印象派の系譜
1860年代半ばにフランスで始まった芸術運動である印象派は、それまでの古典主義的な西洋絵画の伝統から離れ、主題や技法などにおいて革新をもたらしたことで知られている。印象派を代表する画家たちの作品と、彼らが影響を受けた、または影響を与えたとされる画家たちの作品を集めることで、印象派の芸術がいかにして芽生え、その後受け継がれていったのかという系譜を感じてもらうことが本ギャラリーの趣旨である。
印象派の先駆け~写実主義・バルビゾン派~
本セクションは、印象派の画家たちが主に主題の面で影響を受けたとされる写実主義のクールベやバルビゾン派のコロー、ドービニーらの作品で構成されている。彼らの作品にみられる、自然の風景や日常生活をありのままに描く姿勢や、アトリエではなく戸外で作品を描く制作方法などは、それまでの伝統的なアカデミー美術にとって珍しいことであり、多くの印象派の画家たちが参考にしたとされている。
アトリエでの制作をきらい、自然を前にして戸外の光のもとで直接制作することを信念としたブーダンは、徹底して外光主義を推進し、印象派の先駆的役割を果たした。彼に師事した若いモネもこの方法を学んだ。海景の画家ブーダンには、フランス各地の海岸の名作が残されているが、本作も光満ちあふれる空を画面上方に大きく取り入れたブーダン独特の構図をもつ名品の一つで、英仏海峡に臨む保養地ベルクの浜辺の明るい抒情を捉えている。
【解説文】 本作は、光あふれる森の風景が大胆なタッチで描かれている。このような抒情的な自然風景の描き方は印象派の画家たちの注目を集め、彼らに風景画における光の効果について考えさせるきっかけとなった。
陶磁器の町セーヴルで磁器職人の子に生まれたトロワイヨンは、最初は絵付職人として磁器工場で働いていたが、その後画家を志し独学で絵を学び、さらに風景画家としての基本を友人の画家ジュール・デュプレとナルシス・ディアズに教わった。1840年代のはじめ、パリ近郊フォンテーヌブローの森で制作していたトロワイヨンは、やがてバルビゾンでテオドール・ルソーやポール・ユエらとも交友を結ぶようになり、バルビゾンの画家たちの絵画観に共鳴してゆく。風景画家として実力を磨くなか、1847年、オランダでの1年間にわたる滞在は、彼の絵画の方向性を決定する重要な転機となった。トロワイヨンはオランダの画家パウルス・ポッテルやアルベルト・カイプの作品に触れ、大きな感化を受け、以後「動物画」の世界に独自の画境を拓いてゆくようになる。帰国後、彼は風景の中に家畜、特に牛の群れや牛のいる風景を主に描き、動物画家としての地歩を固めた。本作には風景画家と動物画家の両方の特徴がよく出ている。地平線の高さを画面のほぼ中央に定め、画家は眼の高さをそれと同じにして画架を立てている。近景の牛の群れを主役に大きく扱い、遠近法の消失点をその向こうの人物付近に置いて、画面の中央の彼方へと視線が届くような構図となっている。先頭の牛二頭が左方向を向いているのは、畜舎がそちらの方にあるのか、また牛の姿を斜め横から美しく描くためにそうしたのか、画面からは定かではない。午後の放牧から帰る牛や羊の群れに、夕暮れの抒情を託して描いた動物画家の典型的な小品のひとつである。
ドービニーは、普仏戦争を避けて家族とともにヴィレールヴィルおよびロンドンへ旅行をしている。この絵もその旅行中に描かれたものであろう。ヴィレールヴィルはノルマンディーの小さな町で、セーヌ川の河口に当たる。浜辺の風景はドービニーの主要なモチーフで、絶えず水のそばから霊感を引き出していた彼独自の世界である。干潮時に、牡蠣や貝を採る女たちの姿を点景として、磯の香漂う抒情を描いた大作。
【解説文】 本作は画家が故郷の自然風景を描いたもので、主にパレットナイフを用いて描くことで、雪の質感を表現しようとした。このような試みから、自然というテーマへの深い関心と注意深い観察眼が感じ取れるが、これらは後に印象派に引き継がれることとなる。
コローは富裕なラシャ卸売業の父、有名な婦人帽子店を経営する母を両親にパリで生まれた。家業を継ぐため同業の織物問屋で見習いをしながら、画塾アカデミー・シュイスに通う。1822年、両親から画家になる許しを得て風景画家アシール=エトナ・ミシャロンに弟子入りをした。ミシャロンは1817年ローマ大賞にはじめて創設された風景画の部門「歴史的風景画」の第一回受賞者であった。ミシャロンの急逝により、コローは新古典派の風景画家ジャン=ヴィクトール・ベルタンのアトリエで学んだ後、1825年から3年間イタリアに旅行、1827年のサロン(官展)に《ナルニの眺め》(カナダ国立美術館)など風景画2点を初出品する。さらに1855年パリ万国博覧会出品の6点の詩的風景画により最高賞を得て、風景画家としての地位を確立した。