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戦国武将や昔(大井柊暖さん作成)

戦国武将や昔のことについて調べました

戦国武将がすきなので、さいしょは戦国武将でさがしました。つぎに信長など人の名前でしらべたり、武器についてしらべました。さいごは昔のことについていろいろしらべました。好きなことを調べたり選べたりして面白くて、ヴァーチャルなことでふだん見れないものを見れたり作れたりして楽しかったです。

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号6 夕焼け空 手前に大藤内忠義、馬に乗った熊谷直實 ( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 武将の画 007全体のシリーズ 裏面左下の番号:3 亀田大隅・大竹半三エ門・後藤又兵衛・浅野但馬守・三好伊三入道・大熊隼人・篠田内蔵之助 ( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号2 湖に入っていく明智と馬、手前には山本、今井( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 武将の画 番号4 奥に山脈(天王山)、剣をふりかざして攻めている様子( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 武将の画 裏面の番号:5 加藤清正中心に攻めている様子( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号1 中心に馬に乗った羽柴秀吉 弓をかまえた石田三成ら( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 武将の画 裏面の番号:2 山名伊豆守・塙團右エ門・眞野豊後守・大谷大学助・長曾我盛親・眞田大助・穴山小助( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号4 中央に巨大イノシシが倒されている 手前にキツネとウサギ( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号6 中央に本多出雲守とその馬( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 武将の画 裏面の番号:8(?) 明智日向守光秀・藤田傳五郎・溝尾庄兵衛・斎藤内蔵介・久下三左エ門 天神山( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号2 武士たちが動物たちを追い払っている様子。キツネやウサギ、サルなど( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号1 右大将源頼朝を中心 御所五郎丸( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号5 朝日奈三郎、柏原六郎が中心 奥にイノシシがいる( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号7 曾我五郎時致と十郎祐成が闘っている( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 武将の画 裏面の番号:4 渡邊勘兵衛・明石掃部助・原勘蔵・貝津半左エ門・木村重成・山�ア三阿彌( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号5 全面に武士 中心に大塚久郎兵エ。塩原左膳( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号7 手前に松 指を示す安藤刀脇( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 番号3 騎馬戦 佐々木四郎高綱( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

戦国武将

年不明、1910年は推定 奥に湖(海?)と山脈が見える。四方田但馬守中心 番号3( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

陣羽織

武士が具足の上に着用した上衣。安土桃山時代になると斬新なデザインが花開いた。( にいがた地域映像アーカイブデータベース)

織田信長像(模本)

本図は、天正10年(1582)に没した織田信長の七回忌に制作された肖像画の写しです。鼻骨の高い顔立ちは、一周忌に際して狩野永徳が描いたという信長像(京都・大徳寺)に共通します。公家の近衛前久は「南無阿弥陀仏」の六文字を句の頭にした追善の和歌6首を詠み、原本に添えました。*このえさきひさ* *なむあみだぶつ* *ついぜん*(東京国立博物館)

織田信長朱印

 鷹野(鷹狩りの狩猟場)での鉄砲使用について限定的な許可を家臣に与えたもの。差出には信長の署名と有名な「天下布武」の朱印が確認できる。天地(上下)で二つ折りにした折紙という形式。表装されておらず、汚れた部分より当時の折り畳み方が復元可能。ルビ:てんかふぶ おりかみ(東京国立博物館)

織田信長像(模本)

上部に垂れる御簾の文様や衣服の文様が細かく模写されている。本作を模写したのは、サインの「親胤(ルビ:ちかたね)」から蜷川式胤(ルビ:にながわのりたね)であることがわかる。式胤は、幕末から各地の有名な肖像画の模写を制作していた。左下に「宮道式胤」の印も見える。(130213_h22)(180718_h056数文字追加)(東京国立博物館)

天守

城郭のシンボル的な存在となる多層の建物。殿守、殿主ともいう。(ギャラリー「天守」)

織田信長

戦国時代・安土桃山時代の武将。天下統一を目指したが、本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に襲撃され、自害した。(ギャラリー「織田信長」)

