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三条西実隆

室町後期の公卿、学者。宗祇から古今伝授を受け、『源氏物語』『伊勢物語』の権威としても知られた

1455-1537(康正1-天文6)

室町後期の公卿、学者。康正元年(1455)閏4月25日、三条西公保(きんやす)の次男として誕生。初名公世。母は甘露寺房長の娘。三条西家は三条家から分かれた正親町三条(おおぎまちさんじょう)家の分家で、当時の公家社会では中の上程度の家柄で、三条西の家名はその邸宅が正親町三条家の西側にあったことに由来する。

長禄2年(1458)、兄実連の夭逝によって4歳で叙爵して公延と改名。長禄4年(1460)に父公保が死去し、文明元年(1469)15歳で元服し実隆と改名。後花園、後土御門、後柏原、後奈良の4代にわたる天皇に仕え、内大臣にいたった。朝廷と幕府のパイプ役など公卿としての職務を全うするかたわらで、有職故実の知識をいかして朝儀の保存につとめ、戦乱で散佚した和漢の書物の収集や書写などで古典復興にも力を尽くした。

和歌を飛鳥井栄雅に学び(雅号聴雪)、牡丹花肖柏を介して宗祇による『源氏物語』『伊勢物語』の講釈を聴聞。文亀元年(1501)には宗祇から古今伝授を受け、宗祇の『新撰菟玖波集』編纂にも協力した。また、天隠龍沢(てんいんりゅうたく)・月舟寿桂 (げっしゅうじゅけい)などの五山禅僧との交流を通じて漢詩文の造詣も深く、当代随一の文化人として公家・武家の双方から重んじられた。永正13年(1516)に出家。法名尭空。道号耕隠,院号逍遥院。

能書家としても知られ、地方大名などの求めに応じて揮毫した短冊・色紙のほか、古典の写本や絵巻物の詞書(ことばがき)、詠草、書状など多くの書跡が今日まで伝わっている。著書に『源氏物語細流抄』、有職故実書『多々良問答』、私家集『雪玉集』、歌日記『再昌草』など。天文6年(1537)10月3日、83歳で死去。嵯峨の二尊院に葬られた。嗣子公条(きんえだ)ほか三男二女がある。

日記『実隆公記』は文明6年(1474)20歳のときから、亡くなる1年前の天文5年(1536)82歳のときまでの63年間にわたって記されたもので、室町時代後期の政治や社会を知るための基本史料。巻子106巻・折本1帖・冊子44冊の自筆原本が東京大学史料編纂所に現存し、重要文化財に指定されている。

関連するひと・こと・もの

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実隆公記 永正3年12月22日

永正3年(1506)12月22日の三条西実隆の日記。越前の朝倉氏が新調した「京中」を描いたの屛風について、「越前朝倉屏風新調、一双画京中、土左刑部大輔新図、尤珍重之物也、一見有興(赤線部分)」と記す。これは文献に登場する「洛中洛外図屏風」に関する初出史料と目される。「土左刑部大輔」は土佐光信。

三条西実隆 弄花抄

三条西実隆による『源氏物語』の注釈書。10冊。牡丹花肖柏が一条兼良と宗祇の講釈を聞いてまとめた『源氏物語聞書』に基づく注釈で、書名の『弄花抄』は肖柏の号「弄花軒」による。掲出本は、紅葉山文庫の旧蔵書で、 「内閣文庫本」 として知られる写本。寛永21年の本奥書がある。

三条西実隆 細流抄

三条西実隆による『源氏物語』の注釈書。10冊。三条西家代々に伝わり三条西公条の「明星抄」に受け継がれた。従来、三条西公条(きんえだ)が 父実隆の講釈をまとめた著とされてきたが、近年の研究では否定されている。掲出は「内閣文庫本」として知られる資料で、 『源氏物語古注集成七』 (桜楓社)にも紹介される。江戸時代前期の書写 か。