銀灰色を帯びたコローの抒情的風景画は大衆からも人気を博し、またオノレ・ドーミエら貧窮していた友人の画家などに経済的援助を施すなど、画家仲間たちからも「コロー親父」と呼ばれて生涯慕われた。 師ミシャロンから「自然を丹念に研究せよ」という教えを受けたコローは、フォンテーヌブローや父親の別荘のあるヴィル=ダヴレーなどで戸外写生に励み、これらの田園風景は彼の霊感の源となっていく。ミレーらバルビゾンの画家たちとも知り合いになり、しばしば彼らとともに過ごした。バルビゾン派と印象派を結ぶ画家フランソワ・ドービニーがもっとも親しい友であった。牛の番をする少女を岸辺に配した本作品のような田園風景はコローの初期作品からみられるもので、バルビゾン派のテーマに通じるものであるが、彼らの作品ほど写実的ではなく、古典的な構成とやわらかな色彩の詩的情緒の漂う画面となっている。コローは自然を忠実に描くことの楽しさと重要性を認めつつも、最終的にアトリエで記憶と想像力を働かせて風景を再構成する画家であり、本作品もそうした抒情的風景画であるとともに、画家の内面の抒情詩といえよう。
印象派の誕生と広がり
19世紀当時フランスの美術界を支配していたアカデミーの方針に対抗するため生まれたた印象派は、モネやルノワールを中心に「印象派展」という独自の展覧会を開き、その芸術を拡大させた。彼らは、パリで暮らす人々や都市、自然の風景などを、色彩を混ぜずに荒いタッチで描く筆触分割という技法を用いて描いたが、それは神話や歴史上の人物を理想的に描くことが支持された古典主義的なアカデミーの規範から大きく逸脱していた。
本作が描かれたのは、記念すべき第1回印象派展が開かれた1874年の夏。場所はノルマンディ海岸沿いのフェカンで、父方の親戚であり、モデルも務めたリュシアン・ブルジエ夫人の別荘である。モデルは男性服を彷彿とさせる「テーラード・カラー」(背広型の襟)があしらわれた外出用と思われるツーピース状のドレスに麦わら帽子という比較的くつろいだ服装をしている。テラスから遠景を見下ろす構図は斬新で、遠景の海にはヨット遊びに興じる人々の姿も確認できる。本作は1877年の第3回印象派展にモリゾが出品した12点のうちの一つでもある。本作は印象派を擁護する批評家の目を奪い、賞賛を受けた。
息子リュシアンがロンドンに滞在していたということもあってか、ピサロは生涯に4回、ロンドンを訪れている。フランスとは違う新鮮な魅力を感じたようで、短い滞在にもかかわらず35点にのぼるロンドンの風景画が残されている。この作品は、そのうちの2回目の滞在となった1890年春に描かれたもの。この年はまた、数年来スーラの影響で分割主義を採用していた彼が、悩みの果てに点描画法を放棄した年でもある。
ルーヴシエンヌはパリの西郊約25キロの静かな村で、以前はのどかな風景が広がり、風景画を描くには絶好の場所であったが、現在はパリへ通勤をする人たちのベッドタウンに変わりつつあるようだ。印象派の画家たちは、1874年の第1回印象派展が始まる前の数年間、この地によく画架を立てて制作をした。おそらく最も早くここを訪れた印象派の画家はピサロで、1868年秋にポントワーズからルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までと、その後の1871〜72年の間ここに住んだ。ルノワールは母親が1868年にこの近くに越してきたので、その後の数年間ここで過ごしたことがある。1869年、モネは愛人カミーユと息子を連れてブージヴァルに移り、この地域で制作をした。ルノワールとモネが一緒に「ラ・グルヌイエール」で描くのは、この年の初秋のことであろう。しかし、ルーヴシエンヌに最も結びつきが深い画家というとシスレーである。シスレーは1869年の冬に彼らを訪問し、翌70年の夏頃にルーヴシエンヌに移り住んだ。それから1875年にマルリー=ル=ロワに転居するまで、1870年代の前半をこの地で過ごし、制作を行った。この時期のルーヴシエンヌ風景は柔らかな印象主義的手法で描かれ、緑豊かで起伏と変化に富んだこの土地の印象を穏やかなタッチで捉えている。またルーヴシエンヌを離れた後もしばしば訪れ、季節感にあふれる作品を残している。本作に描かれた場所は、ヴェルサイユ街道からマルリー=ル=ロワの「水場」の方向に降りてゆく道か、あるいは逆にマルリー=ル=ロワの丘の方からルーヴシエンヌの方向を望んだ眺めか、定かではないが、画面左側から右側の方向へゆるやかな傾斜面になっているようにも見える。右手にカーブする道の曲線は、この画面に重要な要素を与えており、近景に広がる牧草地で草を食む牛が三頭、画面の中心を形づくっている。その傍らの画面左手には大木が聳え、一人の女性が幹に寄りかかっている。ここには、シスレーの初期の作品に見られる特徴──樹木の葉、夏空と雲、空間の広がり、曲がり道、光と影など──が勢いよく表現されており、ヴァルール(画面の各部間の色彩の色相、明度、彩度の相関関係)の均整のとれた美しさを見ることができる。本作は1874年4月の第1回印象派展に出品された5点の風景画のうちの1点であった可能性がある。