東山御物

室町幕府の第8代将軍足利義政の収集品をはじめとする足利将軍家代々が収集した至宝(ギャラリー「東山御物」)

豊臣秀吉朱印状

本願寺から贈られた能に使用する道具についての礼状。織田信長との石山合戦(いしやまかっせん)により衰退した本願寺は天下統一を果たした秀吉に接近することで復興を計画していた。特に無類の能好きとして知られた秀吉への音物に「能具」を選んでいることが興味深い。(160614_h056ルビ変更)(東京国立博物館)

豊臣秀吉朱印状

本作品は天正20年(1592)、宗義智(1568~1615)に宛てて出された豊臣秀吉(1537~98)の朱印状。6月3日付。朝鮮に派遣される代官7人に通訳を1人ずつ帯同させることを命じる内容である。「文禄の役」において、漢城(ソウル)陥落後、秀吉の朝鮮統治の方針を示すものである。本朱印状は、義智に宛てられたことから、宗家に伝来したと考えられるが、研究史上、原文書の所在は不明とされてきた。明治時代の史料集に掲載されており、書写されたことは分かっていたが、その後散逸したと見られ、長らく所在が不明であった。編纂史料でのみ存在が知られていた重要史料の原文書として、本朱印状は非常に価値が高い。(九州国立博物館)

豊臣秀吉朱印状

 端午の節句のお祝いとして生絹の帷子五つを贈られたことに対する礼の手紙である。天下統一を果たした秀吉は自分の権力を示すため、使用する料紙もことさら大きな規格を用いた。左右の信長・家康の朱印状と比較してもその大きさが理解できる。   ルビ:たんご すずし かたびら(東京国立博物館)

南蛮独楽香合 銘 昔男

甲盛りの丸く扁平な「平独楽」の香合。生産地はタイともインドともいわれ、現段階では判然としないが、いかにも茶人好みの侘びた趣がある。細川三斎所持の伝来があり、その後江戸時代の豪商として名高い鴻池家に伝わり、松永安左エ門から当館に寄贈された。(東京国立博物館)

扇面散屏風

 扇の形をした画面に、さまざまな絵が描かれ、屏風に貼られています。この屏風は本来、2枚でセットになっており、こうした「扇面画」が、左右の屏風を合わせると60枚、貼り交ぜられています。描かれている内容は、「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」といった物語絵、有名な景色を彩り豊かに描いた名所絵、昔から伝えられてきたエピソードや人物を含む故事人物、風景や動物をモノクロで描いた水墨画など、幅広い画題を網羅しています。 安土桃山時代から江戸時代初期(17世紀初頭)にかけて活躍した絵師、俵屋宗達は、扇屋「俵屋」を営んでいました。この屏風は、俵屋の製品であったと考えられています。扇は、日常の実用品であることに加え、贈答品としても盛んに流通していました。この屏風に貼り交ぜられた扇面画には、扇の折り畳み線がなく、またサイズも大きいことから、実用目的ではなく、初めから鑑賞のために屏風や冊子状に仕立てることが想定されていたのでしょう。扇屋は、さまざまな扇のデザインをストックしてあったはず。これは、まるで俵屋の図案のレパートリーを見せるカタログのような屏風です。 それぞれ雰囲気の異なる絵が貼り交ぜられていますが、墨や絵具の濃淡のにじみやむらを活かした「たらしこみ」の技法、また金の雲をきらきらと光る水色の縁取りで囲む表現など、繰り返し登場する要素は、「俵屋らしさ」として期待される特徴だったのでしょう。(東京国立博物館)

画像石 西王母/馬車/狩猟

 今から2000年近く昔の漢時代には、身分の高い人を葬るために、贅を凝らしたお墓を作りました。地中にたくさんの部屋が設けられ、それらは廊下でつながっていました。また地上にも親族や子孫が死者をまつるためのほこらを築きました。そうした墓やほこらの壁を飾ったのが、この作品のように彫刻を施した画像石です。 3段構成の最下段は狩猟の場面。地上の世界を表しています。2段目は馬車で旅立つ場面。地上と天界とをつなぐ場面と思われます。そして最上段が天上世界。その中央には西王母(さいおうぼ)と呼ばれる女神が正面を向いて座っています。彼女は崑崙山(こんろんさん)というはるか彼方の山にすみ、人の生死をつかさどるとされました。西王母の近くでは、2羽のウサギが杵(きね)で不老不死の薬を搗(つ)いています。(東京国立博物館)

