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Kokan Shiba

A painter and writer of the late Edo period (c. 1750 – 1850). Created Japan’s first etching, and worked to popularize the heliocentric theory and other elements of Western natural science.

1747-1818

A painter and writer of the late Edo period (c. 1750 – 1850). Born in Edo. His birth name was Kichijiro Ando. Later, he married into the family of Tsuchida, adopting their family name, and changing his given name to Katsusaburo or Magodayu. In his youth, he was active as an ukiyo-e artist under the name Harushige Suzuki, and in his middle age, as a painter of Chinese and Western-style paintings, he used Shiba as a family name, Shun as a given name, Kungaku as a courtesy name, and Kokan as a pen name. His other pen names include Shunparo, and, in his older age, Fugen, Mugen, and Togen.   

Kokan studied first the painting techniques of the Kano school and then the art of ukiyo-e under Harunobu Suzuki. Next, he studied bird-and-flower painting of the Nanpin school under Shiseki So (real name Kohachiro Kusumoto (1715 – 1786), but the interaction with Naotake Odano (1749 – 1780) of the Akita Ranga school and Gennai Hiraga in the period from 1772 through 1781 brought him under the influence of Western-style painting. With the help of Gentaku Otsuki (1757 – 1827), Kokan researched the technique of etching (copperplate printing) in Dutch books, and in 1783 created and presented Japan’s first etching work Mimeguri no Kei (“View around Sumida River”). He created many other copperplate print sceneries, such as Shinobazu no Ike (“Shinobazu Pond”), Mimeguri no Kei-zu (“View around Sumida River”), Nakasu Yuryo-zu (“View of the Evening around the Sumida River”), and Ryogoku-bashi-zu (“View of Ryogoku Bridge”). Kokan also mastered oil painting (cerography), creating works such as Soshu Kamakura Shichirigahama-zu (“View of Kamakura Shichirigahama Beach”), Ikoku Fukei Jinbutsu-zu (“Exotic Landscapes and People”), and Seiyojin Tarutsukuri-zu (“Westerner Making a Barrel”). 

From 1788 through 1789, Kokan traveled to Nagasaki to study. On his way there, in Osaka, he met Kenkado Kimura (1736 – 1802), and in Nagasaki befriended Dutch interpreters. Through these interactions, he deepened his interest in Western astronomy and human geography. After that, he focused his efforts on creating books and copperplate prints to popularize knowledge about Western natural science. In 1792, he published Yochi Zenzu (“Map of the Earth”), the first map to be engraved on copperplates in Japan, and a manual to the map called Yochi Ryakusetu (“Brief explanation of the Earth”). After that, Kokan published a variety of books, such as Oranda Tsuhaku (“Dutch Navigation”), Oranda Tensetsu (“Dutch Explanation of Heaven”), Kopperu Tenmon Zukai (“Copernican Astronomy Illustrated”), through which he introduced Japan to the geography and customs of countries around the world, as well as astronomical knowledge. In Seiyo Gadan (“Dissertation on Western Painting”), Kokan explained the outstanding qualities of the realism of Western-style painting. 

In his later years, Kokan became familiar with the philosophy of Lao-tse and Chuang-tse and retired to live in seclusion. After that, he engaged in somewhat eccentric behavior. For instance, in January 1808, at the age of 62, he began to add nine years to his true age, and in 1813 sent out his own false death notice. Kokan explained his unique life philosophy in works such as the essays Dokusho Mogen (“Essays Based on Knowledge of Western Studies and Astronomy”) and Mugen Dojin Hikki (“Essays on Fables”), and the memoir Shunparo Hikki (“Impressions on Social Customs in the Late Edo Period”). He passed away on October 21, 1818, in Edo, at the age of 72. Kokan also wrote the travel books Saiyu Ryodan (“Complete Record of the Trip from Edo to Nagasaki”) and Kokan Saiyu Nikki (“Memoirs of Journey”). 