1883年の4月末、モネはポワシーを離れ、パリの北西70km、セーヌ河の渓谷とエプト川の合流点に位置する小さな村ジヴェルニーに家を借りた。そして1884-1886年には、本作品を含む8点の「積みわら」の連作を制作している。これらの作品では、日常的な風景に降りそそぐ光を、明暗の強いコントラストで表現している。1890-1891年にかけては、脱穀前の麦穂を積み上げた紡錘形の積みわらをモティーフとして、天候や時間による光の変化をあざやかな色彩で描いた25点を制作した。1891年5月、モネはそのうちの15点の「積みわら」の連作をデュラン=リュエル画廊で発表して大成功を収めた。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
パリの南に位置するロバンソン(現ル・プレシス=ロバンソン)の風景。ロバンソンは、19世紀半ば頃からにぎわっていた行楽地だった。ジョゼフ・グースカン(1819-1889)が、冒険小説の主人公たちの洞窟や樹上の生活に想を得て、1848年、栗林の大きな木の上に建てた数軒の小屋を階段で結んだ「オ・グラン・ロバンソン」というガンゲット(ダンス・ホールを備えたカフェ・レストラン兼居酒屋)を開店した。以降、ガンゲットは瞬く間に増え、川での舟遊びなどに興じる人々が押し寄せるようになった。ギヨマンは、本作品でガンゲット「ル・ヴレ・ダルブル」が建つ通りの光景を明るい色彩で描いている。ロバンソンでは、画面左に描かれているロバに乗って散策するアトラクションも人気を呼んだ。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
1880年に健康を崩したマネは療養のためパリ郊外のベルヴュに家を借りる。そうしたマネのもとに友人たちが見舞いに訪れる中、彼は油絵に取り組み、人物、風景、静物などを約30点ほど描いている。本作はこうした夏のベルヴュ滞在のあいだに制作された作品のひとつ。この絵はマネ没後の翌年に行われた競売で、マネ作品の収集家であったオペラ座のバリトン歌手ジャン=バティスト・フォールが購入し、以後、欧米の著名な収集家の手を経て、現在東京富士美術館の所蔵となっている。この作品のモデルは見舞客の一人、ガンビー夫人といわれている。アドルフ・タバランの『マネとその作品』によれば、ガンビー夫人は、マネ家と親しい付き合いのあったルバン夫人の友人であるらしい。またマネの義妹にあたる画家ベルト・モリゾの親戚筋の女性ともいわれる。紫色の花があしらわれた黒い帽子を被り、髪は前髪を垂らした流行のスタイル。背景の緑の庭は、印象派に近い筆触を生かした描き方であるが、モデルの女性の服は、他の印象派の画家の絵には見られない「黒」で大胆に描かれている。しかもすけて見えるような薄い着色で、筆跡を残しながら巧みに女性の体を描き出しているあたりは、マネの並はずれた造形センスとともに近代的で都会的な感性を感じさせる。緑と黒の対比で構成された画中で、女性の顔の白と手袋の黄色が目に鮮やかに映る。そして女性の唇の赤と、絶妙のバランスで描きこまれた小さな赤い花の色がマネの天才的な色彩センスを存分に感じさせるスパイスとなっている。この作品でマネが描き留めたものは、もはや特定の女性の肖像というよりは、パリを象徴する「女性美」そのものといえるだろう。
【解説文】 作品には、当時のパリで人気の場所であったサン=ラザール駅が描かれている。汽車から吐き出される煙や大気の動きが荒い筆触で躍動感あふれるように描かれ、モネが同時代の近代化していくパリの情景、移りゆく大気の効果に関心を持っていたことがうかがえる。
セーヌ河の支流エプト川での舟遊びの情景を描いたこの作品は、モネの人物画の最後の大作であるとともに、水面下の水草の動きと神秘的な暗い光を描いた最初の試みでもある。舟遊びという主題、画面端で切断されたボート、誇張されたオール、俯瞰的な視点は、日本の浮世絵を想起させる。舟に乗っている女性は、おそらく、モネと再婚したアリス・オシュデの4人の娘のうちの二人、シュザンヌとブランシュであると思われる。アリスは、百貨店の経営者でモネの絵画の収集家だったエルネスト・オシュデの妻だったが、オシュデの破産の後、子どもたちを連れてモネの一家と暮らしていた。モネは、本作品が描かれた1890年に2,200フランでジヴェルニーに家屋と土地を購入、1893年には睡蓮の池を造成し、生涯この地で暮らした。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
