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花柳章太郎コレクション―陶磁器類―

国立劇場に寄贈された花柳章太郎コレクションのうち、章太郎本人が制作したと伝わる陶磁器類30点を紹介します。

戦前から戦後にかけて活躍した新派の名優・花柳章太郎(はなやぎ・しょうたろう/1894~1965)は、俳優業の傍ら、書画や絵画、陶画、ガラス絵など、さまざまな芸術に傾倒し、膨大な数の作品を制作していました。

これら章太郎の制作した作品群は、平成10年(1998)にご遺族の青山久仁子氏より国立劇場へ寄贈され、同年の『花柳章太郎作品展―舞台に映えた多趣多才―』や令和5年(2023)の『国立劇場所蔵芸能資料展』等において、その一部を公開してまいりました。

このたびは赤井紀美氏(東北大学准教授)に監修と解説の執筆を依頼し、花柳章太郎コレクションをデジタル公開します。今回は章太郎が制作した陶磁器類30点をご紹介します。

各資料リンク先の文化遺産オンラインでは、ジャパンサーチ掲載中の写真を含む全写真をご覧いただけますので、併せてお楽しみいただけましたら幸いです。


伝統芸能情報センター 調査資料課


 

花柳章太郎は戦前から戦後にかけて活躍した、新派を代表する女方です。新派とは、明治時代に生まれ、戦後に至るまで多数の観客を動員した商業演劇で、戦前の日本映画をはじめとして、諸方面に大きな影響を与えました。その時代ごとの新しい文学作品を積極的に演劇化し、それぞれの時代の生き生きとした感覚や風俗を舞台に表現した新派の舞台は、現代演劇として多くの人々の心を慰撫しました。

章太郎は優れた美貌を持ち、陽気で朗らかな性質が反映された舞台姿は明るく、立役(男性の役)や喜劇的な役柄も得意としました。新派の伝統を受け継ぎつつも、幅広い芸風を生かし、新しい作品を次々に世に送り出します。こだわり抜いて選んだ美しい衣裳姿には定評があり、高い美意識に裏打ちされたその舞台は、大正から昭和の演劇界に大きな足跡を残しました。

章太郎の美意識の高さは舞台のみならず、自身の趣味の世界でも生かされています。文筆を得意とし、随筆、句集などを含め13冊の著作を成しました。その他に書画や絵画、陶画、ガラス絵、七宝焼、人形、染織などの多彩な趣味を持ち、多忙な舞台生活の傍らで常に制作を行いました。生前には自作の展覧会もたびたび行われています。章太郎のこうした趣味の世界は、一流の芸術家や文化人達との結びつきのなかで育まれたものでした。

平成10年(1998)、章太郎の長男・花柳喜章の夫人・青山久仁子氏より、章太郎旧蔵の品々が国立劇場に多数寄贈されましたが、そのなかには章太郎が生前に作った多くの作品も含まれています。今回はそれらの貴重な品のなかから、章太郎が絵付や制作をした陶磁器類を中心にご紹介します。陶器の絵付けには絵画の素養が生かされており、また時に書き入れられた俳句は若い頃から章太郎が嗜んできたものです。

新派の名優・花柳章太郎が、創作を通して日々積み重ねてきたその美の世界をご堪能いただければと思います。


赤井紀美(東北大学准教授)

1.花柳章太郎とは

 花柳章太郎は明治27年(1894)、東京日本橋に生まれ、明治41年(1908)に新派の喜多村緑郎の弟子となります。若手女方として頭角を現し、大正9年(1920)には、時の名優・六代目尾上菊五郎の相手役として歌舞伎界入りを打診されるほどでした。

師匠の喜多村緑郎ゆずりの繊細な演技と、喜多村と並んで新派を代表した女方の河合武雄の華やかな芸風を受け継いだ章太郎は、昭和期には旗頭として新派を牽引するようになります。

昭和14年(1939)には新生新派を立ち上げ、川口松太郎らの助力のもと、座頭として次々に新しい作品を生み出します。戦前の代表作には、「春琴抄」(谷崎潤一郎原作)、「風流深川唄」(川口松太郎作)、「鶴八鶴次郎」(川口松太郎作)や、はじめ新派の舞台で上演し、その後溝口健二監督によって映画化され、章太郎が主演を務めた「残菊物語」(村松梢風原作)があります。

