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河竹黙阿弥関連資料-狂言作者としての黙阿弥-

国立劇場所蔵の河竹黙阿弥関連資料をご紹介します。

 河竹黙阿弥関連資料は、平成24年(2012)に河竹家より国立劇場に寄贈された狂言作者・河竹黙阿弥と河竹家にまつわる資料です。国立劇場ではこれまで、平成30年(2018)に開催した企画展「黙阿弥の明治」をはじめとする展示においてその資料の一部を公開してきました。

 このたびは、企画展「黙阿弥の明治」監修者である吉田弥生氏(フェリス女学院大学教授)に監修と解説の執筆を依頼し、河竹黙阿弥関連資料をデジタル公開します。公開は「黙阿弥と周辺の人々」「狂言作者としての黙阿弥」の2編に分け、後編となる本ギャラリーでは、黙阿弥の作品や狂言作者としての仕事に関する資料を中心とした34点をご紹介します。

 各資料リンク先の文化遺産オンラインでは、ジャパンサーチ掲載中の写真を含む全写真をご覧いただけますので、併せてお楽しみいただけましたら幸いです。


独立行政法人日本芸術文化振興会

伝統芸能情報センター調査資料課



 ここにご覧いただくのは、平成24年(2012)に国立劇場が河竹家より寄贈を受け、収蔵した歌舞伎狂言作者・河竹黙阿弥に関する資料です。黙阿弥の没後、河竹家の家督は長女の糸女が継ぎ、さらにその後は、坪内逍遥を介して河竹家の養子となった繁俊が継承しました。ここに公開する資料の多くは、大正期の大震災から繁俊が守り、あるいは奇跡的に焼失を免れたものです。

 河竹黙阿弥は文化13年(1816)、江戸の商家に生まれ、遊蕩の若き時代を経て五代目鶴屋南北に入門し、劇界の人となりました。家業や病気のために幾度か作者部屋から離れましたが、江戸三座が猿若町に移転した天保14年(1843)11月の顔見世から河原崎座の立作者となり、二代目河竹新七を襲名しました。

 江戸期には、人気戯作や話芸を素材とした新作や、幕末の名優・四代目市川小團次と組み、盗賊が活躍する数々の白浪物を書いて大当りを続けました。また明治期には、時代の変革が芝居の変革を求める中で、九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らに、史実を忠実に描く活歴物や文明開化の新風俗を取り入れた散切物などの新作を書いて活躍しました。

 明治14年(1881)に引退を宣言して黙阿弥と改名後も、明治26年(1893)にその生涯をとじるまで作者としての活動を続け、「魚屋宗五郎」「加賀鳶」「船弁慶」「紅葉狩」等の現代も繰り返し上演される数多の作品を残しています。

 このたび公開する河竹黙阿弥関連資料は、黙阿弥自筆の台本や書簡、絵看板の自筆下絵等の執筆物と晩年の黙阿弥の姿を伝える写真類が中心です。「三人吉三」の役人替名やすべての幕を執筆した「島鵆」などには作品への渾身ぶりがうかがえ、門弟に書き残した『狂言作者心得書』からは作劇作法のみならず当時の作者生活が伝わり、書簡からは、仮名垣魯文や饗庭篁村らとの交流の様子がわかります。

 これらの資料から総じて見えてくるのは、細かな指摘をしつつ全体を監督する黙阿弥の丁寧な仕事ぶりです。河竹登志夫氏まで続く作者の家が遺した逸品を通じて、幕末から明治へと激動の時を、常に情熱を持って生きた「仕事人・黙阿弥」の真の姿をご覧ください。

フェリス女学院大学教授 吉田弥生


河竹家略系図

貼りこみ帳 <一>

黙阿弥自筆による『島鵆月白浪』等番付の下絵、舞台上の役者の配置指示図面、『三人吉三廓初買』『小袖曾我薊色縫』他番付の語り文、舞台背景の指示などが貼りこまれている。番付の下絵は役者の表情はあえての単調ながら、細かな演出指示が表われて画才を見せる。明治14年(1881)の引退披露に際して配った、次女島女の絵の師匠・柴田是真が描いた「引ひほ」(引き汐に蟹)の榛原製摺物。喜寿に書いて配った「火の用心」や「寿」短冊、それに載せた狂歌「気の利た化物は疾引込むに/ろくろ首ほど長くのびたり」の下書き等も収める。

