠木正成(右幅)とその息子正行(左幅)のこと。正成は後醍醐天皇の討幕運動に加担し、幕府と敵対。本作は正成が最期を遂げる湊川の合戦を前にした桜川での父子の別れの場面に因む。父正成は行く先のある息子正行に後事を託し再起を期待した。右左幅共に「鉄線描」といわれる強弱の少ない簡明な描線と薄い彩色を用いて、厳粛な場面にふさわしい静謐な画調を作り上げている。外遊が契機となり、日本の古典に改めて目を向けた契月は《経正》、《敦盛》(いずれも京都市京セラ美術館蔵)をはじめ、こうした清澄な歴史画を自らの仕事の一つとした。また同時期に《大楠公》(足立美術館蔵)、《小楠公弟兄》(京都市京セラ美術館蔵)、《楠公》(金蓮寺蔵)も手がけている。
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒し、建武の新政の立役者となった。その後足利尊氏の挙兵に対し、勝ち目の無い戦ながら、最後まで天皇に付き従い、湊川の戦いで討ち死にした。足利尊氏も正成の死を「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と惜しんだという。その後この時代を書いた物語「太平記」が大流行すると、楠木正成の忠孝と軍略が後世の手本とされた。江戸時代に起こった赤穂浪士の討ち入りを題材にした「仮名手本忠臣蔵」の大星由良助(大石内蔵助)は、まさに楠木正成の生まれ変わりのような存在として庶民の人気を博したという。「大楠公の歌」は楠木正成と息子正行の桜井の駅での別れを題材としている。
児島高徳は南北朝の武将。高徳は後醍醐天皇の倒幕計画に呼応し、備前(現在の岡山県)にて蜂起。後に天皇が隠岐配流となると、奪還を企てたが失敗。天皇一行が宿泊した夜、警備の目を盗み宿所の庭に入り、桜の木に「天勾践を空しうすることなかれ、時に范蠡なきにしもあらず」と刻み、天皇を激励したという。勾践と范蠡は中国・春秋時代の主君とその主君の危機を救った参謀のこと。本作ではまさに高徳がその言葉を刻み込まんと小刀を抜き出した刹那の場面が描かれる。歴史画で名士として知られた米僊の本地を窺い知れる佳品といえよう。
ザ★展示 II 名刀鑑賞〜重要文化財特別公開〜
東京富士美術館は、国が指定した重要文化財の太刀三口(有綱、福岡一文字、近景)を所蔵しています。有綱は、当館が所蔵する最も古い平安時代後期の作で有綱の現存作品の中でも最上位に位置します。当館が所蔵する「一」の銘を刻む鎌倉時代中期の太刀は、華麗な作風で知られる備前福岡一文字派の最盛期の名刀として知られています。近景は長船派の名工・長光の弟子とされ、南北朝時代最初期の建武年紀が添えられ、頗る保存状態の良好な一口です。名品による刀剣美の魅力をご堪能ください。
[重要文化財]太刀 銘 有綱
[重要文化財]太刀 銘 一
[重要文化財]太刀 銘 備前國長船住近景/建武二年五月日
源平合戦図屏風
二章 新たな潮流〜刀工乱舞の時代:新刀期(江戸時代前期〜中期)
刀剣史上、慶長(1596〜1614)年代以後のものを新刀と呼びます。安土・桃山時代になると豊臣秀吉の天下統一により、諸国に新勢力の諸大名の城下町が発達し、そこに古刀時代の流れを汲む刀工たちが呼び寄せられた結果、流派の伝統が崩れて、新しく自由な作風が生まれ、時流を反映した新様式の刀剣が誕生しました。また交通の発達は鉄資材の広範囲な流通を促し、一部では外国製の南蛮鉄も使用されるようになりました。江戸時代になると、乱世から天下太平の世となり、幕府により武士の大小二本指しが規定されるとともに刀は宝物・贈答品としての性格も強めます。各地の大名は刀工を抱え刀剣を作らせますが、刀工が活躍した主な中心地は江戸や大阪などでした。
