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天地丸 / ColBase

日本の船

日本の船の変遷―古代から近世まで―

古代

日本で出土している最も古い様式の船は、1本の木をくり抜いてつくる縄文時代の「丸木舟」で、全国各地に出土例がある。四方を海に囲まれた島国・日本では、このような船を使って、縄文時代には既に海を渡っていたとみられている。弥生時代には、2本以上の木を組み合わせてつくる「複材くり船」や、複材くり船を船底にして、船べりに波除の板を立てた「準構造船」も生まれた。古墳時代の古墳からは、外洋を航海するための大型の準構造船をモデルにしたとみられる「船型埴輪」が出土している。奈良時代から平安時代にかけて、日本から唐へ派遣された「遣唐使船」は、2本の帆柱に竹を編んでつくった帆がつけられ、全長約30m、幅7~8m、隻に120人ほど乗船していたと伝わる。しかし、当時の船の安全性は高くなかったため、唐への航海はまさに命がけであった。

弥生時代か/クスノキをくり抜いて作られた丸木舟。千葉県大網白里市の水田の地下2mの泥炭層の中から偶然発見された。このような縄文時代以降の丸木舟は、千葉県北東部の太平洋岸の地域で、多数発見されている。

古墳時代(5世紀)/宮崎県西都市西都原古墳群で出土した船形埴輪。外洋を航海するための大型の準構造船がモデルとみられる。舷側板の上にはオールで漕ぐための軸受けとみられる突起が付いている。船の埴輪は古墳の被葬者が司っていた外洋への航海を象徴していると考えられる。

古墳時代か/茨城県下妻市大宝八幡宮蔵。古墳時代後期のものとみられる丸木舟(くり船)。材質はクロマツが使われ、船首と船尾をとがらせている。大宝沼で発見されたと伝わり、浅瀬で運搬用に使われていたと考えられる。舟底は平たんに近く、舷の内外とも精巧に削られている。

古墳時代(6世紀頃)/大阪府大阪市で発掘された全長12mの丸木舟(くり船)。古墳時代(6世紀頃)のものとみられる。前後2本のくすのきを繋ぎ合わせて造られた複材くり船で、継ぎ目の部分には釘を使っていない。

奈良時代(8世紀)/日本の古代金工美術を代表する極めて大型の鏡。波間にはオシドリの姿があるため、川や湖を表わしたものとみられる。島々にはオナガドリやトラ、シカなどが雄雌のつがいで表され、波間には船に乗って釣りをする人物や流木に乗る人物が見える。

平安時代(12世紀)/平安時代末期に成立した『年中行事絵巻』には、船首に龍と鷁(げき)の飾りを付けた一対の「龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)」の船が描かれている。この船は、平安~室町時代、貴族の船遊びや社寺の行事などで楽人を乗せて、池や川で演奏する際に用いられた。

中世

鎌倉時代には、米などの荘園年貢の輸送をはじめとした水運がますます活発になったが、当時の絵巻物に描かれた船を見ると、引き続き準構造船や複材くり船が使われていたことが分かる。13世紀後半に起きた元寇を描いた『蒙古襲来絵巻』では、くり船式準構造船の商船の縁に楯を並べて戦う日本軍が見え、この時代、未だ本格的な軍船はなかったと考えられる。室町時代に入ると、くり船の代わりに板材を船底にした棚板づくりの本格的な「構造船」が現れた。また、三代将軍・足利義満が明と朝貢貿易を始めたことによって、「遣明船」の派遣が行われた。遣明船は遣明使だけでなく、たくさんの交易品を積んで運んでいたが、特別な船として造船されたものではなく、大型商船を転用していたという記録が残っている。室町時代後期、いわゆる戦国時代には、各地の戦国武将が水軍の主戦力として大型軍船「安宅船」を建造した。甲板の上に総矢倉を構え、さらにその上に天守閣のような2~3層の櫓を設け正面に大砲、側面に弓矢や鉄砲の穴を備えたもので、全長30~40m、排水量300tにおよぶ大きな船もあった。

鎌倉時代/菅原道真の生涯と北野天満宮の由緒・霊験に関する絵巻物。掲図は、九州の太宰府に向けて船出する菅原道真。平安時代のエピソードが描かれているが、船は絵巻が成立した鎌倉時代初期の準構造船を参考にしていると考えられる。

鎌倉時代(13世紀)/時宗の開祖一遍(1239~1289)の伝記を描いた最古の絵巻。正安1 (1299) 年の作。全12巻。第7巻は、一遍上人ら僧侶の一行が諸国をめぐって京都にたどり着く場面を描く。各地の風景や人々の営みも活き活きと描かれており、鎌倉時代の風俗を知ることができる貴重な資料。