三条西公条 明星抄

三条西公条(きんえだ)による『源氏物語』の注釈書。20冊。『細流抄』の著者である父実隆の講釈を基に作成した『聞書』を整理したもの。公条は『聞書』を手元に置き、実隆の校閲を受けた上で、天文8年から10年頃に作り直した。長年『明星抄』は、公条の子である実枝の手によるものと考えられてきたが、これは誤り。掲出本の書写は江戸時代初期か。

惟清抄

『伊勢物語』の注釈書。原表紙左上部に「帷情抄」と直書き。装訂は綴葉装(列帖装)。清原宣賢(1475-1550)の序、三条西実隆の奥書(掲出)がある。それらによれば、宣賢が大永2年(1522)5月に行われた実隆の講義を聞いて筆記整理し、実隆本人にもただしてまとめたもの。古典学の権威実隆の説として尊重された。

伊勢千句註

大永2年(1522)8月4日~8日に行われた、宗長、宗碩の両吟千句(通称「伊勢千句」)の注釈書。第十の百韻(「何木」)の発句は三条西実隆(聴雪)。掲出はその冒頭の聴雪発句。「すめる夜の月弓うたふ宮居哉」。本写本の書写年代は室町時代末期か。

源氏物語系図

源氏物語の登場人物を整理して系譜関係をわかるようにした系図。古来多く伝わる同種の系図の錯乱を三条西実隆が正して制作。長享2年(1488)3月の成立。長享本源氏系図として広く流布し、現存写本の大部分もこの系統のもの。その後明応8年(1499)・文亀4年(1504)、永正9年(1511)の実隆による転写本がある。掲出本は室町末から江戸初期の写本。永正9年本の奥書の後に「巻々年紀為備忽忘大概註付之 永正十二八」という注記のある永正10年本。

高野参詣日記(『群書類従』 紀行部12)

三条西実隆の紀行文。大永4年4月下旬から5月はじめにかけて、70歳の実隆が今生の思い出に住吉、天王寺、高野山などを参詣した際の紀行を記す。

雪玉集

三条西実隆の家集。天文6六年(1537)頃成立か。題詠と法楽歌が大部分を占めている。後柏原天皇の「柏玉集」、冷泉政為の「碧玉集」とともに三玉集と呼ばれ、江戸時代の二条派歌人に重視された。聴玉集。

三条西実隆自筆の書写本

三条西実隆等書写 源氏物語

浮舟の巻を欠く計53帖で、前半の17帖は三条西実隆等による室町時代の書写、後半の36帖は鎌倉時代の書写になる。うち34帖は、青表紙本、河内本系統ではない別本系統に属し、本文研究上に不可欠の資料として貴重である。桑名藩主松平定信の遺愛品と伝える。

三条西実隆書写 伊勢物語

三条西実隆自筆の写本。九州大学附属図書館の細川文庫の一冊。同文庫は、細川幽斎の曽孫・細川行孝(1637−1690)を初代藩主とする字土藩細川家の蔵書を所蔵する。

三条西実隆書写 本朝文粹 巻六

平安時代の漢詩文集。藤原明衡(989?-1066)編。全14巻。掲出の資料は、三条西実隆が巻第六のみを書写したもの。巻末に明応8年(1499)正月6日の書写奥書があり、花押も実隆のものと認められる。実隆の日記『実隆公記』明応8年正月4日及び6日条にも、本書巻六を書写したことが記されている。巻首に「三条西」朱印。

三条西実隆書写 本朝文粹巻六奥書

明応8年(1499)正月6日の書写奥書。奥書の末尾に実隆の花押が認められる。

三条西実隆書写 古今和歌集

三条西実隆の筆写による古今和歌集。奥書によれば、大永3年(1523)4月18日、孫の三条西実世(実枝)に伝えて、家代々の證本とするため、禁裏の御本を借り受けて老眼をしのいで書写した(「申出 禁裏御本、凌老眼書写之、伝于嫡孫実世朝臣、可為家之證本」)とある。実隆当時69歳。書写の原本は、二条為重写, 飛鳥井雅親校の貞応二年本。掲出は奥書の部分。