 戦後は水谷八重子とともに新派を導き、数々の賞を受賞するとともに、重要無形文化財保持者、文化功労者に認定されました。昭和40年(1965)1月6日に70歳で亡くなりますが、亡くなる2日前まで、舞台に立ち続けました。最後まで華やかな舞台姿で観客を魅了した、名優の名にふさわしい人物といえましょう。

ブロマイド「鵙屋春琴 大阪淀屋橋筋春琴住居」(国立劇場所蔵)


 谷崎潤一郎の代表作である「春琴抄」は、盲目の琴の師匠・春琴と、彼女に仕える佐助の異常な献身と愛を描いた作で、花柳章太郎はこの作が発表されるやいなや劇化を望み、久保田万太郎が脚色を行った。「鵙屋春琴」と題された戯曲は昭和10年(1935)に上演されたが、同じ年に章太郎の盟友である川口松太郎が、師である久保田万太郎と競演する形で同じく「春琴抄」を舞台化しており、章太郎はどちらの舞台にも春琴役で出演した。凝り性の章太郎は春琴の衣裳にも各種工夫を凝らしており、戦前に彼が手掛けた話題作のひとつ。

花瓶

高さ約20センチほどの花瓶の胴に、写真に見える「二代目の お蔦の襟や 冴えかへる」をはじめとして、5つの句が書き入れられている。花柳章太郎の自筆で書かれており、愛嬌のある独特の文字が印象的である。 お蔦とは、「湯島の境内」の場面で有名な「婦系図」(泉鏡花原作)の登場人物で、明治41年(1908)の初演以来、章太郎の師匠である喜多村緑郎が得意役としていた。昭和8年(1933)、章太郎は師の後を継いで初めてお蔦を演じる。喜多村の静かな、芯の強いお蔦とは異なり、章太郎のお蔦は気風の良い、冴えわたるような姿を見せたが、この句はその舞台姿を彷彿とさせる。 他に、「大雪や 女の傘の もち重み」「白糸の 名の涼しさに 吹きわけん」「風鈴や 雨となりたる 風の合え」「琴の音の それにも梅の 匂ひあり」などの句が書かれており、「滝の白糸」の白糸や「明治一代女」のお梅など、すべて章太郎が演じた役に関連して詠まれた句である。 昭和39年(1964) には代表作の「花柳十種」が選定されるなど、長きにわたり舞台で活躍した章太郎は数多くの持ち役があるが、この花瓶の句は戦前の当たり役が中心となっている。

2.陶匠との結びつき―抹茶碗―

ここでは、花柳章太郎の陶磁器類のうち、抹茶碗をご紹介します。章太郎の趣味の世界は、著名な美術家との交流によって支えられていました。章太郎が陶磁器類への絵付けを本格的に手掛けるようになるのは戦後からですが、「陶器は永楽、楽焼は吉左衛門」(「夏休み」『役者馬鹿』三月書房、1964年)と晩年の随筆で述べているように、千家の茶道具を整える千家十職の一つである十六代目永楽善五郎に陶器を、楽焼は同じく千家十職の十四代目楽吉左衛門のもとで制作することが多かったようです。永楽善五郎とは、京都の粋人が集う「さんぞく会」というサークルで戦前から親しくしており、一流の陶匠との交流が章太郎の趣味の幅を広げました。また、瀬戸を代表する陶芸家・鈴木青々のもとで制作した作品も残されています。

 京都での陶磁器などの制作に際し章太郎の拠点となったのが、金閣寺に隣接する鷹峯のふもとにある松山政雄邸です。松山は着物メーカー「しょうざん」の創設者で、戦後ウールの着物をいち早く手掛けて成功しました。松山の広大な屋敷には、「花柳部屋」とよばれる章太郎専用の個室が誂えられており、章太郎は休みのたびにここを訪れ、趣味の制作に没頭しました。

