1579―1638(天正7ー寛永15)
近世初期の公卿で歌人。父は烏丸光宣 (みつのぶ)。烏丸家は藤原氏日野家の分家。3歳で叙爵し、侍従、右左少弁、蔵人を経て年慶長4年(1599)蔵人頭、慶長11年(1606)参議と昇進するが、慶長14年(1609)7月、宮廷の女官との密通事件(猪熊事件)に連座して昇進を止められた。慶長16年(1611)に許されて還任。慶長17年(1612)権中納言、元和2(1616)には権大納言に昇った。細川幽斎に和歌を学び、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際、幽斎が丹後田辺城で石田三成方の軍に包囲された時には歌道の絶えることを恐れた後陽成帝の勅命で中院通勝(なかのいんみちかつ)、三条西実条(さんじょうにしさねえだ)とともに開城の勧告に赴いた逸話がある。
多芸多才で、和歌では細川幽斎から古今伝授を受け、連歌・書画・茶道などを能くし、書においても独特の書風で一家をなした。また臨済の名僧、一絲文守(いっしもんじゅ) に参禅して禅に傾倒し、文守の師である沢庵宗彭(たくあんそうほう)とも親しく交わった。孫の資慶(すけよし)が編纂した家集『黄葉和歌集』、幽斎の口述を筆録した歌学書『耳底記』、紀行文に『東行記』『あづまの道の記』『春の曙 (あけぼの)』などがある。
関連するひと・もの・こと
烏丸光広と交流があり、宗達作品のいくつかに光広が賛を寄せている。
京都の豪商佐野紹益の随筆『にぎはひ草』によれば、烏丸光広は本阿弥光悦に書の手ほどきを受けたとされる。
烏丸光広は徳川家康や秀忠に厚遇され、朝廷と江戸幕府との調停役を務めた。東照大権現の神号を勅許された徳川家康の遺体が久能山から日光の東照宮に改葬される旅にも供奉している。
烏丸光広は若き日に細川幽斎から古今伝授を受け、二条派の歌人。
朝廷と江戸幕府との調停役を務めた烏丸光広はたびたび東海道を行き来し、その際に冨士山を詠んだ歌が家集『黄葉和歌集』に多く収録されている。江戸下りの紀行文『東行記』をはじめ富士山を題とした画賛の作例も多い。
烏丸光広は江戸初期を代表する能書家の一人。
本で知る
著者:烏丸光広
江戸前期の歌集。10巻。烏丸光広の歌を、孫の資慶が編集したもの。寛文9年(1669)成立。歌数は約1670首。掲出は元禄12年(1699)の刊本。
著者:烏丸光広
元和3年(1617)、東照大権現の神号を勅許された徳川家康の遺体が久能山から日光の東照宮に改葬される旅に供奉した烏丸光広の紀行文。遺体を収めた棺(神棺)が3月15日に久能山を出で、4月8日、日光山奥院に安置されるまでを記す。
烏丸光広
中世の歌学を江戸時代に伝えた歌人細川幽斎(1534–1610)の歌道の教えを、烏丸光広が、慶長3(1598)年8月から幽斎の田辺籠城を挟む慶長7(1602)年12月まで、70回以上にわたって記録した聞書の自筆原本。質素な茶表紙の中央に光広の手で「耳底記」と記され、裏表紙にも同筆で「一二記」とある。前遊紙裏に光広花押が書かれ、内題は「幽斎口義 光廣記之」とある。1丁目表のみ平仮名書きで、同丁裏以降は速筆できる片仮名書きである。墨色は転変して墨滅も目立ち、末尾に白紙も多く残るなど、原本の趣をよく示している。系統立たない雑多な歌話の集成であるが、幽斎の動静とともに、幽斎が学んだ三条西家の正統的な歌学思想がうかがえる貴重な資料である。
烏丸光広
烏丸光広自筆の『耳底記』。光広花押と、内題「幽斎口義 光廣記之」部分。
烏丸光広,刊
寛永12年 (1635)、烏丸光広が、左大臣二条康道の供で京都から江戸へ下った際の紀行文。2月6日に京を出発して、19日に品川に到着するまで15日間の行程を記す。旅の目的は、勅使・院使らの年賀の下向に随行したもので、光広の東海道の紀行文としては、元和四年(1618)夏の『あづまの道の記』に次ぐもの。記述はおおむね簡略で、和歌・漢詩・狂歌をまじえて、綴られている。掲出本は、元禄6年(1693)の刊本。
佐野紹益,得栄堂