【解説文】 本作は近代的な女性像として印象派の画家たちが好んで描いた、室内で読書をする女性がテーマとなっている。女性の肌を照らす光は黄色の色彩で、影は青色の色彩であらわされ、 実験的な光の効果の追求がなされていると言える。
この作品は、画商のデュラン=リュエルが1900年11月22日に画家から入手し、翌年1月にパリの画廊で行われたピサロの個展に展示された。その後、1913年にニューヨークのデュラン=リュエル画廊での展覧会に出品されている。ピサロは四季の変化とともに異なった様相を見せる果樹園の景色をテーマに、エラニー風景の連作を試みている。クリストファー・ロイドは、こうした画家の試みについて次のように説明している。「ジヴェルニーにおけるモネのように、ピサロを取り囲む田舎の光景に対する彼の考察は強烈だった。彼は変化していく風景のつかの間の状態を楽しんだ。そして冬の霧、霜、雪、あるいは夏の活気ある暑気やみずみずしく繁った緑が、それぞれ同じように価値があることを発見した。ピサロはまた、対象への視線の位置をたえず移動しながら、変化する季節、一日の区分による視覚的多様性を連作として描くことを始めたのである。」ピサロは死を迎える前、自身の絵画制作の方法を次のように定義した。「作品を手がけるとき、初めに決定することは調和である。この空と、この大地と、この水のあいだには、必然的に何らかの関係がある。それは調和の関係でしかない」本作に見るように終生かわらぬ「田園画家」であったピサロ最晩年のエラニー風景は、この調和の原則のもとに描かれている。この絵でピサロは《春・・・》とは違った方角に眼を向けており、画面中央には農家の赤煉瓦の屋根や煙突も見えている。しかし草地の気ままな斑点状のタッチや木の葉の細かい筆触、空の大らかな筆致などにみるように、描き方は変わっていない。大きく変わっているのは色彩で、《春・・・》の若々しい黄緑色の大地、花をつけた浅い緑色の木の葉、青く澄んだ空と比べて、《秋・・・》の方は枯れ葉色に染まる大地、緑濃い木の葉、どんよりとした冷たいグレーの空といった具合で、いくぶん乾燥した秋特有の色相を呈している。
モネは1893年に、ジヴェルニーの家の前庭と道路を隔てて隣の土地を買い、エプト川支流のリュ川から水を引いて睡蓮の池を造成した。モネの家と庭は、息子ミシェルが亡くなった1966年に国家に遺贈され、公開されている。睡蓮の池には、日本風の太鼓橋が架けられ、その周囲に柳、竹、桜、藤、アイリス、牡丹などさまざまな植物を植えた。 自らがつくり上げたこの幻想的な庭で、モネは最初、1899-1900年に描かれた18点の連作のうちの1点である≪睡蓮の池≫のように、橋と睡蓮の池を描いていた。しかし、しだいにモネの興味は、時間や天候による光の変化が池の水面におよぼすさまざまな効果に向かっていく。≪睡蓮≫(1907年、ポーラ美術館蔵)では、咲き誇る睡蓮の花と蓮葉の合間に、空や雲の動き、風にそよぐ対岸の樹木の影が映りこんでいる。時の移ろいとともにすべてが変化する風景を、モネは描こうとしたのだった。そしてその試みは、オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に結実した。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
1880年代末頃からルノワールは古典様式の輪郭線と立体感による描写から離れ、18世紀の巨匠たちの作品を研究するなかで新たな様式を模索し、溶け合うようなやわらかなタッチと色彩の表現へと向かう。この時代はしばしば「真珠色の時代」と称されるが、ルノワールはこの時期、当時流行の衣服を着た人物像や、優雅な、ときとして奇抜な帽子をかぶる若い娘の肖像画を多く描いた。そのような肖像画はデュラン=リュエル画廊を介してよく売れた。当館所蔵の《レースの帽子の少女》も肖像画のひとつであるが、可憐な少女の透明感のある肌、溌剌とした薔薇色の頬、青い瞳、ふっくらとした唇、そして夢見るような愛らしい表情は、ルノワールの卓越した描写によって永遠に変わらぬ美へと昇華し、描き止められている。 仕立屋の父、お針子の母をもつルノワールは、幼い頃から女性の衣服に囲まれて育った。そのためか、女性を描くときのルノワールは衣服にも注意を払っており、質感を巧みに描き分けている。とくに、変化に富んだ形とさまざまな素材や装飾物がついている帽子は、ルノワールにとって格好のモティーフであったに違いない。本作品で彼は、華やかなレースの帽子を、勢いのある大胆なタッチを繊細に重ねることで見事に描き出している。このレースの帽子は、《花を飾る少女》(1890年、メトロポリタン美術館)や《花を摘む少女たち》(1891年、ボストン美術館)をはじめとするいくつかの作品にも描かれている。 帽子は、当時の女性にとっては身だしなみの一部であり必需品であったが、日よけや装飾という機能だけでなく、当時の女性が置かれた立場を示すものでもあった。キリスト教では女性の髪は性的な意味をもち、寝室以外では結い上げた髪に飾りをつけ、外出するときはかならず帽子をかぶっていたという。
