同朋衆
室町時代、足利将軍家に仕え、美術品の鑑定やさまざまな芸能に従事した職能衆団
室町時代、足利将軍家に仕えて身辺の雑役に従い、また茶の湯や能などの芸能諸事、美術工芸品の鑑定などに従事した職能者たちをいう。童坊などとも記す。剃髪(ていはつ)の僧の姿をとり(時衆僧の系譜をひく)、世阿弥などのように阿弥号を名乗った。こうした職制が成立した時期は未詳ながら、1460年代には同朋の名が見えており、その活躍が顕著であったのは8代将軍足利義政の時代であった。その職務の具体相も明らかではないが、書信の使者や対面取次などの雑事に従う者、書画や調度品など唐物の鑑定・管理を行う者、また猿楽や立花(りっか)などの技芸に携わる者らがあったらしい。能の観阿弥・世阿弥、作庭の善阿弥、猿楽の音阿弥、水墨画や連歌の能阿弥、書画鑑定や座敷飾りの相阿弥、立花の立(りゅう)阿弥などが知られる。なお江戸幕府の職制にも、若年寄支配のもと殿中の雑事に勤める役職が置かれていた。
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能の観阿弥、猿楽の音阿弥の本
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相阿弥〈そうあみ・?-1525〉は、室町時代後期の画家。名は真相。祖父芸阿弥、父能阿弥とつづく、いわゆる三阿弥の最後の画人である。父祖につづいて室町幕府の同朋衆となり、8代将軍足利義政に仕えた。作画、書画の鑑定、座敷飾りの指導、連歌、茶道など、将軍家の芸術全般を主導、東山文化の形成に重要な役割を果たした。とくに、幕府の唐物奉行として、中国渡来の絵画・茶器・文房具を列記、それぞれの道具を将軍家使用の座敷にいかに飾るべきかを示した秘伝の著書たる『君台観左右帳記』『御飾記』を著した。これは、能阿弥以来の集大成でもあった。また、一方において、相阿弥は、「画工相阿」(『実隆公記』『蔭涼軒日録』)として画名も高かった。代表作といわれる大徳寺大仙院の「山水図襖絵」をはじめ、相阿弥筆と伝える作品は多く現存するもののいずれも真作の確証は得られていない。しかしながら、室町時代後期の画壇の一翼を担う一群の作品は、日本美術史において高く評価されている。本図も同じく、相阿弥筆と伝承の作品である。鷹を飼い馴らして鷹狩による狩猟法は、すでに奈良時代にわが国に伝来。平安・鎌倉時代には男性貴族の勇壮な遊戯であった。室町・戦国時代には、鷹の勇猛の姿が戦国武将の心意気と合致して、武家社会に大流行を見る。そうした風潮を背景に、名鷹の絵姿を所持・賞翫する気運が高まり、多くの鷹図が描かれた。雄々しくたくましい精悍の鷹図が多いなかで、本図は、いかにも穏和な表情に描かれる。さらに、まわりにさえずり騒ぐ群雀を描き加えられている。となると、これは、鷹の幼鳥にちがいない。濃淡こもごもの簡略な墨筆が縦横に自在に引かれる。真相画の特有のやわらかい筆致である。意表を衝いた画題とともに、珍重すべき作品である。
十五世紀の鎌倉を中心に活躍した建長寺の画僧、賢江祥啓(生没年不詳)の手になる山水図で、図上に文筆僧として名高い玉隠英璵(建長寺第一六四世 一四三二~一五二四)と子明紹俊(円覚寺第一四七世 ?~一五三六)の両名が着賛する。啓書記の通称でも知られる祥啓は、文明十年(一四七八)に画の修行のために上洛し、室町幕府の同朋衆にして唐物奉行、芸阿弥(一四三一~八五)に三年間師事して鎌倉に戻った。現存する彼の山水画の多くは師、芸阿弥の画風に忠実に倣い、特に夏珪風の楷体作品が多くを占める。本作の前景にもそうした要素が現れているが、一方で中景の土坡・水景などには没骨の柔らかな墨技も垣間見せており、前~後景へと至る破綻なく平明な構図感覚とあわせて祥啓画風の性質をうかがう上で興味深い。
祥啓は15世紀後半から16世紀初頭にかけて、鎌倉を中心に関東で活躍した建長寺(けんちょうじ)の画僧。文明10~12年(1478-80)に京都で芸阿弥(げいあみ)に学び、中央画壇の筆様制作を修得した。夏珪(かけい)の筆様(ひつよう)で描かれた本図は、祥啓の楷体(かいたい)山水を代表する作品である。。