抹茶碗

「秋雨や しまひ忘れし 伊豫すだれ 章太郎」の句が書かれた抹茶碗。花柳章太郎の自筆による。章太郎は若い頃から俳句を嗜んでおり、陶器に俳句を書き入れることも多かった。句集も複数出版している。大正期には二長町の市村座を中心に句楽会という歌舞伎役者や知識人、実業家などが集う文化的サークルがあり、章太郎は師匠の喜多村緑郎とともに参加していた。この縁で新進の劇作家である長田秀雄や、六代目尾上菊五郎と知り合った。 章太郎は「章魚」(蛸(たこ)の意)という俳名を用いたが、陶磁器類に俳句を書き入れる際は、俳名ではなく名前を入れることが多い。俳名の由来は章太郎につけられたニックネームで、若い頃、役者の青木千八郎と大阪の住吉大社を訪れた際、茶屋の軒先に綿細工のタコがぶら下がっていたが、これを見た青木が花柳によく似ていると言い出し、以来「タコ」とあだ名されるようになったという。

抹茶碗

「花落華開」と書かれた抹茶碗。「花落花開」は漢文や漢詩でよく用いられる表現であり、花が落ちまた開く、その自然の理をあらわしている。箱書はないが茶碗の底に「青青」の陶印があり、愛知県瀬戸市の鈴木青々のもとで制作されたと推測できる。

抹茶碗

抹茶碗の高台(焼物の器体を支える台)の周囲に葉を連ねた形の意匠があり、高台内には星型の陽刻が施されている。箱書に「楽 吉左衛門 焼」とあり、十四代目楽吉左衛門のもとで制作したもの。

抹茶碗

黒色の釉薬を用いて焼いた楽焼の茶碗。

抹茶碗

抹茶碗に花柳章太郎の自筆で「大阪は 打水多き 桔梗かな 章太郎」の句と蟹の絵が描かれる。章太郎は若い頃から巡業で大阪をよく訪れており、在阪時の経験を記した随筆も多い。 日本橋に生まれ、晩年まで東京の下町に居を構えていた章太郎だが、関東大震災によって東京の劇界が壊滅状態になった際は大阪に居を移している。そこで南地の芸者・里寿に出会い結婚。この器に書かれた句は章太郎と大阪のつながりを偲ばせる。

抹茶碗

貝や魚、蟹を花柳章太郎が描いた抹茶碗。箱書に「雅英作」とあることから、初代松山雅英の作と推測できるが詳細は不明。

抹茶碗

松が描かれた抹茶碗。

抹茶碗

胴に花の文字が書かれた抹茶碗。箱書はないが茶碗の底に「青青」の陶印があり、愛知県瀬戸市の鈴木青々のもとで制作されたと推測できる。

抹茶碗

黒色の釉薬を用いて焼いた楽焼の茶碗。「庄内窯」で作られたとの記録があるが詳細は不明。

3.初の外遊とその風景

戦後、花柳章太郎は64歳にして初めて海外を訪れます。昭和33年(1958)10月から12月まで、妻の勝子とともにハワイ、アメリカ、フランス、スイス、ベルギー、イタリアなどを回りました。現在よりも海外旅行に対する敷居が高かった当時、章太郎は多くの人々のサポートのもと、有意義な時間を過ごしました。

章太郎はこの旅行の際、記録用にと8ミリフィルムのカメラを持参しますが、旅の途中で故障してしまったため、風景写生を行うようになります。

 

一つ気に入った画題は二度三度と角度を変えたり、遠近をちがえたりして風景、草花、樹木など描く楽しみがある。その後、旅行先の景色をガラス絵や、七宝にしたとき、そんなスケッチが参考にもなった。

花柳章太郎「私の履歴書」(『私の履歴書』第17集、日本経済新聞社、1962年)

 

 旅行先などの風景を写生し、それを七宝絵や水彩画にした章太郎ですが、この外遊の際に見た景色を陶器に絵付したものも複数残されています。同じ構図の水彩画も残されており、初めての外国旅行が章太郎にとって強い印象を残したことがわかります。