鎌倉時代(14~15世紀)/石山寺の草創と本尊観音菩薩の霊験を描く絵巻。第5巻は、14~15世紀頃の成立とみられるが定かではない。院宣(上皇の命を記した文書)を川に落とした東国の人が石山寺で「宇治川のほとりで魚を買い取れば出てくる」というお告げを受け、魚の腹から院宣が出てきた場面。宇治川で四つ手網を仕掛けて漁をする船が描かれている。

鎌倉時代(13世紀)/文永11年(1274)と弘安4年(1281)の元寇における、肥後国の御家人竹崎季長の武功を描いた絵巻。装束や武具などの描写が正確で、史料的価値が高い。掲図は、弘安の役(1281)でモンゴル軍と戦う、日本軍のくり船式の準構造船。

鎌倉時代(13世紀)/『蒙古襲来合戦絵巻』に描かれた弘安の役(1281)の海戦の様子。描かれている船は海上戦闘専用の軍船というより、荷物や人を運ぶ商船の縁に楯を並べただけのもののようである。この時代、本格的な軍船はなかったとみられる。

室町時代(15世紀)/伝土佐光重筆。6曲1双屏風(重要文化財)。松の生えた洲浜と海が描かれ、海上には漁師たちを乗せたさまざまな種類の船が浮かんでいる。室町時代の船の様子がよく分かる作品。

室町時代(16世紀)/弁財天信仰が盛んな琵琶湖の竹生島に鎮座する都久布須麻神社。その神宮寺で行なわれる蓮華会の様子を描いた祭礼図。風俗描写が非常に丁寧で、舞楽や船上のにぎわいなど、祭の熱気が伝わってくるようである。

室町時代(16世紀)/武田家の遺臣が小早川隆景から船戦の方法を授かった際に、文禄・慶長の役の船を写して作ったとされる安宅船(軍船)の模型(八王子市・信松院蔵)。船首よりに二層の櫓があり、弓・鉄砲・大砲などを使用するための装備がある。

室町時代(16世紀、作品の成立時期は不明)/左の軍船の模型(八王子市・信松院蔵)を模写した資料。さまざまな角度から、細部まで丁寧に模写されている。

近世

江戸幕府が開かれると、徳川家康は海外へ渡る船に「朱印状」という許可証を与え、東南アジアの国々と朱印船貿易を行なった。朱印船は、中国の「ジャンク」様式の帆船を基本に、ヨーロッパの「ガレオン船」の技術を一部に取り入れたものが多く、慶長9年(1604)~寛永12年(1635)までに350艘以上渡航したとされる。徳川家は西国大名の力をおさえるため、500石以上の船を禁止(1638年に商船は許可)、一方で将軍家の威光を示すべく、安宅船「安宅丸(天下丸)」や御座船「天地丸」など豪華な大型船を建造した。やがて、幕藩体制が整い物流が増加すると、江戸と大坂を「菱垣廻船」「樽廻船」と呼ばれる定期貨物船が行き交った。これらの廻船に使われたのは、帆走性能がよく、少数の乗組員で運航できる「弁才船」であった。その他にも、諸大名の参勤交代に使われた「御座船」、利根川の物資輸送に使われた「高瀬船」、江戸の隅田川で船遊びに使われた「屋形船」など、江戸時代にはさまざまな種類の船が発達した。

江戸時代(17世紀、作品は18世紀)/朱印船(近世初期、朱印状によって海外渡航の許可をえた船)貿易に従事していた茶屋新六がベトナムのホイアンなどで交易している場面を描く。9場面のうち、(4)以降は異国の風景と考えられる。掲図は、三艘の小舟に曳かれる朱印船。

江戸時代(17世紀)/17世紀初めに、長崎の豪商・末次平蔵が安南や台湾などとの貿易を行った朱印船。中央と船首の帆柱に中国式の竹製の帆、船首と船尾にはヨーロッパ式の帆を取り入れた、和洋中折衷型。10回以上の渡航が確認される。本図は、長崎の清水寺に奉納された絵馬の写し。

江戸時代(17世紀)/寛永11年(1634)に完成した、徳川将軍家大型軍船。西洋式の竜骨を使った骨組みに、日本式構造を取り入れ、船体には豪華な装飾が施されていた。船首には龍の飾り、二層の櫓には、金のしゃちほこも据えられていたという。

江戸時代(17世紀)/寛永7年(1630)三代将軍家光の時代に建造され、修理を加えられながら幕末まで使用された、徳川幕府の御座船。全長約33m。2階造りの屋形をもつ朱塗りの豪華船。1人漕ぎの櫓を76丁をそなえた。

江戸時代(19世紀、撮影は明治時代)/廃船から12年後の明治7年(1874)に、隅田川下流左岸にあった幕府の船倉で撮影された「天地丸」の写真。撮影者は、幕末明治期の代表的な写真家・内田九一。

