紅葉
紅葉がきれいな季節なので、紅葉にちなんだものを集めてみました。
絵画
浮世絵
装身具
着物
<p> 小袖とは、袖口の開きが狭いという意味から来る名称で、今の着物の原型です。淡い紅色に染められた地に藍色を効かせた幔幕(まんまく)と紅葉(もみじ)がデザインされています。幔幕とは、布を縫い合わせて周囲に張りめぐらせた長い幕のことです。紅葉に幔幕がかかる景色は、平安時代の長編小説『源氏物語』の「紅葉賀(もみじのが)」の場面を思い起こさせます。物語を着物の模様にするのは日本的な表現です。幔幕には、おめでたい模様である円を連ねた七宝(しっぽう)つなぎや、うろこのような波の模様である青海波(せいがいは)など、古くから宮廷で用いられてきた有職(ゆうそく)模様が表されています。幔幕に細かく描かれた模様や紅葉の葉には、友禅染(ゆうぜんぞめ)という染め技法が使われています。友禅染は模様の輪郭を細い糊の線で描き、その糊の線から外にはみ出さないよう、筆で模様に色を挿すことによって、絵画的な模様を染める技法です。花びらに色のぼかしを加えて色彩豊かに表現しています。絵羽(えば)模様と呼ばれる、着物前面から背面へと連なる模様になっており、着ることだけでなく飾ることも意識してデザインされたのでしょう。<br /> この小袖は裕福な町人が着ていたものと思われます。袖の模様が途中で切れているため、もとは未婚女性が着る袖の長い振袖を、結婚後にカットしたのでしょう。</p><br /><p>幔幕に紅葉を表わした模様は『源氏物語』の「紅葉賀」をモティーフに、江戸時代中期以降、人気の高かった模様の1つです。幔幕に細かく描かれた模様や紅葉の葉には、1つ1つ丁寧に友禅染特有の色挿しや暈しがなされています。色絵磁器にも似た模様の様式が見られます。<br />ルビ:もみじのが ぼか<br /></p>
<p>華やかな色彩で模様を型染にした琉球の伝統的な染物です。滝にも波にも見える流水形の模様に松梅といった吉祥模様のほか、日本から入ってきた紅葉模様などをデザインしています。袖口を広く開けた涼しげな麻の着物の単仕立@ひとえじたて@は琉球で「タナシ」と呼ばれました。<br /></p>
<p> 小袖とは、袖口の開きが狭いという意味から来る名称で、今の着物の原型です。可愛らしい色合いと華やかな模様から、もとは若い娘が着ていたものかと想像されますが、袖の模様の配置を見ると、振袖を切ったのではなく、はじめから袖の短い留袖として作られたようです。若い奥さまが着ていたものでしょう。<br /> 踊るようにゆれる花かごからは、桜と紅葉があふれ出ています。春にも秋にも着られる、欲ばりなデザインですね。<br /> 花かごの部分は、友禅染(ゆうぜんぞめ)という、日本独特の染め技法で描かれています。絵画的に自由に模様を配置できるのが友禅染の特徴です。白く細い輪郭線に注目してください。この部分に糊を置いておくと、そこの生地には色が染み込みません。筆で模様に色を挿すときには、この糊の線から外にはみ出さないようにしていくわけです。大変細かい技術であることが分かります。紐の部分のつややかな紅色、金色などは、刺繍であらわされています。</p><br /><p>友禅染とは、貞享年間(1684~88)頃、京都の扇絵師・宮崎友禅が描く扇絵を応用した小袖模様のことで、その技法は日本独特のものです。繊細な糸目糊置で染め抜いた白い輪郭線を表し、彩色と暈しで、花籠が揺れて花と紅葉がこぼれ落ちる絵画的な模様を表しています。<br />ルビ:いとめのりおき ぼか<br /></p>
