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細川幽斎像(模本) /

細川幽斎

戦国時代末期から近世初頭の武将、文人。大名細川家の基礎を築き、当代屈指の文化人でもあった。

1534-1610(天文3-慶長15)

戦国末期から近世初頭の武将、文人。諱は藤孝(ふじたか)。幼名万吉、通称与一郎。剃髪して幽斎玄旨と号した。室町幕府の奉公衆三淵晴員(みつぶちはるかず 1500-1570)の次男。母は清原宣賢の娘。一説に室町幕府12代将軍足利義晴の子ともいう。天文8年(1539)細川元常の養子となり、同15年(1546)元服。13代将軍足利義藤(義輝)の偏諱を受けて藤孝を名乗り、養父元常の死後細川の家督を相続した。永禄8年(1565)将軍義輝が暗殺されると、興福寺に監禁されていた義輝の弟一乗院覚慶(還俗して足利義昭1537-1597)を擁立。永禄11年(1568)9月、織田信長の援助によって義昭は上洛し、15代将軍となった。天正元年(1573)義昭の京都追放後は信長の家臣となり、山城国長岡の地を与えられて一時長岡姓を称した。天正10年(1582)本能寺の変に際しては明智光秀の誘いを断って剃髪・出家、幽斎玄旨と称して家督を嫡嗣忠興(三斎)に譲った。

のち豊臣秀吉に仕えて小田原の陣、文禄の役などに従い、関ヶ原の戦いでは東軍に属して田辺城に籠城するなど、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三代に仕えて肥後細川家の基礎を築いた。晩年は京で過ごし、慶長15年(1610)京都三条の自邸で没。法号徹宗玄旨泰勝院。南禅寺天授庵(京都市左京区)に葬られた。

千利休に茶を、三条西実枝(さんじょうにしさねき)に歌道を学んだ当代有数の教養人で、和歌、連歌、茶道、儒学、書道、故実など幅広い学問・芸能に深く通じ、古典の書写や校合にも力を注ぐなど、伝統文化の継承と紹介に大きな役割を果たした。武芸にも秀で、剣法を塚原卜伝に学んでいる。

特に和歌においては戦国期から近世初期歌壇の中心的存在で、東常縁(とうつねより)、宗祇、三条西実隆につらなる古今伝授を三条西実枝から受けてこれを八条宮智仁親王(としひとしんのう)、中院通勝、三条西実条、烏丸光広、松永貞徳らに伝えた。親王への伝授は後水尾天皇、霊元天皇をはじめとする天皇や上層の公家に継承されて「御所伝授」と呼ばれ、松永貞徳からは武家、町人層に流れて「地下伝授(じげでんじゅ)」を派生させた。関ヶ原の戦いで田辺城を囲まれて窮地に陥った際、古今集の秘事が絶えることを恐れた後陽成天皇の勅命によって開城・和睦に至った逸話はよく知られる。

幽斎の口述を烏丸光広が筆記した歌論書に『耳底記(にていき)』があり、ほかに家集『衆妙集(しゅうみょうしゅう)』、古典注釈書『詠歌大概抄』『伊勢物語闕疑抄(いせものがたりけつぎしょう)』、紀行『九州道の記』『東国陣道記』などがある。嫡嗣忠興(三斎)も千利休の高弟で利休七哲の一人。その夫人が細川ガラシャである。


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細川幽斎の歌道の教えを、弟子の公家烏丸光広(1579-1638)が記録した自筆原本。慶長3年(1598)8月から幽斎の田辺籠城を挟む同7年(1602)12月まで、70回以上にわたる記録した聞き書きしたもの。質素な茶表紙の中央に光広の手で「耳底記」と記され、前遊紙裏に光広花押が書かれ、内題は「幽斎口義 光廣記之」とある。系統立たない雑多な歌話の集成であるが、幽斎の動静とともに、幽斎が学んだ三条西家の正統的な歌学思想がうかがえる貴重な資料である。なお、掲出資料には、末尾に「林和泉掾開版」とのみある刊本も一具として保管されている。

細川幽斎の家集。寛文11(1671)飛鳥井雅章(1611-1679)編。一冊。雅章の跋によれば、幽斎の曾孫で肥後国宇土藩主細川行孝(1637-1692)がはじめ烏丸資慶(1622-1669)に依頼し、資慶の没後に雅章が引き継いだものという。書名は後水尾院の命名。掲出本は内閣文庫所蔵の江戸期の写本。

百人一首の注釈書。細川幽斎の編。宗祇による注釈(『宗祇抄』)をもとに、二条派の伝統的な注釈を集大成したもの。外題では『百人一首抄』とあるのみだが、後に広く流布し、何度か刊行もされた「幽斎抄」の一本。「于時慶長元年臘天晦日 対雪夜之寒灯、敲窓下之凍硯記之 玄旨(花押)」と記された細川幽斎の本奥書がある。