京都の豪商佐野紹益による随筆。天和2年(1682)刊。紹益は、本阿弥光悦の甥光益を父とする京都の富商。屋号から灰屋紹益とも。本書は、本阿弥光悦、烏丸光広、八条宮智忠親王など当代の文化人との風流な交流や、茶道、歌論に関わる記述に富むが、特に光悦とは幼少時からそば近くで馴れ親しんだ関係から、光悦の日常をうわかがわせる貴重な史料である。掲出部分には「からす丸光広卿 は、光悦に物書事をならひ物し給ひける」とあり、烏丸光広が本阿弥光悦に書の手ほどきを受けたことを述べている。
江戸初期の年代記『当代記』に記された官女密通事件(猪熊事件)に登場する烏丸光広の名前。慶長14年7月、5人の官女と烏丸光広を含む7人の公卿の密通事件が発覚し、5人の中に後陽成天皇寵愛の者が含まれていたところから天皇は激怒して全員死罪を求める大事件となった。首謀者の猪熊教利 (いのくまのりとし)は斬罪となり、他の公卿のうち5人は蝦夷 などに配流されているが、光広は処罰を免れた。『当代記』は、徳川家康の外孫で姫路城主松平忠明の著といわれるが不詳。織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての政治、社会の状況を編年的に記録する。掲出本は、国立公文書館所蔵の江戸初期の写本。
[藤原顕輔] [撰]
第6番目の勅撰和歌集。崇徳天皇(1119-64)の院宣により藤原顕輔(1090-1155)が仁平元年(1151)に撰集した。10巻に415首を収める。当該本の巻尾には、関白・二条昭実(1556-1619)が天正13年(1585)に書写した旨の奥書が記される。また併せて、外題の染筆者を三藐院・近衛信尹(1565-1614)とする、烏丸光広(1579-1638)の署名のある極め書きを付す。
写
烏丸光広書写による「小倉山荘色紙和歌」の百首。小形の色紙に上の句と下の句を分けて書かれている。「小倉山荘色紙和歌」は藤原定家が選んだとされる百首の秀歌で内容は百人一首と同じだが、この烏丸光広による写本には、「住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ(藤原敏行)」一首と、「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ(清少納言)」の上の句を欠いている。冒頭に江戸後期の国学者で、『百人一首一夕話』などの著書のある尾崎雅嘉の序(寛政10年)が備わる。
もっと知りたい
烏丸光広筆,By Karasumaru Mitsuhiro (1579–1638),東京国立博物館,Tokyo National Museum
烏丸光広による江戸下りの紀行文。京都から江戸に至るまでの東海道の道中を絵や歌をも交えて綴る。掲出は、東海道の難所で知られた歌枕「小夜の中山(静岡県掛川市東部にある山地)を詠み込んだ部分。烏丸光広は朝廷と幕府の斡旋役として、生涯に何度か京と江戸を往復しているが、『東行記』がいつの江戸下りの際の紀行文かは不明。また、烏丸光広にはこれとは別に元和四年(1618)六月に江戸に下向した際の紀行『あつまの道の記』がある。
烏丸光広,Karasumaru Mitsuhiro,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
東京国立博物館に所蔵される烏丸光広の紀行文『東行記』の草稿。掲出は、東博本であげたのと同じ箇所で、東海道の難所で知られた歌枕「小夜の中山(静岡県掛川市東部にある山地)を詠み込んだ部分。
烏丸光広
西行の出家から入滅までの生涯を描いた物語絵巻。巻第2の詞書を烏丸光広が独自の書風で認めている。「西行物語絵巻」には数種類の写本があり、大きく「広本系」「略本系」「采女本系」「永正・寛永本系」の4種に分けられるが、本絵巻は「采女本系」にあたる。巻末に明応九年(1500)、槐下桑門(三条公敦、1439–1507)の奥書が備わり、それによれば、海田采女佑相保が絵を描き、詞書を公敦が書写したことが記される写本群であり、宮中に伝わった「禁裏御本」(海田采女佑相保筆)を原本とする。同じく光広の命によって俵屋宗達が描いた2組の「西行物語絵巻」があり(旧毛利家本(出光美術館所蔵)、旧渡辺家本(文化庁所蔵))、これらとの関係性が興味深い。
俵屋宗達筆、烏丸光広賛,By Tawaraya Sōtatsu (dates unknown); inscription by Karasumaru Mitsuhiro (1579–1638),東京国立博物館,Tokyo National Museum
