錦絵(富士山、美人画等の主題から検索可能)(教育・商用利用可)
富士山を題材にした錦絵
登戸浦は現在の千葉県千葉市中央区に位置する。地名は「のぼと」又は「のぶと」と呼ばれ、浅瀬に立った鳥居は登渡神社のものとされる。鳥居の周辺には潮干狩りを楽しむ人々が描かれ、画面左側にははしゃぎ回る子どもたちの姿も見える。中央に大きく描かれた鳥居の中に富士が描かれるが、鳥居の大きさや角度、海面と陸地の配分など、全て計算されたかのような構図は極めて精巧といえる。
下目黒は現在の目黒区の一帯を指している。当時は田畑が多い農村で、将軍が鷹狩りをする御鷹場としても知られていた。画面の中央、道端で話をしている2人の男は鷹匠で、男たちの手の先には鷹が止まっている。また田畑には、畑仕事をしながら鷹匠たちの話に耳を傾ける農夫やクワを担いで畑へ向かう農夫の姿も見え、農家の母子が描かれている。富士山は起伏に富む小高い丘の間から遠慮がちに顔を出している。
駿台は現在の文京区本郷に位置する神田駿河台のこと。神田界隈ではここだけが高台であったため、富士がよく見えたという。季節は新緑の時期であろうか、周囲に繁る木々や野に生えた草を3種の鮮やかな緑で表し、眼下に見える神田川の青とも見事に調和して、画面全体が爽やかにまとめ上げられている。荷を担ぐ行商人の姿、巡礼をする者、お供を連れた武家の姿、額に扇をかざす者など、画中に描かれた人物たちの動きもさまざまで面白い。
千住は現在の足立区。かつては奥州街道の起点で、水戸街道、日光街道へも続く交通の要衝であり、江戸四宿のひとつとして有名であった。ここでは宿場の風景は描かず、ややはなれた隅田川上流の荒川水門脇のあたりを描いている。リズミカルな水門の柱の間にあえて富士を配置し、構図に一工夫加えている。頭を下げ、山なりになった馬の体躯と富士の姿を相似させている点も面白い。
現在の墨田区に位置する本所立川には当時多くの材木問屋があった。明暦の大火の以後、火事が起きた際に建替えで必要となる材木がここに蓄えられていたという。本図では材木置場に立てられた無数の材木の向こうに富士が顔をのぞかせている。また、中央で木挽きをする人をはじめ、材木を高々と放り投げる人、それを受け取る人などそれぞれの職人の動きに北斎の巧みな人体表現を見ることができる。
仲原は現在の神奈川県平塚市中原に位置する。目の前には平野が広がり、悠然とした富士の姿を臨むことができる。富士の手前にあるのは大山で、当時、神仏習合の霊場であった大山を詣でる「大山詣で」は庶民の間で人気を集めていた。画中ではまさに大山詣でに向かう修験者がおり、その人手を見込んだ行商人の姿なども見える。一方、そうした世間のことには見向きもせず、ひたすら川で網をすくう男の姿もありのまま描かれている。
牛堀は霞ヶ浦の東岸、現在の茨城県潮来市に位置する。画面の中央に「苫舟」と呼ばれる霞ヶ浦付近の航行に適した船底の浅い舟が、右下から対角線上に突き出るようにして描かれている。また朝食の支度にかかっているのか、舟から身を乗り出した男は米のとぎ汁を川に流し、その音に驚いた2羽の白鷺が舞立つ様子も捉えられている。大胆な構図の中にも、夜明け前の静まり返った空気を感じさせる抒情性にあふれた作品といえる。
冨嶽三十六景シリーズを代表する作品。画題にある「凱風」とは南風のこと。「赤富士」とも称されるこの情景は、夏から秋にかけての早朝にかぎり見られるという。諸説はあるが、右側に寄せられた構図は左側(東)からの光を意識しているとも感じられ、河口湖付近から富士の北側を捉えたと思われる。秋を予感させる鰯雲の中に悠然とそびえるその偉容は、富士を形象化した作品の中でも唯一無二の逸品といえよう。
遠江は現在の静岡県西部に位置する。巨大な材木を人の高さの倍以上もの高さにまで立て、2人木梚き職人が大きな歯の特別なのこぎり使い、1人は材木によじ登り、上から丹念に切れ目を入れ、1人は下から切れ目を入れている。富士は材木を支える支柱が作った三角形の間から顔を覗かせている。職人たちが働く傍らでは、子どもが焚火をしており、その煙は富士を取り巻く雲と連動するように、バランスよく材木と対角線の方向に伸びている。
「冨嶽三十六景」シリーズ中で唯一、富士の山容が描かれていない富士である。描かれた人物は皆、富士講と呼ばれた富士山を信仰する人たちで、白雲が湧き立つ中、杖を使い、険しい山肌を這うようにしながら登っていく。彼らの顔は一様に疲れきっており、登山の過酷さを物語っている。画面右上にあるのは石室で、登山者たちが体を休めるために使用していたようで、すでに数十人がうずくまって休息をとっている。
佃島は元々、隅田川の河口に自然にできた寄洲。徳川家康は幕府を江戸に置くにあたり、摂津国佃村の漁民を江戸に呼び寄せ、ここに漁村を作った。幕府は佃島の漁民たちに江戸近海で優先的に漁が出来る様な特権を与えて保護したといわれ、毎年冬から春にかけては白魚漁がさかんに行われ江戸風物のひとつとなった。西の空が夕暮れに染まる時間帯、人を乗せる船、物を乗せる船、漁船など、さまざまな用途の船が島の周囲を行き来している。
「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」とともに、冨嶽三十六景のシリーズの三役のひとつに数えられる。白雨とは夕立のこと。快晴の山頂に対し、山麓に下ると漆黒の闇に包まれ強烈に走る一瞬の稲妻が描かれ、そこに激しい雨が降っていることがイメージできる。自然に超越して、静と動をあわせ持つ、富士の雄大さ見事に表現された一枚である。『富嶽百景』「夕立の不二」には、その裾野の村に視点が移動した光景が描かれている。今日のように飛行機が無い時代にあって、富士を様々な視点からイメージできた北斎の力量に驚くばかりである。この「山下白雨」は、主板、色板の板木に欠落部分があるものが多く、初摺りのイメージを残すものが少ないといわれる。山頂の中心部分の茶色の点の欠落や、落款の「筆」の下部部分の欠落などが見られるものもあるが、この版は、初摺りに近いイメージを残している貴重なものである。後摺りの版では、その裾野に松の木が加えられたものもあり面白い。