なだらかな肩と豊かな曲線のシルエットを包む鮮やかな色彩。乙女の初々しい表情が印象派風のタッチで的確にとらえられている。ベルト・モリゾは、子どもの頃からデッサンのレッスンを受け、1861年からコローの指導のもとに戸外で絵を描いた。後にマネと知り合い指導を受けることになる。印象派の展覧会に7回出品。繊細な感性と甘美な色彩感覚に優れたこの作品も彼女の代表的なパステル画の名品の一つである。
1880年代の初めにモネは、ある転機を迎えていた。1879年、妻を失い、翌80年にはサロン出品をめぐってドガと対立、印象派展への出品をとりやめた。本作が描かれた81年も参加を断っている。そうした時期にモネを引き寄せたのは、幼い頃から親しんだノルマンディーの海であった。本作はこの年の春、滞在したフェカンで描かれたもの。心の暗雲を吹き払うかのような陽光満ちわたる空と、岸に乗り上げた帆船の黒いシルエット。ノルマンディーの明るい空と海はモネの画興を誘い、翌年のプールヴィルの連作へと続いてゆく。
ポントワーズから隣村エヌリーに続く道の風景。1864年に鉄道が敷設されたポントワーズは、パリの人々の行楽地となった。ピサロは、1866年から1882年まで、ポントワーズとその周辺で約300点の油彩画を制作した。ポントワーズとエヌリーの間には約3.5kmにわたって森が広がっている。緑豊かな風景を描いた本作品で、ピサロは微妙な諧調の色彩のタッチをさまざまな方向に置き重ねることにより、大気や風の揺らぎを感じさせる情緒豊かな画面を創り上げている。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
椅子に腰掛けた若い女性の後ろにもう一人の女性が寄り添い、髪に花かざりを着けている。当時、ブルジョワ階級の女性が家で過ごす際には、花の髪かざりを着ける習慣があった。同様の髪かざりは座っている女性の手にも見られる。 ルノワールは1890年前後、身づくろいのほかにも、同じ年頃の女性による奏楽や花摘みなどの情景をしばしば描いている。1880年代後半に印象派の描法を脱するべく取り組んだ、アングル流の立体的な裸婦が画商や画家仲間に不評だったことで、ルノワールはこの時期、一般に受け入れられやすい近代生活を描いた、いわゆる風俗画へと向かったのである。しかしこの主題をめぐっては、アントワーヌ・ヴァトーやジャン=オノレ・フラゴナールといった18世紀ロココの画家による、甘美で活き活きとした女性像への憧憬を読み取ることもできる。 人物をはじめとして、室内で重なりあう多様なモティーフがそれぞれ明瞭な輪郭で描き出されているのは、アングルを範として1880年代を通じて追究されたアカデミックな描法の特徴といえる。また、二人の女性像が織り成す垂直方向の線が、背後の長椅子の作る水平線とともに均衡のとれた画面を作り出しており、先立つ印象派の時代と比べて、構図の検討がより入念になされている。
印象派を越えて ~ポスト印象派~
19世紀末、印象派に影響を受けその技法や理念を自身の芸術に取り込みながらも、人やものの形態が曖昧になってしまう描き方に課題を見出し、克服しようと試みた画家たちがいた。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンを代表とする彼らはポスト印象派と呼ばれているが、全員に共通する様式的な特徴はなく、それぞれが色彩表現や構図、線描などにおいて独自の作風を生み出し、印象派を乗り越えようとした。
【解説文】 本作は細かな点のタッチでものの形態が表現される点描法という技法が用いられており、科学的な色彩理論のもと入念に構想されている。そしてその土台となっているのは、筆を並べて画面の明るさを保つ、印象派の筆触分割の技法である。