徳川家
本作は、鎬造(しのぎづくり)、反り浅く、茎(なかご)はやや長め、鍛えは板目肌がよく詰(つ)んで精美、丁字映(ちょうじうつ)りが現れる。刃文は、常光の得意とする一文字写しの匂(にお)い出来(でき)の大房丁子刃を焼き、足しきりに入る。茎(なかご)には、目釘孔(めくぎあな)下、鎬地(しのぎじ)に、太鏨(たがね)で大きく「入道知休」を用いた作者銘がある。地刃ともに傑出した出来を示し、付属の外装には葵紋が金蒔絵で施されており、将軍徳川家ゆかりの品であったことがわかる。
短筒は火縄銃の一種で、騎馬戦用の馬上筒(ばじょうづつ)から改良され、片手で持ったまま発射できることを特徴としている。戦乱の激しい戦国時代を経て、天下泰平となった江戸時代中期頃から上層の武士・町人等の間に、屋敷内の庭先を利用して標的を据え、殺傷能力の低い短筒で的当てを競い合う遊びが流行した。本作は、銃身に銀象嵌で青海波(せいがいは)文と登竜門の故事に因む鯉登滝図(りとうろうず)が施され、前目当(まえめあて)下方に三葉葵の紋様が彫り刻まれている。図様から徳川家の男子が、出世をした記念に製作されたもので、江戸時代中期の享保頃(1730年頃)のものと思われる。
室町時代末期以降、甲冑の意匠が自由に表現されるようになるにつれて、兜も好みの形が作られた。江戸時代には、和紙を張り重ねた張子作りの型に漆を塗った張懸兜は精巧を極めた。本作は中央に徳川家の紋である三葉葵を、そして全面に蜻蛉と蝶を平蒔絵で描いた兜で、徳川家にゆかりのあるものと推測される。
一の谷/宇治川合戦
高平は、桃山時代から江戸時代初期に加賀(現在の石川県の一部)の地で活躍した刀工。地鉄はよく鍛えられ板目肌を示し、刃文はゆるやかな曲線(互の目)を描き、鎬近くまで匂沸があらわれている。拵は、黒呂色の漆地に、波文様の金の蒔絵を施した鞘、白鮫の皮の上に卯之花でジャバラ状に組み上げた柄、鐔は、宇治川先陣之図が彫り込まれている。
『平家物語』の中の源平合戦の名場面である宇治川先陣争いの場面。宇治川の合戦の先陣を切ろうと先を進む梶原景季に対して後に続く佐々木高綱が馬の腰帯の緩みを指摘し、景季がそれを直そうとする間に高綱が先陣を奪いとるというシーンが描かれる。高綱の素朴な仕草が愛くるしい。代赭の色遣いが印象的で、周囲の添景である緑青による松や柳、群青の海や川の流れに映えて美しい。人物や馬の描写も細部まで丹念に仕上げられている。
『平家物語』の「敦盛最期」の一齣。一の谷の合戦に敗れ、逃れようとする平敦盛に対し源氏方の熊谷直実が正々堂々戦うよう求める姿を描く。最終的に直実は敦盛を捕えるが、自分の息子と同じ頃の敦盛を見て躊躇してしまう。しかし他の手勢が迫るのを見て、なくなく敦盛を討ち取るという情感こもる場面へつながる。土佐派はこうした物語絵を大らかかつ精緻な筆で描いた。海や松などの添景、兵士や馬の表情、武具の細部まで精細に描写している。
梶原景時は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将。源頼朝の重臣として知られるが、源義経と対立していたため「義経記」では敵役として描かれた。そのため、江戸時代には義経のことを頼朝に讒言して義経没落の原因を作った人物として、悪人として語られる事が多かった。「平家物語」には、生田口を守る平知盛との戦いで、息子景季が敵陣に取り残されたのを知った景時が、敵のまっただ中へ引き返し、名乗りを上げて敵陣を駆け破り、見事景季を助け出すという、「梶原の二度駆け」と呼ばれる奮闘が描かれている。
