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オーヴェールの曲がり道 Detour in Auversおーう゛ぇーるのまがりみち

解説

1866年以降、4年続けてサロンに落選していたセザンヌは、30歳になった1869年、パリで後に妻となる年若いモデルのオルタンス・フィケと出会った。1872年には二人の間に長男ポールが誕生し、その年の夏、ピサロが移り住んだばかりのポントワーズへ家族とともに赴き、セザンヌは同地でピサロと一緒に制作に励むようになった。同年秋、セザンヌがしばらく滞在したオーヴェール・シュル・オワーズで、ピサロは自らの主治医であり、前衛絵画の熱心な蒐集家であった医師のガシェ博士にセザンヌを紹介した。これを機縁にガシェ博士は、セザンヌに自分の家族と一緒に住むように提案。こうした環境のなかで、セザンヌとピサロは画架を並べて制作し、田園的な主題への愛好、厚塗りの絵具と十分に描き込んだ画面を特徴とするポントワーズ派として知られる新しい様式を発展させた。このようにセザンヌは、ピサロの影響下にあって、それまでの文学的なテーマへの関心を放棄し、目に見える外界の自然を真摯に見つめるようになったのである。1873年にはオーヴェールに移り、その年の大半は同地で過ごして風景画の制作にいそしんだ。この時期に描いた《首吊りの家》《モデルヌ・オランピア》《オーヴェール風景》の3点は、翌1874年の第1回印象派展に出品されたが、全くの不評に終わった。しかし、セザンヌにとっては真に重要な画家としての出発点であった。《首吊りの家》と《モデルヌ・オランピア》は、初期セザンヌの記念碑的な作品として、今日オルセー美術館の壁面を飾っている。(もう1点の《オーヴェール風景》は、その絵柄の確証がなく、現在フィラデルフィア美術館所有の作品かワシントン・ナショナルギャラリー所有の作品ではないかと推測されている)いずれにせよ、セザンヌが1872年から74年にかけてポントワーズとオーヴェールに滞在した時期は、彼の画家としての胚胎期であったし、絵画上の師や援護者と出会ったことは、後の成長の決定的な要因となったことは間違いない。セザンヌにとって貴重な体験は、師ピサロの熟練した画法と、眼前に広がる自然に対して見せる謙虚さを学びとりながら、共に制作活動に従事できたことであろう。ガシェ博士によれば、セザンヌは一日に2回、写生に出かけたという。いわく「朝に1回、午後に1回、曇りの日、晴れの日、彼は死にもの狂いでカンヴァスに戦いを挑んだ。季節が流れ、年月がたち、1873年に描いた春の絵は、74年には雪景色に変わっていたのである」本作は、第1回印象派展の出品作ではないが、セザンヌが最初にオーヴェールに滞在した時期に制作されたものである。曲がった道、慎ましやかな住居、視点の高さなど、他の作品との共通性も多い。ここでセザンヌは、縦長の画面を用いて道と空を強調している。また、後のセザンヌ絵画の特徴ともなる「斜めの」「構成的な」筆触の萌芽も見られる。同じ頃に同じ場所を描いて、本作と類似した作品が2点オルセー美術館にある。《オーヴェールの村の道》と《オーヴェールのガシェ博士の家》で、切り取られた風景を捉える眼や画法は、本作と全く同じ系統のものであり、この時期に徹底して風景を描く訓練を重ねていたことが偲ばれる。ちなみに本作は、著名なアメリカ人蒐集家で、アメリカに印象派絵画を最初にもたらした功労者であるハヴメイヤー夫妻が、友人の画家メアリー・カサットとともに1901年、パリのヴォラール画廊で見つけ購入したものとされている。いわばアメリカに渡ったセザンヌ作品の第一号という歴史的な過去を持っている作品なのである。

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日本・東洋・西洋の各国、各時代の絵画・版画・写真・彫刻・陶磁・漆工・武具・刀剣・メダルなど様々なジャンルの作品約30,000点の内、約2,000点を掲載。

2026/01/09