江戸時代(19世紀)/歌川広重筆。東海道の最初の宿場町、品川を描く。沖合に、白い帆を張った弁才船がとまっているのがみえる。江戸に入ってきた船は品川沖に碇泊し、荷物を小型の船に積み替えて、日本橋方面へ運んだ。

江戸時代(18世紀)/『摂津名所図会』巻三の菱垣廻船の図。菱垣廻船は、江戸時代に江戸・大坂間を航行し、日用品を輸送した商船。船べりの部分の筋を菱組の格子に組むのが特徴。木津川に面し、船大工が多く住む寺島(寺嶋)で、新造の菱垣廻船の進水を親族、関係者が祝っている。

江戸時代(19世紀)/歌川芳豊筆。江戸時代、年に一度、秋にとれた新しい木綿を大坂から江戸に運ぶ菱垣廻船のレース「新綿番船」の出発の様子を描く。中央には、レースに参加する番船の証明書(切手)を乗組員が受取る様子、右上には、安治川口に碇泊する新綿番船がみえる。

江戸時代(19世紀)/約1700石積(積載量250トン)樽廻船の1/20模型。樽廻船は、江戸時代に大坂・西宮から江戸へ送る酒樽をおもな積荷とした商船。低運賃と速さで菱垣廻船を圧倒。船型は菱垣廻船同様弁才船で、当初は500~1000石積みが主体だったが、19世紀以降は1500石積み級が中心となった。

江戸時代/北前船は、日本海沿岸から瀬戸内・大坂方面に来航する廻船の瀬戸内・大坂方面の呼称。江戸中期から、西南日本の商業的農業の発達・魚肥需要の増大と松前・蝦夷の漁業生産の拡大に支えられ、「弁才船」と呼ばれる横風・逆風でも帆走可能な一枚帆の和船が大型化を図りつつ、発達した。船首が大きくそりあがっているのが特徴。

江戸時代(19世紀)/将軍が乗る「天地丸」を中心にして、西国大名が参勤交代で使用する船などが周辺に配置されている。西国大名の参勤交代は、海路で大坂まで向かうのが主であった。

江戸時代(19世紀、作品は明治時代)/参勤交代の帰りに豊後国鶴崎に入港する熊本藩主細川氏一行の船団を描く。中央にみえるひときわ大きい船が藩主が乗る御座船「波奈之丸」である。

江戸時代(18世紀)/代表的な海御座船である、高松藩の「飛竜丸」の図。航長65.1尺(19.7m)、肩幅22.3尺(6.8m)、深さ7.7尺(2.3m)、大櫓52丁。白木造りだが、葵の家紋を金渡金(きんめっき)した金具、家紋入りの幕や幟、吹流しなどで豪華に飾られている。

江戸時代(18世紀)/代表的な海御座船である、高松藩の「飛竜丸」の平面図。水色の部分が御座の間・次の間・三の間からなる屋形の部分。湯殿や雪隠もある。

江戸時代(19世紀、作品は江戸時代もしくは明治時代)豊後府内藩の御座船。図中には、「豊後府内藩二万千二百石 豊松平左衛門尉様」と書かれている。帆と船の側面の幕に、松平家の家紋である「丸に釘抜」の紋が施されている。

江戸時代(17~18世紀)/川御座船とは、河川で使用する大名の屋形船。幕府と西日本の諸大名が大坂に配備したものが代表的で、参勤交代や朝鮮使節の江戸参府の際に淀川で使用された。2階造りの豪華な屋形を設け、船体ともに朱塗りのものが多い。掲図は、肥前島原藩主松平家のものとみられる。

江戸時代/福岡藩の「関船」と呼ばれる江戸時代の軍船。福岡藩で藩主の御座船に次ぐ大きな船だった。海上で臨機応変な動きができるよう、船の左右には合計約60丁の櫓を備えている。福岡藩は幕府の命を受け、長崎港の警備をしていたため、水軍をもち、このような関船も30~40隻あったと伝わる。

江戸時代(18世紀)/鈴木春信筆。江戸初期は、将軍や大名のものだった川遊び。やがて、裕福な商人なども楽しみ、大川(隅田川)には、納涼の屋形船が多くみられた。船は時代が下るにつれ大きく、華美になったが、17世紀後半、幕府が屋形船の大きさや船数に制限をつけたため、小型化し、質素になった。

江戸時代(19世紀)/幕府川船役所が租税徴収にあたり船を識別するために作成した資料『船鑑』に掲載されている「屋形船」の図。『船鑑』には、33隻の川船・海川兼用船の構造や特徴が記されている。本資料は、明治時代の写し。