貼りこみ帳 <二>

黙阿弥没後に河竹繁俊によって収集された書簡(手紙)類が主として貼り収められている。その宛先は、明治以前から三題噺の会等で交遊した戯作者・仮名垣魯文、同様に交流のあった梅素玄魚の弟子・薫、吉原角町の質屋・松本観阿、作家の饗庭篁村ら。内容は礼状が多く、心遣いの細やかさがしのばれる。関根只誠(七兵衛)の問い合わせに応じ、(三代目)瀬川如皐、五代目鶴屋南北、五代目並木五瓶ら故人となった狂言作者の命日や戒名を記したもの、新富座座元・十二代目守田勘彌宛の給金借用書も含まれる。

貼りこみ帳 <三>

表紙に「芝居」とある。千歳座、新富座へ書いた「口演」、常磐津による浄瑠璃所作事『戻駕色相肩』や『魁源平躑躅』の番付語り、「忠臣蔵」「島鵆」ほか明治期に新富座の劇場前を飾った絵看板の下絵など。芝居の上演に際し、必要に応じて黙阿弥が自ら執筆し、描いたものを中心とした貼りこみ帳。役者の配置やその変更点の修正、狂言作者の氏名の配置など、細かな指摘が見られ、隅々に至るまで丁寧に監督の眼が行き届いていた様子、立作者としての仕事ぶりがわかる。

役人替名 三人吉三廓初買

黙阿弥自筆による『三人吉三廓初買』の「役人替名」。資料を収めた封筒の表書き(河竹登志夫氏によるか)によれば、安政7年(1860)1月、市村座における初演時のもの。役割番付の役人替名と比べ見ると、黙阿弥が示した順番通りに役者名(役名は異なる)が並んでいることが確認できる。

口上

「明治九年十月廿九」との書き入れがある。黙阿弥自筆による「岩井半四郎」「座元 中村仲蔵」の口上文。内容から、中村座において明治9年(1876)10月29日に初日の幕を開けた『忠孝意路発単語』上演時の口上らしい。『続々歌舞伎年代記』には「我童の師直由良之助共に評能く可成りの景気」とある。三代目片岡我童は八代目片岡仁左衛門の三男。黙阿弥は自作における役者の口上も考案した。

大名題 招魂社鳥居先の場

黙阿弥自筆の大名題。「大名題」は江戸歌舞伎以来、上演演目全体に付けられた名称で立作者が担当した。「第二番目四幕目返し 招魂社鳥居先の場」とあり、明治14年(1881)11月の新富座で上演した『島鵆月白浪』のもの。『島鵆月白浪』は二代目河竹新七としての引退興行、黙阿弥への改名という節目の作品であり、作者部屋の合作が通常の当時において黙阿弥がすべての幕を執筆したと伝わる。

台本 揚屋一休

黙阿弥自筆の表紙が付された台本。「揚屋一休」は本名題ではなく、元治2年(1865)1月、市村座『粋菩提悟道野晒』の大切所作事で富本・清元・岸澤の掛け合いによる浄瑠璃「一休地獄噺」か。高名な傾城・地獄太夫のもとへ一休和尚が訪れる筋。

台本 寿万歳

「ワキ狂言」とあり、正月興行で三番叟の前に上演した祝儀物となるが、黙阿弥が村山座の正月興行に筆を執った機会は明治5年(1872)である。番付には載らないため出演者等の詳細は未詳だが、この時上演の『国性爺姿写真鏡』は古今を演じた三代目澤村田之助が劇中、病のための暇乞いに際した「一世一代」の口上を述べたことで知られ、黙阿弥としても格別の思い入れがあったと想像する。「河竹蔵」の朱印が見える。

台本  御江戸景清

表紙の題箋には「御江戸景清」の略外題のほか「河竹黙阿弥自筆稿本」「完」また、「河竹蔵」の朱印がある。また、本資料を収めた封筒には河竹登志夫氏の筆跡らしいペン書きで「一八五〇(嘉永三)河原崎座、天保の改革で追放された七代目市川團十郎(五代目市川海老蔵)が、許されて江戸へ出演の初を祝った、お目見得だんまり」とある。黙阿弥の二十三回忌に刊行された河竹繁俊『河竹黙阿弥』には「一部のまとまつた作物を出す前に、書いた中独立したものと見るべき」「『琵琶の景清』に拠つたもの」と解説される。

