/
役者絵に見る江戸の名優2
文化・文政から天保期にかけての役者絵
役者絵は、歌舞伎役者の舞台姿などを描いた浮世絵版画の総称で、特に人気役者をモデルとしたものは熱狂的なファンに歓迎されて大量に制作・販売され、作者としては、勝川春草をはじめとする勝川派の絵師や東洲斎写楽 、歌川豊国 、歌川国政、歌川国貞などのなどが知られている。なかでも人物の上半身を大きく、その表情を強調して描いた「大首絵(おおくびえ)」は、贔屓の役者を間近に見たいというファンの渇望にこたえたポートレートであり、役者が舞台で見得をきった瞬間をとらえた多くの作品が残されている。ここでは役者絵のうち文化・文政期から天保期にかけての名優を、大首絵の名品をまじえながら紹介する。
関連するひと・もの・こと
文化・文政から天保
5代目幸四郎は、4代目の子。立役から実悪に進み、享和元年(1801)市川高麗蔵から5代目を襲名。高い鼻が特徴で、「鼻高幸四郎」とよばれて人気の高かった。文化・文政期(1804~1830)を代表する名優。掲載の絵は、「役者舞台之姿絵 かうらいや」。寛政7年(1795)。高麗蔵時代のもの。
「阿波の十郎兵衛 松本幸四郎」。 享和2年(1802)。高麗蔵時代の作品。
「廻国修行者大当実は将軍太郎良門 」。文化12年(1815)。
「三代目市川高麗蔵の志賀大七」。寛政6年(1794)。重要文化財。市川高麗蔵時代の幸四郎。懐手のまま刀の柄頭に手をかける、面長な顔立ちの侍。隈取を施した両目は寄り、口元はきりりと結ばれる。悪に徹する実悪と呼ばれる役どころを見事に演じている。
「三代目市川高麗蔵の志賀大七」。寛政6年(1794)。重要美術品。写楽と同じ素材を扱った作品。
「役者舞台之姿絵 高らいや」。寛政7年(1795)。
「夏の富士美人合」。享和元年(1801)。
「斧定九郎 松本幸四郎」。文化3年(1806)。
5代目半四郎は4代目の子。受け口に特徴があり、愛敬のある目元は「眼千両 (めせんりょう) 」とたたえられた。晩年は俳名の杜若 (とじゃく) を芸名とした。掲載の絵は、「岩井半四郎の祇園の梶」。文化9年(1812)。
「岩井半四郎のあげまき」。文化8年(1811)。
「岩井半四郎の七あや」。 文政8年(1825)。
「当世押絵羽子板」から、「当り狂言ノ内 おしゆん 岩井半四郎」。文政5年(1822)。
6代目半四郎は5代目の長男。文化元年(1804)11月粂三郎(くめさぶろう)で初舞台。粂三(くめさ)の愛称で人気役者となり、天保3年(1832)11月中村座で6代目を襲名。父半四郎と紫若(しじゃく)半四郎と呼ばれた弟の7代目とともに江戸三座の立女方として君臨した。掲載の絵は、「おかる 岩井粂三郎」。
「さだか 岩井半四郎」「ひなどり 岩井紫若」。文政7年(1824)。江戸市村座の『妹背山婦女庭訓 』で5代目半四郎と7代目半四郎の親子が共演した際のもの。右が雛鳥役の紫若(後の7代目半四郎)。5代目と共通の受け口で描かれるが、目千両と言われた5代目とは目の形が異なる。
文化・文政期(1804~1830)の代表的名優。和事・実事どちらにもすぐれ、所作事の名人。数々の変化舞踊(へんげぶよう)を演じて人気があった。深川の永木河岸 (えいきがし) に別宅があったので「永木の三津五郎」とも。掲載の絵は、「坂東三津五郎の西国順礼実は渡辺源次綱」。文化12年(1815)。
「坂東三津五郎の角力白ふじ源太」。文化7年(1810)。