<p>小袖とは、袖口の開きが狭い着物の呼び名です。この小袖は、ひと目みて、斜めに大きく区切られた大胆なデザインが、斬新な印象を与えます。このように、小袖全体を絞り染めで大きく区切り、染め分けた上に細かい刺繍で模様をあらわしたものを「慶長小袖」と呼びます。黒地の部分は細かい模様が刺繍されています。近づいてじっくりとごらんください。離れて見る大胆な印象とはまた違う、繊細でかわいらしい雰囲気が感じられます。吉祥模様であり新春のモチーフでもある若松、春を思わせる赤と白の小花模様、和歌に詠まれ、花札にもデザインされている「紅葉に鹿」など、さまざまな季節が同居していることも特徴です。いつの季節にも着られる晴れ着だったのでしょう。このような四季の表現、そして和歌を題材にした文学的要素があることも、日本ならではのデザインといえるでしょう。離れて見ても近づいて見ても、異なる楽しみ方のできる作品です。</p><br /><p>地を埋めつくすように模様を表わす「地無小袖」です。鋭角の三角を並べた雁木模様が斬新なデザインです。黒地に紅白の花あるいは紅葉に鹿模様の刺繡、黒地鹿の子絞り、藍地鹿の子絞りに染分けています。紅葉に鹿の模様は和歌の歌枕である「三笠山」をイメージしています。<br />ルビ:じなし ししゅう うたまくら<br /></p>
<p> 小袖とは、袖口の開きが狭いという意味から来る名称で、今の着物の原型です。白くつやのある絹地に、紅葉と、頭にかぶる笠が散らされたデザインです。<br /> 笠に紅葉の組み合わせは、当時のデザインブックにも載っていた人気の模様で、古今和歌集・秋の「雨降れば笠取山(かさとりやま)のもみじばは行きかふ人の袖さへぞ照る」が題材となっています。「笠取山」を笠であらわすというようなひねりを効かせたデザインは、当時流行のものでした。<br /> 笠や紅葉には、刺繍と、型を使って絞りのような模様を摺り表す摺匹田(すりびった)と呼ばれる技法が使われています。まるで本当に絞り染がされているかのように、表面の凹凸まで再現されています。絞り染がぜいたくだという理由で幕府からおとがめがあったことから、型染による摺匹田が行われるようになりました。<br /> 和歌をモチーフとした文芸的要素や、小袖全体に華やかに配される模様は、ともにみやびやかな王朝趣味が好まれていた江戸時代中期・元禄期の小袖の特徴といえます。</p><br /><p>「雨降れば 笠取山のもみじばは 行きかふ人の 袖さへぞ照る」(『古今和歌集』秋)を題材としたのでしょう。貞享~元禄期に刊行された雛形本に同様の模様がみられます。王朝文化をイメージした模様を型紙による摺疋田と刺繡であらわした衣装は、元禄期の流行様式です。<br />ルビ:すりびった ししゅう<br /></p>
吉田家よりご寄贈いただいた着物は全部で九点である。これらの着物は全て、和裁を教えていた包春の妻愛子が仕立て、包春が正倉院文様を描いたものである。「羽二重緑地桔梗文裾模様 正倉院山水絵図密陀絵盆文様(No.48)」は、「密陀絵盆 山水絵図(No.13)」や「密陀絵盆之図屏風(No.21)」と同様に、包春が好んで用いた図柄である。また、「絽紺地裾暈し単 千鳥・撫子・女郎花文(No.45)」には、包春手書きの和歌が鏤められている。
印籠
<p>印籠は、薬を入れて腰に提げる小さな容器。江戸時代中頃以降は実用品というより、アクセサリーとして用いられることが多かった。<br />根付は、印籠や煙草入・巾着などを腰に下げるためのホルダー。印籠・根付はつける人の趣味を表わす格好の装身具であり、形や意匠にさまざまな趣向が凝らされている。<br />(2004/09/01_h101 or 2006/08/29_h101)<br /></p>
昔形4段の印籠で、黒蝋色塗地に研出蒔絵で岩に紅葉を表す。段内部は朱漆塗。底部左下に作銘。徳島藩主所用品には観松斎銘が入れられるため、小大名クラスの注文品とみられる。
江戸形5段の印籠で、金粉溜地に高蒔絵で桜と紅葉の山水を片面ずつ表す。段内部は刑部梨子地。底部に蒔絵銘。梶川や松花斎在銘の作品に同意匠のものがしばしばあり、梶川一門に共通の画題であったとみられる。
常形3段の印籠で、金梨子地に高蒔絵と金貝の極付で紅葉に幔幕を表す。段内部は金梨子地。底部右下に作銘。
食器
皿