龍虎図屏風

 龍虎相うつ。龍の巻き起こす風が波を逆立たせ、竹の葉を激しくなびかせる。右から左への大気の流れが圧倒的だ。左隻画面を支配する巨大な虎は強風に耐え、竹林から歩み出る。迫力満点のこの大作の筆者直庵は、当時貿易港として栄えた堺を拠点に活躍した。 屏風の大きな画面いっぱいに、迫力ある龍と虎が描かれています。力の伯仲した二者が勝負する、という意味の「龍虎相打つ」という言葉があります。龍は架空の動物で虎は現実のものという違いこそありますが、どちらも強く、畏れられる存在として並ぶものでした。龍と虎は、多くの画家にセットで描かれてきました。 昔から、龍が雲を起こし、虎は風を生むとも言われ、龍には雲が、虎には風がつきものです。向かって右の屏風では、龍は鋭い爪をむき出しにし、天からこちらをぎょろりと睨みつけています。右から左に向けて湧き立つ雲の動きが目に見えるよう。左側の屏風の虎は肢を踏ん張って、何者かを威嚇しているようです。その上には竹の葉がやはり右から左になびいて描かれています。右から左の屏風に、空気が激しく流れているように見えます。このダイナミックな躍動感と、はみ出すように大きく描かれたモチーフは、この時代の大きさや豪壮さへの志向を表しているようです。 作者の曾我直庵は、水墨画を多く描き、安土桃山時代に活躍しました。当時国際的な商業都市だった堺で活動し、奈良や京都に作品をのこしています。(東京国立博物館)

金剛般若集験記

 『金剛般若集験記』(3巻)は、唐の孟献忠が開元6年(718)に撰した『金剛般若経』の霊験記である。上巻は救護と延寿、中巻は滅罪と神力、下巻は功徳と誠応の計6篇、全70章から成り、初唐における『金剛般若経』信仰を示す貴重な史料である。わが国においても古くから流布し、『日本霊異記』に『冥報記』と並んでその名があげられ、また『今昔物語』などにも本書に由来する説話がみられるなど、説話文学に大きな影響を与えた。 本帖には承暦3年(1079)孟夏(4月)の藤原師国の書写奥書があり、書写年次を明らかにしている。藤原師国は『尊卑分脈』によれば、権中納言泰憲あるいはその弟である上総介邦通の子で、相模守、弾正少弼、従五位下であった。 本帖の首尾には「高山寺」の朱方印が捺されている。また表紙に「五十五箱」との朱書があるが、これは鎌倉時代の『高山寺聖教目録』の記載とも合致して、本帖が高山寺に伝来したことを確認できる。 『金剛般若集験記』の最古の写本は、平安時代前期に書写された石山寺所蔵の上巻および天理大学所蔵のその僚巻の残巻であるが、3巻を完存する写本としては本帖が最古本である。体裁は粘葉装で、表紙には竹の八双を付す。(奈良国立博物館)

龍波月蒔絵七宝象嵌印籠

昔形の鞘印籠で、身は3段。身は菊尽の研出蒔絵で段内部は黒蝋色塗。鞘は金粉溜地に、表は菱繋文の平蒔絵に丸龍文の七宝板を象嵌し、裏は菱唐草文散に波月文の七宝板を象嵌する。(東京富士美術館)

