本文に飛ぶ
異端(踏絵) / ColBase

やまと絵の近代 − 伝統の継承と革新への挑戦

やまと絵は、平安前期「唐絵」と呼ばれる中国由来の絵画に学びながら成立し、日本絵画の歴史の中で長らく描き継がれてきました。本展覧会では、江戸末期に登場した復古大和絵師の作品から、明治期の土佐派・住吉派画家の作品、大正期以降院展で活躍した「新古典主義」作家の作品、そして「新しいやまと絵」の成立を目指した新興大和絵会の作品を取り上げ、近代のやまと絵がどのように展開していったのかを振り返ります。

1. 古典的やまと絵の復活

室町期になると、やまと絵は最盛を迎え、土佐行広から京都で宮廷絵所を世襲する土佐派が誕生し、江戸前期には、住吉如慶が分家して住吉派を興しました。しかしながら、土佐派・住吉派とも幕末に向かっては衰退の一途を辿ります。そのような状況にあったやまと絵を往時の姿に立ち返らせようとする復古大和絵運動が、田中訥言浮田一蕙冷泉為恭によって起こりました。本セクションでは、復古大和絵師3人の作品を紹介します。

コラム① 「復古大和絵運動」とは?
「復古大和絵運動」とは、江戸後期に起こった古典的やまと絵の近世的復興を目指す絵画的運動のことを指します。 やまと絵の原典に接してその模写を精力的に行い、土佐派・住吉派ら既存のやまと絵流派にとらわれず、源流を遡って古典に規範を求め、活力あるやまと絵の創造を試みました。

1-1. 田中訥言(1767-1823)の作品

1. 田中訥言《舞楽図》
田中訥言は江戸後期の画家で、復古大和絵派の祖として知られています。土佐派を学んだのち、平安・鎌倉期のやまと絵を研究して復興に努めました。本作品は、2つの舞楽の演目を描いたもので、画面向かって左が陵王、向かって右が還城楽です。

田中訥言 関連資料

1-2. 浮田一蕙(1795-1829)の作品

6. 浮田一蕙《万里小路藤房像》
浮田一蕙は江戸後期の画家で、田中訥言に絵を学びました。平安・鎌倉期のやまと絵や有職故実を研究して、やまと絵の復興に努めるとともに、詩文と和歌に長じた勤王家でもありました。本作品は、土佐光信筆の《万里小路藤房像》を一蕙が模写したものです。

浮田一蕙 関連資料

1-3. 冷泉為恭(1823-1864)の作品

13. 冷泉為恭《後鳥羽院本三十六歌仙絵 小大君(模本)》
冷泉為恭は江戸後期の画家で、独学でやまと絵を修得しました。復古大和絵派の中では最も本格的な画技を身につけ、画域も広く、気品に富む作品を遺しました。本作品は三重・専修寺所蔵の「小大君」の模本ですが、繊細な線描により、高い完成度を誇っています。

冷泉為恭 関連資料

2. 伝統美術の擁護運動

明治12年になると、龍池会が美術における国粋保守派の活動の拠点となり、保守派の美術家に作品を制作・発表する場を提供するようになります。同会はその後日本美術協会へと発展し、山名貫義川辺御守住貫魚などの、土佐・住吉派の画家が多く参加しました。明治24年には、内部組織から独立した若手画家たちが日本青年絵画協会を結成し、土佐派の小堀鞆音邨田丹陵の作品が高い評価を得るようになりました。

2-1. 日本美術協会所属作家の作品

コラム② 「日本美術協会」とは?
「日本美術協会」とは、明治12年に佐野常民・河瀬秀治・九鬼隆一らが日本美術の伝統保存と啓蒙を期して組織した龍池会を母体とした美術団体です。 宮内省や皇室と密接に結びついた活動を展開し、明治20年代に最盛期を迎えました。
22. 山名貫義《仲国訪小督図》
山名貫義は明治期の画家で、住吉派の住吉弘貫に師事しました。住吉派の正系に学び、やまと絵の復興と古美術保存に力を尽くし、次代へ伝えた画家として知られています。本作品は高倉天皇の寵妾・小督を源仲国が捜し訪ねた平家物語の場面を描いたものです。

