四世市川団蔵 / 東京国立博物館
役者絵に見る江戸の名優 1
元禄から寛政にかけての名優の役者絵
役者絵は、歌舞伎役者の舞台姿などを描いた浮世絵版画の総称で、特に人気役者をモデルとしたものは熱狂的なファンに歓迎されて大量に制作・販売され、作者としては、勝川春草をはじめとする勝川派の絵師や東洲斎写楽 、歌川豊国 、歌川国政、歌川国貞などのなどが知られている。なかでも人物の上半身を大きく、その表情を強調して描いた「大首絵(おおくびえ)」は、贔屓の役者を間近に見たいというファンの渇望にこたえたポートレートであり、役者が舞台で見得をきった瞬間をとらえた多くの作品が残されている。ここでは役者絵の創成期から寛政頃までの江戸の名優を、大首絵の名品を交えながら紹介する。
関連するひと・もの・こと
元禄~明和・安永・天明
初代団十郎は、今日まで市川家に伝承される荒事の創始者とされ、元禄期(1688~1704)の江戸歌舞伎界を代表する名優。怨恨のため、生島半六(いくしまはんろく)に舞台上で刺殺された。掲載の絵は、「市川団十郎の竹抜き五郎」。元禄10年(1697)。重要文化財。
「初代市川団十郎荒事図」。刊年不詳。
2代目団十郎は初代の長男。江戸劇壇における市川家の確固たる地位を築いた。『助六』に和事 の味を加え、今日みるスタイルの原型を創造した。享保20年(1735)海老蔵と改めた。掲載の絵は、「市川海老蔵の助六」。刊年不詳。
まるで邪鬼を掴む鬼のように、片手で鴉天狗を持ち上げる猛々しい武将。演者は2世市川団十郎と推定される。本図は無款ながら、役者絵の元祖鳥居清信による享保5年(1720)前後の作と推定される。
市川門之助は2代目市川団十郎の門人。はじめ市川弁次郎と称し、享保4年(1719)年頃に門之助と改名、若衆方として鳴らした。掲載の絵は「市川門之助」 。刊年不詳。
3代目団十郎は2代目の養子。享保20年(1735)、3代目を襲名したが6年後に死去した。掲載の絵は、「助六 市川団十郎」 。刊年不詳。
『美満寿組入』は、烏亭焉馬(うていえんば)編。勝川春好画。寛政9年(1797)刊。本書は、団十郎の贔屓が代々の団十郎を称賛し盛り立てた刊行物で、「市川白猿七部集」の一作。掲載の似顔には4代目団十郎のトレードマークである二重瞼がはっきり書かれている。
「四代目市川団十郎の景清」。明和7年(1870)。
初代仲蔵は、立役・実悪にすぐれた天明期(1778-1789)の名優。『忠臣蔵』五段目の斧定九郎(おのさだくろう)の新演出や劇舞踊の名手として知られた。掲載の絵は、「初代中村仲蔵の石川五右衛門」。天明8年(1788)の作。
「中村仲蔵の斧定九郎(おのさだくろう)」。安永5年(1776)。定九郎は『仮名手本忠臣』5段目の登場人物で、仲蔵の当たり役。勝川春章の「東扇」シリーズの一作。「東扇」は、役者得意の姿を扇面の中に半身像で個性豊かに描いたブロマイドで、切り抜いて扇の地紙として使えるようになっている。
初代中村仲蔵の大日坊。明和3年(1766)頃。
「石橋(七変化の内)」。安永7年(1778)。
寛政期
和事と実事を本領とした名優。4代目市川団十郎の門弟。曽我十郎、藤屋伊左衛門、帯屋長右衛門、工藤祐経などが当り役だった。掲載の絵は、「松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」。寛政6年(1794)。重要文化財。
「四世松本幸四郎」。刊年不詳
「 四代松本幸四郎」。寛政6年(1794)。
4代目の子。明和7年(1770)3代目松本幸四郎から団十郎を襲名。寛政3年(1791)11月、市川鰕蔵(えびぞう)と改名。これまでの団十郎が勤めなかった役柄を広く演じた。寛政8年(1796)引退して成田屋七左衛門と名のった。蜀山人などの文化人との交友も広かった。俳名白猿。掲載の絵は、「市川鰕蔵の暫」 。 寛政3年(1791)。
「市川鰕蔵の竹村定之進」。寛政6年(1794)。同年5月に河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」の一場面。