源氏物語』の「関屋」に取材した屏風絵。伝俵屋宗達筆、烏丸光広賛。図の上方に烏丸光広による「関屋」の一節と自詠の和歌が書かれている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。「宗達法橋」の署名があり、賛には光広最晩年の花押が据えられている。
俵屋宗達筆、烏丸光広賛,By Tawaraya Sōtatsu (dates unknown); inscription by Karasumaru Mitsuhiro (1579–1638),東京国立博物館,Tokyo National Museum
伝俵屋宗達筆、烏丸光広賛の「関屋図屏風」の光広賛の部分。「うち出/の/はまくる/ほど/に/殿は/粟田山/こえたまひ/ぬ/行と/来と/せきとめ/がたき/なみだをや/関の清/水と/人は/みるらん」。
烏丸光広筆,By Karasumaru Mitsuhiro (1579–1638),東京国立博物館,Tokyo National Museum
天正16年(1588)、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際の記録「聚楽第行幸記」を資料として、烏丸光広が当日の和歌会で披露された歌を揮毫した和歌巻。筆運びに彼独自のリズム感を発揮しており、奔放かつ自在な筆致は見どころの一つ。
烏丸光広
富士山を一筆書きに描き、その余白に富士山を詠み込んだ1首の和歌を書き添えたもの。光広が関東へ下向した際、富士の霊峰を詠んだ自詠の和歌。のびのびと淡墨を駆った書画一体の妙は、光広の真骨頂を示すものである。
烏丸光広筆・賛,九州国立博物館
烏丸光広による富士山を題とする墨画と和歌賛。本作は中央に富士山とその麓にたなびく雲・霞を淡墨で素早く描き、その左右に富士の自詠を一首書き付けたもの。料紙全体における富士山と文字の配置、変化する墨色が見事である。詠歌「富士の根の」は『黄葉和歌集』には収められておらず、本作以外では確認できない。
沢庵宗彭筆、烏丸光広画,By Takuan Soho (1573-1645), inscription by Karasumaru Mitsuhiro (1579-1638),東京国立博物館,Tokyo National Museum
烏丸光広の描く山水画に、大徳寺第153代の住持沢庵宗彭が「太崋萬餘丈、三星遶月處」の賛と自署を加えたもの。光広とその参禅の師である沢庵との交流を物語るものとして重要である。
烏丸光広筆,By Karasumaru Mitsuhiro (1579–1638),百瀬治氏・百瀬富美子氏寄贈,Gift of Mr. Momose Osamu and Mrs. Momose Fumiko,東京国立博物館,Tokyo National Museum
烏丸光広による『小倉百人一首』。藤原定家の書法を踏まえて揮毫した40代の作品。
[藤原定家] [編]
元和7年(1621)書写の奥書のある烏丸光広筆「百人一首」。奥書「元和七年九月十七日 以一禅之花翰書写之 光廣」 。見返しに古筆了雪の極札貼付。蓋裏に「明治四十一年十二月三十日 塚本吉彦所贈 傳生阪池田家蔵」との貼紙あり。伝備中生坂藩旧蔵 生阪池田家・花房子爵家旧蔵。
烏丸光広 KARASUMARU Mitsuhiro,Tale of Ise,ink on decorated paper,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
烏丸光広 KARASUMARU Mitsuhiro,Reflections in Hours of Idleness,ink on paper,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
慶長7(1602)年の写本。
狩野晴川院〈養信〉、狩野勝川院〈雅信〉、小林養建模,Copied by Kano Seisen'in (Osanobu), Kano Shosen'in (Tadanobu), and Kobayashi Yoken,東京国立博物館,Tokyo National Museum