日本美術協会所属作家 関連資料

2-2. 日本青年絵画協会所属作家の作品

コラム③ 「日本青年絵画協会」とは?
「日本青年絵画協会」は、明治24年に日本美術協会の内部組織から独立した若手画家たちによって結成された後進育成のための団体です。 明治29年には、東京美術学校の卒業生である革新派の画家や京都の画家もメンバーに加わり、「日本絵画協会」と改称しました。
35. 小堀鞆音《恩賜の御衣》
小堀鞆音は明治から昭和期に活躍した画家です。有職故実に精通し、やまと絵の手法を継いだ歴史画や人物画を得意としました。本作品は菅原道真が太宰府で「恩賜の御衣は今此こに在り」と詠った一幕を描いたもので、第5回日本絵画共進会で銅牌を受章しました。

日本青年絵画協会所属作家 関連資料

3. 理想美の再発見

明治31年、小堀鞆音の門下生により紫紅会が結成されました。同会は今村紫紅の参加を契機に紅児会と改称し、新しい歴史画を創り出すことを目標に活動を行いました。紅児会が大正2年に解散すると、会員の多くは日本美術院に活動の場を移し、安田靫彦小林古径らが中心画家となります。彼らは古典的なやまと絵に理想美を見出して現代への再生を図ったことから、「新古典主義」の作家として位置付けられています。

3-1. 安田靫彦(1884-1978)の作品

43. 安田靫彦《室内》
安田靫彦は大正から昭和期にかけて活躍し、小堀鞆音に師事しました。やまと絵の伝統を独自に消化し、新たな格調ある歴史画を志向する画風が評価されました。本作品は室内の一角をとらえた静物画で、靫彦が得意とした鉄線描が用いられています。

安田靫彦 関連資料

3-2. 小林古径(1883-1957)の作品

53. 小林古径《出湯》
小林古径は明治から昭和期にかけて活躍し、梶田半古に師事しました。やまと絵の画法から出て、古典を新感覚で解釈し、ロマン派調を内省的な線で制御した知性的な画風の作品を遺しています。本作品は箱根芦ノ湖の原家別荘の温泉で着想を得て描かれました。

小林古径 関連資料

4. 新しいやまと絵への挑戦

大正8年から帝国美術院展覧会が始まり、洋画的表現の顕著な絵が注目を集めた一方で、伝統的なやまと絵から影響を受けた濃密な色彩の作品が増え、帝展内に大きな勢力を作ることとなります。この新たな傾向を起こしたのが、松岡映丘とその門下生たちです。映丘は岩田正巳穴山勝堂狩野光雅遠藤教三ら門下生を集めて新興大和絵会を結成し、現代生活にふさわしい新しいやまと絵を創り出すことを目指しました。

4-1. 松岡映丘(1881-1938)の作品

64. 松岡映丘《屋島の義経》
松岡映丘は明治から昭和期にかけて活躍し、山名貫義に師事しました。「新興大和絵」というスローガンを掲げ、やまと絵の新たな発展と近代化に尽くしました。本作品は源義経を主題とし、平家物語の冒頭部分に基づいて鎧や武具に至るまで忠実に描かれています。

松岡映丘 関連資料

4-2. 新興大和絵会所属作家の作品

コラム④ 「新興大和絵会」とは?
「新興大和絵会」とは、松岡映丘を顧問とした研究団体で、岩田正巳・穴山勝堂・狩野光雅・遠藤教三によって結成されました。 「古典の教養に立脚して時代に生きよ」という明快な方針のもと活動を行い、画壇を一時風靡しました。
70. 《草枕絵巻(上巻)》
本作品は明治39年に発表された夏目漱石の小説『草枕』を、松岡映丘とその門下生である新興大和絵会の参加メンバー総勢27名の画家が1段ずつを担当し、全3巻の絵巻に描いたものです。大正15年には築地本願寺礼拝堂にて「草枕絵巻展」が開催されました。

新興大和絵会所属作家 関連資料

関連文献