ワニ像

ニューギニア島東北部にみずからの祖先をワニと信じる部族がおり、この像も恐らくその部族が残したものであろう。白の下地に赤・黄・黒を丁寧に塗り分けてウロコを表現している。祖霊や精霊の木彫が非常に発達した当地域でも、手の込んだ精品に位置づけられる。(161115_平企_南太平洋) 広い太平洋には、大きい島や小さな島が無数にちらばっており、これらの地域をオセアニアとよんでいます。オセアニアは大きく3つに分けられています。1つ目は、太平洋の北側にあたる小さな珊瑚礁のような島ばかりがあるミクロネシア。2つ目は、太平洋の南側にあたる火山島や標高の高い島々があるメラネシア。3つ目は、太平洋の東側に広がるポリネシアです。人類は、大昔にアフリカから世界各地に広がり、その最後に向かったのがオセアニアでした。みんな、アジアから渡って行ったのですが、その後、これらの地域ではほとんど外部との接触がなく、金属器なども発達せず、非常に古い豊かな文化が保存されてきました。 このワニの像は、メラネシアのニューギニア島のものです。ニューギニア島のセピック川の流域には、自分たちの祖先をワニであると信じている部族がいるので、そのような部族の人々が作ったものだと思われます。金属の工具を使わずに彫刻して、下地を白く塗ってから、赤・黄・黒を丁寧に塗り分けてウロコを表現しています。セピック川の流域では、祖先や精霊を表わす木造彫刻が非常に発達していますが、このワニ像はそのなかでも非常に優れた出来ばえをしています。(東京国立博物館)

車争図屏風

 豊臣秀吉の側室@そくしつ@淀殿@よどどの@が、嫁ぐ養女の完子@さだこ@と新郎のために新築した九条御殿の襖絵で引手跡がみえる。『源氏物語』の葵@あおい@の上と六条御息所@ろくじょうみやすんどころ@の行列見物の場所争い。乱闘場面を表わす円環状の構図が見事だ。この仕事で山楽は九条家から信頼され、庇護を受けることとなる。4枚のパネルがつながった屏風です。右半分は人物や馬の行列が整然と進んでいますが、左半分は人や牛車(ぎっしゃ)が入り乱れ、混乱した様子です。何が起こっているのでしょうか。これは「源氏物語」の一場面です。一番右のパネル、立派な黒い馬に乗り、ひときわ目立っているのが光源氏(ひかるげんじ)です。ここは京都の賀茂神社。賀茂祭(かものまつり)の行列に参加する光源氏の晴れ晴れしい姿を見るために、人びとが集まっています。左から二番目のパネルの下、光源氏の行列をさえぎるように並ぶ3台の牛車は、源氏の正妻、葵の上の一行です。後から来たにもかかわらず、すでに集まっていたほかの牛車を立ち退かせようとしたため、お供の者たちがもみ合って乱闘になっています。実はこの中に、源氏と恋愛関係にあった六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の牛車がありました。見物場所の争いは、光源氏をめぐる二人の女性の争いになってしまったわけです。今は屏風の形になっていますが、よく見ると、もともと襖絵であったことを示す、引手の跡があります。屏風に仕立てられた際に切り縮められた部分があったのでしょうか、各パネルの絵がつながらないところもあります。もとは、もう少し横にゆったりとした配置だったのでしょう。作者の狩野山楽は、はるか昔の物語なのに、見物人たちの姿を新しい同時代の装いに変えて描きました。屏風を見た人びとには、現実感あふれる、生き生きとした場面にうつったことでしょう。(東京国立博物館)

銅鼓

鼓面には光芒文{こうぼうもん}の周囲に鳥文、魚文、蛙形の装飾などを巡らせています。寄贈者のダムロン親王はタイ国王ラーマ5世の弟で、同国近代化に努めた人物です。明治34年(1901)寄贈の本作は近代における日本とタイとの交流史を物語る貴重な資料でもあります。青銅製の太鼓―銅鼓―は、中国西南部から東南アジアの各地に分布し、2000年以上昔から現代まで、祭りの重要な道具として使われてきました。祭りでは、左右の取っ手に縄を結わえて肩からさげて、打ち鳴らして使います。上面の円盤部分の中央には、太陽のように光を放つ図像があり、ここをバチで叩きます。そこから同心円状に幾重にも円が描かれ、その隙間を埋めるように鳥や魚の文様がめぐっています。そして一番外側にはカエルが四匹います。この銅鼓は、タイ国王ラーマ5世の弟であるダムロン親王から、明治34年(1901)に東京国立博物館に寄贈されたものです。悠久の祭りだけでなく、近代における日本とタイとの交流を物語る貴重なひとしなです。(東京国立博物館)