三十六歌仙を描いた歌仙絵巻。巻末に烏丸光広の奥書があることから「烏丸光広奥書本」の別称がある。書画ともに後鳥羽院筆と伝えられる「後鳥羽院本」とおおむね図様を共有しながら、数人の歌仙に異なる姿態が確認され、別本とみられている。原本は「細川能登守」の蔵品であったらしい。掲出は、天保11年(1840)作の模本。作者は、狩野晴川院(養信)、狩野勝川院(雅信)、小林養建の3人。
烏丸光広の書状
烏丸光広
日付の「壬(閏)二月十五日」により、この手紙の書写年代は、慶長15年(1610)(光広32歳)か寛永6年(1629)(同51歳)のいずれかに限定される。宛名の「村上周防守」は、『寛政重修諸家譜』の索引に見えない。が、文中に登場する「堀久太郎」を探ると、堀秀政(1553-90)・秀治(1576-1606)父子が久太郎を名乗っている。2人ともに慶長15年以前に他界しているの該当しない。しかしながら、前掲『寛政重修諸家譜』の両者記述の中に、村上周防守義明の名が記されているではないか。ともに豊臣秀吉の小田原の役に参戦、功を収め越後国に領地が安堵されている。また、秀治の弟が村上周防守義明の養子にもなっており、堀家と村上家がきわめて親密な関係にあることを知る。とすると、文中「堀久太郎」は、久太郎を名乗ったという記載はないものの、秀治の嫡男忠俊(ただとし、1596-1637)が有力となる。たまたま、慶長15年閏2月2日、忠俊の家臣堀監物直次と丹後守直寄の兄弟に論争が勃発、駿府に訴えるまでに発展、ついに徳川家康が断を下し、直次が敗訴、罪に服したという。この事件が端緒で忠俊は所領を没収される。文中「久太郎殿……笑止之儀」とは、この一件を指すのではないか。村上周防守の身には類が及ばなかったことに、光広が安堵の旨を申し送ったものであろう。光広32歳の筆である。 「便宜ながら一書啓せしめ候。堀久太郎殿申し下し御座候はば、笑止の儀に候。貴殿御無事の由、珍重に存じ候。如何様後便を期し申し入るべく候。恐々謹言。以上。壬二月十五日 烏丸宰相 光広 村上周防守殿」
烏丸光広
この手紙の年代を推定する微証として、細川幽斎(1534-1610)主催の「百首和歌会」、ならびに「二条御会」(二条城和歌会)の2つがある。が、その割り出しは困難。光広は幽斎の歌弟子である。幽斎は慶長15年(1610)8月、77歳で死去しているので、むろんその以前のもの。光広は幽斎が没した時には、32歳であった。とすると、この手紙は光広の20代の終わりから30代初めのころの執筆か。 「御捻具に披見せしめ候。委細其の意を得候。そもそも、百首御興行、然るべく仰する所に候。二条御会も定日未だ相い知らず候。穴賢。尚々、定日御聞食然るべく、近日の様にと沙汰申し候。乃時 幽斎老 光広」
烏丸光広
宛名の「了佐老」は、古筆了佐(1572-1662)のこと。もとは平沢弥四郎範佐と名乗った。父宗休に従って光広に入門、歌道を修めた。のち、光広について古筆鑑定の術を習い、古筆家初代となった。これは、日頃親交を結んだ光広と了佐の往復書簡の一通。酒肴一樽に狂歌一首を添えて送り、その返歌を期待したもの。両者の年齢関係を考え合わせると、光広晩年の筆であろうか。文末の「烏大」は、「烏丸大納言」の略で光広自身をさす。 「此の間、無音本意にあらず候。今日は、大照庵雲門御尋ね候間、少々芳談承り候いき。仍って、一樽、疋少し恥じ入り候へども、寸志ばかりに候。一種につき、/万法を手に任せたる此の肴有りと思ふな無しと思はじ/かしく。早々、贈答待ち申し候。五 了佐老 烏大」
烏丸光広
宛名は不明であるものの、文意より、光広が平素から歌書などを写本するにあたり、その原本を借りていた人物が想定される。この手紙も、日頃の好意に感謝しつつ、このたび借用の書物を一日も早く写し終えて返戻する旨を綴る。「不定世界候。やがて花のころになり」の文言から、某年の初春のころと推定される。なお、「乃刻(だいこく)」とは即刻、すぐさまの意。すなわち歌書を届けた使者を待たせたままにしたためたものとわかる。 「書中披見申し候。種々の無心、祝着此の事に候。書立写し、返入せしめ候。不定世界に候。やがて花の頃になり候。かしく。乃刻 光広」
烏丸光広