洋館が描かれており、ヨーロッパの風景を描いたものと考えられる。昭和33年(1958)の外遊の翌年の「昭和34年立秋」に制作されたとの記録がある。京都の十六代目永楽善五郎作の壷に花柳章太郎が絵付をしたもの。 章太郎がこの旅でもっとも長く滞在したのはパリで、同時期にパリに滞在中だった女優の高峰秀子、松山善三夫妻に観光から食事の手配まで世話をしてもらった。パリでは藤田嗣治をはじめとする多くの芸術家と交流を持ったり、オペラや美術館を訪れたりした。 同時期にパリを訪れた画家の伊東深水親子と花柳夫妻の面倒を一手に引き受けた高峰は、自由闊達にふるまう章太郎と深水を「ゴジラ」と「ラドン」と命名。この時の大変な状況を「ぬいぐるみのラドン」(『おいしい人間』潮出版、1992年)というエッセイに書き残しており、無邪気な章太郎の姿を垣間見ることができる。高峰の当時の日記(『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』新潮社、2013年)には、章太郎がルーブル美術館で熱心にスケッチをしていたことや、どこに赴き何を食べたのかなどが細かく記されており、充実した旅の様子がうかがえる。

「ブルージュにて」と書き添えられており、昭和33年(1958)の海外旅行の際に訪れたベルギーのブルージュの景色を花柳章太郎が描いたもの。屋根の下に複数の車が描かれており、自転車のようなものも見える。中央に電飾のついた棟のようなものが描き込まれており、遊園地などの遊具のようにもみえる。 章太郎の他のスケッチには、メリーゴーラウンドを描いたものもあるが、そちらは一般的な馬や馬車を模した座席が描かれている。日本にはない景色を章太郎が興味深く眺めていたことがわかる。箱書はないが皿の底に「青々」の陶印があり、愛知県瀬戸市の鈴木青々のもとで制作されたと推測できる。

花柳章太郎が絵付をした皿。昭和33年(1958)の海外旅行の際に訪れたイタリアのベネチアの風景を描いたと推測される。イタリアではベネチア、ミラノ、フィレンツェを訪れた。章太郎はかねてイタリア訪問を熱望していたが、観光シーズンを過ぎた冬のベネチアではゴンドラも運行しておらず、寒々とした景色に落胆してしまう。しかし、1泊2日という短い滞在だったこともあり、夜の7時過ぎまで橋の一つ一つを夢中でノートにスケッチしたという。この大皿には夕暮の暗い水面に浮かぶ橋が描かれており、冬のベネチアの寂し気な街並みのなか、鮮やかな緑の服の人物が対比的に描かれる。箱書はないが皿の底に「青々」の陶印があり、愛知県瀬戸市の鈴木青々のもとで制作されたと推測できる。

4.花鳥を描く

大正時代は人形制作に力を入れていた花柳章太郎ですが、昭和に入ると木村荘八に洋画を教わりはじめます。その後、福田平八郎や山口蓬春に日本画の手ほどきを受けるようになり、勉強熱心な章太郎は本格的に絵画に取り組んでいきます。

花や鳥、草木や虫、獣など自然の風景を画題として描くことは伝統的に行われてきましたが、章太郎も花鳥を題材として陶磁器に絵付けをしています。

 他方、自然の風物は演劇の舞台においても重要な要素となります。歌舞伎や新派の舞台では、桜や梅など、季節の植物が文字通り舞台に花を添え、舞台の印象とともに人々に広まることがありました。章太郎が描いた花鳥の絵からは、彼が演じた舞台の姿をも思い浮かべることができるのではないでしょうか。

大鉢

大鉢の内側に「寿」の文字が、外側に「初孫たんじょう 章太郎」の文字が書かれている。箱書には「善五郎 造」とあり、京都の十六代目永楽善五郎作の大鉢に花柳章太郎が絵付をしたもの。松や竹、紅白の梅、鶴や亀などのめでたい絵柄が鉢全体に描かれており、初孫誕生に際し制作されたものと思われる。初孫が生まれた章太郎の喜びを感じる。章太郎には花柳喜章、花柳武始のふたりの息子がおり、いずれも新派の役者として活躍した。喜章は昭和38年(1963)に喜多村緑郎夫妻の仲人で、新派の女優の花江久仁子と結婚。二児をもうけている。