饕餮文瓿

今から3000年以上も昔の殷(いん)時代には、儀礼に用いるための青銅容器がさかんに作られました。この作品もそのひとつ。儀礼の際にお酒などをいれるための容器です。本来は黄金色に輝いていましたが、いまは全体が錆に覆われて緑色を呈しています。表面には大きな瞳と巻き角をもつ、体のない怪獣があらわされています。これは饕餮(とうてつ)と呼ばれ、当時あがめられた神のすがたと考えられています。蓋にも同様の饕餮があしらわれています。上から覗き込むことを想定したのでしょうか。上下が逆さにあらわされています。蓋のつまみはとぐろを巻いた蛇のようですが、頭には2本の角があり、龍の一種と考えられます。龍は、饕餮のまわりにも付き従うようにあらわされています。それらが見事にうつわ全体にめぐらされ、ひとつの世界観を構築しているのです。(東京国立博物館)

石造如来頭部

軽くウェーブしてやわらかく流れる頭髪、鼻すじが通って彫りの深い顔立ちなど、本質的にはギリシア末期の彫刻様式の特質をあらわしながらも、見開ききらない瞑想の眼差しは、あくまでも悟りを得た静かな仏教的境地を示している。
 インドの西北部、インダス河上流のペシャワール地方、すなわち昔のガンダーラから将来されたもの。この地方は古くから仏教が行われ、のちギリシア文化をもつ民族が移ってきて、いち早くギリシア・仏教式の仏像がつくられたが、本例は仏像の製作がこの地域で最も高まりを見せた2世紀後半頃の作と考えられる。(京都国立博物館)

三宝絵断簡(東大寺切)

 『三宝絵』は永観二年(九八四)に源為憲が尊子内親王に奉った仏教入門書で、三巻から成る。尊子内親王(九六六~八五)は冷泉天王の第二皇女で、『栄花物語』には「いみじう美しげに光るやう」と描写されているが、相次ぐ肉親の死去などにより、若くして出家を決意するに至る。『三宝絵』は悲哀に沈む十九歳の皇女を慰め励ます意味ももち、上巻は仏(釈尊の本生譚)、中巻は法(因果応報譚)、下巻は僧(法会・行事の来歴)という構成で、仏法僧の三宝について、説話を中心にわかりやすく解説している。これは保安元年の奥書をもつ『三宝絵』の現存最古本の断簡で、具引きを施した唐紙(からかみ)に雲母で七宝文様を刷り出し、中巻第三話の末尾七行を墨書している。内容は、難波津に着いた婆羅文僧正(ばらもんそうじょう)(菩提僊那(ぼだいせんな))を行基(ぎょうき)が迎えて歌をやり取りする場面で、婆羅文僧正の返歌以下が記されている。この「かひらゑ(迦毘羅衛)にともにちきりし云々」の歌は『拾遺和歌集』にも、収められ、説話自体も『今昔物語』や『沙石集』などに彩られている。行基と婆羅門僧正。大仏造立と大仏開眼の主役二人の説話が記された新出の断簡として注目される。「もす」は「文殊」。「野中廉」の「廉」は低本の「廣」を誤読したか。「景夷」は「景戒」が正しく、低本の「戒」を「夷」と誤読したのだろう。振仮名はのちの書き込み。本文に誤記が少なくなく、振仮名も誤記に従って付されている点は惜しまれる。(奈良国立博物館)