細川幽斎による『詠歌大概』の注釈書。天正14年(1586)成立。三条西実枝(さんじょうにしさねき)の講義の聞き書きで、近世期の『詠歌大概』注釈史に大きな影響を与えた。『詠歌大概』は藤原定家による歌論書。和歌の初心者に対して、和歌の本質、方法などに関する考えを簡潔に記した漢文体の部分と、103首の秀歌撰「秀歌之体大略」とからなる。掲載書は、九州大学附属図書館の細川文庫の一冊。同文庫は、細川幽斎の曽孫・細川行孝(1637−1690)を初代藩主とする字土藩細川家の蔵書で、本書は烏丸光雄(からすまみつお 1647−1690)から父烏丸資慶(からすますけよし 1622-1669)の遺品として行孝に贈られたもの。死に瀕した資慶が行孝宛に書いた書状も添えて送付され、同文庫に残されている。烏丸資慶は幽斎の嗣子忠興の娘を母としており、行孝とは従兄にあたる。同封の書き付けによれば、本書上巻の筆写は也足(中院道勝)、下巻の筆写を玄旨(幽斎)とする。

『詠歌大概聞書』下の細川幽斎筆による文禄4年(1595)の跋。直前に「天正十四年暦八月下」の跋があり、それによれば、権大納言久我敦通 (こがあつみち)の再三の要望に背きがたく、 三光院内大臣 (三条西実枝 さんじょうにしさねき) の講釈をもとにこの『聞書』を編んだことを記している。 掲出の文禄4年の跋では、この『聞書』が後陽成天皇の知るところとなって三条西実条(さんじょうにしさねえだ)を通じて天皇に進献され、上巻は宸筆で書写され、下巻も八条宮智仁親王、興意法親王によって書写されたとある。どちらの跋も幽斎自筆。

『詠歌大概聞書』と一緒に細川丹後守(行孝)に送付された烏丸光雄の書簡。「故大納言認残候一封幷詠哥大概抄二冊(二位入道玄旨公筆)依遺命入見参候」とある。幽斎自筆の「詠哥大概抄(聞書)」2冊を「故大納言(資慶)」の遺言に従って送付する旨を伝える内容で、資慶は寛文8年(1670)11月28日死去。「故大納言認残候一封」は、死の床で行李に我が子光雄の後事を託す資慶の書状。これも宇土細川家に伝来している。本状の日付は二月十五日。烏丸光雄は「烏丸宰相」と署名するが、光雄が右大弁から参議(宰相)となったのが寛文9年11月26日なので、本状は烏丸資慶死去から間もない、翌寛文10年2月15日に執筆されたことがわかる。

細川幽斎の『伊勢物語』注釈書。幽斎が八条宮智仁親王に講釈をするために作った草稿をもとに再編集したもの。古活字本として出版もされた。本書は古活字版の中でも最も古い十行本、全5冊。「御幸町通二条 仁右衛門 活板之」と版元の記載がある。日本古典籍の蒐集家で知られたフランク・ホーレーの旧蔵書。「寶玲文庫」の印がある。

天正19年5月27日に興行された「賦何色連歌」の写し。玄仍の発句「夕立は空より庭にいつみ哉」に対して幽斎(玄旨法印)が「茂る木の間の松風のこゑ」の脇を付けている。

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楮紙の折紙に書かれており、裁断後に上下を反転させて軸装に仕立てられている。本紙の右上は補紙となっている。二紙の題簽のうち、一紙に「仮名消息ゆうさい名アリ己巳十一『神田道伴』(印)」とあり、古筆鑑定家の神田道伴の目にかかったもの。欠損が激しく、一部判読しにくい。

細川幽斎の書状。宇治の茶師上林(かんばやし)から、聞茶(ききちゃ。産地や精製した茶師名を飲み当てる、闘茶の一種)として送られた茶が、一段とすぐれていたことを報じている。宛名の「上林入道」は、当時宇治の茶師を統括支配していた上林掃部丞久茂(ひさもち=法号久徳 1542-1606)である。闊達な筆致に書道にも秀でていたことがわかる。「聞茶送り給い、賞翫、祝着の至りに候。茶の時分、罷り越し候間、万々、面を以って申すべく候間、具にせず候。恐々謹言。幽斎。尚々、茶一段の出来に候。三月十日玄旨。上林入道殿参る」

松阪市内の旧家の伊勢神宮関係文書のうちの一通。伊勢神宮の御師、吉沢主水宛。極月17日付。吉沢主水は伊勢神宮の御師(おし、神官)。年末に際して大麻(おおぬさ、御幣)と長鮑を贈られたことに対する礼状。