江尻は清水港に隣接した東海道の宿駅で、現在の静岡県静岡市清水区にあたる。富士山麓特有の強風に苦しむ旅人と、それとは対照的に泰然と佇む富士の姿を輪郭線だけを用いて描いている。当の本人たちには気の毒だが、菅笠や懐紙が風に乗って飛ばされる様は、殊の外リズミカルで、この瞬間に居合わせた面白みを感じさせる。樹木が傾くほどの凄まじい風の動きと背景の富士とが見事なコントラストをなしている。
玉川は多摩川のこと。山梨から東京を経て神奈川に流れる川で、この図では川の中流域にあたる調布あたりの渡し場からの眺めと思われる。川のほとりには1組の人馬がおり、波立つ川の上を1艘の船が対岸を目指している。中景の霞雲を隔てて見える、遠景の富士の姿は明らかに大きく描かれている。多摩川の流れの手前側は空摺(色を使わず圧力で紙に凸凹をつける技法)を用いて表現されている。
礫川は現在の文京区小石川付近。画題の「雪の且」の「且は「旦」の誤り。高台にあった茶屋の2階からの眺めと考えられる。雪の降った朝、茶屋は雪見を楽しむ女性たちで賑わいを見せている。澄んだ空気の向こうに白雪をいただく富士が見える。富士の上空には三羽の鳥が舞っていて、空の広さを強調している。茶屋の客の中にもその鳥の存在に気づき、指を差している者もいる。「冨嶽三十六景」シリーズのなかで唯一の雪景色である。
上総は現在の千葉県中南部一帯を指す。この一帯は江戸時代、海運で大いに賑わっていたようだ。本図は、浦賀水道付近からの眺めと推測される。同型の2隻の船が精巧な描写で描かれているが、よく見ると側面に開いた窓からは乗客であろうか、3人の男たちが顔を覗かせているのが分かる。その男たちの顔の縮尺からすると、この船は10m近くあるとみられるが、実際は定かではない。富士は大きく弧を描いた帆の彼方に小さく配されている。
日本橋から西方向を臨んだ情景。川の両岸に立ち並ぶ蔵は西洋の透視画法を用いて描かれ、その消失点には江戸城、そしてその彼方に富士山が配される。画面手前に描かれた日本橋には、最早まっすぐ歩くことが許されないほど、往来する商人たちの姿で埋め尽くされており、江戸ならでは活気を感じさせる。またこの日本橋の模様を大胆に切り取ることで、静かに佇む遠景の江戸城と富士山との対比が生まれ、画面にさらなる面白みを与えている。
犬目峠は現在の山梨県上野原市に位置する。ここの峠は富士の眺めが良いことで知られていた。本図で北斎は、高さによって見え方が変わっていく富士山の表情を白、藍色、茶色の三色で摺り分けることによって巧みに描き出している。一面緑に覆われた坂道を2組の旅人が歩みを運んでおり、峠の高みから見る富士の景色に思わず目を止めている。小さく描かれた人物が、この眺望の雄大な景色と緩やかな時間の流れを強調している。
梅沢は現在の神奈川県中郡二宮町に位置する。「梅沢左」とあるが「梅沢庄」か「梅沢在」の誤刻だと考えられる。梅沢は大磯と小田原の間にあった立場(休憩所)として賑わっていた。左右に配置された雲、水辺に寄り添う5羽の鶴、そして富士に向かって悠然と飛ぶ2羽の鶴は、蓬莱山図など縁起のよい吉祥図を想起させる。本図は発色がよく、当時人気のあった顔料であるベロリン藍(通称ベロ藍)を基調に仕上げた藍摺りと呼ばれる作品。
吉田は現在の愛知県豊橋市に位置する東海道の宿場。「不二見茶屋」はまさに富士が見える茶屋として有名であったのだろう。お座敷の一角を陣取った2人の女性客も見物を楽しんでいるようだ。軒下には「御茶津希(=おちゃつけ)」との看板が掲げられており、その下には「根元吉田ほくち」とこの地の名産であった火口(火打ち石の火を受けるもの)の掲示も見える。駕篭者の一人が草鞋を履きやすくするために木槌でたたく姿も興味深い。
青山穏田村は現在の渋谷区神宮前の原宿あたり。当時は至るところでこのような水車が見られるような田園地帯であったとみられ、近くには今では地下に埋設されてしまった渋谷川(隠田川)が流れていた。この水車は、渋谷川沿いに作られたもので、江戸名所のひとつにもなっていた。賑やかに働く人びとや激しい水流によって回る水車と、彼方にそびえる孤高の富士との対比が面白い。
円座松とは現在の渋谷区神宮前にある龍岩寺の庭にあった笠松のこと。「枝のわたり三間(約5.6m)あまりあり」ともいわれ、山のようにも見えるこの松は江戸の名所であった。富士の姿は霞雲をはさみ、実際よりも大きめ描かれているとみられる。画面右下には酒に興じる一行がおり、通りすがった通行人もこの景色に見入っている。よく見ると画面左下には、松の添え木にまじり、落葉を掃除している者の足と箒だけが描かれている。
七里ヶ浜は、現在でも多くの観光客が訪れる神奈川県鎌倉市に位置する海岸。前景にあるのは鎌倉山で、中景には七里ヶ浜の集落が描かれている。その左側に見える島が相模湾に浮かぶ江の島と思われる。描かれた時間帯は西の空が染まる夕方頃と考えられ、逆光で暗がりとなっていく集落や島の色合いも見事に表現されている。本作の摺りでは退色のため判別しづらいが、富士の左側の空には夏の湧き立つ入道雲が描かれている。