烏丸光広は「寛永の三筆」と併称される能書として知られ、古筆の鑑定にも長じていた。歌書などの筆者を決めるべく、人々の求めに一再ならず応じていた。この一通もその種のもの。宛先の相手「主水殿」(不詳)からの歌書一巻の鑑定依頼を受けた光広は、その筆者を二条為氏の筆と認定したようである。ただし、「河端」(河端道喜か)の詠草の添削に手間取り、昨日やっと伝達し終えたばかりで、返事が遅れたことを付け加えている。鑑定家光広を裏付ける一通である。 「尊書謹みて拝見、忝なく存じ奉り候。一巻披閲を致し候。為氏などにて御座有るべく候。早々、右の趣申し上ぐべく候処、少しく河端難点の儀候て、昨日伝達仕り候故、遅引仕り候。然るべきの様、此等の由洩らさるべく申し入れ候。恐々謹言。臘月十九日 主水殿 光広」
烏丸光広
これは、古筆了佐から膃肭臍(オットセイ)を贈られたことに対する礼手紙。オットセイはアシカ科の哺乳類。その臍と陰茎を取って薬としたことから「膃肭臍」と書くようになったといわれる。古くから強精剤として珍重され、当時の珍薬の一種であった。光広の好奇心旺盛な一面をうかがい知る好資料である。 「膃肭臍沢山贈り給い候。祝着無極に候。調和の様子示し給い候。其の通りに申し付け候。今より役義治定に候。これ愚かしと思し寄せ候。穴賢、穴賢。二 三十日了佐老 光広」
烏丸光広
宛名には「納言殿」(大納言・中納言の略)と記すのみ。ふつうは相手の家名を加えるものであるから、きわめて親しい間柄を想起させる。とすると、この「納言」は、光広の長男・権中納言烏丸光賢(みつかた・1600-38)ではなかったか。互いにしばらく対面できないままに時が経過、久方ぶりに詠草を送られたようである。その出来の良さに対する賞賛の意に「一年は暮れぬ世もがな……」の和歌一首を添えた返信である。一気呵成に筆を運ばせた筆致は光広の酔筆に見られる特徴。この一通も、酒の酔いにまかせて執筆した酔余の面目躍如。 「仰せの如く遥かに久しく面談疎意に候。暮春の御詠拝見、満足に候。一とせは暮れぬ世もがな花の春新今年も願ふ計りに寸隙、執筆能わず延引候。かしく。二十六日 納言殿 光広 御返事」
烏丸光広
「多忙の中を鄭重なお手紙を頂戴して忝ない。詳細については参上して御目にかかって申し上げます」という内容の手紙。詳しい事は両者にしか知り得ないこと。闊達な筆致の中に、光悦流の面影が宿っている。光広壮年期のものか。 「御隙無き中、御懇報祝着致し候。如何様参扣の刻、申し入るべく候条、巨細能わず候。恐々謹言。正月八日 光広」
烏丸光広の色紙、懐紙、詠草、短尺
土佐光吉,Tosa Mitsuyoshi,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
「源氏物語絵色紙帖」から、烏丸光広による「蛍 」の詞書。「なくこゑも/きこへぬ/虫の/思ひたに/ひと/のけつ/には/きゆる/物かは」。「源氏物語絵色紙帖」は『源氏物語』の場面を描いた「源氏絵」の一種。重要文化財。総数五十四枚からなる。「桐壺」から「柏木」までの色紙の裏に「久翌」の墨印があり、土佐光吉(1539-1613)の作と知られる。桃山期源氏画帖のうちで最も代表的な作品である。「横笛」以降は「長次郎」なる土佐派の絵師の作。詞書は後陽成天皇を始めとする貴紳たちがそれぞれ書している。
土佐光吉,Tosa Mitsuyoshi,京都国立博物館 Kyoto National Museum,Kyoto National Museum
「源氏物語絵色紙帖」から、烏丸光広による「常夏 」の詞書。「いとあつき日ひんかし/の/釣殿に出給てしたしき/殿上人あまたさふらひ/て西川より奉れる/あゆちかき河の石ふし/なとやうの物御前にて調/してまいらす」。「源氏物語絵色紙帖」は『源氏物語』の場面を描いた「源氏絵」の一種。重要文化財。総数五十四枚からなる。「桐壺」から「柏木」までの色紙の裏に「久翌」の墨印があり、土佐光吉(1539-1613)の作と知られる。桃山期源氏画帖のうちで最も代表的な作品である。「横笛」以降は「長次郎」なる土佐派の絵師の作。詞書は後陽成天皇を始めとする貴紳たちがそれぞれ書している。
烏丸光広