台本 一谷嫩軍記

表紙の「當ル丑の卯月狂言」の記載および役者名から、天保12年(1841)4月、河原崎座で上演された『一谷嫩軍記』台本と確認できる。台本を収める封筒に「黙阿弥自筆台本」「天保十二年四月」と河竹登志夫氏の筆跡らしいペン書きがある。絵本番付(東京大学国文学研究室蔵)で「四段目の切 六弥太屋敷の場」には「大でき」「古今稀成大当利」とあり、最も好評の場面を担当した自負があったか。当時の河原崎座の立作者は中村重助。黙阿弥は作者連名に「柴晋助」(のちに斯波晋輔)として記載されている。この上演前年に実家の家業を継いでいた弟の金之助が亡くなり、作者生活を廃していたが、重助の依頼で再び芝居の世界に戻る。その機会の興行だった。以後、黙阿弥は歌舞伎作者を廃することはなかった。

横書台本 因幡子僧

黙阿弥自筆の台本。「因幡子僧 五幕目 中洲新地水茶屋の場」とある。明治20年(1887)11月の中村座で上演された『因幡小僧雨夜噺』の横書台本、つまり草稿である。黙阿弥が明治14年(1881)に狂言作者として一応の引退をした後の作品であり、作者連名に「スケ」としてその名が見えるが、五代目尾上菊五郎の因幡小僧新助らが活躍する作品全体における中心的な場面を自ら執筆したことがうかがえる。「河竹蔵本」「黙阿弥」の朱印は他資料にある「河竹蔵」と形状・色が異なり、黙阿弥当時のものか。

写本 宝暦天明年間一覧

本資料を収める封筒には「自筆稿本 宝暦天明歌舞伎一覧」、表紙に「中村重助書 宝暦天明年間一覧」とある。「河竹」の朱印とともに河竹登志夫氏のものらしいペン書きで「題箋は何人か判明し兼ね」ること、「本文は全部黙阿弥の青年時代の筆写」であることが説明される。まだ本名の吉村芳三郎時代の黙阿弥が河原崎座の立作者・中村重助がまとめた宝暦・天明期の歌舞伎に関する一書を書写したものか。

上げ本(伺い本) 十六夜清心

黙阿弥自筆の台本。執筆担当部分の検閲用「上げ本(伺い本)」であり、複数の検閲印が押されている。表紙に「當ル狂言 十六夜清心 第弐番目序幕 稲瀬川百本杭の場 同西河岸白魚舩の場」そして清元連中による「浄瑠璃 梅柳中霜月」と記載される。外題の下に他の題名らしき筆の跡とそれへ上より紙を貼って訂正したらしい様子が見え、当初は別の題も考案され、変更したものか。「十六夜清心」の本名題は『小袖曾我薊色縫』、安政6年(1859)2月、市村座にて初演。

上げ本(伺い本)  蔦紅葉宇都谷峠①

黙阿弥自筆の台本。執筆担当部分の検閲用「上げ本(伺い本)」であり、「黙阿弥蔵書印」のほかに複数の検閲印が押されている。表紙に「當ル狂言 蔦紅葉宇都谷峠 第二番目序満来 鞠子宿藤屋の場 宇都谷峠殺の場」と記載される。『蔦紅葉宇都谷峠』は安政3年(1856)9月、市村座にて初演。「鞠子の宿から文弥殺しが評判」(河竹繁俊『河竹黙阿弥』)だったと伝わる。

上げ本(伺い本) 蔦紅葉宇都谷峠②

黙阿弥自筆の台本。執筆担当部分の検閲用「上げ本(伺い本)」であり、「黙阿弥蔵書印」のほかに複数の検閲印が押されている。表紙に「當ル狂言 蔦紅葉宇都谷峠 第二番目二幕目同返し 柴井町伊丹屋の場 鈴ヶ森仁三殺の場」と記載される。『蔦紅葉宇都谷峠』は安政3年(1856)9月、市村座にて初演。「小團次が文弥と仁三を早変りで勤めて成功した」(河竹繁俊『河竹黙阿弥』)と伝わる。