Related People, Things and Events

Books

春波楼筆記(『百家説林』第5巻)

司馬江漢の晩年65歳の随筆。文化8年(1811)成立。210余の節からなり、江漢の自叙伝、江戸時代末期の社会風俗についての所感や、人間観、死生観などを記す。掲出部分では、「小子は天文地理を好み、わが日本にて始めて地転の説を開く」と地動説の唱道者であることを誇らしげに述べている。

Kokan's Travel Journal in Western Japan

司馬江漢の、江戸・長崎往復の旅日記。天明8年(1788)4月から寛政元年4月までの一年におよぶ旅の見聞記で、各地の景観、風俗などを自筆挿画とともに記される。文化12年(1815)の成立。同時代社会史の一資料で、紀行文学としても評価される。掲出は、東京国立博物館蔵の江漢自筆原稿(6巻)。

訓蒙画解集

司馬江漢晩年の絵入り教訓集。写本1冊。文化甲戌(11年)序。中国の古典や日本の仮名草子、心学の道話などに取材した117話の教訓を収録する。各話のはじめに漢文があり、和文の解釈が続き、時に江漢自身の教訓の言葉を添える。内容にに即した人物、動物などの絵が各話に描かれる。掲出本は、国立国会図書館が所蔵する自筆の稿本。

天地理談

晩年に執筆した2冊の随筆集。乾坤2巻。文化9年(1812)から文化11年(1814)にかけて、作者76歳から77歳の頃の作。人生の人生、思想、世界に関する所感などを寓話を交えて記す。自筆草稿が出版されぬままに遺された。掲出は、昭和5年に刊行された復刻版。

輿地略説

司馬江漢が寛政4年(1792)に刊行した銅版の地球図『輿地全図』の解説書。内容は東西両半球略図、日食・月食や天動説などを図入りで説明する。掲出の巻頭の図では、子供2人が地球儀と象限儀のかたわらで、コンパスと距離計を手にした姿が描かれる。見開きの隣ページには、「アジヤ」「アフリカ」「ユウロツハ(ヨーロッパ)」の3大陸が描かれ、赤道・黄道・夏至線・冬至線などが書き込まれて、地球は丸く、その周りを日月がめぐって昼夜をなすことを示している。

地球全圖

司馬江漢(1747-1818)による我が国最初の銅版世界地図。地球が球体であることがはっきりわかるような図様になっている。初版は『輿地全図』と題されて寛政4年(1792)に出版された。以後刊記をそのままに改題増補され、『地球全図』としては少なくとも4種の刊本がある。本書は欄外の風景動植物図が追加された第3版。

地球全図略説

寛政4年(1792)2月に刊行された『輿地略説』の改題・改訂版。旧版に説いた天動説に加えて地動説を紹介し、みずから「わが日本に始めて地転の説を開く」(『春波楼筆記』)と称したが、刊本では確かに最初である。世界地図を東西両半球で示し、地球が自転する認識を普及した意味で『地球図』および本書の意義は大きい。

刻白爾(コッペル)天文図解

司馬江漢が、コペルニクスの地動説を説明した天文書。2巻1冊。文化5年(1808)冬至の刊記がある。地球の自転・公転、太陽系の他の惑星、黄道十二宮のことなどを図解しながら説明する。寛政4年(1792)の『輿地略説』では天動説をとっていた江漢は、翌年の『地球全図略説』では天動説に加えて地動説を紹介し、文化2年(1805)の『和蘭天説』では地動説を支持する態度を示したが、本書では近代的な楕円軌道による地動説を詳細に解説している。「刻白爾」は、「ケプラー」の漢訳名だが、江漢はこれを「コペルニクス」のことと誤解して書名としている。掲出は、傾いた地軸に、赤道、黄道等を描いた地球の図。

和蘭通舶

司馬江漢の地理書。文化2年(1805)刊。2冊。内容は江漢の海外知識をまとめたもので、地理とは関係のない「西洋画法」「銅版画法」などの項目も含む。なお、本書の挿絵は、西洋の本の挿絵のように本文とは別の用紙に印刷され、折り込まれている。掲出の図は、エジプトのピラミッド。