海の断崖で漁をする姿かと見紛うほど、迫り出した岩と波しぶきが目に止まる。描かれた場所は、富士山北西部を流れる笛吹川と釜無川が合流し富士川となる地点、鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡)付近とみられる。漁をする父と魚籠を覗き込む息子、それを見下ろす富士の姿、三者三様の光景が画面を飽きさせないものにしている。富士の山容と、突き出た岩と漁師、そして漁師から放たれた網とが三角の相似をなしているのも面白い。
伊沢は現在の石和のこと。山梨県笛吹市にあたる。日の出前の時間帯。宿場町の背後を静かに流れる笛吹川と富士の裾野に立ち込める朝靄が清澄な雰囲気をつくり出し、朝靄の先には朝焼けに浮かび上がる富士山の偉容が姿を現そうとしている。手前に目をやると、林立する小屋がリズミカルに並び、早立ちする人馬が慌ただしく列を作っている。近景の宿場町、中景の笛吹川、遠景の富士の三者がひとつの風景の中で見事に調和を果たしている。
見事な曲線を描いた橋がまず目に飛び込んでくる。万年橋は東西に流れる小名木川と南北に流れる隅田川の合流地点に架けられた橋。海抜の低かった深川では洪水対策のため、川の両岸の石積を高くしていたという。この石積の上に架けられた橋は周囲よりも高い位置から富士を臨める絶好の見物スポットだったのかもしれない。富士は橋桁の間にひっそり描かれるが、そこに視線が向くようにとの思いか、水上の舟は富士に舳先を向けて浮かんでいる。
眼前で激しく逆巻く大波と波間の遥か遠くに鎮座する富士山。動と静、遠と近を対比させる絶妙な構図は、海外でも「グレート・ウェーヴ」と称され、画家ゴッホや作曲家ドビュッシーをはじめ世界的に賞讃を受けた。波に翻弄される3艘の船は「押送り舟」と呼ばれる舟で、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していた。千葉県木更津方面から江戸湾を臨んで描いたとの説もある。
三島越とは、甲府盆地から富士山麓を経て駿河国・相模国へと続く鎌倉往還(各地方と鎌倉を結ぶ古道)を指す。本図は、鎌倉往還の甲駿国境にある籠坂峠から臨んだ富士の姿とみられる。画面中央を巨木が貫き、背後に富士がそびえる圧巻の構図である。3人の旅人が手をつないで巨木の大きさを計ろうとするしぐさがいかにも人間らしい。富士の周囲に漂う雲の形もユニークな雰囲気を醸し出している。
当時、甲斐国側いわゆる西側から見た富士を「裏富士」と呼んでいた。また身延川は富士川を指すとの説があったが、現在は日蓮宗の総本山久遠寺周辺の川であるとの説もある。旅人が行き交う山道の脇を流れる急流とわき上がる雲、そしてその先に競り立つ山々の間から顔を見せる富士の姿は、他の図にはない険しい表情をもつ。また富士とそれを挟む山々、画面右側に伸びた樹木のシルエットがリズムよく並んでいるのも面白い。
現在の山梨県笛吹市に位置する御坂(三坂)からみる河口湖と富士の風景である。中央には赤茶けた山肌をあらわにした夏の富士が描かれている。またここから見る富士の姿は、河口湖の湖面に反射して逆さに見えることから「逆さ富士」としても有名である。ここでも波ひとつない湖面に富士の姿が映し出されている。しかし、湖面に映し出されているのは雪をかぶった冬の富士であり、そこには現実ではありえない虚構の風景が広がっている。
程ヶ谷は現在の神奈川県横浜市保土ヶ谷区。程ヶ谷宿近くの品濃坂は松並木が見事であったという。北斎はその松の枝振りを見事にとらえて描いている。また松の前ではさまざまな人間模様も描かれて、左側の駕篭を担ぎ、一旦休憩する二人の男とその中で熟睡する客。汗を拭く左側の男のしぐさは何ともコミカルで憎めない表情を浮かべている。また右側の草鞋の紐を結び直す男の描写も巧みで北斎の技量を感じさせる。
箱根湖水は神奈川県足柄下郡に位置する芦ノ湖のことを指す。富士をはさみ左側に見える山は三国山、右側の山は駒ヶ岳であるとみられる。波ひとつない湖面が広がり、湖畔のほとりには杉に囲まれた箱根神社がひっそりと佇んでいる。人物はおらずきわめて静寂な風景が広がる。構図を見ると、横に平たい形で様式化された霞雲と、画面の所々に縦に勢いよく生えた杉の木々とが、画面に縦と横の一定のリズムを生んでいる。
描かれているのは、現在の愛知県名古屋市中区不二見町の付近の光景と思われる。職人が自身を取り巻くほどの大きな桶の製作に一心不乱に取り組んでいる。その桶の中を通して遠方に小さな富士の姿を捉えるという大胆奇抜な構図に感嘆させられる。桶の大きな円と富士の小さな三角形という組み合わせにも北斎の遊び心を感じる。画中に描かれた職人は、約15年前に刊行されている『北斎漫画』にも登場している。
大野新田は現在の静岡県富士市につくられた新田集落である。大野新田を通る東海道からの富士の眺め。時間帯は東の空が染まる早朝の頃と考えられる。農夫たちが葦を背負った牛を引き連れて歩く様子を捉えている。牛に積まれた葦、また牛の足が一定のリズムで並ぶ様子は滑稽みがあり、先頭を行く農夫とその前を歩く農婦が同じポーズをとっている姿もまた面白い。奥には富士沼が広がり、牛の列に驚いた数羽の白鷺が飛び去る姿が見える。
関屋の里は現在の足立区千住付近の隅田川に面する一帯のことを指す。鎌倉時代に関所が設けられていたことからその名がついたという。朝霞がたちこめる早朝であろう。遠方には朝の日に照らされた赤富士が見える。田畑にのびる堤の上を疾駆する3騎の早馬の臨場感がよく伝えている。右端に描かれているのは法令などを掲示する高札場。中央に伸びる松の木は明らかに富士の山容を意識した枝振りをしている。