狂言作者心得書

晩年の黙阿弥が門弟の為に書き記した一書。本資料は河竹繁俊による複製本。「大正十四年七月一日、河竹繁俊誌す」とある「解説」に「門弟の請によつて書いたもの」「多分明治二十年以後七十三四歳頃のもの」「原本である自筆本は、高弟の一人故竹柴其水が秘蔵」し、「一昨年の震火を免れた」と経緯が説かれる。脚本作法を教示したものではなく、「江戸末期から明治へかけての江戸狂言作者の勤めぶりや生活ぶりを大凡知ること」(「解説」)ができるというとおり、立作者から、二枚目作者、三枚目作者、狂言方(四・五枚目作者)、見習いに至るまでの作者としての業を細部にわたって伝える内容である。

少年文武(第一年 第一冊)

黙阿弥が張弛館発行の少年向け雑誌『少年文武』「第一年 第一冊」へ寄せた序文。創刊者で編集長の中川霞城から、シラーの「ウィリアム・テル」の翻訳を載せるにあたって依頼され「再三辞退」しながらも「是非なく筆を」とったらしい。なお、この序文は「明治十九年霜月下旬」に書かれたが、『少年文武』の創刊は明治23年(1890)1月である。元々は子ども向けに翻訳したものではなかった「ウィリアム・テル」を、霞城が躊躇しつつも演劇改良会との関係から、しばらく時間を置いたのち、文武両道の教育路線と文学・武芸・理科・美術を四柱とする雑誌の理念に理由づけて掲載に踏み切った経緯がある。

写真 黙阿弥

「明治十一年、六十三歳」と紙片が付されている。新富座開場式(明治11年(1878)6月7日・8日)の際の記念写真である。開場式で黙阿弥は燕尾服を着用した。開場式では陸軍軍楽隊による洋楽演奏が行われ、関係者は黙阿弥も新富座座主の十二代目守田勘彌も参列の役者たちも女方以外は全員が洋装だったという。黙阿弥も生涯でただ一度の洋装の機会だと伝わる。

ガラス乾板/写真「㐂」

明治25年(1892)2月、喜寿を迎えた黙阿弥の自筆。誕生日の2月3日に祝い事をして、二度目の真の引退をする披露目の配り物をし、人の求めに応じて「火の用心」(自火を出さないお守りになるという)や「㐂(喜)」字を書いたという。国立劇場には軸装の自筆による書も所蔵がある。本資料を収める封筒の表書きに、河竹登志夫氏のものらしいペン書きで「掛軸写真・ガラスタネ板」とある。写真版の増刷に用いられたのだろうか。

写真 狂言塚

黙阿弥没後に長女の糸が父に対する追善・手向けとして、黙阿弥が亡くなった翌年の明治27年(1894)11月に建立した碑。場所は向島百花園内であり、黙阿弥が初代河竹新七の追善に、その作品である『隅田川続俤』の大切所作事にちなんで明治13年(1880)に「荵塚」を建てた場所に並べ、「きやうげん塚」と名づけられた。

写真 黙阿弥の墓

現・東京都中野区の源通寺にある黙阿弥の墓所。真宗大谷派の源通寺は吉村家代々の菩提所だった浅草北清島町にあったが、明治41年(1908)に東中野昭和通へ移転した。写真は中野区移転後のものらしい。向かって右片に初代河竹新七の墓が建ち、左隣に愛猫・太郎の塚もある。

軸装 書状

黙阿弥自筆手紙の軸装。封筒には「新橋出雲町仮名読新聞社 仮名垣先生机下」「三月四日夜出ス」とある。明治11年(1878) 3月、仮名垣魯文から新聞掲載を目的に伝記の作成依頼を受け、黙阿弥はそれに応じて「文化十三年丙子年」の出生に始まり、鶴屋孫太郎の門に入って劇界の人となって以後「三十五年」の履歴を「ありのまゝ」(朱書部分)に綴ったもの。

額装 貼り交ぜ①

右は、明治15年(1882)5月、春木座の二番目『三題噺魚屋茶碗』の大切へ清元による浄瑠璃として「妹背鳥来世道連」を書いたものか。絵本役割で確認すると実際の上演では竹本による浄瑠璃が門弟の竹柴進三らによって制作されている。中央には明治20年(1887)に進三へ宛てて書かれた書簡があり、進三からの江の島土産の御礼に黙阿弥の次女・島女が描いた団扇を届けさせた件等が記される。左は、朱筆によれば明治14年(1881)3月、新富座の上演看板下絵。