Related Works

耳鏡引札

司馬江漢による、補聴器のチラシ兼効能書き。大声で話す時は音しか聞えず、わけがわからなくなる、小声で話せ、耳のよく聞こえる者がこれ使って聴くと、遠方の音まで聞こえてしまいかえって悪い、などと書かれている。補聴器は、江漢が蘭書「ボイス」中の図版を参考にし、耳にあてるラッパ形の補聴器を作って販売したもの。平賀源内がエレキテルで名をあげたように、司馬江漢も自ら工夫した新奇な道具で世の注目を集めることに熱を上げていた。

退隠書画会引札

文化4年(1807)4月8日、司馬江漢が絵師としての引退を宣言して行った書画会のチラシ。実際には、江漢はこの後も引退せず、絵画の制作を継続している。チラシの日付は「文化丙寅(3年)孟春」とあるが、赤字で「丁卯(4年)」と修正されている。「書画会」は、書や絵画の展覧会。寺院や料亭が会場として用いられ、会場には文人達が自作を持ち寄り、酒宴が開かれ、席画なども行われた。

司馬江漢書状 山領主馬宛 

司馬江漢の書状。宛先の山領主馬は、江漢の随筆『天地理談』によれば、肥前佐賀藩士で、江戸在番中に江漢と親しくなった人物。文化5年(1808)頃の正月の書状で、干し柿を贈られた礼を述べ、「去々年よりハ年礼ヲ止メ申候て大楽ニ相成、夫故罷不出候」とも書いている。

司馬江漢作 反射式のぞき眼鏡

江漢による一連の銅板眼鏡絵を描くために作られた装置。絵を水平に置き、支柱の上端につけた鏡とレンズで覗き見る仕組み。分解して、台になる箱の中に部品を収納して持ち運ぶこともできる。箱の蓋裏には、眼鏡絵の鑑賞の仕方など説明した引札が貼り付けられている。

「反射式のぞき眼鏡」解説書

「反射式のぞき眼鏡」の箱の裏側に貼り付けられていた引札。眼鏡絵の鑑賞の仕方などを説明する。

司馬江漢 江漢画室図

地球儀やコンパス、書籍が雑然と置かれた机の向こうには、キャンバスに絵を描く画家と、銅版画用のプレス機で作業する職人が見えます。窓の外は明らかに西洋の風景なので、実際の江漢のアトリエとは思われませんが、自らの画家として、窮理学者としての活動象徴するような図柄となっています。親しい仲間内に配るための「摺物」として描かれた銅版画だったのかもしれません。

ヨンストン動物図譜 オランダ語版

オランダの動物学者ヤン・ヨンストンが1660年にあらわした図譜。寛文3年(1663)に商館長インダイクが将軍家綱に献上。享保2年(1717)、吉宗が本書に興味を持って取りだして蘭学興隆の発端となった。平賀源内も入手、宋紫石(そうしせき)、小田野直武、司馬江漢、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)など、多くの画家が模写した。掲出本は、ラテン語の原本をオランダ語に訳したもの。四足動物、魚と海獣、水棲動物、鳥、環節動物と蛇竜、蛇の6篇から成り、250葉に及ぶM.Meriamの銅版挿図がある。

Landscape etching

三囲景

江漢による風景銅版画。天明3年(1783)。日本最初の腐食銅版画作品。隅田川の浅草橋よりも少し上流の上空に視座を置き、北方を眺望する景観です。反射式のぞき眼鏡で覗いてみるため、実際の風景とは左右逆に描かれている。川舟を浮かべる隅田川を大きく配し、弓なりにはるかに続く隅田堤、一段低く左に三囲稲荷社の鳥居と参道を描きます。奥に見える鳥居は牛の御前と呼ばれた王子権現社。川をはさんで右は隅田川西岸で、真乳山からはじまり今戸橋、今戸瓦焼の窯から立ち昇る煙、さらに遠くには筑波山まで見渡す。