浅草本願寺は現在の台東区浅草に位置する。もともと神田明神下にあったが、明暦3年(1657)の明暦の大火の後、浅草へ移転した。大屋根をもつこの壮大な建築は江戸の市民を驚愕させたという。屋根の職人たちは幾分小さく描かれており、屋根の大きさが強調されている。屋根と同じ高さから町を見下ろすアングルが斬新である。また屋根と富士山との対比も面白い。藍摺りを基調にしながら朱色の凧がアクセントとなっている。
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所である大井川。金谷は現在の静岡県島田市に位置する。江戸時代、架橋、渡船が禁じられていた大井川では川越しの人足や馬の背に荷駄や人を乗せる徒渡しが行われていた。まるで、海のように波打つ川を、金谷宿と島田宿の双方から徒渡しで往きかう旅人や荷駄が描かれている。向こう岸には堤防が波のうねりと呼応するような形で描かれている。
駿河国は現在の静岡県東部付近をいう。片倉という地名は存在しないため、静岡県駿東郡清水町にある徳倉の誤刻の可能性が指摘されている。駿河は茶の名産地であったことから、このような大規模な茶園が多く見られたと考えられるが、霞の向こう側に見える小屋の一帯も同じ敷地内だとすれば相当な面積を有していたとみられる。画面の中央2ヶ所の茶畑に笠を被り並んで茶摘みをする女性たちが見られ、男性はひたすら茶葉を運ぶ仕事に従事している。
<p>現在東京目黒にある五百羅漢寺は、もとは本所大島にありました。ここにさざえ堂と呼ばれた螺旋(らせん)構造の通路がめぐる三階建ての建物があり、階上の見晴台からの眺望が評判でした。思い思いに富士を眺める人々の後ろ姿が、見晴らしの良さを物語っています。</p>
千住は日光街道最初の宿場で、本図はその南に位置する山谷(現在の台東区浅草)から花街である新吉原(現在の台東区千束)を眺めた構図。手前には鉄砲や槍をもった大名行列が国元へと向かう様子が描かれるが、一人一人が手にしている赤い色の兵具入れが明らかにリズミカルに配置されていることに気づかさざるを得ないであろう。隊列の向こうには稲刈りを終えた2人の農婦が田んぼの畦道に腰を下ろし、物珍しそうに行列を眺めている。
駿河町は現在の日本橋室町。越後屋三井呉服店は、今の三越百貨店の前身で、日本橋の北側、現在の室町三丁目にあった。看板に「現金、掛け値無し」とあるように、全ての商品に定価をつけた商売は大成功を納め、当時大いに繁盛していた。地上から見上げたような構図で、その視線の先に生き生きと働く屋根職人の姿と風に漂う凧を配する。江戸の庶民の日常生活に静かに溶け込んだ富士の姿が捉えられている。
現在の品川区に位置する御殿山には、江戸時代に桜の木が植樹され、海と桜を一度に楽しめる名所として賑わっていたようだ。富士は計算されたかのように、2本の桜の合間から顔を見せている。本図の画面手前には、御殿山の丘陵にゴザを引いて酒を興じる男衆や、家族連れであろうか、稚児を肩車する男性に同じく稚児をおんぶする女性、はたまた扇を手におどける男たちなど、思い思いに花見を楽しむ人々の姿が生き生きと描かれている。
田子の浦は現在の静岡県富士市一帯の海岸を指し、富士の真南に当たり、海と富士の距離が最も近いエリアでもある。『百人一首』にも「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(山辺赤人)と詠まれたように古くから名所として知られていた。富士の手前に顔を見せるのは愛鷹山。そのふもとの浜辺では塩田で黙々と働く人びとの姿が見られる。遠景と対照をなすかのように、近景では4隻の船が荒れた海の中で格闘している。
御厩川岸は隅田川の両国橋と吾妻橋の中間、現在の厩橋が架かる付近。本図は富士の位置からして厩橋の北側からのアングルを捉えており、まさに今、渡し船が対岸の浅草方面に向け離岸した刹那を描いている。船は帰路を急ぐ客で溢れ返り、一日の疲れからかうずくまる客もいれば、汗を拭こうとしているのか、水面に手拭いを濡らしている客もいる。船を漕ぐ船頭の視線の先には、夕日に浮かんだ富士の美しいシルエットを臨むことができる。
<p>「前北斎為一筆」の落款から、「冨嶽三十六景」などを描いた70歳代の作品と知られます。判型や落款を同じくする亀や鯉の図があり、吉祥画題として描かれたことが想像されます。天保5年(1834)、75歳で出版された『富嶽百景』初編の袋に同じ姿の鷹が描かれています。<br /></p>
<p>今の西新宿にあたる四谷十二社(じゅうにそう)は、かつてこの地に紀伊熊野の十二所権現が勧請されたことに由来します。画面左上には画題と「ほくさいえがく」の款記が横倒しの平仮名で記されています。板ぼかしによって陰影がつくり出され、洋風版画風の作品に仕上げられています。</p>
現在の愛知県豊橋市にあたる。眼下の豊川に架かる豊川橋は長さ200メートルにおよび、吉田大橋とも呼ばれた。画面右に配されるのは吉田城の天守閣であ、城には升目状に足場が組まれ、左官職人が壁の補修を行っている。上に目をやると場違いにも鳶職人が一人、遠くの景色を楽しんでいる。題材を手前に配置し、奥の景色と対比させる手法は、広重が得意とするものだが、ここでも画面に遠近感と興趣をもたらす絶妙な効果を生んでいる。
現在の静岡県沼津市にあたる。母娘であろうか、2人の女性とお供の男性。その背後には、朝焼けをバックに雪を被る雄大な富士がそびえており、女性たちはその偉容に思わず足を止めている。富士の頂が画面をはみ出すように描かれた斬新な構図には、すでに人気を博していた葛飾北斎の《冨嶽三十六景》シリーズへの対抗心のようなものを感じとることができる。田畑に戯れる2羽の鶴が峻厳な富士の姿を和らげるアクセントにもなっている。