「東扇・五代目市川団十郎」。5代目世市川団十郎の工藤祐経を描いた、勝川春章「東扇」シリーズの一作。「東扇」は、役者得意の姿を扇面の中に半身像で個性豊かに描いたブロマイド。切り抜いて扇の地紙として使えるようになっている。
「市川鰕蔵の暫(碓井の荒太郎定光)」 。寛政8年 (1796)。
「初代市川白猿の悪七兵衛景清」。成田屋七左衛門と称して隠居していた5代目団十郎が白猿を名乗って舞台に上ったのは、寛政10年(1798)11月の中村座の顔見世興行で、それ以後の作。本作は得意の景清役を描く。
天明6年(1786)刊の山東京伝作・北尾政演画の黄表紙『悪七変目景清』。主人公の悪七兵衛景清が5代目団十郎の似顔で描かれる。北尾政演は山東京伝の画名。高く大きな鼻、への字に結んだ口など、景清役者だった5代目団十郎の特徴を的確にとらえている。
江戸と大坂を往来して活躍した寛政期(1789-1801)の名優。立回りやとんぼ返り、早替りといった演出を見せ、「目黒の団蔵」といわれた。掲載の絵は、「四世市川団蔵」。刊年不詳。重要文化財。
2代目沢村宗十郎の長男。前名沢村金平、沢村四郎五郎、瀬川雄次郎、市川八百蔵(3代)。女方から立役に転じ、和実を得意とした。当り役は『忠臣蔵』の判官、勘平、平右衛門、『菅原伝授手習鑑』の桜丸など。掲載の絵は、「三代目市川八百蔵の田辺文蔵」。寛政6年(1794)。重要文化財。
「三代目市川八百蔵 よしつね大首」。寛政7年(1795)。
「四世岩井半四郎の乳人重の井」。寛政6年(1794)。重要文化財。4代目半四郎は江戸根生 (ねおい) の女方で、上方下りの3世瀬川菊之丞に対抗した。
「役者舞台之姿絵 やまとや」。寛政6年(1794)。胸の前で両手を交差させるのは4代目半四郎が好んで見せたしぐさ。
「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしづ」。寛政6年(1794)。重要文化財。
5代目団十郎の養子。寛政3年(1791)、5代目の鰕蔵(えびぞう)襲名にともなって14歳で団十郎をついだが、22歳で早世した。掲載の絵は、「六代市川団十郎」 。寛政8年 (1796)。
「六代目市川団十郎の船頭」。寛政8年(1796)。
「六世市川団十郎の荒川太郎」。寛政6年(1794)。重要美術品。
2代目沢村宗十郎の次男。子役から立役に進んで、明和8年(1771)3代目を襲名。和事を得意とした。掲載の絵は、「三代目沢村宗十郎の大星由良之助」。寛政8年(1796)。『忠臣蔵』四段目、城明け渡しの場面での大星由良之助。宗十郎の大星由良之助は古今無比と絶賛された。
「三代目沢村宗十郎の五大力さつま源五兵衛」。
「三世沢村宗十郎の大岸蔵人」。寛政6年(1794)。重要文化財。
2代目三津五郎は、初名、尾上藤蔵。尾上門三郎・尾上紋三郎をへて、天明5年(1785)三津五郎を襲名。後に荻野伊三郎(2代目)を名乗った。和実ともによくしたと伝える。掲載の絵は、「二代目坂東三津五郎の石井源蔵」。寛政6年(1794)。重要文化財。
寛政8年(1796)の作。
「荻野伊三郎の進藤内蔵之助」。享和2年(1802)。
「二代中村仲蔵の百姓つち蔵 実は惟高親王」。寛政6年(1794)。
「二世中村仲蔵の松王丸」。寛政8年(1796)。
2代目中村のしほ(野塩)は、初代中村富十郎の養子。安永8年(1779)2代目のしほを襲名。寛政6年(1784)に江戸へ下って活躍するが、寛政12年(1800)42歳で死去。掲載の絵は、「二代目中村野塩の桜丸」。寛政8年(1796)。
中山富三郎は、大坂で活躍の後、江戸へ下り、寛政2年(1790)立女方となる。傾城と世話女房役を得意とし、その芸風が柔らかなところから「ぐにゃ富」と呼ばれた。掲載の絵は、「初代中山富三郎の宮城野」。寛政6年(1794)。重要文化財。
瀬川富三郎は、3代目瀬川菊之丞の門弟。娘役、傾城役を得意とした。同時代の人気役者の初代中村富三郎の「ぐにゃ富」に対して、「いや富」「にく富」と仇名された。掲載の絵は、「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木」。寛政6年(1794)。