この懐紙は、歌題「初春待花」により、慶長2年(1597)正月19日、禁裏御会始の時の詠である。後陽成天皇(当時27歳)以下、公卿・殿上人らが一座出詠した。光広はこの年、弱冠19歳。一見して手の若さが感知される。一字一字の丁寧な書きぶりに持明院流の書風が宿る。後年の奔放な書風を展開する光広の面影は、うかがうべくもない。「春日同詠初春待花和歌/蔵人左少弁藤原光広/春きぬといふよりしるくながき日や花まつからのこゝろなるらむ」
烏丸光広
元和元年(1615)9月9日の重陽の節会に、「菊花久芳」の歌題を冠して詠まれた和歌懐紙である。光広の書風は、持明院流、光悦流、定家流を経て、独自の光広流へと変遷するが、これはまさしく定家流で書かれる。かれが上代様を好み、ことに歌道において、定家の筆跡に追慕の情を示した様子がうかがわれる遺墨である。このとき、光広は41歳。同年に権大納言・従二位に昇った。「重陽同詠菊花久芳和歌/権大納言藤原光広/思ふより今日待ち出でし匂ひ哉まして千年の秋の白菊」
烏丸光広
後水尾天皇の二条城行幸は、寛永3年(1626)9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠・家光・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」
烏丸光広
「霞添山色」を歌題とした詩歌会は、光広の生存期間中、文禄5年(1596)・元和2年(1616)の和歌御会始と、寛永13年(1636)の院和歌御会始(歌題は「霞添山気色」と若干異なっている)の3度開催されたことが確認できる。この懐紙は、その書風から察するに、最晩年の寛永13年1月9日、仙洞御所(後水尾院)にて催された院和歌御会始での自詠を、のちに再揮毫したものと思われる。光広はこの年58歳。大胆な書きぶりに、「光広流」ともいうべき独特の書風が顕著に見える。「詠霞添山色和歌/光広/遠近も今朝は霞薄く濃く山のみどりも春の色添ふ」
烏丸光広
この懐紙は、「梅花久芳」の歌題により、寛永14年(1637)1月17日の禁中における新年御会の時のものとわかる。書きぶりから推して、これはその手控えの草稿本と思われる。光広はこの年59歳であった。最晩年の枯れた筆致である。「詠梅花久芳和歌/藤光広/代々込めて咲ける若木の梅が香を四方に知らする春の初風」
烏丸光広
この懐紙は、光広が50歳代に入ってからの執筆と考えられ、かれの面目を躍如とする見事な書である。この詠歌は、木下長嘯子(1569-1649)の家集『挙白集』に入集する一首。が、この筆跡はまさしく光広の自筆疑いなきものである。とすれば、これは光広の詠歌と考えるのがふつう。では、なにゆえに長嘯子の家集に入集するのか、不思議な現象。あるいは一気呵成の筆致から、酔いにまかせて、交友の長嘯子の詠歌が脳裏に浮かんだのであろうか。「閑中春雨/光広/春雨はふるともみえず軒端よりなみだしたゝる音計して」
烏丸光広
この懐紙の歌題「野萩露」と同様の歌が『後水尾院御集』に入集している。おそらくこれは、禁中における歌会で詠じたものであろう。光広の面目を表わす豪快で独特な書風から、50代頃の筆と推定される。「詠野萩露和歌/光広/誰が袖にうつしとりてか乱れ散る露深かりぬ野辺の秋萩」
烏丸光広
これは、藤原俊成(1114-1204)の家集『長秋詠草』のうち中巻の前半部分に相当する。全部を書いたものではなく、光広がたまたまこの部分を抄写したものであろう。とくに後半部分の自由奔放な書きぶりは、すでに完成された光広流の世界。が、全体に統べる筆法を見れば、光広が積極的に光悦流を取り入れていたことが分かる。壮年期の脂の乗り切った絶頂期の作品であろう。金泥で、松・草花・岩・流水など、可憐な下絵を配した上品な装飾料紙に書写する。高貴の求めに応じた調度手本であった。
烏丸光広、江月宗玩