<p>轆轤成形により、高台を高めに作り、腰から口縁にかけて曲線を描いて立ち上がり、木盃形とする。見込には、墨弾きの技法と呉須の濃淡により流水文をあらわし、その波間に散り落ちるような紅葉文を、赤色の線描きと、内側を赤・薄赤・黄・緑色の上絵具で塗込めて描く。側面には、呉須で七宝文を三方に描き、高台は櫛高台とする。本作品は5枚揃いで、いずれも均一に文様が施されているため、仲立ち紙を用いて下書きを転写したと考えられる。<br />巧みな文様表現が示す技術力の高さは隆盛期の鍋島焼のものであり、色鍋島あることからも、染付磁器が生産の主流となった徳川吉宗の治世以前と作品と考えられる。5枚揃いで伝世した点も貴重である。</p>
<p>明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会の際の買い上げ作品。「肥前辻製」の銘から、明治8年に深川栄左衛門、手塚亀之助、深海墨之助らと香蘭社を作った辻勝蔵の作と考えられます。詰め込まれたような伝統意匠と華やかな金彩の印象が強烈な大作です。<br />ルビ:ふかがわえいざえもん てづかかめのすけ ふかうみすみのすけ こうらんしゃ つじかつぞう<br /></p>
お盆
廿日市市は広島県の西、瀬戸内海に面しています。世界遺産の厳島神社が鎮座しています。名物・もみじ饅頭は、1906年に宮島の旅館が菓子職人に依頼して作ったことが始まりとされています。もう一つの名物が、宮島近くで獲れるあなごを用いたあなごめしです。明治時代から宮島名物の駅弁としても、親しまれてきました。各店秘伝のタレを使い、味を競っています。木材の集積地でもある廿日市市では、けん玉が初めて作られたと言われています。<br><br>(この動画は、2007年に取材したものです。)
紅葉狩り
<p>平安時代末期の武将・平維茂<たいらのこれもち>は、狩のために入った戸隠山<とがくしやま>で、女性たちに酒宴に誘われます。酒に酔いうたた寝をすると、女性が本性を現し鬼に変じますが、維茂がこれを退治するという伝説。謡曲「紅葉狩」で知られます。本図は、川面に本性を現した鬼女の姿です。<br /></p>
<p>春潮は役者絵をほとんど描かず、鳥居清長風のすらりとした美人画を描いたことで知られます。本図でも、紅葉の名所である海晏寺(現在の東京都品川区)で紅葉狩りを楽しむ男女をワイドな画面で華やかに描いています。背後にも小さな人物たちを描き遠近感を表現しています。</p>
二帖一組の肉筆画帖。
1899(明治32)年、歌舞伎座の「紅葉狩」上演にあわせて、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎の至芸を記録した、現存最古の日本映画。平維茂(たいらのこれもち)が信州戸隠山(とがくしやま)で出会った更科姫(さらしなひめ、その正体は鬼女)を退治する。撮影は、当時のフィルムの感度や照明技術の問題から、実際の舞台ではなく屋外に即製の舞台を組んで行われた。映画史家の田中純一郎によれば、フィルムを実見した演劇評論家の安藤鶴夫氏は「“ああ、ああ、団十郎が、菊五郎が生きている、動いている、こんな不思議があってよいものか”と[…]映画の功徳を今更のように讃えていた」(田中純一郎『日本映画史発掘』[冬樹社、1980年])という。冒頭のタイトルは後年、日活が加えたものである。日活株式会社から寄贈された35㎜可燃性デュープネガは2009年、映画としては初の重要文化財に指定された。
鮮やかな紅葉の中で3羽のシジュウカラと思われる小禽が戯れている。紅葉した葉はそれぞれ赤の色合いに細心の注意を払い彩色されている。一番左に描かれた小禽の首を上げる姿は自身が第11回文展に出品した《春禽趁晴図》(所蔵先不明)の中にも見ることができる。紅葉の葉や幹に輪郭線はなく、隈取りの技法を上手く使い、見事に表現している。落款・印章から、制作は渡欧から帰国した直後の大正10年(1921)頃から昭和初期にかけてと推測される。麦僊は渡欧を通して、改めて日本美術の奥深さや美しさを再考することができたという。それは本作のような日本画特有のぼかしの効果を駆使したような作品からも窺え、新鮮な気持ちで、日本画の制作を楽しんでいるようにも感じられる。
