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穂井田忠友像(冷泉為恭筆) Portrait of Hoida Tadatomo by Reizei Tamechikaホイダタダトモゾウ(レイゼイタメチカヒツ)

解説

冷泉為恭〈れいぜいためちか・1823-64〉は、幕末の復古大和絵派の画家。画家狩野永泰の第3子として京都に生まれる。が、みずからは冷泉姓を名乗り、のち岡田家の養子となって、菅原姓を名乗った。画ははじめ父にしたがって狩野派を学ぶが、やがて大和絵に興味を抱き、古寺名刹に伝来の古画の模写を通じて大和絵の手法を学び取っていった。「源頼朝像」(東京国立博物館蔵)「法然上人絵伝」(京都知恩院蔵)などの模写作品をはじめ多数の作品を残すが、安政4年〈1857〉の大樹寺(愛知県岡崎市)の障壁画はかれの代表作とされる。あわせて上代様の書法や有職故実にも精通した。が、晩年、「伴大納言絵詞」の模写を願い、その所有者である京都所司代酒井忠義邸に出入りしたことが、幕府に通じているとの風聞を招き、尊皇派の追手からの逃亡生活を余儀なくされた。上賀茂の神光院、紀州粉河寺へ身を隠したが、元治元年〈1864〉5月5日、大和丹波市(奈良市天理市)で長州藩士によって非業の死を遂げた。42歳であった。本図の像主穂井田忠友〈ほいだただとも・1791-1847〉は、江戸時代後期の考古・古典学者である。摂津生玉神社社司穂井田某の養子。平田篤胤に入門して国学を、藤林普山に西洋医学を学ぶ。さらには、和歌を香川景樹に学び、桂門四天王・桂門十哲に数えられた。が、かれの真骨頂は古物とくに奈良時代の事物の考証にあった。その博識をもって「ならや」と呼ばれたほどである。とくに天保4年〈1833〉からの正倉院宝庫修理にあたっては器物・文書の調査が許され、『正倉院文書』の整理に従事、世間に広く知らしめるきっかけとなった。本図の像主が右手に持つ巻物の題簽に「東大寺正倉院忠友」と書き付けることによって、忠友の画像であることを示す。また、同時にかれの功績を称える為恭の深謀遠慮である。墨画淡彩の作品でありながら、像主の品格がよくあらわされており、為恭の力量の確かさを示す作品である。

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2022/10/31