もっと知りたい

群書治要 巻第30断簡

中国、唐時代の政治参考書『群書治要』巻30の断簡。三条西実隆が延徳二年(1490)11月16日に伏見宮邦高親王(1456-1532)より賜った(『実隆公記』同日条)、伝藤原行成筆1巻の一部。戦後に2分割した際に、2色継ぎになる様に仕立てたため、飛雲紙の13行と薄茶色の8行の本文は繋がらないが、その間の21行は天理図書館に蔵されている。『群書治要』は、中国で失われ日本に残存した「佚存書」。最古の写本は、東京国立博物館蔵の九条家旧蔵本13巻(国宝)だが、本断簡は東博本が欠いている巻第30にあたる。

星光寺縁起絵巻 詞書巻上

『星光寺縁起絵巻』は、京都の六角大宮にあった星光寺の草創の由来と、本尊・地蔵菩薩の霊験を描く。伝土佐光信筆。前半に平資親が茨の中からで見つけた地蔵菩薩を安置して星光寺を建立した縁起が描かれ、後半では地蔵菩薩の霊験の物語が述べられる。『実隆公記』文明19年(1487)正月27日と2月29日の条に、土佐光信の描いた「星光寺縁起絵」の詞書を実隆が執筆したことが記され、本作はこの記事と結びつけて考えられていたが、現在では光信原本制作直後の良質の模本と見なされている。

三条西実隆筆 三首和歌懐紙

この三首は、実隆の家集『再昌草』にも収められる。詞書によると、文亀3年(1503)2月5日、中納言正親町三条実望(おおぎまちさんじょうさねもち)亭で催された、月次歌会におけるもの。実隆49歳の筆跡。「三首の倭哥を詠める/権大納言実隆/春月 つもりては猶いかばかり老の世に霞の外の月も霞まむ/春水 み山より去年の嵐も流れ出でて雪解の水をせく朽葉かな/春恋 人はいさ花に胡蝶の一さかりうき身にあかぬ夢や残さん」

土佐光茂筆 柿本人麿像(三条西実隆賛)

萎烏帽子・直衣姿の人麿が立て膝で座り、前に硯箱を置いて歌を按ずる類型の構図。人麿の詠歌2首を散らし書きにする。明治時代の美術家、前田香雪の鑑定副簡によると、賛の筆者を三条西実隆、画は土佐光茂とする。賛に見える、懐の広いおおらかな書風はまさしく実隆の自筆に疑いない。この賛が実隆の自筆となると、年代的に考えても、人麿像の筆者を伝承の土佐光茂と考えて矛盾がない。

三条西実隆墓(『京都府写真帖』)口絵

京都二尊院の実隆墓。大永6年(1526)11月、没後に備えて実隆自らが建てた夫妻の墓。近くにに子の実枝、孫の実澄の墓もある

肖像(『大日本名家肖像集』)

京都二尊院所蔵 史料編纂掛模本

書状・短尺

九条家宛 三条西実隆書状

娘婿であった九条尚経(1469-1530)宛か。「乕(虎)狼」が遁走して京の情勢が平穏になったことを安堵する内容。永正17年(1520)年5月5日、実隆と昵懇であった細川高国の軍勢が、三好之長を敗死させ、細川澄元を洛中から追い落とした直後の書状と思われる。署名は実隆出家(永正13年)後の堯空。「自是可啓上処、尊札殊畏入候、京中無事落居侯条、先以珍重候、乕狼相遁候間、定而又可変改候歟、末世之運、無是非候、何様早々静謐、先以祝着候、旁重而可申入候、恐惶謹言、五月六日 堯空」