現在の静岡県富士市にあたる。元吉原から吉原へ、田んぼの中を曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ、皆に親しまれた名所であった。馬に乗る3人の子どものうち、左の2人は眼前に見えてきた富士に気づき、夢中に見つめているが、右端の子どもは居眠りしているのか、頭を右にがっくりと垂れている。松の並木が迫り来るようなリズムを作り出し、画面に何ともいえない臨場感を与えている。
現在の静岡県沼津市にあたる。母娘であろうか、2人の女性とお供の男性。その背後には、朝焼けをバックに雪を被る雄大な富士がそびえており、女性たちはその偉容に思わず足を止めている。富士の頂が画面をはみ出すように描かれた斬新な構図には、すでに人気を博していた葛飾北斎の《冨嶽三十六景》シリーズへの対抗心のようなものを感じとることができる。田畑に戯れる2羽の鶴が峻厳な富士の姿を和らげるアクセントにもなっている。
<p>『名所江戸百景』は、広重最大の名所揃物です。広重の晩年安政3年(1856)に制作がはじまり、没後に追加された二代広重の作品を含めて119枚の揃いとして完結しました。描かれているのは雪の朝の日本橋。日本橋越しに江戸城と富士山を望む江戸の象徴的な景色です。</p>
よく晴れた日には諏訪湖からも富士を眺望でき、渓斎英泉や歌川広重も好んでその光景を描き残している。画面を遮るようにV字に大きく描かれた二本の松から見下ろすように諏訪湖を配し、富士の形と相似するように弁財天の祠を置くなど、北斎の構図への強いこだわりを感じさせる。本作のような大胆な構図は、印象派の画家モネにも影響を与えたとされ、彼が描いた崖のほとりに立つ税関吏小屋のシリーズへの影響が示唆されている。
現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあたる。主役の富士を凌駕するように極端に競り立った山が画面中央に描かれ、対照的に白く雪化粧した富士が遠景にひっそり佇んでいる。山間を抜ける細く急勾配な坂道を下る大名行列の姿は「天下の嶮、千尋の谷」と謳われた箱根の峠越えの厳しさを物語っているかのよう。モザイク画を思わせる多彩な山の岩肌の表現と連なる大名行列の動きが画面にリズムをもたらし、観る者の好奇心を満たしてくれる。
現在の静岡県富士市にあたる。元吉原から吉原へ、田んぼの中を曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ、皆に親しまれた名所であった。馬に乗る3人の子どものうち、左の2人は眼前に見えてきた富士に気づき、夢中に見つめているが、右端の子どもは居眠りしているのか、頭を右にがっくりと垂れている。松の並木が迫り来るようなリズムを作り出し、画面に何ともいえない臨場感を与えている。
本郷台地から神田川に架かる水道橋越しに駿河台の町を見下ろしている。駿河台の名は、徳川家康とともに駿河(現在の静岡市)より移住した家臣が居を構えたことに由来する。端午の節句の大きな鯉のぼりが手前にくの字に曲がって翻っている。奥に広がる屋敷の方々で吹き流しや幟旗、魔除けの鍾馗の幟が見られるが、これらは武家の習わしで、鯉のぼりを上げるのは町人の文化であった。遠景には5月の澄み切った富士の姿が見える。
格子の外を見つめる猫の後ろ姿が可愛らしく印象的だが、格子窓のこの部屋は吉原の妓楼の二階であろう。飼い主の遊女は接客中のようで、畳には客が持参したものか、浅草の鷲神社の酉の市土産の熊手型の簪が転がっている。窓の外には浅草の田んぼの向こうに熊手を持って行き交う人々の姿が描かれ、遠く富士山と空高く雁行する雁の群れが見える。空は夕日に赤く染まって、吉原も忙しくなる頃合いである。猫は、縁起物の熊手を買い求める参詣客で賑わう酉の市の喧騒に耳をそばだてているようだ。
北斎は、その生涯に、確認されているだけでも東海道のシリーズの浮世絵版画を7種類手がけている。この展示の版図はその中の最も大きなサイズのもの。文化7年(1810)、北斎が50歳の時刊行されたものと思われ、版元については「掛川」「見附」などの画中に伊勢屋利兵衛の商標があることから伊勢屋版とされている。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の主人公である弥次郎兵衛、喜多八のような二人の旅人が描かれていたり、宿駅や旅人の風俗を中心に描かれている。
美人画
<p>緋色の衣裳をまとった美人がふと見返る一瞬を描いている。縫箔師であった師宣の描く艶やかな衣装の女性像は「師宣の美女こそ江戸女」と賞賛され人気を博した。落款の「房陽」は出身地房州(千葉)、「友竹」は晩年の雅号である。ルビ:ひ ぬいはくし らっかん<br /></p><br /><p> 菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた肉筆の浮世絵で、切手のデザインになったことでも有名な作品です。鮮やかな紅色の衣裳をまとった女性が、足をとめて振り返っています。こちらからは彼女の横顔しか見えませんが、その分、後姿から当時のファッション・トレンドをしっかりと楽しむことができます。ヘアースタイルは、下げた髪の先端を輪に結んだ「玉結び」。この頃流行した髪型です。髪にさした櫛は高級品の鼈甲(べっこう)のようです。振袖は、紅色の光沢のある地に小花模様の地紋が織り出され、大輪の菊と桜の「花の丸模様」が散らされています。これも当時流行したもの。これらの模様は、鹿の子絞りや絹糸、金糸の刺繍、あるいは金箔などで表されたものでしょう。菱川師宣が、きものを刺繍と金銀の箔で飾る縫箔師(ぬいはくし)であったことを思えば、こうした細かいデザインの表現はお手の物でしょう。結び手が左右に長く垂れた帯は、人気の女形役者・上村吉弥(かみむらきちや)が発信元となった「吉弥結び」。これだけファッショナブルに贅を尽くしたお洒落な女性がいったい何者だったのか、気になりますが、モデルは分かっていません。師宣の描く女性像はたいへん人気で、「師宣の美女こそ江戸女」と賞賛されました。</p>