本作は、身幅重ね共に尋常、均整のとれた肥前刀らしい美しい姿。小板目がよく詰んだ精錬された地鉄。刃文は、湾たれ調に互の目が入り、明るい匂口に小沸がつく。茎は、太刀銘に一を入れ、横鎬地に前記の長銘がある。行廣が得意とする阿蘭陀鍛の一作である。
島津斉彬
入念に造った大袖付の胴丸具足である。胴は撓革(いためがわ)の本小札(以下、革小札と記す)を主体に全段の要所に鉄小札を交え、下半部の長側(ながかわ)を一続きに廻らして右脇で引き合わせる胴丸仕立とし、七間五段の草摺(くさずり)は革小札を用いる。構成は具足通有の前立挙(たてあげ)三段、後立挙四段、長側五段で胴丸より各一段多い。胴の威毛(おどしげ)は胴・草摺共に紫糸地の裾を白糸とし、大袖など札拵(さねこしら)えの他の部分も同じである。肩上(わたがみ)や金具廻は雁木篠(がんぎしの)に造り、梨子地に加飾する。兜は精緻な金物で飾った六十二間総覆輪筋鉢、金銅の鍬形を立て、鉄切付(きっつけ)札五段の𩊱(しころ)を垂らす。小具足は臑当を欠くが、目の下頬当、瓢(ふくべ)籠手、革小札の威佩盾(おどしはいだて)が附属する。この胴丸具足で特に目に付くのは「丸に十文字」紋の顕示である。胴・大袖の金具廻と兜の吹返(ふきかえし)に実に計30個を金蒔絵で描き、籠手を含めた金物類にも49個を彫り上げている。同紋は島津氏の家紋として知られ、本品も島津家一門の伝来とみて大過あるまい。
幕末の薩摩藩主島津斉彬が着用したと伝えられる大鎧。制作当初の状態で各部が完全に揃っているものとして、大変貴重である。兜の鉢は、古く鎌倉時代のものを転用しており、各所に取り付けられた金具の装飾は豪華な作りで、他に例を見ないほど手の込んだ金具である。また胴前面の獅子牡丹文様の弦走の韋、籠手の蒔絵に加え、白色、萌黄色、紺色の三段の威絲など、全体に勇壮さ、重厚さに優雅さ、軽快さの感じられる上品な作風である。昭和3年5月に東京美術倶楽部で開催された公爵島津家藏品入札目録に目録番号375番として掲載されている。
武士の粋①/武具甲冑
「常州住早乙女家成」の銘を鐫(ほ)る六十二間の筋兜である。筋兜は縁を折立てた矧板を、頭が平坦な鋲で留めたもので、鉢表は一面に折立てた縁の筋が並ぶことからその名があり、その筋間の数を「間(けん)」と呼ぶ。鉢は比較的穏やかな形で、四方に響孔(ひびきあな)を開け四天(してん)の鋲を打つが、後頭部の笠標付(かさじるしつけ)の鐶は設けていない。天辺(てへん)は六重の菊金物の八幡座で飾り、角本に立てた革製金箔押の大きな三日月の前立が印象深い。眉庇(まびさし)は斜め下方に突き出したいわゆる駒の爪形である。𩊱は黒漆塗鉄板札五段を紺糸で素懸に威し、一段の吹返に「丸に三柏」の据文金物(すえもんかなもの)を打っている。早乙女派の主要な拠点は常陸の下妻(茨城県下妻市)が有力視されているが、膨大な在銘品を残しながら良質な史料に乏しく不明な点が多い。家成の在銘品は六十二間筋兜が多く、六十二間小星兜がこれに次ぎ、江戸時代前期から中期にかけて複数代続いたようである。