九条家宛 三条西実隆書状

東福寺の「寺家神人等之儀」について言及する書状だが具体的な内容は不詳。文中に登場する「陽首座」は、東福寺東福寺171世住持の了庵桂悟(1425-1514)の附弟であった鳳岡桂陽(実隆の三男)のこと。追而書に「猶北政所御帰之時、被申入候」とあるところから、実隆の娘の夫であった九条尚経済宛の書状か。署名は実隆出家(永正13年)後の堯空。

柳原資綱他宛 三条西実隆筆書状

2月9日における禁中の月次歌会に出座の可否を求めて、連座の公卿衆に回覧した書状。最末尾に「新少納言殿」とあり、延徳2年(1490)正月の除目で少納言に任ぜられた高辻章長(のりなが)がこれに該当する。よってこの手紙は、延徳2年2月4日のもので、日記『実隆公記』もそれを裏付けている(同日記同日条参照)。

勾当内侍宛 三条西実隆筆消息

「さね隆」と署名しているので、永正13年(1516)4月出家以前の手紙。仮名書きの消息であるところから、勾当内侍(こうとうのないし)を介して後柏原天皇(1464-1526)に宛てたもの。当時の消息のしきたりにより、差出人の名乗の上の一字を仮名(さね隆)で書いている。拝領の扇の謝礼と、実隆が調達した冊子の外題揮毫用の料紙が御意に叶った喜びを伝える。

宛先不明 三条西実隆書状

本文6行目の冒頭の「御眉事」との記載を手がかりに、実隆の日記『実隆公記』を探ると、延徳2年(1490)4月11日条の「今日息女歯黒、眉等祝著之儀也。如形沙汰也」の記事が目にとまる。すなわち、この日、実隆の長女保子(この年11歳)の成年式たる歯黒・眉引きの儀が執り行われたもので、この手紙の記事と適応する。

中院通秀宛 三条西実隆書状

文明14年(1482)、実隆28歳の書状。朝儀に関する装束の準備の遅れを詫び、裁断の残り切れの返送する旨を伝えている。

三条西実隆筆短冊

珍しく署名のかわりに花押を用いた短冊。「遊子行月 さしもはや深過ぬらん笛竹の夜ごゑよ月のいづくをかとふ(花押)」

三条西実隆筆短冊

『雪玉集』に収められる歌で、同集によれば、永正13年(1516)8月の月次和歌会の時のもの(62歳)。署名は「堯空」。枯淡の味わいの深い沈着な筆致で執筆されている。「嶋月 秋の夜もながき名にのみおほしまの月やはや舟ゆく跡もなし 堯空」

三条西実隆筆短冊

『雪玉集』に収められる歌で、同集によれば永正10年(1513)2月の月次和歌会の時のものである(59歳)。「桜 としをへてさらにさくらの初花よちらずはげにぞかひなからまし 実隆」

三条西実隆筆短冊

『雪玉集』に収められる歌で、同集によれば、永正6年(1509)9月9日から始められた、内裏着到百首和歌(内裏に出向いて毎日一首ずつ詠みすすめる方式)の中の一首。「春雨 音せでも篷(とま)のしづくや浪枕 まぎれぬ夜の春雨のそら 実隆」

三条西実隆筆短冊

「堯空」の署名は、通常出家後に書かれるべきものであるが、『実隆公記』(文明16年(1484)10月4日条・実隆30歳)に既に見えている。しかしながら、枯淡の味わいの深い沈着な筆致で執筆されているところから、晩年期の書と推定される。歌題は別筆。「暮春 身にとまる恨やなどと春の色に そめし心もうきわかれ哉 堯空」

享禄元年8月21日 勾当内侍宛三条西実隆書状

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  • 実隆公記 外部サイト

    東京大学史料編纂所が所蔵する『実隆公』自筆原本(重要文化財)。巻子106巻・折本1帖・冊子44冊のデジタル画像が閲覧できる。

  • 資料室-史料編纂所 外部サイト

    「実隆公記原本目録(PDF)」「実隆公記および三条西実隆関係文献目録」「史料編纂所架蔵三条西家旧蔵本一覧」のデータを閲覧できる。

参考文献