古今和歌集

 元亨2年(1322)4月の巻末奥書により、藤原定家の貞応本の系統になる『古今和歌集』と知られる。能書で数多くの鑑定をしている烏丸光広の跋、及び近衛信尹(1565-1614)の添状があり、いずれも後伏見天皇の宸翰鑑定している。    ルビ:ていか じょうおうぼん からすまるみつひろ ばつ このえのぶただ そえじょう しんかん(170822_h032) この作品は鎌倉時代の後伏見天皇が、平安時代に編纂された古今和歌集を書き写したものです。後伏見天皇の父、伏見天皇は能書として名高く、現在は国宝にも指定されている「白氏詩巻」(東京国立博物館所蔵)や「桂本万葉集」(御物)などにその花押がのこされていることから、平安時代の名筆を所蔵し、それを熱心に学んだことがうかがえます。その書は「伏見院流」として鎌倉時代の和様の書の流れをつくりました。後伏見天皇の書も伏見天皇によく似て、美しく気品高いことで知られます。 この作品は、仮名序と巻第一から巻第二十まで古今和歌集のすべてを一人で写したもので、後伏見天皇の書に対するなみなみならぬ情熱が感じられます。巻末には元亨2年(1322)、天皇が35歳の時に記された奥書があり、「こうやって古今和歌集を写したのも昔のことだなあ」といった感慨が述べられていることから、まだ若いころの写しと考えられます。这是由后伏见天皇所誊写的编撰于距当时300多年前的平安时代的古今歌集。后伏见天皇的父亲伏见天皇以擅于书法而著称,现在被列为国宝的《白氏诗卷》(东京国立博物馆收藏)、《桂本万叶集》(皇室藏品)等作品中都留有他的签名,从中可以看出他收藏古代的名人笔迹,并热情地进行了研习。他的书法作为“伏见院流”开创了镰仓时代的日式书法流派。后伏见天皇的书法也跟伏见天皇相似,因其优美且品格高贵而广为人知。这部作品是由后伏见天皇一个人誊写了从假名序言和第一卷到第二十卷为止的整篇《古今和歌集》,所以从中可以感受到他对书法的非凡热情。卷末有元亨二年(1322)、天皇35岁时的批注,从上面所记载的“这样誊写古今和歌集也是很早以前的事情了啊”这一感慨之中,可以推测出这是在他还年轻的时候所誊写的。(東京国立博物館)

扇面散屏風

 扇の形をした画面に、さまざまな絵が描かれ、屏風に貼られています。この屏風は本来、2枚でセットになっており、こうした「扇面画」が、左右の屏風を合わせると60枚、貼り交ぜられています。描かれている内容は、「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」といった物語絵、有名な景色を彩り豊かに描いた名所絵、昔から伝えられてきたエピソードや人物を含む故事人物、風景や動物をモノクロで描いた水墨画など、幅広い画題を網羅しています。 安土桃山時代から江戸時代初期(17世紀初頭)にかけて活躍した絵師、俵屋宗達は、扇屋「俵屋」を営んでいました。この屏風は、俵屋の製品であったと考えられています。扇は、日常の実用品であることに加え、贈答品としても盛んに流通していました。この屏風に貼り交ぜられた扇面画には、扇の折り畳み線がなく、またサイズも大きいことから、実用目的ではなく、初めから鑑賞のために屏風や冊子状に仕立てることが想定されていたのでしょう。扇屋は、さまざまな扇のデザインをストックしてあったはず。これは、まるで俵屋の図案のレパートリーを見せるカタログのような屏風です。 それぞれ雰囲気の異なる絵が貼り交ぜられていますが、墨や絵具の濃淡のにじみやむらを活かした「たらしこみ」の技法、また金の雲をきらきらと光る水色の縁取りで囲む表現など、繰り返し登場する要素は、「俵屋らしさ」として期待される特徴だったのでしょう。(東京国立博物館)

東海道五拾三次之内 濱松 冬枯ノ図

現在の静岡県浜松市中区にあたる。街道脇の大きな杉の木の根元で、焚火をしながら暖をとる旅人たち。焚火から立ちのぼる煙が黒から白へ変化している様子も良く捉えている。刈入れの終わった田んぼに立て札の立つ松林があるが、これは「颯々松」と呼ばれた旧跡で、その昔、将軍足利義教が松の下で酒宴を催した際に「浜松の音はざざんざ」と謡ったことで有名になったという。右奥に見えるのが浜松の宿場で浜松城の天守閣も見える。(東京富士美術館)