三囲之景  MIMEGULI

司馬江漢の銅版眼鏡絵。天明7年(1787)作。天明3年(1783)の「三囲景」の版が磨耗したためか、ほぼ同じ構図で制作された作品。天明3年版よりも視点を低くとり、土手を歩く人々の表現を強調している。

七里浜 TNPERJENOSIMA

司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画。高い視点から俯瞰する表現をとっています。ここで司馬江漢の関心は富士山よりも、江之島・小動岬(こゆるぎみさき)を奇怪な岩塊として表すこと、池のように静かな太平洋に無数のさざ波を描き、ある種のリズム感を表出しようとしたのかもしれません。寛政年間(1789-1801)の油彩画「相州鎌倉七里浜図」に見られるようなダイナミックな空間と動感を示すまでには至っていません。

不忍之池

司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画。上野の不忍池を、その南岸から北方を望んだ構図となります。司馬江漢が描いた本図とほとんど同じ景観を今でも眺めることができます。浮世絵版画や秋田蘭画の画家たちがその景観を描く中、江漢は自身が開発した腐食銅版技法で、眼鏡絵(レンズと鏡を組み合わせた覗き眼鏡で鑑賞するための小型絵画で、左右を反転して描かれる)に仕上げました。なお、当時は多色刷り銅版の技法はなかったため、筆彩による彩色が施されています。

Serhentine

司馬江漢の風景銅版画。天明年間(1781-1789)の制作。1776年ロンドンで刊行された『新編英国名勝記』に「ストウ庭園内のサーペンタイン河と人造洞窟」という、本図と類似する挿絵があることが、最近の研究で指摘されています。つまりここに描かれているのは、ロンドン郊外にあるテンプル伯爵家の庭園風景で、この表題は「Serpentine」が正しいということになります。

広尾親父茶屋図

司馬江漢の風景銅版画。天明年間(1781-1789)の制作。描かれているのは現在の東京の広尾あたりで、広々とした武蔵野の田園に茶屋が一軒という、のどかな風景です。江漢は蘭学者の桂川甫周らをともなって広尾台の「老爺茶屋」で酒宴開いたことがあり、画中の茶屋がそれに当たると思われます。この版画は反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となっています。

ZITenHUYS

司馬江漢の風景銅版画。天明年間(1781-1789)の制作。「ZITenHUYS」という表題は、おそらく「ZIEKENHUIS」(オランダ語で病院のこと)の誤りと考えられている。江漢はその著書『和蘭通舶』で、西洋の貧しい者、身体障害者のための施設、孤児院、病院などの福祉施設の充実ぶりについて述べているが、本図のもととなったイギリス製の銅版画は、ロンドン郊外にある貴人の邸宅を描いたもので、本来は病院などとは関係がないことが指摘されている。

中洲夕涼図

司馬江漢の風景銅版画。天明年間(1781-1789)の制作。中洲とは、隅田川の西岸、新大橋の南方につくられた埋立地で、寛政年間(1789-1801)に撤去されるまで納涼地・岡場所として栄えました。俗に三叉とも言われ、浮世絵版画では夕涼みの夜景として描かれた場所でした。江漢の銅版画は眼鏡絵として描かれたので、隅田川上流からの眺めということになります。遠くに見えるのは永代橋です。

両国橋 TWEELANDBRUK

司馬江漢の風景銅版画。反射式眼鏡絵として制作されたので、左右反対の構図となっているが、前景部に隅田川の西岸の繁華街を描く。両国橋の南から北方を望む構図で、遠くに浅草寺の堂塔が見える。武蔵・下総の2国の間に架けたことにちなむこの橋の名前を、司馬江漢はオランダ語風にTWEELANDBRUKと記している。