<p>「歌撰戀之部」は、背景を紅雲母摺(べにきらずり)とした美人大首絵5枚揃いシリーズで、歌麿は女性の年齢や表情、仕草を描き分け恋する女性の心の襞までを描き出そうとしている。本図は歯に鉄漿(おはぐろ)を付けた年増の婦人。寛政(1789~1801)中頃制作の、歌麿の代表作。<br /></p>
<p>「巳ノ刻」は午前10時頃。町家の娘と年増の髪結い女を描いています。娘は髪結いの話を聞きながら、鏡に髪を映して手をあて満足そう。こうした光景は現代でも見ることができますが、本図は、歌麿の女性の心理描写の巧みさを十分に示しています。<br /></p>
<p>煙管(きせる)を片手に、衝立(ついたて)に寄りかかる若い男と、その衝立の下から、男の顔を見上げる娘。歌麿独特の計算された構図により、二人の恋模様が巧みに表現されています。綟(もじ)張りの衝立や男性の夏物の羽織の透けた様子も、本作の面白みを演出するのに一役買っています。<br /></p>
何かの願い事のためか、それとも愛する男との約束を誓うためか、一人の娘が一生懸命右手首にこよりを巻き結ぼうとしている。正直者と題された教訓の文章には、「神や仏への信心もよいが、日常の細々としたことで頼ったり、占ったり、行き過ぎてはいけない」との戒めが記されている。この頃から日常、占いやおまじないに没頭する女性が少なくなかったことが想像できる。歌麿の巧みな描写は乙女の純真な心を映し出すかのようである。
<p>「辰の刻」は午前8時をさしますが、江戸時代には季節によって時間の長さが変わり、日の出の早い夏には、今よりも少し早い時刻でした。顔を洗う手拭を肩に掛けた娘は朝顔の小鉢を手に持ち、傍らに立つ娘は起きたばかりか、着崩れた姿で眠そうに房楊子で歯を磨いています。<br /></p><br /><p> 「娘日時計」は、浮世絵版画のシリーズです。「辰の刻(たつのこく)」(午前8時頃)から「申の刻(さるのこく)」(午後4時頃)のあいだの若い女性の生活の場面を描いたものです。辰・巳・午・未・申(たつ・み・うま・ひつじ・さる)と、日中の2時間ごとの場面を描いた5枚が知られています。<br /> この作品では、2人の若い娘が描かれています。立ち姿の一人は口に房楊枝(ふさようじ・今でいう歯ブラシ)をくわえています。縞もようの浴衣は着崩れて、胸元があらわになっており、いかにも寝起きといった雰囲気です。となりに座る女性が手に持つ朝顔の鉢に目をやっているのでしょうか。青い朝顔の鉢を持つ女性は、洗面のためか肩に手ぬぐいをかけており、こちらはもう少ししゃっきり目覚めているようですね。<br /> 顔から首にかけては輪郭線を使わずに描かれており、女性の肌の柔らかさが表現されています。<br /> 温かみを帯びた黄色い背景に、青や緑がかった寒色系の着物が映えています。しかしその中にも、ちらりと見える赤い帯や、黄色い花もようが、背景との調和をもたらしています。</p>
<p>吉原遊女の座った姿を、膝のあたりから上で切り取った特徴的構図の10枚揃シリーズで、遊女や禿の名前から寛政6年(1794)に制作されたと考えられている。本図のみ遊女屋名と禿名が記されていない。扇屋抱えの遊女瀧川が文を愛しむように隠し読んでいる。<br /></p>
<p>「北国」とは吉原遊郭のことで、江戸城の北に位置することからこう呼ばれました。『五色墨』という俳句の書物が流行し、5つを揃えるシリーズの名称として使われました。5枚のうちの1枚である本作は、吉原で働く職業の中でも、高級遊女の花魁(おいらん)を描いたものです。<br /></p><br /><p> 美人画で有名な江戸時代の絵師・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の描いた浮世絵版画です。歌麿は、主に遊女を描いた女性の単身像で知られています。<br /> タイトルにある「北國(ほっこく)」とは江戸(現在の東京)にあった吉原遊郭のこと。江戸城の北に位置することからこう呼ばれました。「五色墨(ごしきずみ)」とは、享保16(1731)年に刊行された俳句に関する書物のことで、5つのものが揃ったシリーズを描く際の名称として絵画の題名にもよく使われました。<br /> 「北國五色墨」は吉原で働くさまざまな職業の女性達を描いたシリーズものです。この作品は、黄つぶしといわれる黄色い無地の背景に、高級遊女である「おいらん」が洗い髪を乾かしながら、手紙を書いているさまが描かれています。一筋の濡れた髪もリアルで、着飾った表の姿でなく、実在感あふれる日常の姿を描いているようです。</p>
<p>「申ノ刻」は午後4時頃。揚帽子(あげぼうし)姿の大店(おおだな)の若い女房が、年増の女中を連れて歩く姿を描く。荷物を持つ女中がうつむき加減なのに対し、女房は白い両腕を出して、右手に扇子を持ち、左手を襟にあてている。顔の輪郭線を描かない冒険的描写がなされている。<br /></p>