これは、烏丸光広の詠草に、江月宗玩(こうげつそうがん・1574-1643)が偈頌を加筆したもの。光広の詠草(詞書)によれば、寛永11年(1634)、甲斐守黒田長興(くろだながおき・1610-65)が家光上洛に供奉した際に、母死去の報が届く。その悲報を聞き及んだ光広が、哀悼の意をこめて詠み与えた挽歌(悲しみの歌)である。長興の母(筑前守黒田長政室=保科忠正の女)は、家康の養女栄姫で、豊後国日田郡において、寛永12年(1635)正月12日に死去した。とすると、これは光広57歳の筆と知る。晩年の光広流面目躍如の筆致である。そして後日、江月宗玩が黒田の私邸に赴いた際、にわかに求められて、光広の挽歌に和して即興に作った七言の偈頌を加筆したのである。江月は、黒田長政の招きで博多崇福寺の住持にもなっており、両者は浅からぬ因縁であった。寛永20年(1643)70歳で没する江月にとっても、晩年の筆跡である。「[詠草]黒田甲州(甲斐守=長興)上洛のみぎり、老母みまかり給へる由を聞き及びて、孝子の心の中、さこそと思い遣られければ、その原やありときかせん道もがなさらぬ別れにきえし母君/[偈頌]卒かに挽歌の韻に和し、予亦、孝子の余哀を助けて云う。五十余年、世縁連なり、傾尽の孝心、泣哭に堪う。覩る物に追懐するは、阿母の慈しみ、雨露の恩潤、草木を養う。欠伸子(印)/[追記]个この拙和(七言の偈頌)、甲州私第に就いて書す。臶ねて三要開欹朱点を乞い、以て来命に応ず。愧色に惑う者なるか。」
烏丸光広
これは、日光東照宮の造替・遷宮について述べる詞書に続けて2首の和歌を書写する。光広の家集『黄葉和歌集』には、「十七日の祭礼を見て」と題し、この詞書と和歌の全てが所収される(巻八下)。『黄葉和歌集』を光広の嫡孫・烏丸資慶が編纂した際の、自筆原本の一葉であろうか。寛永13年(1636)4月の東照宮造替の法会に、24歳の光広は院使として下向している。この3代将軍家光による大造営で、日光東照宮には今日に残る豪華な社殿が完成したのである。また、光広はこの後、家光の歌道師範として江戸に2年滞在した。「時は卯月はじめにや大樹の御めぐりの御鎮守、東照大権現の御社御造替の地引おはしまして、人群をなせし、其所へいづくともしらず、白鶴ひとつおり居たり。折しもあれ、千年の御宮居もしるくおぼえけるに、又、天飛鶴二つおなじ所に舞くだりける御事に、御代のさかえも相生ならん神の御納受をつげしらせ給なるべし。延喜の御代白鷺の聖徳になづきける事世中にいひのゝしることなれば、あまねき御めぐみの鳥獣にも及侍るは抑おさまれる御代なる哉。/宮づくりうれしき神の御心に千年や告げて鶴も立ち舞ふ/さらに又千年はしるし友鶴の翅並ぶる神のひろまへ/権大納言藤原光広」
烏丸光広
この詠歌は、光広の家集『黄葉和歌集』に入首の一首。その詞書によると、岡崎・吉田の里にてこの句を詠んだとある。山城国(京都府)岡崎の北に、浄土寺・吉田という地名が確認できる。「摂政殿」とは、九条道房(くじょうみちふさ・1609-47)のこと。道房は浄土寺に移住していることから、この句は道房の邸宅にて、桜花を愛でて詠んだものと推測される。雲紙の料紙に闊達に運ぶ筆致から、光広50代の筆か。「摂政殿しのびてにわかに愚亭の花に見渡り眺めけるに/光広/主をば花にまかする宿なればもてはやすべきよしだにぞなき」
烏丸光広
この一首は、『黄葉和歌集』(巻9)に所収される。仏生会は、釈迦の誕生日たる陰暦4月8日に行われる法会のこと。法会の後に催された歌会での詠。歌題や和歌冒頭の「仏」の字には気迫がみなぎり、「中」「し」などで長く引く縦画線と好対照を示す。まさしく光広流の面目躍如たる筆致を示すものである。
烏丸光広
「遣唐使 わけぞ行波の千里の松浦舟 君につかふる道をしるべに 光広」。
烏丸光広
「閑なる仏の庭を花にして 光広」。
烏丸光広
「ある人の松露をとりけるに いまよりはともにひろひて松の露ちとせのはまを十かへりもせん 光広」。この短冊の料紙は、藍の裏紙に金泥で松葉を散らしたもの。持明院流に加えて光悦流の筆勢が投影した書風から、壮年期の書写か。歌題にある「松露(しょうろ)」とはキノコの一種で、海辺の松林の砂中に生じ、春、秋に採集して食用にするものである。親しい友人に宛てた短冊であろう。
「たひ枕かりね物うきよるの夢/ね覚にかはる松風のさと 光広」。詞書に「まつ風のさとをいまはねさめといへるをきゝて」とあり、古歌に歌われた尾張の国の名所「松風の里」(名古屋市熱田区)を詠みこんだ歌。
烏丸光広 KARASUMARU Mitsuhiro,Haiku poem on Tanzaku paper,ink on decorated paper,木村定三コレクション / Kimura Teizo Collection
「うちわたす尾張の国のさかひはし/これやにかわの継めなる覧 光広」。「さかひはし」は「境橋」で、尾張と三河の国境をなした境川に架けられていた橋のこと。