「十二ヶ月之内 文月 坂東三津五郎」。文化10年(1810))3月、江戸中村座で三津五郎が初演した歌舞伎舞踊「四季詠寄三大字(しきのながめよせてみつだい)」の「七月 田舎ごぜ」。一年を十二通りに踊り分ける十二変化物の一。
「亀屋忠兵衛 坂東三津五郎」。文化10年(1813)。
「当世押絵羽子板」から、「坂東三津五郎 当リ狂言ノ内 早勘平」。
文化・文政年間(1804~1830)を代表する名優。上方の俳優であるが、前後3回江戸に下り、3代目坂東三津五郎と競演して人気を二分した。立役、実悪、女方、所作事、いずれにも優れた。掲載の絵は、「佐藤忠のぶ 中村歌右エ門 文化五年辰 五月狂言」。文化9年(1812)。画題には「文化五年」とあるが、これは芝居の上演の年を書いたもので、この絵の刊行は文化9年と考証されている。
「猿廻し与次郎 中村歌右エ門 文化五歳辰五月 二番目狂言」」。文化9年(1812)。画題には「文化五歳」とあるが、これは芝居の上演の年を書いたもので、この絵の刊行は文化9年と考証されている。
「玉や新兵衛 中村歌右衛門」 。文化5年(1808)。
「三代目中村歌右衛門の石川五右衛門」。文化14年(1817)。芦尚は大坂の浮世絵師。生没年等不詳。
「松王丸 中村歌右衛門」。文化10年(1813)。戯画堂芦幸(ぎがどうあしゆき)は、江戸時代後期の大坂の浮世絵師。役者絵で知られた。
4代目沢村宗十郎は、3世の長男。前名沢村源之助。初代尾上栄三郎(後の3代目菊五郎)・7代目市川団十郎と並ぶ若手の三幅対と称され、文化11年(1814)に宗十郎を襲名したが、29歳で病死した。掲載の絵は、「源より光 沢村源之助」。文化5年(1808)。
「帯や長右衛門 沢村源之助」。文化4年(1807)。
3世宗十郎の三男で、享和元年(1801)田之助を継いだ。美貌で、時代・世話・所作事のいずれもすぐれ、文化期(1804—1818)の女方の大立者となったが早世した。掲載の絵は、「役者はんじ物」。文化9年(1812)。
「奴宅門 尾上菊五郎」。文化13年(1816)。
「曽我五郎時宗 尾上菊五郎」 。文政5年(1822)。
菊五郎は怪談狂言を得意とし、『東海道四谷怪談』のお岩はその代表作。お袖の役は若ての女方で人気のあった岩井粂三郎(6代目半四郎)。掲載の絵は、「お岩のぼうこん 尾上菊五郎」。文政8年(1825)。
「勘平」「尾上菊五郎」。天保期。歌川吉宗(1817−1880)は、江戸後期から明治時代にかけての浮世絵師。江戸の人。歌川国芳の弟子。作品は少ないが、彩色にすぐれた。
7代目市川団十郎
7代目団十郎は5代目の孫。あらゆる役をよくして文化・文政期から安政に至るまで活躍した江戸後期の名優。歌舞伎十八番を制定し、「勧進帳」を創演した。天保3年(1832)に長男に8代目を継がせて5代目海老蔵を名乗った。掲載の絵は、「強盗張本袴垂保輔」。文化12年(1815)。
「白井権八 市川団十郎」。文化13年(1816)。
「武蔵坊弁慶」。嘉永5年(1852)。海老蔵襲名後の晩年の弁慶。
「由良之助 市川団十郎」。文化12年(1815)。
「市川団十郎の松王丸」。文政6年(1823)。
「仁木弾正 市川団十郎」。文政10年(1827)。歌川国富(生没年不詳)は文化・文政期から天保期にかけて活躍した浮世絵師。豊国の弟子。
「市川団十郎」。文政期。
「和藤内 市川団十郎」。文化13年(1816)。
「早の勘平 市川団十郎」。文政4年(1821)。
「幡ずい長兵衛 市川団十郎」。文政12年(1829)。