大鉢

大鉢に桔梗が描かれている。箱書に「善五郎 造」とあり、京都の十六代目永楽善五郎の鉢に花柳章太郎が絵付けをしたもの。

大鉢

白地の大鉢に花柳章太郎が梅の絵を描いたもの。梅は画題として用いられることが多いが、章太郎も好んでよく描いた。晩年、長年住み慣れた柳橋から代々木のワシントンハイツ (在日米軍施設)の傍に移り住んだ章太郎だが、庭に植えられた枝垂れの紅梅を気に入っての転居だったという。 また梅は新派にとっても重要なモチーフである。新派の財産ともいえる「婦系図」(泉鏡花原作)の「湯島の境内」の場面には梅の花が登場する。 ドイツ文学者の大学教授酒井俊蔵の弟子の早瀬主税は、柳橋で人気の芸者だったお蔦と密かに所帯を持っているが、酒井が主税の将来を思い、ふたりを別れさせようと主税に詰めよる。主税は湯島天神の境内でお蔦に別れをもちかけるが、お蔦は「切れるの、別れるのってそんなことはね、芸者の時にいうことよ。今の私には、死ねといって下さい。」ときっぱりと返す。江戸時代より梅の名所として知られた湯島天神を背景に、ふたりの切ない別れが描かれる。戦前には「婦系図」を題材にした「湯島の白梅」という歌謡曲も流行した。

飯茶碗

蓋付きの飯茶碗。ひとつは朱地に白い絣様の模様のもので、もうひとつは白地で、胴と蓋に桜の木が描かれている。こちらの茶碗には「則武」「日陶」とあり、日本陶器(現ノリタケ株式会社)の白磁に花柳章太郎が絵付をしたと思われる。

白地の皿に花柳章太郎が梅の花を描いたもの。箱書に「梅皿」「伏見/東山陶工場にて/花柳章太郎/自作/拙画/昭和十五年/三月吉日」とあり、昭和15年(1940)に京都・伏見で制作された。 章太郎が名実ともに新派の花形として活躍していた時期で、この年の8・9月には新興キネマの映画「晴小袖」(川口松太郎原作、依田義賢脚色、牛原虚彦監督)の京都撮影所での撮影に参加している。京都滞在中に作った皿と思われるが、陶器への絵付けにまだ慣れていないのか、梅の絵にぎこちなさが残る。 新興キネマは松竹系の映画会社で、章太郎とも親交のある映画プロデューサーの永田雅一、監督の溝口健二が所属しており、昭和17年(1942)に他会社と合併して大映となる。この頃、章太郎らは映画出演のために頻繁に京都に滞在しており、昭和18年(1943)からは章太郎ら新生新派の面々と溝口健二、溝口の映画の衣裳考証を行っていた画家の甲斐庄楠音、吉井勇らを中心に京都の粋人たちが集まり、「さんぞく会」という無礼講の会が行われるようになった。 「さんぞく会」には福田平八郎、金島桂華、山口華楊などの著名な画家のほか、表千家家元や陶匠の十六代目永楽善五郎、高島屋社長の飯田直次郎が参加しており、高島屋で「さんぞく会展」を行ったりもしたという。この会は章太郎の晩年まで続いており、昭和33年(1958)に彼が外遊する際も「さんぞく会」で作品展を開催し、売上を餞別として贈った。

大皿に花柳章太郎が絵付をしたもの。植物が描かれているが種類は不明。 箱書はないが皿の底に「青々」の陶印があり、愛知県瀬戸市の鈴木青々のもとで制作されたと推測できる。

様々な植物が描かれた角形の皿。柿や栗、茸など秋の植物が描かれている。 新派の関係者がそれぞれの絵を寄書きしたとの記録もあるが、詳細は不明。

菓子器

京都の十六代目永楽善五郎作の菓子器に花柳章太郎が絵付をしたもの。大輪の白い百合が描かれる。箱書はないが菓子器の底に永楽の陶印がある。

5.絵画との融合―陶画・七宝絵―

昭和9年(1934)頃から本格的に絵画を学びはじめた花柳章太郎ですが、陶器に絵を描く、いわゆる陶画も好んで制作しました。また、金属の素地にガラス質の釉薬を用いた焼物の七宝も手掛けています。彼が好んで作ったのは七宝で絵画を表現した、七宝絵(無線七宝)とよばれるもので、輪郭線をつくらず、異なる色の釉薬を塗り絵画を表現するものです。