白糸威二枚胴具足

 この甲冑は、江戸幕府を開いた武将・徳川家康の九男で、尾張徳川家をおこした徳川義直が1614年から15年にかけて起こった戦い(大坂の陣)で用いたと伝えるものです。胴を守る細かい部分は銀色で、白い絹の組紐で綴り合わされ、出来たころは目にも鮮やかに輝いていたのでしょう。また、兜はむかしの中国の役人がかぶっていたような冠のかたちをしていてとても奇抜です。 戦争が相次いだ16世紀、日本の甲冑は大きな変化を迎え、胴体を守る「胴」、二の腕を守る「袖」、頭に被る「兜」に加え、腿(ひざ)や脛(すね)を覆う「佩楯(はいだて)」や「脛当(すねあて)」など、全身を守る各部分の防具も同じ色の組紐や装飾で作るようになりました。現在、こうした全身をコーディネートする甲冑のことを「当世具足(とうせいぐそく)」と呼び、その名は「今風の甲冑」を意味しますが、これは16世紀までにあった甲冑を「昔具足」と呼び区別するために生まれた名称です。当世具足は、江戸時代には一般的な甲冑のかたちとして普及しました。この具足は主要な部分が銀と白の配色で統一され、端正で洗練された印象を与えます。また、当世具足は、この具足のように兜のデザインに趣向を凝らしたものが多く、大きな見どころとなっています。(東京国立博物館)

渋沢栄一

日本近代経済の父(ギャラリー「渋沢栄一」)

伊能忠敬

日本で初めて実測による日本地図を作製した江戸時代の測量家(ギャラリー「伊能忠敬」)

土用の丑

土用のうち、十二支の丑に当たる日。夏の土用の丑の日には、夏バテ防止にウナギを食べる習慣がある。(ギャラリー「土用の丑」)

同朋衆

室町時代、足利将軍家に仕え、美術品の鑑定やさまざまな芸能に従事した職能衆団(ギャラリー「同朋衆」)

西宮山古墳 武器・武具 鉄剣

兵庫県竜野市日山にあった長35mの前方後円墳(古墳時代後期、6世紀前半)の出土品である。昭和29年の調査で後円部の横穴式石室内(片袖式)から多数の遺物が見つかった。鏡・装身具・馬具・武器・武具・土器類などである。また墳丘からは埴輪も出土している。人物や動物の装飾を付けた須恵器の壺は古墳時代の情景を表現したものとして注目される。さらに金製垂飾付耳飾りは朝鮮半島でつくられたもので、当時の海外交流の様子がうかがわれる貴重な資料である。(京都国立博物館)

西宮山古墳 武器・武具 鉄地金銅張胡ろく金具

兵庫県竜野市日山にあった長35mの前方後円墳(古墳時代後期、6世紀前半)の出土品である。昭和29年の調査で後円部の横穴式石室内(片袖式)から多数の遺物が見つかった。鏡・装身具・馬具・武器・武具・土器類などである。また墳丘からは埴輪も出土している。人物や動物の装飾を付けた須恵器の壺は古墳時代の情景を表現したものとして注目される。さらに金製垂飾付耳飾りは朝鮮半島でつくられたもので、当時の海外交流の様子がうかがわれる貴重な資料である。(京都国立博物館)

正倉院宝物

奈良市の東大寺正倉院に保管される、聖武天皇の遺愛品を中心とした宝物。西方世界の文化を伝える(ギャラリー「正倉院宝物」)

前方後円墳

古墳時代に築造された円形の墳丘に方形の突出部が付加されている墓。大王や全国各地の首長が築造、政治的なネットワークが広がっていたとされる。(ギャラリー「前方後円墳」)

グラバー

幕末―明治初期、西南雄藩や幕府諸藩に武器弾薬、軍艦を売ったイギリスの貿易商(ギャラリー「グラバー」)