室町時代後期以降の兜で、製作が簡略化され実用的でもある兜は、頭形兜と桃形と烏帽子形の兜である。桃形は南蛮兜の影響のある形で、前方中央から後方にかけて一条の鎬を立て、左右両面を平骨に仕上げているため、敵の攻撃物をすべらせて避けるのに役立った。本作も桃山時代の桃形南蛮兜の代表的なもので、その構成法は一枚の鉄を打ちふくらませて作る一カ所合わせの方法が困難であったらしく、四枚の鉄片を打ち出して構成している。𩊱(しころ)は、黒漆塗りに萌黄糸を六段に素懸威した日野根型であり、吹返に花菱紋を金で、前立には木彫に鍍金を施した蛇之目紋[輪貫と呼ぶ環の文様の俗称]を置いている。
兜鉢は薄鉄の五枚張りで、その上に鯱の形を和紙で厚く張り抜いてある。全体を厚く漆で塗り固め、口と鼻孔は朱漆塗り。目は金胴の薄板を貼り付け、錏(しころ)は鉄板付盛上札を朱漆塗りとし、その上から黒漆を塗っている。日根野形五段を紫絲威とし、吹返しは一段丸形で、黒漆塗りとして銀の覆輪をめぐらせる。作域は、張り抜き技術、漆仕事にすぐれ、まとまりのよい張懸兜である。
総面頬は顔全体を覆う防具で、南北朝時代頃から製作されているが頬当ほどは流行せず、江戸時代になって甲冑師たちが技術を誇るために作ったものがほとんどである。この作品もその一つで、面の全体を煉革地に黒漆塗りで仕上げ、垂は古代紫糸を本小札で五段に威した非常に手の込んだものである。また吹返には、“広大”“盛大”“強大”などを意味する[大文字]の文様が金で施されている。
烈勢面頬は、目の下頬の形式の一つで、非常に烈しく怒った威嚇的な表情の面をいう。鼻、頬に皺を打ち出し、口を大きく開き、髭を植え、金歯をつけるのが特徴。本作は、鉄地に朱肉色の漆を面の全体に塗った典型的な烈勢面頬の一つであり、江戸時代によく用いられた曲輪と呼ばれる首輪をつけている。また垂の下方中央には、戦国時代の武将たちが家紋として好んで用いた酢漿草文が、金細工で施されている。
古風な鉄錆地十八間星兜と大袖を具して威風を備えた具足。胴は連山道頭(つれやまみちがしら)の黒漆塗板札を左脇の蝶番で繋いだ二枚胴とし、正面に華やかな金の高蒔絵で雲龍を描く。胴以外の札は、小札に模した革の切付札を主体とする。威毛はやや緑色を帯びた藍染めで、江戸時代には御納戸(おなんど)色とも呼ばれたが、広義には紺糸威に属する。兜の鉢裏に「水府紀義徳」、鉄錆地五本篠籠手の冠板(かんむりいた)にも「水府住」「紀義徳」の銘を鐫る。幕末の水戸藩主徳川斉昭(なりあき)は藩の甲冑生産を奨励し、天保13年(1842)には会津藩の明珍右内以下3人の甲冑師を借り入れ、その門から排出した者に、室町時代後期の名工「義通」に因んで「義」を冠した実名を自ら与えた。義徳もその一人である。鍬形台、𩊱の吹返、籠手の手甲に、いわゆる藤堂蔦紋の金物を据え、具足櫃には葉脈のない「丸に蔦」紋を朱漆で描き、藤堂家伝来と伝えている。
具足とは事物の完備、充足を示す言葉だが、武家の全盛期に至って完備した大鎧の形式をさすようになった。この具足は江戸時代後期の重厚な、そして堂々たる風格の逸品で、小栗上野之介の所用と伝えられる。甲冑の主要部分を構成する黒い小札と紺色の威絲が重量感を草摺と前立の金が豪華さを与え、細部にいたるまで精緻な技巧を凝らした作りが見事である。
厚い煉革の前方を反らせ黒漆塗りで、前方正面の中に鳳凰を、下方に梅鉢紋をほどこし、左右に桐の模様を金蒔絵にして、後方正面の中心に三ツ割の梅鉢紋を置く。作域は、漆及び蒔絵ともにすぐれている。