伝能阿弥作。能阿弥(のうあみ、1397 - 1471)は室町時代の水墨画家、茶人、表具師であり、香道や連歌にも通じた。将軍足利義教・義政の同朋衆として唐物(からもの)の鑑定にあたった。姓は中尾、名は真能(さねよし)、法号は真能。子に芸阿弥、孫に能阿弥がいる。
伝能阿弥作。
伝能阿弥作。
この山水図の原本は、同朋衆の相阿弥(そうあみ、? - 1525)の作品。相阿弥は室町時代後期の画家で、真相とも称し、松雪斎・鑑岳と号した。能阿弥の孫、芸阿弥の子であり、3代にわたって足利将軍家に仕え、同朋衆となる。
相阿弥(? - 1525)は室町時代後期の画家で、足利将軍家に仕えた同朋衆。晴川は江戸時代の絵師の狩野晴川院(養信、1796 - 1846)で、古画の模写にも努めた。文化11年(1814)の写。
能阿弥の孫で、足利義政に仕えた同朋衆の一人(画家)である相阿弥(? - 1525)が愛用したと伝えられる名物裂(めいぶつぎれ)。
足利将軍家代々所蔵の中国絵画を記載したもので、同朋衆の能阿弥による奥書がある。内容は絵画約90点を「紙」「大」「二幅」「独幅」などに分け、それぞれ画題・筆者・讃者名を記す。
座敷・書院・違棚などの室内の飾りと、それに用いる茶器・香炉・掛軸などの諸道具、全55図を収めたもの。 巻末の奥書に「永正十五年(1518)二月時正日 真相(花押影)」の署判があることから、本書は足利義政の同朋衆として仕え、唐物奉行も務めた相阿弥(生年未詳―1525年、名は真相)に関わる内容とみられる。
縦約29㎝、横1769.3~2024.9㎝、巻子装。料紙は一紙あたり縦28.9㎝、横38.5㎝。菅原道真の一代記及び天神利生記、日蔵の六道廻りなどを記した絵巻物である。絵はわりに粗雑であるが、詞書は他に類のない完全なものである。京都北野天満宮の北野天神縁起(国宝)と内容が類似し、その欠落部分を補うことができ注目されている。 奥書によると本図は、当社に納められていた縁起が紛失したため、河内国玉櫛荘の観阿弥が施主となり、応永26(1419)年に奉納されたものである。玉櫛荘は現在の大阪府茨木市の南部にあたる。また奥書の記載から、観阿弥は当地の中村が出身地で、その俗名は山口八郎兵衛であったことが分かる。つまり、当地の出身者が旧本の紛失を知って制作したのが本図なのである。なお、奥書には大永5(1525)年と同7年に本図が修理されたことも記載されている。 絵画としての重要性とともに、当地の歴史を知る上でも貴重な資料といえる。
南宋時代、13世紀。馬遠(ばえん)は南宋中期を代表する画院画家で、山水人物画をよくした。本図は曹洞宗の祖師洞山良价(とうざんりょうかい)が行脚の途中、水を渡った際に自分の影を見て悟りを得た刹那を描いたもので、馬遠派の傑作の一つとされる。相阿弥(そうあみ、? - 1525)の外題を伴う。
元時代、14世紀。任仁発(1254 - 1327)は元の画家、号は月山、上海の人。画馬を得意とし、人物画も制作。水墨の草虫図として極めて良質の作品。葡萄のまわりをアブが飛び、クツワムシが葉の穴から顔をのぞかせている。本来は他に様々な花卉草虫を描いた画巻であった可能性もある。能阿弥と狩野探幽の外題が付属する。曼殊院旧蔵品。
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三重県名張市は奈良県と接する伊賀盆地にあります。中世に能楽を大成させた観阿弥がここで能楽の座を興したといわれます。特産はぶどうです。名張市の盆地特有の気候と土地がぶどう栽培に適しているといわれています。動画は1999年取材。
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京都国立博物館の研究員が子ども向けに分かりやすく展示作品を解説する「博物館Dictionary」の一記事。