Copper Plate Drawings Related to Astronomy

地球図

江漢の著作である『地球全図略説』に対応する世界図として作成された、日本初の銅版による世界図。これ以降次々と登場する蘭学系世界図や銅版世界図の嚆矢。原図は、天明7年(1787)頃に玄沢がオランダ人医師のストッツェルから入手したフランス語版の「モルティエ世界図」といわれる。原図では未知の領域として示されなかったユーラシア大陸の東端および日本の北方地域を描くなど、江漢独自の工夫がみられる。

天球図

寛政8(1796)年春の制作。ギリシア神話による星座図で、北天と南天の2枚の天球上の星座を描いたもの。原図は、オランダのフレデリック・デ・ウィットの「天球図」とされる。

天球全図 太陽真形図・同解説

寛政8年(1796)に刊行された10枚の銅版画セットのうちの一枚。解説文によると、江漢は「遮日鏡」というもので太陽を観察したと言っているが、実は、なんらかの舶来書から模写したものとみられている。木村蒹葭堂が所持していたスイスの自然科学、考古学者・キルヒャー(1602−80)の『地下世界』にこれと酷似する図版があり、江漢がこれを閲覧して、この太陽の絵が描かれたことも考えられる。

天球全図 月輪真形図・同解説

寛政8年(1796)に刊行された10枚の銅版画セットのうちの一枚。付属の解説文のなかで江漢は「この図はオランダの本から模写したものだが、かつて自分が望遠鏡で満月を観察したときはこのようには見えなかったので疑問抱いていたが、再度観察したらこの図と同じだったので、あらためて感心した」と述べている。「太陽真形」と同様に、キルヒャーの『地下世界』にこれと酷似した図版があるので、江漢が模写した蘭書がこの本だった可能性が高い。

天球全図 地球隋円図・同解説

寛政8年(1796)に刊行された10枚の銅版画セットのうちの一枚。「地球楕円図」は全世界を正確な楕円の中に、しかも経線・緯線を曲線に描くなど、他に例のない図形となっています。江漢は寛政元年(1789)の長崎旅行の帰りに「楕円文廻し」を新製した大坂の間重富(1756-1816、家業は質屋ですが、天文家・暦算家としても知られる)と会っているので、彼に借りるか、参考にして自作した楕円用コンパスで本図描いたことも考えられます。

地下世界

キルヒャー(1602−80)はスイスの自然科学、考古学者、イエズス会士。『地下世界』は、地質学および地下世界に関する本で、彼の著書のなかで最も人気があり、木村蒹葭堂は本書の蘭語版『D' Onder-Aardse weereld』を所蔵していた可能性が高い。司馬江漢の「天球全図」シリーズ中の「太陽真景」・「月輪真景」の原図も本書に求められる。

Oil painting

European Barrel Makers

日本で初めて腐食銅版画を完成させた江漢が描く西洋人の姿。自著『春波楼筆記』で、天明6年(1786)頃から蠟画(ろうが、油絵)を描いたと記している。舶載された油彩画を研究し、えごま油を使って独自の油彩画を開発しており、本作にもその技法が用いられている。

蜆子和尚図

司馬江漢による初期の油彩作品。画面上方に「Kens Paap」と記されているように、この絵の表面的な主題は、禅宗系の水墨画などで描かれてきた蜆子和尚(中国宋代の奇僧でエビ食べて暮していた)だが、その容貌は西洋人のそれであり、仏像のような印を両手で結ばせている点は、禁教後に描かれたキリシタンの聖人像に極めて似通っている。

異国風景人物図

司馬江漢は自らの油彩画について「蝋画(ろうが)」と呼んでいました。その絵具の材料・製法は未詳ですが、油紙や笠などに使われるえごま油を媒剤としたとも言われています。このような絵具は遅くとも18世紀の前半には知られていて、宝暦7年(1757)年には長崎の絵師が大坂天満宮に油彩画奉納しています。