陣羽織は、近世以降に、武士が陣中やそれに準ずる場所で威容をととのえるために具足などの上に着用した。一般的には、袖なしで裾開き背割のものが多く、綴織やモール・羅紗・更紗、皮革・木綿・紙子など様々な素材が用いられ、材質や形状・色目や文様などに趣向を凝らしたものが多い。本作は、袖無裾開き背割の陣羽織の典型ともいえる形状で、生成色の地に金糸にて織り込まれた丸龍と鳳凰、瑞雲が華やかである。黒の羅紗地の切付で表された花杏葉の家紋は、生成色の地によく映えその存在を主張している。裏地は緋色の地で、金糸にて草花模様が織り込まれている。襟は濃い茶色の地に昇竜が表現され、陣羽織に相応しく勇ましさと武運長久の祈念が感じられる。花杏葉の家紋から鍋島家伝来の品と伝えられる。
ザ★展示 III 江戸新刀のトップスター〜乕徹〜
新刀とは、日本刀の時代による区分名の一つで、徳川家康によって幕府が開かれた江戸時代前期から同中期までに制作された刀を指します。乕徹は、刀工長曽祢興里の入道名で、作刀した刀工の名前です。
当初、越前で甲冑師を生業としていましたが、50歳を過ぎて(最新の研究では〝人生半ばの中年〞頃とされている)江戸に移り、刀鍛冶に転身しました。作刀は地鉄が緻密で明るく冴え、鑑賞面にも優れ、切れ味鋭い名刀として名高いです。新選組局長近藤勇が所持していたとの逸話でも知られています。偽作が多い事でも有名です。
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹/(金象嵌)寛文五年十二月十六日 山野加右衛門六十八歳永久(花押) 四ツ胴截断
刀 銘 長曽祢興正
ザ★展示 IV 特設展示 真田丸
※展覧会開催時に個人、株式会社ユーホウより借用展示した正子公也《真田幸村》、画:正子公也 制作:株式会社ユーホウ《真田三代》の2点は本オンライン展示には含まれていません。
本作は、六十二間の筋兜の代表的なものの一つ。兜鉢の周囲に取り付けられた錣は、金漆塗りの地に古代紫糸を切付小札で五段に威しており、装飾物の脇立には、木彫に金箔を押した鹿角型のものを置いている。吹返の「六文銭」から、信州(現在の長野)の松代城主真田家伝来の兜と知ることができる。
川中島の合戦は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃の川中島を挟み数度に渡って繰り広げられた戦い。合戦の様子は江戸時代初期に成立した甲州流軍学書『甲陽軍鑑』に描かれている。山本勘助は武田二十四将の一人で、軍略と築城に長けた武将とされる。川中島の合戦では、兵を分けて上杉軍を奇襲する作戦を進言するも、敵に見破られ、武田軍は窮地に陥る。この危機に際して、死を決した勘助は敵軍に突撃して獅子奮迅の働きをし、最後は打ち取られたとされる。
武田左馬之助信繁は武田信玄の弟。知勇に優れ、武田の副大将として信玄の右腕となって活躍した。川中島の合戦では、死を覚悟した信繁は家臣に息子への形見を託して、討死したとされる。『甲陽軍鑑」では「毎事相整う真の副将なり」と評され、嫡子武田信豊に残した「武田信繁家訓」は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれていた。まさしく文武両道の士として人気を博していた。
伊達政宗は、桃山時代の武将で、徳川幕府を開いた徳川家康と親交が厚く、江戸時代開幕とともに、文武ともに実力のある大名として名を馳せた。本作は、貴重な書籍を借りていることへの礼状で、宛先は当代きっての教養人として名高い大名茶人、細川三斎である。