ゴーガンが、はじめてブルターニュの小さな村ポン=タヴェンを訪れたのは1886年7月である。アヴェン河口のポン=タヴェンは、かつては14基の水車と15軒の家しかない静かな村だったという。1860年代よりアメリカ人の画家たちが集まっていたが、素朴な地方として注目され、訪れる人々が増えていった。ゴーガンは、家賃、食事込みで月60フランという良心的なグロアネクの下宿屋で絵画制作に打ち込んだ。彼の周りには若い芸術家たちが集まり、この地は芸術家村となった。芸術家たちは8月15日の聖母マリアの被昇天祭の祝祭日の慣習として、グロアネク夫人に作品を贈ることにしていた。白いテーブルクロスの上のワインデカンタ、ブルターニュの伝統的な水差し、さくらんぼ入りの器を描いた本作品も、ゴーガンがこの慣習に習い、宿屋のために制作し贈ったものである。1892-1893年にポン=タヴェンに滞在したスイス人画家クーノ・アミエは、グロアネクの宿屋でこの作品を見た感想を残している。「白い布の上に置かれた鉢のなかのさくらんぼ。何の気取りもない全き単純さ、それは不思議に透き通っており、そこには魔法のような輝きがあった」。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
【解説文】ゴッホは本作にみられるような、赤、青、黄色という原色を用いた大胆な色使い、運動感のある筆触などによって、自身の内面的な感情をあらわす作品を生み出していったとされ、外の光の効果を画面上にとらえようとした印象派とは一線を画した。
セザンヌは1880年代から1890年代初頭、風景や静物の主題を探究した後、「赤いチョッキの少年」や「カード遊びをする人々」、「アルルカン」といった人物画の連作を制作する。彼は空間における人体の形態表現に取り組んだ。 本作品は《マルディ・グラ》(1888年、国立プーシキン美術館、モスクワ)を含む「アルルカン」を描いた4点のうちの1点である。謝肉祭の最終日でカーニヴァルが行なわれる謝肉の火曜日を意味するこの《マルディ・グラ》には、16世紀にイタリアからフランスに伝わった即興喜劇コメディア・デラルテの登場人物アルルカンとピエロに扮した二人の若者が描かれている。アルルカンに扮しているのはセザンヌの息子ポールであり、ピエロに扮しているのは靴屋の息子でポールの友人ルイ・ギョームである。後年ポールは、1888年にパリのヴァル=ド=グラース通りのアトリエでモデルを務めたと語っている。 本作品では、アルルカンに扮したポールの姿だけが描かれている。灰色を基調とし、緑、青、紫、褐色が混ぜられた壁面と赤味がかった床は、赤と黒の菱形模様の衣装を着て帽子をかぶり、左手にバトンを持つ彼の姿を際立たせている。《マルディ・グラ》では二人の顔は描き込まれているが、本作品ではポールの表情は、まるで仮面のように単純化されている。彼は右足を一歩前に踏み出しているが、この頭部と足が画面からはみ出すほどに前進する動きは、静的な画面全体の構成を乱している。 《マルディ・グラ》とアルルカンのみを描いた3点が、どこで、どれくらいの間隔を置いて描かれたのかは不明である。美術史家ジョン・リウォルドは本作品を、《マルディ・グラ》の完成前に描かれたか、あるいはアルルカンだけを描いたほかの2点よりも雰囲気にかたさが感じられないことと軽やかに描かれていることから、数年の間隔を置いて制作された最終作である可能性も指摘している。
静物画は西洋絵画の伝統的な画題であり、画家にとってもいかに迫真的な描写ができるのかという自らの技術を示す格好の画題でもあった。宗教画が衰退した17世紀オランダでは、風景画や風俗画と並んで主要な画題であったが、18世紀以降、歴史画や肖像画に比べて、静物画の絵画におけるジャンルの地位は低くみなされていた。この地位を引き上げるのに大きな役割を果たし、革新をもたらしたのがセザンヌである。セザンヌは絵画的な統一性をつくりだすために、多視点からの空間表現やカンヴァスの平面性を強調して3次元の空間を2次元に置き換えるなど、あえて自然主義的な空間表現を放棄しようとした。このような作品は、20世紀に入ると若い画家たちによりその先進性が認められ、キュビスムにおいても静物画は重要かつ実験的な画題となった。 本作品でもセザンヌがもたらした革新がみられる。ここにはそれまでの絵画にみられるような確固とした土台の上に積み上げられ、固定された構図はない。左端の山のように盛り上がる布によって斜面が強調された机―実際は水平なのだろうが―の上で、果物は皿から転がり落ちている。画面中央では、存在感を放つ砂糖壺が傾斜した机の支点を押さえ込むことで均衡をはかっている。果物は画面からこぼれ落ちそうな危うさを残しながら、重力に従うのではなく計算された構図によって、かろうじてその場所にとどまっている。本作品は、絵画が目に見える世界の忠実な再現ではなく、人工的な構築物であることを思い起こさせる。(『ピカソ 5つのテーマ』図録、2006)