春草が挑戦した革新的な描法である「朦朧体」は、色面のぼかしを多用するという特質から光の拡散や湿潤な空気といったものを表現するには適していたため、朝夕の情景や水辺の情景が好んで取り上げられた。しかしその一方で、例えば大きな岩の立体感や実在感を表現するには必ずしも適していなかった。彼はその弱点克服のための一つの工夫として、点描風の筆触を用いることを試みるようになった。この作品はその代表的な作例といえるもので、滝壷の波立つ水面の様は朦朧体の特徴であるぼかしを用いて表現し、滝が落ちる大きな岩肌は細かな筆触と墨の濃淡を巧みに重ねて、岩壁の立体感や実在感を表現している。そこに紅葉した樹を入念に描いて、確かな秋の風景を描き出すことに成功している。春草が完成させた絵画表現の一端を示す重要な作例である。
<p>平安時代末期の武将・平維茂<たいらのこれもち>は、狩のために入った戸隠山<とがくしやま>で、女性たちに酒宴に誘われます。酒に酔いうたた寝をすると、女性が本性を現し鬼に変じますが、維茂がこれを退治するという伝説。謡曲「紅葉狩」で知られます。本図は、川面に本性を現した鬼女の姿です。<br /></p>
<p>春潮は役者絵をほとんど描かず、鳥居清長風のすらりとした美人画を描いたことで知られます。本図でも、紅葉の名所である海晏寺(現在の東京都品川区)で紅葉狩りを楽しむ男女をワイドな画面で華やかに描いています。背後にも小さな人物たちを描き遠近感を表現しています。</p>
<p>右幅は雛遊びに熱中する紫の上と源氏の姿を描く第7帖〈紅葉賀【もみじのが】〉。左幅は源氏が造営した六条院で、秋の対に住む秋好中宮【あきこのむちゅうぐう】が、庭先の色とりどりの紅葉を女童【めのわらわ】に持たせ、春の対に住む紫の上に贈る場面を描く第21帖〈乙女(少女)〉。住吉家と板谷家の共作。<br /></p>
<p>帷子は、元々は裏地のない単仕立の総称。江戸時代には単仕立の麻製の小袖の名称となった。型で鹿の子模様を表した摺匹田や、絹の刺繍などの技法は江戸時代前期から中期を思わせる。流水に紅葉を組み合わせた模様は紅葉の名所、龍田川を表している。<br /></p><br /><p>帷子とは、麻でできた夏のきものです。裏のない単(ひとえ)仕立てになっています。麻といっても、ごわごわしたものではなく、上質な細い糸で織られたさらっとした肌ざわりで、蒸し暑い日本の夏にはさぞ着心地よいものだったでしょう。<br />黒い地に、鮮やかな色合いで紅葉の模様が散らされています。絹糸で刺繍された紅葉のほかに、細かい粒々の模様の紅葉もあります。これは、摺匹田(すりびった)と呼ばれる、絞り染めをしたかのような模様を、型を使って摺り表す技法です。<br />紅葉の間に繰り返される白くカーブした線は、流れる水をあらわしています。流れる水、つまり川と紅葉といえば、和歌にも詠まれた竜田川(たつたがわ)が思い浮かびます。奈良県生駒山地を流れる川で、古くから紅葉の名所として知られています。流水の単純化された軽快なデザインと、雅やかな紅葉の対比が特徴的です。<br />袖の模様の切れ方を見ると、もともとは振袖として作られたものと思われます。格調高く文学的なデザインから想像するに、着ていたのは武家のお姫様でしょうか。<br />麻でできた夏のきものに流水と紅葉の模様とは不思議な組み合わせですが、涼しげな流水や、季節を先取りし秋をイメージさせる紅葉のモチーフで、エアコンのない時代に、目から涼しさを誘う工夫でもあったのでしょう。<br /></p>
<p>幼児用の帷子で、刺(し)繍(しゅう)と摺(すり)匹(びっ)田(た)(型紙で鹿の子絞りの模様を摺り染めにした模様)による加飾を施しています。紅葉と鳥兜との組み合わせから『源氏物語』「紅葉賀」をモティーフとした模様でしょう。様式的なデザインから江戸時代後期に武家の娘が着用したと考えられます。<br /></p>
双幅の右側に雉が飛ぶ桜花爛漫の春の野辺を描き、左側に紅葉舞い散る秋の景観とかなたに雁の群れを望む。木々の幹や岩の描写には、狩野派ならではの力強い筆致が見られ、画面にアクセントを与えている。また中景から遠景にかけては西洋の空気遠近法が取り入れられ、奥深くに広がる空間表現にも成功している。東京美術学校の指導教官として1期生を送り出した雅邦円熟期の作。