烏丸光広は幽斎の歌弟子。幽斎は慶長15年(1610)8月、77歳で死去しているので、むろんその以前のもの。光広は幽斎が没した時には、32歳であった。とすると、この手紙は光広の20代の終わりから30代初めのころの執筆か。「御捻具ニ令披見候/委細得其意候、そも/\/百首御興行/可然所仰候、二条御/会も定日未相知候/あなかしこ/乃時/幽斎老 光広 <返し書き>尚々定日御聞食/可然候、近日のやうにと沙汰申候」

この三首懐紙の歌は、いずれも幽斎の家集『衆妙集』に所収される。「法印玄旨」の署名から、出家後の49歳以降のものと知る。教養あふれるすがすがしい筆跡である。「詠三首和歌/法印玄旨/荻/さゝの葉のみ山の里も/そよさらにさひしさそふる/荻のうは風/虫/水くきの岡辺にすたく/きり/\すたかかきすてし/筆にかあるらむ/思/いかにせんたねはこゝろのおもひ草/はらふにたえん根さしならねは」

この詠草は、位署に「兵部太(大)輔」とあることから、幽斎が19歳から47歳の間の執筆と知る。第一首目は『後拾遺集』に所収される大江嘉言(おおえのよしとき ?-1010)の詠歌。練熟した手馴れた筆致から推して、少なくとも40代前後に達していたのではなかろうか。かれの遺墨は、大半が剃髪して幽斎を号してからのち、すなわち晩年期のものが多く、その壮年期の筆跡を伝えるものとして、すこぶる貴重である。「兵部太輔源藤孝/君が代は千代にひとたひいるちりの/しら雲かゝる山となるまて/ときはなる松と竹との末の世を/いつれ久しと君そみるへき」

「岷江入楚之開/氷てもなかれ底なき入江哉 玄旨/かくやもしほの跡まよふ霜 素然/真砂地の月にちとりの啼立て 竹内/三吟/散て後たのむかけなき木葉哉 玄旨/夢もむすはすしくれする山 素然/鹿の音を枕の月にきゝそへて 之若」。

「とひくへき人もなき身の槇の戸を/秋風になひく萩そおとのふ 藤孝」。短冊の料紙は、銀の大切箔、金の小切箔、金砂子が散りばめられた、きらびやかなものである。

「寄神祝 かゞみこそしるしなりけれくもりなき/心を神とあふき来ぬれば 玄旨」。「玄旨」と署名するこの短冊は、天正10年(1582)に出家(49歳)して以降のもの。『衆妙集』に所収されている。書は栄雅流に属し、正統派の書法を流麗な筆致で書いている。

「うくひすの梅の花かさけさきても/雪のふゝきにぬれて鳴也 玄旨」。細川幽斎が「雪中聞鴬(せっちゅううぐいすをきく)」という題で詠んだ和歌一首を記した短冊。歌の末尾に幽斎の法名「玄旨」の記載がある。

「遠村時雨 山もとの松にいざよふ夕しくれ/くものかへしの風や吹らむ 玄旨」。「玄旨」と署名するこの短冊は、天正10(1582)に出家(49歳)して以降のもの。『衆妙集』に所収されている。書は栄雅流に属し、正統派の書法を流麗な筆致で書いている。歌題は別筆。

「河島 塩みてはおき(沖)つすとり(巣鳥)のつはさ(翅)をも/又かはしまのかた(潟)に鳴なり 玄旨」。

細川幽斎の肖像など

細川幽斎夫妻像(『国史大図鑑』第3巻所収)

幽斎夫妻の老後の肖像。大徳寺塔頭の高桐院所蔵。

細川忠興像(細川重賢賛)

細川幽斎の長子、細川忠興(ほそかわただおき、1563-1645)の肖像画。織田信長に重用され、信長の子信忠の1字を与えられ忠興と名乗り、明智光秀のむすめ玉(のちのガラシャ)と結婚。本能寺の変では光秀に与せず、以後は豊臣秀吉に従った。秀吉亡き後は、徳川家康に仕え、関ヶ原の軍功によって豊前国が与えられた。のちに出家剃髪して三斎宗立。当時屈指の文化人として聞こえ、鷹狩・能・和歌・連歌を好み、茶の湯を千利休に学び、利休七哲のひとりに数えらる。

落合芳幾 音川兵部大輔藤孝(「太平記英勇伝」所収)

落合芳幾(おちあいよしいく、1833−1904)のシリーズ武者絵「太平記英雄伝」に描かれた細川幽斎。「音川兵部大輔藤孝」として描かれている。「太平記英雄伝」は、『絵本太閤記』に取材した揃い物で、戯作者・山々亭有人(条野採菊)による略伝が記されている。  

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