オランダに生まれたゴッホは、ブリュッセルで素描の基礎を学び、1881年、28歳の時、牧師であった父の任地であったオランダ南部のエッテンヘ赴く。この年の終わり、ゴッホは画家になることに反対だった父との衝突からハーグへ移り、ハーグ派の画家たちと出会っている。オランダ時代のゴッホの作品は、ハーグ派の画家たちや17世紀のオランダの巨匠たちの作品の影響を受け、全体的に落ち着いた暗い色調で描かれている。1883年、30歳の時、ハーグを起ったゴッホはやはり父が赴任していたオランダ南部のニューネンへ移る。この頃より、ゴッホは油彩画に本格的に取り組み、農民や職人、ニューネン近郊の風景を精力的に描いている。ニューネン時代は、農民画家としてのゴッホが形成されていった重要な時期で、オランダ時代のゴッホの集大成ともいうべき《馬鈴薯を食べる人たち》(1885年)が描かれている。本作は、《馬鈴薯を食べる人たち》が描かれた翌月の、1885年の6月に描かれた作品。ゴッホは弟テオへ宛てた手紙の中で、「今は、ここ(ニューネン)から2時間のところで仕事をしているので、全ての時間を有する。私が求めているのは、あといくつかのきれいな荒野の農家。既に4つ、前回送った大きさが2点と、小さいのがいくつかある。」と述べており、この作品は、この手紙の中で「いくつか」と言及されている作品。農民が暮らす場所を描くことは、ミレーを崇拝するゴッホにとって、農民の生活の厳しさや、自然との深い結びつきを表現する重要なモチーフであった。ゴッホは愛情を込め、農民の家を、雀より小さな野鳥のミソサザイの巣に喩え「農民の巣」と呼んでいる。その力強いタッチと落ち着いた色調は、大地に根ざして生きる農民のたくましさと、自然の持つ包容力を描きだしている。同じ時期に描かれた、同じモチーフの作品が、いくつも残っており、このモチーフがゴッホにとって、重要なものであったことが伺える。
陽が暮れ落ちて、夜のしじまを待つばかりの街角の小径。霧のヴェールに包まれているかのような乳白色の静寂。深まりゆく闇の中で、室内に点された灯がほのかな光の効果を生んで印象的である。また淡い紫色と黄色の補色関係にある色彩の組み合わせは、点描による色彩の調律の美しさとともに、この作品を更に魅惑的なものにしている。人物はどこにも描かれていないが、人の気配を感じさせる手法は、ル・シダネルの特徴でもある。この絵の舞台となったのは、画家が愛したパリ北方の小さな町ジェルブロワで、ここで彼は、この街並みがもつ古風な情緒を美しく描き出している。作者は夕方の風景を描くときの心情について、こう語っている。「私はよくあなたの注意を黄昏どきに向けさせた。そしてあなたは、私がどうして何度も黄昏に魅了されるのか、訊ねた。わざと黄昏を選んだのだろうか。または、内面の感情に流されない人でさえ突然感じる音楽的共鳴のようなもの、または感情的な感覚のようなものにとらわれていたためであろうか」(ヤン・ファリノー・ル・シダネル、レミー・ル・シダネル『ル・シダネルー絵画・版画作品集』660ページ)ル・シダネルは、1894年にサロンに初出品し、その後サロン・ナショナルや1900年のパリ万国博覧会に出品した。印象派や新印象派の影響を受けながら、どこか暗い霧に包まれたような静謐な風景や室内を描いた。本作において見られるように、点描画法を駆使した作風には、印象派、新印象派の新技法の影響が顕著である。なおこの作品は、1929年、パリのジョルジュ・プティ画廊で開催された個展に出品された。
1866年以降、4年続けてサロンに落選していたセザンヌは、30歳になった1869年、パリで後に妻となる年若いモデルのオルタンス・フィケと出会った。1872年には二人の間に長男ポールが誕生し、その年の夏、ピサロが移り住んだばかりのポントワーズへ家族とともに赴き、セザンヌは同地でピサロと一緒に制作に励むようになった。同年秋、セザンヌがしばらく滞在したオーヴェール・シュル・オワーズで、ピサロは自らの主治医であり、前衛絵画の熱心な蒐集家であった医師のガシェ博士にセザンヌを紹介した。これを機縁にガシェ博士は、セザンヌに自分の家族と一緒に住むように提案。こうした環境のなかで、セザンヌとピサロは画架を並べて制作し、田園的な主題への愛好、厚塗りの絵具と十分に描き込んだ画面を特徴とするポントワーズ派として知られる新しい様式を発展させた。このようにセザンヌは、ピサロの影響下にあって、それまでの文学的なテーマへの関心を放棄し、目に見える外界の自然を真摯に見つめるようになったのである。1873年にはオーヴェールに移り、その年の大半は同地で過ごして風景画の制作にいそしんだ。この時期に描いた《首吊りの家》《モデルヌ・オランピア》《オーヴェール風景》の3点は、翌1874年の第1回印象派展に出品されたが、全くの不評に終わった。しかし、セザンヌにとっては真に重要な画家としての出発点であった。《首吊りの家》と《モデルヌ・オランピア》は、初期セザンヌの記念碑的な作品として、今日オルセー美術館の壁面を飾っている。