<p>明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会の際の買い上げ作品。「肥前辻製」の銘から、明治8年に深川栄左衛門、手塚亀之助、深海墨之助らと香蘭社を作った辻勝蔵の作と考えられます。詰め込まれたような伝統意匠と華やかな金彩の印象が強烈な大作です。<br />ルビ:ふかがわえいざえもん てづかかめのすけ ふかうみすみのすけ こうらんしゃ つじかつぞう<br /></p>
目録1枚・広重肖像1枚・画図119枚。目録に拠ると春の部42枚・夏の部30枚・秋の部26枚・冬の部20枚の計118枚。目録外1枚。以下目録題。(春の部) 001日本ばし・002霞が関・003山下御門内・004永代白魚船・005両国ノ相撲・006初音の馬場・007大伝馬町・008駿河町・009八辻が原・010神田明神・011上野清水・012同山下・013同広小路・014日暮里・015同諏訪・016千駄木団子坂・017飛鳥山・018王子いなり・019同大滝・020川口のわたし・021芝あたご・022ふる川・023千代が崎・024目黒新ふじ・025同元ふじ・026八景坂・027蒲田の梅・028御てん山・029砂むら・030梅屋しき・031吾妻森・032やなきしま・033四ツ木の引舟・034墨水夜景・035水神の杜・036真先の辺・037今戸の煙・038新吉原・039大川ばし・040関口水道端・041市谷八幡・042玉川堤/(夏の部)043日本橋・044おなしく通一丁め・045八つ見のはし・046鎧のわたし・047昌平はし・048水道橋・049王子不動のたき・050十二荘・051糀まち・052赤坂桐はたけ・053増上寺・054外さくら田・055佃住よし・056万年はし・057中洲・058大はしの夕立・059両国川船中・060同大かははた・061首尾の松・062こまかた堂・063あやせ川・064ほり切・065亀戸の藤・066五百羅かむ・067逆井・068深川八まん山開・069三十三けん堂・070中川くち・071とねかは・072はねた/(秋の部)073市中の七夕・074大丸屋・075紺屋町・076京ばし・077鉄炮洲・078つきぢ・079芝明前・080金杉橋・081高なは・082月の岬・083品川洲崎・084目黒爺茶や・085紀伊くに坂・086内藤新宿・087井の頭・088滝の川・089月の松弁天・090猿若街・091向島秋葉・092木母寺・093にい宿・094真間・095鴻の台・096堀江猫実・097小名木川の松・098両国の花火/(冬の部)099浅草寺の雪・100日本堤・101酉の市・102三川しま・103千住大橋・104小梅つゝみ・105御厩川岸・106木場・107十万坪・108芝浦・109さめ洲・110千束の池・111目黒太鼓橋・112藪小路・113とらのもん・114ひく尼はし・115高田の馬場・116姿見のはし・117ゆしま天神・118王子装束榎/(目録外)119赤坂桐畑雨中夕けい
<p>17世紀中頃、京都洛西仁和寺の門前で御室窯を開いた野々村仁清の茶碗。胴を卵形とし、口縁を外に開く珍しい形です。源氏物語の紅葉賀の巻を主役の光源氏を描かない、いわゆる「留守模様」であらわしています。京焼を代表する御室窯らしい王朝趣味を反映しています。ルビ:にんなじ おむろ ののむらにんせい るすもよう<br /></p>
<p> 仁阿弥道八は奥田頴川の門下で、幕末の京焼の名工の一人とされる。「吉野山の桜は雲かとぞ見え、竜田川の紅葉は錦の如し」の意を踏まえ、桜と紅葉を描いた色絵を雲錦手と呼んでいるが、これは道八が得意とした意匠である。</p>
古くから紅葉の名所として親しまれている京都・嵐山。毎年11月には、渡月橋付近で「嵐山もみじ祭」が催されます。もみじの美しさを讃え、感謝する行事で、能楽、舞楽など数々の芸能が、王朝絵巻さながらに繰り広げられます。<br><br>(この動画は、1994年に放送したものです。)