江戸時代/江戸時代初期に、利根川が銚子河口で太平洋に注ぐ流路に変わったことで、利根川の舟運が発達した。高瀬船を代表とする大型船に米や醤油、干鰯等の物資や人を載せて、江戸へ運んだ。本資料は1/20の模型。

江戸時代(19世紀)/牛堀は霞ヶ浦の東岸、現在の茨城県潮来市に位置する。画面の中央に「苫舟」と呼ばれる霞ヶ浦付近の航行に適した船底の浅い舟が、右下から対角線上に突き出るようにして描かれている。

アイヌ

「チプ」は、アイヌ語で舟、特に丸木舟を指す。カツラ、ヤチダモ、ミズナラ、トドマツ、シナノキなどの木の幹をくり抜いてつくられ、川や湖沼で移動したり、魚を獲ったりするときに使われた。木の皮でつくる「ヤラチプ」と呼ばれる舟もあり、狩りで獲れた獲物などを運ぶ際に使われた。一方、海では丸木舟の上に、波を避けるための羽板を縄で綴じた「イタオマチプ」と呼ばれる舟を使って、漁や貿易を行なっていた。アイヌの文化では、舟の材料になる木を切る時はカムイ(神)に祈り、また、舟を初めて使う時には「チプサンケ」と呼ばれる儀式を行い、舟が使えなくなった時には、舟をカムイの国へ送る「イクワテ」という儀式が行なわれる。

イタオマチプ(厚岸郡厚岸町ホロニタイ出土)

昭和62年(1987)、厚岸湖北岸のホロニタイ地区で出土。アイヌ民族の丸木舟の一種で「板綴船」と訳される。船底は一般的な丸木舟に作り、船縁に穴をあけ舷側板を木の皮で綴って継ぎ足し、吃水を高くした沿岸航海用の船。櫂や櫓で漕ぎ、カヤと呼ぶ帆を使い、千島や本州への航海にも使用。

丸木舟(模型)

船を「チップ」といいます。丸木船と、その舷側に板を綴じつけた準構造船があり、丸木船は主に河川や海浜用、準構造船は外洋用でした。苫小牧市の勇払(ゆうふつ)川河床から出土した17世紀の船は、丸木船4艘と準構造船1艘で構成されていました。

イタオマチプ(模型)

丸木船の上部に板材を組み合わせて、より大きな船にしたものを準構造船という。アイヌの人々の準構造船は「イタオマチップ」と呼ばれ、丸木船の舷側に縄で板材を綴(と)じつけたものである。外洋用の船で、主に交易に用いられていたが、海獣猟や漁撈にも使われた。

琉球

琉球は、明の朝貢国として国交を結び、盛んに貿易を行なった。明時代の琉球の朝貢回数は171回にのぼり、明と日本、朝鮮、東南アジアの国々を結ぶ交易の中継地としても栄えた。こうした貿易には、中国の「ジャンク」と呼ばれる様式の帆船が使われた。中でも、明との公式な貿易には、明から下賜された大型船「進貢船」を使用し、その数は洪武・永楽年間(1368-1424)だけでも30隻におよぶ。江戸時代初期には、琉球は薩摩藩の支配下に入ったが、その後も、明・清との交流は続いた。

江戸時代(19世紀)/「貢進船(進貢船)」とは、中世から近世にかけて、琉球王が中国皇帝から冊封(爵位)を受けて、貿易を行なった官船。一番下の船首に目玉が描かれているのが進貢船。中国式の「ジャンク」と呼ばれる様式の船で、日本の船とは構造が異なる。

明治時代につくられた、貢進船(進貢船)の模型。

第二尚氏時代(19世紀)/「馬艦船(まーらんせん)」とは、近世中期以降、琉球域内や日本との往来に利用された中国式ジャンク船。「マーラン」は中国語で、船足が速く、海上を馬のように走ったことからこの名がついたと言われる。

関連するひと・もの・こと

参考文献

  1. 『和船』石井謙治 著,法政大学出版局
  2. 『日本の船』安達裕之 著,日本海事科学振興財団船の科学館 編,日本海事科学振興財団船の科学館
  3. 『日本の船の研究 : 日本列島をむすんださまざまな船』安達裕之 監修,ポプラ社縄文時代の丸木船から江戸時代の弁財船,明治の洋式軍艦まで日本の船の歴史をたどりながら,当時の航路や輸送のようすを探る。(日本児童図書出版協会)
  4. 『世界大百科事典』(JapanKnowledge)
  5. 『日本大百科全書』(JapanKnowledge)
  6. 『国史大事典』(JapanKnowledge)
  7. マルチメディアマイペディア 百科事典CD-ROM日立デジタル平凡社,平凡社
  8. JapanKnowledge・コトバンク所収コンテンツの最終アクセス日は、いずれも2024/12/20。