相州鎌倉七里浜図

紙本油彩。今は二曲屏風になっているが、もとは大画面の絵馬として、江戸・芝の愛宕神社に掲げられていた。江漢は、全国の社寺に12面の洋風画を奉納し展示させたが、そのうち現存している2点のうちの一つ。屋外に掲示されていたため、損傷や補筆が目立つが、躍動する海波、近景の浜辺から遥か遠くの富士山まで、ダイナミックに視点を誘うことで作り出される広大な空間と爽快な青空など、斬新な表現の数々が見て取れる。画面上方に貼付されているのは、大田南畝と中井(董堂)敬義の賛で、この作品が文化6年(1809)以前に愛宕神社からはずされ、書肆青山堂の所有に帰した旨を記す。

Ukiyoe under the name of Harushige Suzuki

Others

異国工場図

江漢の西洋風俗図。絹本著色。在来の手法で描かれた代表的な作品。ラウケン『人間の職業』を原図としていますが、江漢はこれに変更を加え、画面を大きく横にのばし窓外の風景に遠近法の消失点をおき、画面右上の角にはカーテンのような幕の一部を描き込むなど、立体的な空間を感じさせるように工夫をしています。さらに本図で最も特徴的なのはその光の表現──窓から屋内にさしこむ外光が鮮やかに表わされている点です。当時では新奇だった西洋画の技法ばかりでなく、その光の表現についても江漢が強い関心を抱いていたこと本図はよく伝えています。

播州舞子浜図

司馬江漢の木版画。天明8年(1788)の長崎旅行の際、江漢は初見の舞子浜(神戸市垂水区)を「道中第一の佳景」「絶景」などと評し、文化9年(1812)に吉野を旅した後に、わざわざ神戸方面に足を伸ばして舞子浜を再訪している。本図はその前後に描かれたと考えられ、江漢の晩年期の飄々とした作風が印象的。

駿州柏原富士図

江漢晩年の風景画。絹本淡彩。款記から文化9年(1812)の京都滞在中に描いた作品で、江戸から関西への道中に目にした景色を描いたもの。富士の巨大な山塊と、その麓にのびやかに広がる田園が、空気遠近法的な壮大な空間を感じさせ、対象的に、前景にはほのぼのとした民家が描かれる。

西洋婦人図鞘絵

紙本著色。

霊鷲山図

紙本木版。文化5年(1808)の作。款記「所載蘭書花連的印之図 江漢司馬峻時年七十一」 。印章「司馬」「峻」。

東都鉄炮洲之図(摺物)

司馬江漢の「鉄砲洲富士遠望図」(個人蔵)の図様と類似した摺物。同主題の司馬江漢による有風風景画が芝神明宮に奉納されていたことが知られており、この摺物も神明宮に掲げられた奉納額の評判にあやかり制作されたと考えられる。

獅子のいる異国風景図

江漢による眼鏡絵。銅版筆彩。一連の銅版日本風景図と同じく、反射式のぞき眼鏡で鑑賞するために描かれた作。天明3年(1783)に江漢が初めて銅版画として創作した「三囲景」に前後する時期の制作とされる。右方に見える威嚇するライオンは、平賀源内などが所有していた『ヨンストン動物図譜』からとられたもの。全体の構図は同じく江漢による天明4年(1784)の銅版眼鏡絵「広尾親父茶屋」左右反転したものに近い。

Past Exhibitions

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References

  1. 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(JapanKnowledge)External Site「司馬江漢」の項
  2. 『改訂新版 世界大百科事典』(JapanKnowledge)External Site「司馬江漢」の項
  3. 『国史大辞典』(JapanKnowledge)External Site「司馬江漢」の項
  4. 司馬江漢 : 「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生池内了 著,集英社
  5. 江漢西遊日記司馬江漢 [著],芳賀徹, 太田理恵子 校注,平凡社
  6. 訓蒙画解集・無言道人筆記司馬江漢 [著],菅野陽 校注,平凡社
  7. JapanKnowledge所収コンテンツの最終アクセス日は、いずれも2023/02/10。