<p>印籠は、薬を入れて腰に提げる小さな容器。江戸時代中頃以降は実用品というより、アクセサリーとして用いられることが多かった。<br />根付は、印籠や煙草入・巾着などを腰に下げるためのホルダー。印籠・根付はつける人の趣味を表わす格好の装身具であり、形や意匠にさまざまな趣向が凝らされている。<br />(2004/09/01_h101 or 2006/08/29_h101)<br /></p>
<p>轆轤成形により、高台を高めに作り、腰から口縁にかけて曲線を描いて立ち上がり、木盃形とする。見込には、墨弾きの技法と呉須の濃淡により流水文をあらわし、その波間に散り落ちるような紅葉文を、赤色の線描きと、内側を赤・薄赤・黄・緑色の上絵具で塗込めて描く。側面には、呉須で七宝文を三方に描き、高台は櫛高台とする。本作品は5枚揃いで、いずれも均一に文様が施されているため、仲立ち紙を用いて下書きを転写したと考えられる。<br />巧みな文様表現が示す技術力の高さは隆盛期の鍋島焼のものであり、色鍋島あることからも、染付磁器が生産の主流となった徳川吉宗の治世以前と作品と考えられる。5枚揃いで伝世した点も貴重である。</p>
徳島県の名峰・剣山(つるぎさん)。標高1995メートル。10月の中旬、山頂から一足早く紅葉が始まります。この時期、山を彩る紅葉を見ようと、一年で一番、登山客が訪れます。<br><br>(この動画は、2019年に放送したものです。)
紅葉の絶景を、モーターパラグライダーの映像で紹介します。日本一紅葉が早い大雪山。パラグライダーは断がい絶壁を超低空で通り抜けます。黒岳を抜けると、視界が一気に開け、銀泉台の紅葉が眼下に広がります。9月下旬、山肌は真っ赤に色づき、息をのむ美しさです。<br><br>(この動画は、2006年に放送したものです。)
岩手県平泉町の毛越寺(もうつうじ)。11月に入ると境内のモミジやカエデの葉が色づき、参拝に訪れた人々の目を楽しませます。紅葉の季節が終わりを迎えると、平泉に長い冬が訪れます。<br><br>(この動画は、2016年に放送したものです。)
山梨県の見延山は、日蓮宗の総本山、久遠寺がある山です。11月に入ると周辺の木々の葉が色づき始め、12月に入っても紅葉を楽しむことができます。<br><br>(この動画は、2018年に放送したものです。)
紅葉の絶景を、モーターパラグライダーの映像で紹介します。びょうぶのようにきらびやかな色どりの最上川随一の景勝地・最上峡。その長さは戸沢村古口から草薙付近まで、およそ16kmにわたります。ヤマモミジ、カエデ、コシアブラ、ブナなどの木々が鮮やかに色づく中、パラグライダーはゆったりと飛行します。<br><br>(この動画は、2006年に放送したものです。)
岐阜県土岐市の曽木公園は、紅葉の名所として知られています。見ごろの時期には、夕方から紅葉のライトアップが行われます。公園内にある池にライトアップされた紅葉が映る「逆さもみじ」は、幻想的な風景を生み出します。<br><br>(この動画は、2018年に放送したものです。)
紅葉の絶景を、モーターパラグライダーの映像で紹介します。パラグライダーは、ブナの黄色とカエデの赤で色づく十和田湖外輪山を越え、湖面に錦を映し出す十和田湖に達します。十和田湖は周囲およそ44kmのカルデラ湖。湖岸までせまった木々も色づいています。<br><br>(この動画は、2006年に放送したものです。)
紅葉の絶景を、モーターパラグライダーの映像で紹介します。パラグライダーは、色鮮やかに染まる本州最北の渓谷・薬研(やげん)渓谷に沿って飛行します。宇曽利湖を抜けると死者の魂が集うといわれる恐山が見えてきます。<br><br>(この動画は、2006年に放送したものです。)
