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江戸の花名所(教育・商用利用可)

江戸の庶民に愛され、絵画に描かれた花の名所。

古くは貴族の楽しみだった花見が、一般に普及したのは江戸時代とされる。徳川家光(とくがわいえみつ)や徳川吉宗(とくがわよしむね)らが各地に桜を植えさせ、「春の娯楽」として人々に推奨し、上野や隅田堤、御殿山などの桜の名所がつくられた。また、花見と言えば主に桜を指すが、亀戸の梅や藤、堀切の菖蒲など、江戸には多くの花の名所がつくられた。ここでは、花の名所を描いた江戸・明治期の絵画作品を紹介する。

上野

1625年(寛永2)、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の命により、天海僧正が東叡山寛永寺を建立した際、奈良の吉野山から桜を取り寄せて植えたことが、桜の名所としての始まりと言われる。江戸の庶民に愛され、現在も残る上野清水観音堂には多くの花見客が訪れた。ただし、寛永寺は徳川家の菩提寺であることから、境内での飲食禁止、鳴り物禁止、暮れ六つ(午後6時)までに下山しなければならなかった。

上野東叡山花盛図

上野山内の花見の風景。摺鉢山から根本中堂まで行く途中である。中央の輿に乗る女性が、武家奥方といった風情であるが、周囲に女性しかおらず、重い輿までも女性4人でかついでいる。武士は、右奥に槍持ちを先頭にして大勢が描かれるが、肝心の主である、大名・旗本クラスの武家は描かれていない。

東京名所 上野公園之景

「郷土・資料調査室ってどんなところ?Ⅱ」:西郷隆盛像の周りに咲く桜の風景が描かれている。明治31年(1898)に西郷隆盛像の除幕式が行われた。当時の人々の注目をひいていたことがわかる。その後ろには、平成2年(1990)に台東区有形文化財に指定された彰義隊の墓がある。「塔」:上野公園の西郷銅像前の様子を描いた浮世絵。銅像後ろの「戦死墓」は上野戦争で亡くなった彰義隊を弔うために建てられた。右側には旧寛永寺五重塔が描かれている。この五重塔は上野戦争でも焼失せずに残った塔であり、後の関東大震災や東京大空襲にも耐えた貴重な建造物である。

御殿山

歴代将軍の鷹狩りの休息所として、または茶会の場として利用されていた御殿山は、第8代将軍・徳川吉宗の時代に桜の植林が進められ、景勝地として発展。江戸のなかで唯一海を見渡すことができる桜の名所となった。上野の寛永寺と異なり、桜の下での飲食が許されていたので、敷物に座ってお弁当やお酒を楽しむ庶民の様子が絵のなかに描かれている。

冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二

現在の品川区に位置する御殿山には、江戸時代に桜の木が植樹され、海と桜を一度に楽しめる名所として賑わっていたようだ。富士は計算されたかのように、2本の桜の合間から顔を見せている。本図の画面手前には、御殿山の丘陵にゴザを引いて酒を興じる男衆や、家族連れであろうか、稚児を肩車する男性に同じく稚児をおんぶする女性、はたまた扇を手におどける男たちなど、思い思いに花見を楽しむ人々の姿が生き生きと描かれている。

隅田堤

隅田堤の桜は、第4代将軍・徳川家綱が庶民に娯楽地を提供するため、常陸国(茨城県)の桜川から木母寺(もくぼじ)に桜を移植したことが始まりとされる。さらに、第8代将軍・徳川吉宗は100本の桜を植え足し、桜の名所として知られるようになった。これは庶民を花見客として呼び寄せて土の上を歩かせることで、堤防を固めるためだったと伝わる。

浅草

「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と松尾芭蕉にも詠まれた浅草の桜。浅草寺の本堂裏手は奥山と呼ばれ、水茶屋や楊子店、見世物小屋なども置かれた。1733年(享保18)には、吉原の遊女が寄進した「金龍山千本桜」が植えられ、桜の名所として人気を集めた。満開の桜の枝には、遊女自筆の札が吊るされており、参詣客の登楼を誘ったという。

浅草公園遊覧之図

「日記が語る台東区10 花見の日記」: 正面奥に「凌雲閣(浅草十二階)」(明治 23 年竣工)がそびえ、右手奥の画面右側の鳳凰を掲げる建物は浅草花屋敷内にあった五層の楼閣「奥山閣」(明治 21 年竣工)である。どちらも完成したばかりの目を惹く建造物で、これらを見物がてら、浅草寺周辺に行楽客が訪れた。そのうちのひとつである花屋敷は、四季折々の花を愛でることができ、池を周遊できる日本庭園も保持し、季節感を大切にする日本人にも、物珍しさを求める外国人にも人気のスポットであった。

飛鳥山

第8代将軍・徳川吉宗の園地化政策でつくられた公園で、1000本を超える桜が植樹され、後に水茶屋や楊弓場が設置されるなど、庶民の行楽地として発展した。江戸から近くて眺望も良く、酒宴や仮装も許されたので、人気を博したという。