<p>「未ノ刻」は午後2時頃。夏の気だるい午後を、衝立(ついたて)に寄りかかる二人の女の姿をとおして描いている。長い煙管を持つ女と、その女の足元に寄りそう女。お互いに目を合わすこともなく、二人は何を話しているのだろうか。<br /></p>
<p>当時江戸で名高かった6人の美女を描いたシリーズで、上部「こま絵」に美人の名前が判じ絵で書かれている。美人の名前は「菜二把」・「矢」・「沖」・「田」で「なにわやおきた」となる。水茶屋の娘で一時期店に出なかったが、再び出てきたので、「再出」とされた。(20170905_h102)<br /></p>
<p>『娘日時計』は、町娘の時間に応じた生活をスナップ風の5図に描いたシリーズ。本図は正午頃。手拭いを手にし、糠袋をくわえた湯上り姿の二人の娘を描いている。顔に輪郭線を用いておらず、写実的表現に対する歌麿の試みがうかがえる。<br /></p>
<p>「おもて」「うら」、どちらからも見られる珍しい浮世絵。薄い和紙の両面に木版で絵をすっています。輪郭線が両面でぴったり合っているのがスゴイところ!うら側から見ると、手に持った煙草盆の形がちょっと変?でも、とってもキレイなうしろ姿をしています。<br /></p>
<p>突然の強い風に女性たちの着物が翻っています。足元の薄(すすき)や野菊も大きく揺れ、秋の季語でもある野分(のわき)が描き出されています。左の女性は、着物の紋から笠森稲荷の脇に立つ水茶屋「鍵屋(かぎや)」の看板娘お仙がモデルであることがわかります。</p>
<p>鈴木春重とは、蘭学者として知られる司馬江漢【しばこうかん】のこと。人気絵師の鈴木春信に浮世絵を学び、春信の贋作まで制作したと伝わります。一見、春信と見紛う愛らしい美人図ですが、大胆な遠近法を用いた縁の構図などに、江漢らしい機知がうかがます。<br /><br /></p>
<p>鳥居のそばに描かれるのは、谷中笠森稲荷の水茶屋鍵屋(かぎや)とその看板娘のお仙です。画中に文字情報はありませんが、鳥居と杉の枝葉がこの鍵屋を示す記号となっています。ここでは、涼しげな薄物を着たお仙が、供物用に売られていたという団子を運ぶ様子が描かれています。</p>
<p> 行水(ぎょうずい)の後でしょうか、縁側で夕涼みをする女性はゆるやかに着物をまとっています。後ろに座る侍女が振り返っているのは、時計が鳴ったからでしょう。屋外から座敷を見下ろす構図は、風の入る涼しげな空間でのくつろいだ雰囲気を想像させます。「坐鋪八景」は、中国の伝統的な画題である瀟湘八景(しょうしょうはっけい)のパロディとして女性の日常を描いた8枚揃いのシリーズです。この「時計の晩鐘」は、瀟湘八景の中の「烟寺晩鐘(えんじばんしょう)」という、遠く夕霧に煙る寺の鐘の音を聴く画題にあるお寺の鐘に、時計の鐘を重ねて描いています。当時としては高価な時計や、格調を感じさせる竹の水墨画の衝立が、この女性の身分をそれとなく表しているようです。またこれは、鈴木春信を中心に始められた、錦絵と呼ばれる多色摺り木版画の初期の作品です。錦絵は、絵暦交換会という趣味人の集まりをきっかけに誕生しました。その中心人物であった旗本の大久保巨川(おおくぼきょせん)が春信に依頼した絵でもあります。</p><br /><p>坐鋪八景は、女性の日常を伝統的画題である瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に見立てた趣向の8枚揃いシリーズ。錦絵誕生のきっかけとなった絵暦交換会の中心人物である旗本の大久保忠舒(ただのぶ)(俳名 巨川(きょせん))が絵を春信に依頼したものです。高価な時計や墨竹の衝立が女性の階層を暗示しています。</p>
<p>弓を構える扇の地紙を売る男、肩越しに茄子が見えます。本来は文の結ばれた矢を番(つが)える男の視線の先に船上で扇をかざす娘を描いた図が対になっていました。源平合戦の那須与一(なすのよいち)「扇の的」を当世の若い男女に置き換えています。この矢は、見事に娘の心を射抜くに違いありません。<br /></p>
<p>瓶から龍を出すという神通力をみせた半托迦(はんたか)という羅漢を美人に変えて描いたもの。江戸時代には、今の年賀状のように元旦に摺り物を交換する習慣があり、これもそうした歳旦摺物のひとつ。昇って行く龍の姿は縁起がいいと喜ばれたのだろう。<br /></p>
<p>梅の名所である亀戸の梅屋敷。その中でも、龍が地を這うかのような形をした「臥龍梅」は特に有名でした。本図では、その臥龍梅のそばで、若衆と娘が仲睦まじく煙管で火を移す姿が描かれています。可憐な男女の恋模様を得意とした春信らしい作品です。<br /></p>
<p>小野道風が書の才能に悩んだとき、柳の枝に飛びつこうと何度失敗しても跳びはね、ついに飛びつくことが出来た蛙の姿をみて、あきらめず努力することの大切さに気がついたという逸話が良く知られていた。花札の絵柄にもなった道風の姿を女性の姿にやつしている。<br /></p><br /><p> 鈴木春信による浮世絵版画です。傘を手にした女性が水辺に立っています。その後ろには柳の木。水の中から蛙が一匹顔を出し、もう一匹は柳の枝に飛びつこうとしています。雨・柳・飛ぶ蛙…ときいて、ぴんとくる方はいるでしょうか。<br /> 花札で、柳の下で傘をさしている公家ふうの男性と蛙の絵札を見たことはありませんか?それは11月(雨)の札で、その男性は平安時代の書家・小野道風(おののとうふう)です。何度失敗しても柳に飛びつき、ついに成功する蛙を見て、道風も努力を重ね大成したという話がベースになっているのです。<br /> このエピソードは花札になるよりずっと前に「小野道風青柳硯(おののとうふうあおやぎすずり)」という人形浄瑠璃の演目になって、宝暦4年(1754年)に初演されました。おそらくこの浮世絵が作られたときには、「柳」「蛙」「雨・傘」というモチーフが出てくるだけで、小野道風の見立てと分かる人が多かったのでしょう。鈴木春信は道風を、若い娘の姿に置き換え、優美に描いています。</p>