小堀遠州は桃山時代から江戸時代前期にかけての茶人。遠州流の祖。早くから古田織部(1543-1615) に茶の湯を学んだ。徳川三代将軍家光(1604-51) に献茶し、これが将軍家茶道師範の称のおこりとなった。「きれいさび」の茶を主張し、また、建築、造園をも手がけた。本作は中央に大きく「風清」の二字を横書きに大書した作品。個性的な書風であり、茶人遠州の面目躍如たるものがある。左隅に「宗甫」(朱文瓢箪印)の印を押す。
ザ★展示 V 八王子の刀〜武州下原刀〜(恩方・横川・元八王子)
武州下原刀は、下原鍛冶といわれる刀工群が制作した刀剣類の通称です。下原鍛冶とは、現在の八王子市恩方地区や横川地区、元八王子地区等に住み、山本姓を名乗った一族の刀工群の総称です。下原鍛冶は大永年間(1521〜1527)の周重に始まり、周重の子康重は小田原の北条氏康の「康」を、その弟照重は八王子城主北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗ったと伝えられています。幕末まで続いた武州唯一の刀工集団で室町時代から安土桃山時代には後北条氏、江戸時代に入ると徳川家の庇護を受けて活躍しました。
三章 世界に誇る日本の美〜千年の伝統を繋ぐ:新々刀期(江戸時代後期)〜現代
江戸時代後期にはかつての古刀の制作法が研究・追求されるなどそれまでとは異なる取り組みが生まれます。その後近代化の流れの中で刀剣は不遇の時代を迎えますが、日本独自の美を後世に伝えていくため、日本美術刀剣保存協会が設立され、技術の保存・伝承への取り組みが推進されています。刀鍛冶をはじめ刀剣制作に携わる職人は伝統を未来に繋ぎゆくため、日々制作に取り組んでいます。一千有余年の伝統を持つ世界に誇る日本独自の美──日本刀。世界から注目を集める美の伝承は匠の技を伝える師から弟子へ受け継がれていくのです。
武士の粋②/刀装具&漆工芸
刀剣外装のうち、大小拵には正式・略式の二様があり、正式は「番指」、あるいは「裃指」・「殿中拵」とも呼ばれ、主に登城・正月・婚礼・葬儀・法事等に用いられる。番指は大小共に柄は白鮫で包み、縁は赤銅磨地または魚子地に家紋を入れたものを用い、柄糸は黒か紺色で角頭掛け巻にする。鞘は返り角がつき、蝋色塗りで鯉口部分に小柄・笄を納める櫃が穿たれる。鐺は大は一文字、小は丸鐺とするなど細かい掟がある。略式の大小拵は、主に普段指として用いられ、柄を白鮫か黒鮫で包み、用いる鐔・目貫などの図柄は、花鳥風月や故事来歴など多種に及び、鞘塗りには漆芸の技術を駆使した粋なものまで、一定の掟を踏まえながらも自由な造りになっているのが特徴である。この拵は、略式の形をとり、鞘は黒蝋色塗。大小の柄は、縁頭が赤銅魚子地に岩牡丹を高彫据文にし、金色絵を施す。目貫は岩牡丹。大小鍔は堅丸形赤銅魚子地で、牡丹・蝶・猫図をあしらう。製作は薩摩藩お抱え金工師石黒政美で、花鳥風月図の作域を最も得意とする。添えられている小柄・笄の作者は柳川直政で高彫色絵の名人として名高い。我が国の伝統工芸の技術が結集された大小の拵。中でも付属の金具は、金工師の洗練された彫技の冴えを十二分に味わえる優品である。
昔形4段の印籠で、黒蝋色塗地に螺鈿と平蒔絵で骨描きの野馬を表す。段内部は金梨子地。表紐通部に作銘。フランスでジャポニスムを広めた中心人物として知られる美術史家ルイ・ゴンスの旧蔵。類例が数点知られる。