陶画の画題は植物や魚などシンプルなものが多く、七宝絵は歌舞伎や新派の舞台、芝居に馴染の深い東京の下町を題材にしたものが残されています。

 また、章太郎は自身が制作した品々を友人や知人に贈ることも多く、特に七宝絵は六代目中村歌右衛門や谷崎潤一郎に贈った記録が残されています。昭和33年(1958)の外遊時も自作の七宝絵を持参しており、「浅草十二階」を藤田嗣治に、「日本橋」を当時の駐仏大使の古垣鉄郎にプレゼントしました。この時、パリ在住の画家・土橋醇一に依頼してアンデパンダン展(無審査・自由出展の美術展)に自作の七宝絵を出展、2作品が入選しました。

陶画

花柳章太郎による陶画。メバルが描かれている。陶画とは陶器に絵を描いたもの。

陶画

花柳章太郎による陶画。松が描かれている。陶画とは陶器に絵を描いたもの。

陶画

花柳章太郎による陶画。ふぐが描かれている。陶画とは陶器に絵を描いたもの。俳名が「章魚」(蛸(たこ)の意)であることが関係してか、章太郎は画題に魚を選ぶことが多かった。また『菜種河豚』(演劇新派社、1940年)という題の随筆集も出版しており、これは晩春の季語である。ふぐは菜の花の咲く春先に最も毒が強くなるため、この時期のふぐを口にしてはいけないという戒めの言葉だが、同書のあとがきで、章太郎はこの題は「一寸自分でも好きな気がします」と述べている。

七宝

花柳章太郎による七宝絵。歌舞伎の「一谷嫩軍記」を題材としている。「一谷嫩軍記」はもともと人形浄瑠璃で、「平家物語」の一の谷の戦いにおける平忠度を討った岡部六弥太、熊谷次郎直実と平敦盛の戦いを脚色したもの。二段目の「組討の場」の最後、須磨の浜で熊谷と敦盛の一騎打ちとなるが、熊谷によって敦盛の首は打ち落とされる。熊谷は敦盛とその妻の玉織姫の死骸を馬の背に載せ、手には討ち取った首を持ったまま馬の手綱を引いて立ち去るが、実は熊谷が討ち取ったのは敦盛の身代わりとなった我が子であった。海辺で馬を引く熊谷の姿が七宝で描かれる。

6.その他

角形の皿に花柳章太郎が絵付をしたもの。「時雨るや みち分るれば 人別る」の句と傘の絵が描かれている。箱書はないが底に「青々」の陶印があり、愛知県瀬戸市の鈴木青々のもとで制作されたと推測できる。

角形の5枚1組の小皿。緑色釉薬と白色の釉薬でひとつの皿に1文字ずつ「花」「柳」「章」「太」「郎」と書かれている。

3枚の皿にそれぞれ、俳句と、笹のような植物の絵、雪景色と思しき風景が描かれている。俳句は「里の芋 兎かく章魚の はいかかる はなやぎ」とあるが花柳章太郎の手によるものかどうかは不明。絵の方も章太郎が描いたものではないと考えられる。

京都の祇園で毎年春に開催される都をどりの茶席で用いられる皿の裏に「章太郎ゑ」「都をどりはよーいやさ 章太郎ゑ」「大阪へ くだる電車も 朧かな 章太郎絵」「七年の 春をかへして 踊かな 章太郎ゑ」と文章や句が花柳章太郎の字で書かれている。 都をどりは祇園の芸妓たちの舞踊会で、三代目井上八千代の指導により明治5年(1872)からはじまった。花街の芸妓の舞踊会としてもっとも古く、のちに東京、大阪などでも同様の会が行われるようになる。 皿に描かれる「つなぎ団子」は串に8つの団子を通したものであり、幕末に祇園の組内の8つの町が一致結束するという意味から考案された祇園の紋章。「つなぎ団子」の意匠を考案したのは陶匠の三代目清水六兵衞といわれており、この図柄を施した皿は、都をどりや祇園祭の茶席でも用いられ長年京都の町で愛されてきた。「都をどりはよーいやさ」の文言が複数の皿に書かれていることから、誰かに贈るために書かれたものと考えられる。 箱書に「都をどり/皿」「善五郎焼之」印「永楽」とあり、京都の十六代目永楽善五郎のもとで作られたもの。

金工

板状の鋳鉄に、花瓶にさされた花が陰刻で描かれる。花の種類は不明。