東福寺は、京都最大の禅宗寺院です。広大な境内には東福寺三名橋とよばれる3つの橋があり、そのうち通天橋は、京都を代表する紅葉の名所として知られています。 東福寺は、鎌倉時代に摂政・関白をつとめた九条道家(1193-1252)が、臨済宗(禅宗の一派)の僧、円爾(1202-1280)をむかえて創建した寺です。東福寺という名前は、奈良の東大寺と興福寺から「東」と「福」の二字をとって名づけられました。 何度も火災にみまわれましたが、そのたびに豊臣秀吉(1537-1598)や徳川家康(1542-1616)など、時の権力者によって再建されました。境内には、国宝の三門をはじめとして、日本最大にして最古の坐禅道場である禅堂、日本最古のトイレの東司、蒸し風呂形式の浴室など多くの文化財があります。 また、住職の住居である方丈の東西南北には、作庭家の重森三玲(1896-1975)が手がけた庭園があります。枯山水の南庭、北斗七星を表現した東庭、大市松模様の西庭、小市松模様の北庭からなる4つの庭園で、京都が世界にほこる名庭といわれています。
上野城跡は日本有数の石垣の高さを誇り、地面から天守頂部まで50メートル近い高さの名城である。ここに城が築かれる以前は「平楽寺」という寺院があった。平楽寺は、要塞としても機能していたといわれ、16世紀の戦乱期、有力大名・織田信長の軍勢に攻められた時には、伊賀衆が平楽寺に結集して軍議を行ったと伝わる。敷地の一角には、伊賀流忍者博物館がある。
東福寺は、京都最大の禅宗寺院です。広大な境内には東福寺三名橋とよばれる3つの橋があり、そのうち通天橋は、京都を代表する紅葉の名所として知られています。 東福寺は、鎌倉時代に摂政・関白をつとめた九条道家(1193-1252)が、臨済宗(禅宗の一派)の僧、円爾(1202-1280)をむかえて創建した寺です。東福寺という名前は、奈良の東大寺と興福寺から「東」と「福」の二字をとって名づけられました。 何度も火災にみまわれましたが、そのたびに豊臣秀吉(1537-1598)や徳川家康(1542-1616)など、時の権力者によって再建されました。境内には、国宝の三門をはじめとして、日本最大にして最古の坐禅道場である禅堂、日本最古のトイレの東司、蒸し風呂形式の浴室など多くの文化財があります。 また、住職の住居である方丈の東西南北には、作庭家の重森三玲(1896-1975)が手がけた庭園があります。枯山水の南庭、北斗七星を表現した東庭、大市松模様の西庭、小市松模様の北庭からなる4つの庭園で、京都が世界にほこる名庭といわれています。
甲賀市には、忍者の総合テーマパーク「甲賀の里忍術村」があり、その中に忍者の実像を伝える膨大な史料と建築物を展示する「甲賀忍術博物館」がある。その中の「旧藤林家」は1842年に建てられた古建築で、江戸時代の甲賀の民家の様式をそのまま伝えている。1676年に忍術書「萬川集海」を残した藤林一族の子孫の邸宅で、「からくり屋敷」の呼称で紹介されている。同じく昔の甲賀の民家様式を残す「旧岡田家」は史料展示室として使用されている。
会津三十三観音第31番札所で、寺の創建年は諸説あり、最古で西暦540年とも言われるが、観音堂は1200年頃の建立と伝わる。観音堂は古い和様建築で幾度も修復が行われているが、一部に創建当時の遺構がある。四方向に傾斜する屋根をもつ茅葺きの寄棟造で、会津地方特有の棟飾りがある。観音像は高さ7メートルあまりで、ケヤキの立木に直接彫り込んだ一木造りで、床下にはいまなおケヤキの根が張っていると言われる。立木仏として国内最大級である。境内は桜の名所でも知られる。
白滝山は、「しまなみ海道」で尾道から2番目に渡る因島の標高226メートルの山である。山頂から瀬戸内海のパノラマが楽しめる景勝地だが、大昔は山岳信仰の僧の修行場だったと伝わる。 1569年、因島村上家が本州の三原に向き合う位置に青木城を築いた際、白滝山を要害とし、観音堂を建立した。「五百羅漢像」は実際には大小700体。眺望の良い白滝山山頂に清浄世界を現出させるためにこの地の豪商が刻んだもの。














































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