<p>縄のれんに手をかけ、そっと山吹の枝を差しだす娘は、太田道灌(おおたどうかん)が貧しい家で雨具を借りようとしたところ、「七重八重 花は咲けども山吹の みの(実の=蓑)一つだになきぞ悲しき」(『後拾遺和歌集』)になぞらえ、雨具を断ったという逸話の娘に見立てられたものです。<br /></p>
<p>在原業平の「世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし」の和歌が雲形に記されます。業平の心を騒がせた桜花が晴れやかに咲き誇る下、禿を連れた遊女が描かれています。お付きの禿が達磨人形を抱いており、恋の願掛けに詣でる途中かもしれません。<br /><br /></p>
<p>「風俗東之錦」は、すらりとした体形の美人画を得意とした鳥居清長による20枚揃のシリーズ。本図では、子どもをあやす母親と、浴後の女性が描かれています。子どもは、市川団十郎にあやかって三升@みます@模様を着て、腰にはお守りや迷子札を入れる巾着を下げています。<br /></p>
<p>鳥居清長は、役者絵のほかに開放的な空間に長身の美人を描いた健康的な美人画を得意とし、天明(1781~89)期の浮世絵界をリードした。「風俗東之錦」は、清長の代表作とされる全20図の揃物で、本図は2枚続きで制作された秋の庭を描いた図の左側である。<br /></p>
本図のように竪絵2枚の構図の掛物絵は文化年間中期に英山が好んで使用した形状で、一種のブームを呼んだ。女性は遊女であろう。髪を櫛や簪、笄で飾り、豪華な着物をまとい前帯を結んでいる。柱にもたれかかるように身体をくれらせて立ち、口には文の切れ端であろうか紙片を咥え、むさぼるように文に目を通している。英山は着物に多くの菊の図柄を取り入れたことで知られるが、この女性の着物にも菊文様があしらわれている。裾の間から見える何気ない足の仕草が、この女性の心の動きを想像させて楽しい。英山59歳の頃の作。
何かの願い事のためか、それとも愛する男との約束を誓うためか、一人の娘が一生懸命右手首にこよりを巻き結ぼうとしている。正直者と題された教訓の文章には、「神や仏への信心もよいが、日常の細々としたことで頼ったり、占ったり、行き過ぎてはいけない」との戒めが記されている。この頃から日常、占いやおまじないに没頭する女性が少なくなかったことが想像できる。歌麿の巧みな描写は乙女の純真な心を映し出すかのようである。
勝川春潮は、肉筆美人画で安永・天明・寛政期(1772-1800) にわたって人気を誇った勝川春章(1726-92) 門下の高弟である。肉筆美人画では、春潮は師風を忠実に継承しているが逆に版画では、師とはライバル関係にあった天明期の浮世絵師・鳥居清長(1664-1729)の画風を追従し、清長様式を熱心に模倣した。そのため春潮の錦絵美人画には、清長風がきわめて色濃く、庶民の間に相当な人気を博したものと想像される。この図も天明期に描いた三枚続の中の一つと考えられるが、余白をあまり残さず人物をおおぶりにとらえる表現は見事である。春潮は、一般に屋外での遊楽風景を大きくとらえる横三枚の続絵を得意としたが、背景をあっさりとまとめ、人物のたおやかな表情や、着衣の瑞々しい描写などに鑑賞者の視線を集中させる手法は、やはり清長がよく行なったもので、女性の優美さを際立たせるのに非常に大きな効果をあげている。
吉原は江戸初期の元和3年(1617年)に各地に散在していた遊女屋を一箇所にまとめた遊廓に始まり、明暦3年(1657年)の大火で場所を移動したのちは新吉原と呼ばれた。この作品は咲き誇る桜の下を豪華な衣裳を身にまとった花魁を中心とする一行が数組行きかう新吉原の隆盛ぶりを描いたもの。花魁は最も格の高い遊女であった。満開の桜に加えて遊女たちの華美な衣裳が妍を競うという、まさに遊廓ならではの絢爛たる光景である。
本図は、美しい女性の背中を按摩が揉んでいるところ。あるいは画中文の内容から、座頭とその妾とも考えられる。文には、男に貢がれた金で若い女中をこき使うような不遜な女にならないよう、まじめに暮らすようにとの教訓が書かれている。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。
このシリーズは、歌川豊国(三代1786-1864)が、江戸の年中行事や風俗などを十二ヶ月に当てて描いた3枚続きの美人画12組から成る。歌川派を象徴する「年玉」印の黒い枠内に題名が書かれ、版元は蔦屋吉蔵で、嘉永7年(1854)4月と6月に出版許可の改印を受けている。三代豊国は初代歌川豊国の門人で、はじめ国貞と号し、弘化元年(1844)から豊国を名乗っている。美人画・役者絵の名手であり、画歴も長く、大勢の門人を擁した。






























































































































