印籠というのは本来は印判や印肉を納める容器であるが、江戸時代には携帯用の薬入れとして用いられるようになった。4、5段重ねに仕切った偏平な小型容器で、紐が付いて腰に下げられるようになっている。印籠細工は江戸時代の工芸の最も特色ある一分野となった。印籠には在銘品も多く、本作品の作者芝山は青貝や象牙などの象嵌細工をよくした芝山仙蔵のことで、作品は芝山細工と称された。
ザ★展示 VI 特別出品 新選組〜土方歳三の愛刀〜
新選組は、幕末・維新の動乱期に京都で反幕府勢力を取り締まる警備に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦いました。
天然理心流の剣術を学んだ土方歳三は、新選組時代に局長・近藤勇の右腕として副長を務め、隊内に峻厳な規律を実施し隊士から恐れられ〝鬼の副長〞と称されました。
歳三の愛刀として、土方歳三資料館所蔵の和泉守兼定が知られています。もとは函館戦争の最中に遺髪・写真・手紙などと一緒に日野の義兄彦五郎に送られたとされるもので、後に佐藤家から土方の生家に贈られたものです。
佐藤家には、和泉守兼定と別に歳三が所持していた「越前康継」(佐藤彦五郎新選組資料館所蔵)があります。この茎には葵の御紋が施されており、「御紋康継」とも称されています。当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保から歳三が拝領したもので、歳三から彦五郎の長男・源之助(俊宣)に贈られた刀として伝わっています。
※展覧会開催時に佐藤彦五郎新選組資料館より借用展示した刀 銘(葵紋)以南蠻鐵於武州江戸越前康継は本オンライン展示には含まれていません。
ザ★展示 VII 四尺半の大太刀
現代の刀匠・河内國平による長さ四尺半(136.5センチ)の大太刀。
大太刀とは「長大な太刀」を意味し、現代の分類では一般的に刃長の長さが約三尺(約90センチ)以上のものを指します。南北朝時代には武士の豪放な気風を反映し実戦で用いられましたが、長大で重く扱いにくいという難点から、三尺を超えるような大太刀はやがて神社等へ奉納されるものも増えてゆきます。また多くは江戸時代に定寸とよばれる二尺三寸(約70センチ)前後に磨り上げられ(短くすること)、現存する四尺を超える大太刀は稀少です。
ザ★展示 VIII 月山伝〜刀工月山派800年の系譜〜
月山鍛冶は鎌倉時代初期の鬼王丸を祖とし、奥州月山の麓で鎌倉、室町期に栄えました。月山鍛冶の最大の特徴は、刀身全体に波のように流れる「綾杉肌」で、月山鍛冶の鍛えた刀身に顕著に現れることから、月山肌とも呼ばれます。江戸時代に入ると月山鍛冶の技術は細々と続きますが、松尾芭蕉の「奥の細道」に「此国の鍛冶霊水を撰びてここに潔斎して剣を打つ、終に月山と銘を切て世に賞せらる」とあるようにこの時代にも月山鍛冶の名は広く知られていました。幕末の月山貞吉もこうした鍛冶の一人でしたが、天保期に大阪へ移住し月山鍛冶の再興を果たし、大阪月山の基を開きました。その後、月山貞一(帝室技芸員)、月山貞勝、月山貞一(重要無形文化財保持者/人間国宝)の各時代に様々な苦難を乗り越えながらも、現在の月山貞利氏(奈良県無形文化財保持者)、また後継の月山貞伸氏へと連綿と続いた技術は受け継がれています。
※展覧会開催時に月山日本刀鍛錬道場、個人より借用展示した刀、太刀、槍6口は本オンライン展示には含まれていません。





































































