飛鳥山図

<p>版本挿絵を得意とした北尾政美(きたおまさよし)は、鍬形蕙斎の名で津山藩の御用絵師となりました。王子の飛鳥山は徳川吉宗が桜の木を植えて、お花見の行楽地になりました。丘の上にある飛鳥山の由来を記した石碑は、現在も残っています。左に王子権現、遠くに隅田川、筑波山が見えます。</p><br /><p>広々としたのどかな景色に、桜の花が咲きほこっています。ここは今の北区・王子にある飛鳥山。江戸時代、八代将軍徳川吉宗が桜の木を植え、一般の人びとに行楽の地として開放したことで、桜の名所となりました。今でも春にはたくさんの人びとがお花見に訪れる、たいへんにぎやかな場所です。画面やや右のほう、緩やかな山に、小さく描かれた人物の横にあるのは石碑です。飛鳥山の由来を記したこの石碑は、今でも飛鳥山に立っています。山の左側に流れるのは音無川、そしてその上に朱色で描かれているのは、王子権現の社です。遠景には墨田川、はるかかなたには筑波山が見えます。画面の上方にいくほど、遠くのものが小さく淡く表現され、空気遠近法的な効果が生まれています。作者の鍬形蕙斎は、浮世絵師から津山藩の御用絵師へと転身しますが、その際に北尾政美(きたおまさよし)から鍬形蕙斎、紹真(つぐざね)と名前が変わりました。画面右下には、「紹真筆」と書かれています。</p>

新吉原

桜の名所として知られた新吉原だが、実は期間限定の桜だという。階下の時季にあわせて山から根の付いたまま桜の木を運び、仲ノ町中央通りに植えられ、花が散ると撤去されていた。夜は行灯で照らされた夜桜も見ることができ、江戸庶民だけでなく、地方からの観光客や参勤交代の武士など大勢の見物客で賑わった。

新吉原桜之景色

吉原は江戸初期の元和3年(1617年)に各地に散在していた遊女屋を一箇所にまとめた遊廓に始まり、明暦3年(1657年)の大火で場所を移動したのちは新吉原と呼ばれた。この作品は咲き誇る桜の下を豪華な衣裳を身にまとった花魁を中心とする一行が数組行きかう新吉原の隆盛ぶりを描いたもの。花魁は最も格の高い遊女であった。満開の桜に加えて遊女たちの華美な衣裳が妍を競うという、まさに遊廓ならではの絢爛たる光景である。

梅屋敷

梅屋敷は、亀戸の呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」の梅の庭園。なかでも、数十丈(約150m)に渡って地中を凸凹に這う姿から、水戸藩第2代藩主・水戸光圀が臥龍梅(がりょうばい)と名付けたとされる名木が知られ、多くの見物人が訪れたという。歌川広重が「名所江戸百景」で描いた「亀戸梅屋敷」は、ゴッホが模写したことでも知られる。

名所江戸百景 亀戸梅屋舗

「亀戸梅屋舗」は、かつて亀戸天神社の裏手にあった梅園で、龍が大地に横たわったような「臥竜梅」が有名となり、第8代将軍徳川吉宗も訪れるなど、春の行楽地として大いに賑わっていた。柵の向こうに見える見物客からもその様子が窺える。画面手前に横切るほどの大きさに梅の枝を描き、奥の景色を覗かせる構図は斬新で、赤と緑という配色も刺激的である。ゴッホが本図を元に油彩による模写作品を残したことでも知られる。

亀戸天神

江戸時代初期、亀戸天神の初代宮司が植栽したのがはじまりで、やがて庶民の間での評判となった藤の名所。その見事な姿は「亀戸の五尺藤」「亀戸の藤浪」と称賛されて第5代将軍・徳川綱吉、第8代将軍・徳川吉宗も訪れたという。舟で訪れて日帰りの藤見の楽しむ、人気の行楽地であった。

堀切

堀切の菖蒲園の起源は諸説あるが、一説には堀切村の小高伊左衛門が各地の花菖蒲を収集し、自庭に植えた小高園がはじまりとさる。江戸幕府第12代将軍・徳川家慶・家定父子が鷹狩りの休憩の際に立ち寄り、さらに同地を訪れた尾張藩第12代藩主・徳川斉荘が「日本一菖蒲」「艸花」の讃を贈ったことから有名となり、庶民の評判を呼んだという。

名所江戸百景・堀切の花菖蒲

<p>「名所江戸百景」は、広重最大の名所絵の揃物。本図の舞台は、江戸からほど近い行楽地・菖蒲園(現在の葛飾区)。画面手前に数本の花菖蒲を大きく配し、奥に群生する菖蒲や訪れる人びとを描いています。大小の対比で遠近を感じさせる手法は本シリーズの特徴です。<br /></p>

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