額装 貼り交ぜ②

右上部には明治25年(1892)2月、喜寿引退記念(77歳)時の黙阿弥の写真、左上部には作者連名に「斯波晋輔」の名が見える「天保十四卯顔見世霜月五日」初日の河原崎座番付が貼られる。この上演時に黙阿弥は二代目河竹新七に改名した。下部半分には黙阿弥自筆による『五十三駅扇宿附』(明治20年(1887)7月、中村座)の絵看板下絵が貼られる。

額装 書状

明治22年(1889)「十一月八日」の日付がある「吉村新七」こと黙阿弥自筆の手紙。宛名の「磐井様」は、版権関係で世話になる「坂地」(大阪)の人だったらしい。「有馬は如燕氏の講談を聞き、脚色のものなり」と『有松染相撲浴衣』(明治13年(1880)5月、猿若座初演)の由来を述べており、「何にいたせ類似の狂言」と当該作品に関してなんらかの問題が生じた件で交わした書簡か。

写真 黙阿弥

明治25年(1892)、77歳の喜寿を迎えた黙阿弥の立ち姿。浅草の鶴淵写真館において撮影されたもの。その体格は、身長5.6尺(168㎝)、体重16貫(60㎏)だったという。

写真 黙阿弥

明治8年(1875)、60歳の黙阿弥の姿。ちょんまげを結っており、この後断髪するにあたって撮影したと伝わる。

写真 黙阿弥

「十九年四月 撮影 七十一年 吉村其水」と裏書にあり、明治19年(1886)、黙阿弥71歳の姿とみられる。「Photographer」中嶋精一の肖像入りで待乳園写真館製とわかる。

写真 黙阿弥

最晩年の黙阿弥の姿。写真の裏に「大日本東京/浅草吾妻橋際写真師/待乳園/中嶋精一」と写真館の広告、そして筆書きで「父七十八才没」、万年筆の文字で「故古河黙阿弥翁」とある。喜寿の際に撮影したうちの一枚か。

写真 久保田彦作

「明治十一年五月撮影 久保田彦作 三十二年一ヶ月」と裏書にある。久保田彦作は黙阿弥の門下で竹柴彦作を名乗った歌舞伎作者。この写真と同年には錦栄堂より戯作『鳥追阿松海上新話』を出版している。

写真 竹柴其水

「明治十四年六月撮影 竹柴進三 卅三年九ヶ月」と裏書にある。黙阿弥門下の竹柴其水の写真。三代目桜田治助の門弟・熨斗進三が明治6年(1873)に黙阿弥の門下へ移籍して竹柴進三と名乗った。明治17年(1884)に立作者となり、明治20年(1887)に黙阿弥の俳名の其水を譲られた。代表作に『神明恵和合取組』(明治23年(1890))など。

写真 竹柴其水

「明治十九年七月撮影 竹柴進三 卅九年一ヶ月」と裏書にある。黙阿弥門下の竹柴其水の写真。三代目桜田治助の門弟・熨斗進三が明治6年(1873)に黙阿弥の門下へ移籍して竹柴進三と名乗った。明治17年(1884)に立作者となり、明治20年(1887)に黙阿弥の俳名の其水を譲られた。代表作に『神明恵和合取組』(明治23年(1890))など。

写真 四代目並木五瓶

狂言作者・並木善次郎、のちの四代目並木五瓶の写真。浅草の松本写真館で撮影されたらしい。「明治三十弐年六月撮影/並木善次郎 七十四年」と裏書にあり、さらに没年が「明治三十四年八月一日」であること、戒名が「光誉善柳信士」であることも記載される。「柳」字は並木五瓶を名乗る以前に「並木五柳」と名乗ったことによるか。

写真 糸女

黙阿弥の長女・糸の50歳時の写真。糸女は生涯独身を貫き、「作者の家」を継いだ。途中までは脚本制作を学んでいた糸女だったが、44歳のときに父の黙阿弥が没してからは、父の著作権を守ることを生甲斐とした。