(もう1点の《オーヴェール風景》は、その絵柄の確証がなく、現在フィラデルフィア美術館所有の作品かワシントン・ナショナルギャラリー所有の作品ではないかと推測されている)いずれにせよ、セザンヌが1872年から74年にかけてポントワーズとオーヴェールに滞在した時期は、彼の画家としての胚胎期であったし、絵画上の師や援護者と出会ったことは、後の成長の決定的な要因となったことは間違いない。セザンヌにとって貴重な体験は、師ピサロの熟練した画法と、眼前に広がる自然に対して見せる謙虚さを学びとりながら、共に制作活動に従事できたことであろう。ガシェ博士によれば、セザンヌは一日に2回、写生に出かけたという。いわく「朝に1回、午後に1回、曇りの日、晴れの日、彼は死にもの狂いでカンヴァスに戦いを挑んだ。季節が流れ、年月がたち、1873年に描いた春の絵は、74年には雪景色に変わっていたのである」本作は、第1回印象派展の出品作ではないが、セザンヌが最初にオーヴェールに滞在した時期に制作されたものである。曲がった道、慎ましやかな住居、視点の高さなど、他の作品との共通性も多い。ここでセザンヌは、縦長の画面を用いて道と空を強調している。また、後のセザンヌ絵画の特徴ともなる「斜めの」「構成的な」筆触の萌芽も見られる。同じ頃に同じ場所を描いて、本作と類似した作品が2点オルセー美術館にある。《オーヴェールの村の道》と《オーヴェールのガシェ博士の家》で、切り取られた風景を捉える眼や画法は、本作と全く同じ系統のものであり、この時期に徹底して風景を描く訓練を重ねていたことが偲ばれる。ちなみに本作は、著名なアメリカ人蒐集家で、アメリカに印象派絵画を最初にもたらした功労者であるハヴメイヤー夫妻が、友人の画家メアリー・カサットとともに1901年、パリのヴォラール画廊で見つけ購入したものとされている。いわばアメリカに渡ったセザンヌ作品の第一号という歴史的な過去を持っている作品なのである。
パリから170km、フランス東部ブルゴーニュのヨンヌ県の県庁所在地オーセールの風景。おそらくはヨンヌ川の小さな中州から見た町の様子がとらえられている。どっしりとした石造りのポール・ベール橋の向こうには、サン=テティエンヌ大聖堂とサン=ジェルマン大聖堂が見える。1902年に、シニャックはオーセールに15日間滞在した。1900年にに自動車の運転免許を取得したシニャックは、フランス中部を車で旅行した。パリからリヨンに向かって国道6号線を走行中、オーセールに立ち寄った。彼はその後、グルノーブル、ニースに向かい、1902-1903年の冬をサン=トロペで過ごし、スケッチをもとに作品を制作した。シニャックは、オーセールを描いた油彩画を、この作品を含めて3点残している。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
海を愛したシニャックは、ヨットを自分自身で操縦してヨーロッパ各地の港に赴き、数多くの海や港の風景を描いた。彼は、生涯に30艘を越えるヨットを購入している。フリシンゲンは、オランダの港湾都市。シニャックは、1896年、自由美学展の開幕とエミール・ヴェルハーレン主催の晩餐に出席するため、友人の画家レイセルベルヘとともにブリュッセルに行った。その際、彼は、アントウェルペン、ブリシンゲン、フェーレ、ロッテルダム、デン・ハーグ、アムステルダム、ドルトレヒト、フォーレンダムなどのオランダの都市を訪れた。本作品は、紫、青、緑といった寒色系の繊細な色彩を用いた点描で、港の眺めと停泊する船を描き出している。ほぼ同じ構図で、バラ色の色調で描かれた作品も残されている。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)
パリの北西30km、緑に包まれた静かなオワーズ河畔のオーヴェール=シュル=オワーズには、多くの芸術家たちが訪れている。1850年代には、コローやドーミエらがこの地で制作、ドービニーはコローのすすめでアトリエを構えた。1872年には精神科医ガシェが妻の病気療養のためこの地に移住し、セザンヌ、ピサロ、ギヨマン、ルノワール、シスレーらが彼の家を訪問している。セザンヌは、1872年にピサロが住むポントワーズを訪れ、ポントワーズ周辺やオーヴェールで一緒に制作し、明るい色彩を用いるようになる。1873年から翌年はじめにかけては、家族とともにオーヴェールに滞在した。セザンヌはガシェの家で制作したり、彼に作品を購入してもらうなど、親しく交流していた。本作品では、画面に奥行きを与える曲がり道、正面の藁葺き屋根の家と周囲の集落、葉を落とした木々が、落ち着いた色調で描かれている。(『モネと画家たちの旅』図録、2007)













