烏丸光広
光広の信仰生活の一面をうかがい知る遺墨で。まず、善福寺(東京都港区元麻布所在の浄土真宗本願寺派の寺院)の本尊が、一磔手半(一磔手にその半分を加えた長さ、約一尺二寸)の閻浮檀金(えんぶだんごん・閻浮提の閻浮樹の下にあるという金塊。すなわち良質の金)で鍍金がほどこされていた鋳造仏であり、またそれは、多田新発意満仲(源満仲)の念侍仏であったことを述べている。続けて、南無阿弥陀仏を唱えることによって安養世界(極楽浄土)に成仏ができるという、浄土真宗の要諦を説く。さらに、釈教歌2首を添える。文末に片仮名で「ナマイダ、ナマイダ」と記す。文字の大小・細太の変化に加え、片仮名交じりの筆跡に、不羈奔放の光広の性格がにじみ出ている。 「善福寺の御本尊は、一磔手半、閻浮檀金の鋳像なり。多田新発意満仲の持仏とかや。抑も、愚癡の我等は思うやう。南無阿弥陀仏にて十劫以前に正覚取り給い候ならば、さてはのままに有りもせで、安養世界に浄土を設け、極道悪人に罪し給わば、御僻事が尊きか。加之、『有間山夕霧分けて是までの/来迎こそは有り難けれ/瓢箪に入ると見えたる山楮の/出でて来る実をなど廻すらん』。若し綺語の結縁も虚しからず候わば、決定往生を遂げしめ給ふべし。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏/烏有子」
烏丸光広
見に行く
日本と東洋の文化財を守り伝える中心拠点としての役割を担う我が国の総合的な博物館です。
平安時代から江戸時代の京都文化を中心とした文化財を取り扱う地域に根ざした博物館です。
国立国会図書館は、国会に属する唯一の国立の図書館です。国内外の資料・情報を広く収集・保存して、知識・文化の基盤となり、国会の活動を補佐するとともに、行政・司法及び国民に図書館サービスを提供しています。
愛知県名古屋市の中心部、栄に1955年に開館した「愛知県文化会館美術館」を前身とする愛知県美術館は、都市型の複合的な文化施設である愛知芸術文化センターの中の美術館として、1992年に開館しました。20世紀の美術を中心に、考古から現代美術にわたる約8,000件のコレクションを有し、また幅広いジャンルの展覧会を多数実現しています。地域の中核的な美術館として、より創造的で多様性に富む社会の実現に寄与すべく、美術・文化の発振地となることを目指しています。
慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)は、慶應義塾が長い歴史の中で蓄積してきた、美術、考古、文学、歴史、医学など多様な領域に渡る文化財コレクションと、その背後にある教育・研究活動をつなぐ「ハブ」となるミュージアムです。デジタルとアナログが融け合う環境のなかで、文化財(オブジェクト)を基点としてさまざまなコミュニティが交流し、新たな発見や発想を生み出す場となることを目指しています。
日本ならびに東洋の精神文化を研究する慶應義塾大学の研究所。株式会社麻生商店(現・麻生グループ)社長麻生太賀吉氏が、同商店20周年記念事業の一環として、日本並びに東洋の精神文化を研究する研究所として、1938年12月に福岡市内に設立した財団法人斯道文庫を前身とする。所蔵コレクションのうち「センチュリー赤尾コレクション」は、 旺文社社長であった故赤尾好夫氏が、1979年に設立した財団法人センチュリー文化財団旧蔵のコレクションで、文字文化に関する資料が中核をなしており、さらに絵画資料や工芸品等も良質なものが含まれています。
ジャパンサーチの外で調べる
京都国立博物館の研究員が、館所蔵の「東光記」について、わかりやすく解説している。
国文学研究資料館による電子展示。「展示ケース3 近世禅僧の新風」で、沢庵宗彭詠、烏丸光廣評の『沢庵百首』(元和6年(1620)写)が紹介されている。
参考文献
- 「烏丸光広」の項。
- 「烏丸光広」の項。
- 「烏丸光広」「猪熊事件」の項。
- 波多野幸彦 著,思文閣出版
- 波多野幸彦 著,主婦の友社
- [東京都]板橋区立美術館
- 小松茂美 著,講談社
- 責任表示
- 国立国会図書館
- 二次利用について
ただし、画像は個々の権利表示による
- 最終更新日
- 2023/03/07