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江戸の名所(教育・商用利用可)

錦絵で見る江戸の観光名所

都市の整備・発展に伴い、新たな名所が次々と誕生し、人びとを魅了した江戸の町。江戸時代の初めは武士のものだった、寺社参詣や花見などといった四季折々の行楽は、やがて町民たちへも広まっていった。このような江戸市民の観光名所への興味関心を背景に、錦絵の主要ジャンルの一つとなった「名所絵(風景画)」の作品を通じて、活気溢れる江戸の名所をご覧いただきたい。

日本橋

江戸時代、五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点に定められた日本橋。多くの人が橋の上を行き交い、周辺の河岸では、各地から船で運び込まれた荷物が陸揚げされ、陸海の交通・物流の要衝として発展した。一帯には問屋街が形成され、日本橋川沿いに白壁の問屋の蔵が建ち並んだ。また、橋の北詰東側にあった魚河岸(魚市場)では、江戸湾や相模湾などで獲れた鮮魚が店先に並び、威勢よく取引された。一方、橋の南詰からは江戸のメインストリート「通一丁目」が延び、江戸三大呉服店の一つともいわれた「白木屋」、書物問屋「須原屋」などの大店が軒を連ねていた。「現金掛け値なし」の商売で知られる呉服店「三井越後屋」も当初はこの通りにあったが、天和2(1682)年に富士山が真正面に見通せる駿河町に移転し、江戸を代表する大店に成長した。

浅草

観音信仰で古くから信仰を集めていた浅草寺。江戸時代には、徳川幕府の祈願所として庇護を受け、関東における一大観音霊場となり、「浅草観音」の通称で親しまれていた。参詣者で賑わう浅草寺周辺は門前町として栄え、明暦3(1657)に遊廓吉原が浅草北部の日本堤に移されると、次第に江戸随一の繁華街となった。また、江戸後期の天保13(1842)には、歌舞伎劇場の中村座・市村座・森田座の三座が浅草寺北東の猿若町に移転、江戸最大の芝居町を形成し、浅草の繁栄に拍車をかける。浅草寺と浅草神社が合同で催行する浅草祭(3月)、浅草寺の境内で開かれるほおずき市(7月)や年の市(12月)のほか、待乳山聖天宮の花見、鷲神社の酉の市(11月)など、季節の行事も多かった。

江戸名所 猿若町芝居顔見世繁栄の図

猿若町は江戸時代にあった芝居町で、歓楽街として繁栄していた。顔見世とは歌舞伎で1年に1回、役者の交代のあと、新規の顔ぶれで行う最初の興行で、歌舞伎興行において最も重要な年中行事とされる。また、かつては中央の屋根に描かれている櫓(やぐら)で人寄せの太鼓を叩いていた。この櫓をあげていることが官許の芝居小屋であることの証だった。

猿若町芝居之略図

「馬琴日記」:英泉が描いた猿若町の俯瞰(ふかん)図。芝居町である猿若町の成立が天保14年なので、その頃の制作と考えられる。細部まで描いた新しい名所としての猿若町を中心に据え、新吉原、待乳山聖天、姥が池、隅田川という古くからの名所を周辺に配し、隅田川東岸の三囲(みめぐり)稲荷、長命寺などの名を列挙して、「東都第一の名所(画面下側)」とたたえている。英泉は、「八犬伝」挿絵などを手掛けた関係もあり、馬琴日記には頻繁に登場する。

上野

寛永2(1625)年に、天台宗の高僧・天海が徳川家の助力を得て、江戸城鎮護を祈願する寛永寺を建立。後に、四代将軍・家綱の霊廟が造営されて以降、将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、約30万坪におよぶ広大な寺域をもつ大寺院になった。寛永寺は、京都御所の鬼門を護る比叡山延暦寺になぞらえて創建されたため、境内には京都の清水寺に見立てた「清水観音堂」、琵琶湖の竹生島宝厳寺に見立てた「不忍池辯天堂」など、京都周辺の有名寺院を模した堂舎が建立された。また、境内の各所に奈良の吉野山から移された桜の木が植樹され、桜の名所としても名を馳せた。寛永寺の門前の「山下」には火除地が作られ、そこから、忍川に架かる「三枚橋」を渡ると、下谷広小路(上野広小路)に至る。この界隈は、料理屋や見世物小屋、水茶屋が並ぶ盛り場であった。

両国

明暦の大火の後、寛文元(1661)年に武蔵国と下総国の両国をつなぐ「両国橋」が架けられ、江戸の新名所となった。東詰には大火の焼死者を葬った回向院が建てられ、西詰には火除地として広小路を設置、後にここは、芝居小屋、見世物小屋、茶屋などが軒を連ねる江戸有数の盛り場として発展する。隅田川の夕涼みの期間(旧暦5月28日~8月28日)は、広小路や川沿いで屋台や見世物の夜間営業が許された。川は船宿や料理屋の宴会用の船で溢れ、その初日の「川開き」には花火が打ち上げられ、江戸の夏の風物詩となった。江戸中期以降には、大店の旦那衆がスポンサーになって、納涼期間中、毎晩のように花火が夜空を彩ったという。江戸後期に入ると、回向院の境内で勧進相撲(寺社の造営費などの募金を目的とした興行相撲)が開催されるようになり、天保4(1833)からは毎年春秋2回の興行の定場所に定められ、大変人気を博した。


飛鳥山

「飛鳥山」の名の由来は、中世の領主・豊島氏が紀州の飛鳥明神を祀ったことによるものという。上野台地の上にあり、崖上からは眼下に荒川低地が広がり、遠くには筑波山や日光連山まで見渡せた。8代将軍徳川吉宗の命によって、庶民が気軽に花見をできるように、約千本の桜、ツツジ、赤松、楓などの植樹が行われ、江戸を代表する花見の名所となった。

亀戸

寛文3(1663)年に太宰府天満宮を分祠した亀戸宰府天満宮(現在の亀戸天神)が創建され、学問の神様として江戸庶民の信仰を集めた。境内の心字池には、大小二つの太鼓橋(男橋、女橋)があり、江戸随一の藤の名所としても知られた。また、亀戸天満宮の裏手、伊勢屋喜右衛門の別荘内にある梅屋敷は、約300本の梅の木が植えられた梅の名所で、中でも、龍が地を這うかのような形をした古木「臥龍梅」は特に有名であった。

品川

江戸時代以前から港町として栄えた、品川。江戸時代には、東海道の1番目の宿場町に定められ、街道沿いには宿屋、料理屋、妓楼が軒を連ね、多くの人で賑わった。街道の東側に建つ料理屋や妓楼の2階からは、海を望む絶景が楽しめ、遊里としての規模は吉原につぐ2番目であった。また、春先には、遠浅の海で潮干狩り、春には御殿山の花見、秋には海晏寺の紅葉狩りというように、江戸時代の品川は、一年を通じて四季折々のレジャーが楽しめる行楽地であった。

関連するひと・もの・こと

参考文献

  1. [歌川広重 画],堀晃明 著,人文社
  2. 洋泉社
  3. 小林忠 監修,東京伝統木版画工芸協会 編,芸艸堂