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曾我廼家五郎旧蔵資料

国立劇場所蔵の芸能資料より、元祖日本の喜劇王・曾我廼家五郎の旧蔵資料をご紹介します。

 曾我廼家五郎旧蔵資料は、昭和45年(1970)に和田秀子氏より国立劇場に寄贈されたものです。記録によれば、脚本類671点、遺品類81点の合計752点の資料が寄贈されました。その後、これらの資料のうち、その一部については何度か資料展示の機会を得ましたが、曾我廼家五郎の初の特集展として寄贈資料を中心に展観したのが、令和4年(2022)に開催した企画展『曽我廼家五郎—喜劇の誕生』(国立演芸場資料展示室)です。本展は、展示監修に成蹊大学教授の日比野啓氏を迎え、国立劇場所蔵資料を通じて五郎の生涯と業績を辿るとともに、五郎劇の周辺や松竹新喜劇などその後継の喜劇を紹介し、好評を得ました。その後、日比野氏は令和6年(2024)に、五郎の人生と作品を演劇近代化の歴史に跡付ける初の本格評伝『「喜劇」の誕生—評伝・曾我廼家五郎』を刊行しています。今回は、あらためて日比野氏に資料の調査と解説の執筆を依頼し、令和4年の企画展で紹介できなかった資料を含め、曾我廼家五郎旧蔵資料をデジタルアーカイブとして公開します。


国立劇場調査養成部調査資料課

 日本ほど様々なジャンルの演劇が生まれ育った国はない。伝統芸能を大きく分けるだけでも能狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎があり、近代以降には新劇、新派、新国劇等が、そしてアングラや小劇場がそれぞれ別の上演慣行を保って発展してきた。人形劇や台詞劇、商業演劇等、 他国の演劇でも同種のものを見出すことができるジャンルもあるが、能や歌舞伎のように独自の形態として長らく認められてきたものも多い。

  なかでも特異なのが喜劇だ。喜劇は西欧のコメディの訳語とされるが、明治末期以降日本に結成された喜劇団がそうしてきたように、一つの番組で「笑いあり、涙あり」のものからドタバタまで、多岐にわたる内容の演目を三本から五本並べるという興行形態をとるものは西欧のコメディにはない。西欧の正統なコメディは上演にまるまる一晩かかる多幕物であり、 また社会や人間を鋭く諷刺するものが多いが、現在の松竹新喜劇を見ても多幕物はほとんどなく、人の心の機微をきめ細やかに描くことはあっても、政治や社会の風潮をチクリと刺すようなことはない。

 喜劇という日本独自の演劇ジャンルを開拓したのが曾我廼家五郎(1877〜1948)だ。五郎は「兄貴分」だった十郎(1869〜1925)とともに20世紀初頭に曾我廼家十郎五郎兄弟劇を旗揚げする。「曾我廼家劇」は、大阪俄というこれまた特異な芸能から大きく影響を受けながらも、西欧にもそれまでの日本にもない演劇としてまたたく間に観客の支持を集めた。その人気にあやかろうと同種の喜劇団が陸続と生まれたことで、前述のような独自の上演慣行と内容の「喜劇」というジャンルが社会に認知されるようになったわけだ。

 しかし今「曾我廼家劇」「五郎劇」が喜劇の嚆矢だったことを覚えている人は少ない。猪首で太りじしの曾我廼家五郎の姿、「浪花節語りのような」と評されたその割れた低い声、そして何よりも新橋演舞場や大阪・中座に詰めかけた老若男女の涙をひとしく搾り取った情感あふれるその芸は、もはや語り継がれていない。なぜ曾我廼家五郎が忘れられた存在になったのかについては拙著を読んでいただくとして、ひとまず日本近代演劇史において重要な足跡を残した五郎が、どんな人間でどんなことを考えていたのか、その遺品を手がかりに想像していただければ監修者としてこれほど嬉しいことはない。


日比野啓(成蹊大学文学部教授)

貼交屏風 「三十六快笑」似顔絵

昭和12年(1937)4月、五郎は三十六歌仙にちなんだと称して自作から36本の作品を選び、「三十六快笑」と名づけて赤坂日枝神社に奉告した。もともと一隻だったはずのこの二曲の貼交屏風には、「三十六快笑」の登場人物(ほとんどが主役)に扮した五郎の似顔絵が描かれている。鷹揚で気のいいお殿様、正直だが怒りっぽい肉体労働者、意固地な老婆など、年恰好も風体もさまざまな役柄に扮する五郎の芸幅の広さにあらためて驚かされる。

貼交屏風 五郎劇案内葉書

「当占御礼」(左上)「たのみます」(右真ん中)「ヲホイリオンレイ」(右下)等、文面は様々だが、五郎は公演案内の葉書に工夫を凝らして、色使いや奇抜な発想で一目で曾我廼家五郎劇団からのものだとわかるようにした。この貼交屏風にはそうした葉書や五郎直筆の短冊や色紙等が貼られている。

辻番付 元祖新喜劇曾我廼家大一座

明治38年(1905)6月1日に開演した、曾我廼家十郎・五郎一座の東京座公演の辻番付。前年2月に道頓堀五座の一つ、浪花座で興行を行った十郎・五郎一座は、続く京都朝日座や神戸朝日座で人気となり、この年4月には早くも新富座で初の東京公演を行った。6月の東京座公演は5月の市村座に続くもので、初期の代表作「無筆の号外」「喜劇十八番の内 忠臣蔵」等を出したが新富座・市村座と異なり集客に苦労したようで10日で打ち上げ、横浜・喜楽座に移っている。

瓢箪に無病息災の句

中国・明王朝時代に流行した表装形式を模した文人表装のうち、一文字のある丸表装にした掛軸。本紙には「今日無事(今日も事も無し) 無病息災」「昭和十四年葉月 曾我廼家五郎」と書かれ、南画風に描かれた大小の瓢箪の絵があしらわれている。本来贈答用に作られたのだろうが、何らかの理由で手元に残ったものと思われる。

富士に時鳥の句

日本独自の輪補三段表装仕立にした掛軸。本紙に書かれているのは「兄方(吉方、恵方ともいう)のふじ 聞〇哉 時鳥」(〇は不明)。描かれた山の稜線は富士山という見立てだ。曾我廼家五郎という芸名は仇討ちで有名な曾我兄弟の弟、曾我五郎時致にあやかってつけたものだが、時致が兄・曾我十郎祐成とともに父の仇である工藤祐経を討ち果たしたのは、源頼朝が富士の裾野で行った大規模な巻狩りの際のことだった。掛軸に富士山が描かれるのはよくあるが、五郎は格別の思い入れを持っていたのかもしれない。

手形の富士の図

「富士さんは我(わら)はの右の手型なり」という画賛の入った色紙を本紙とし、額装したもの。額縁は朱塗りの木枠。

「海」の似顔絵

昭和14年(1939)8月、大阪歌舞伎座で初演された「海」は「二十五分の短い作で、舞台一面を海にし、小舟で夜釣りをしている五郎の漁師が身投げの美人を助け、その女はそれを初めは嫌がりながら、再び生の執着からあべこべに助かつたのを喜んで逃げ出す」(「一堺荘漫筆」)というもので、評論家・三宅周太郎から「作意もウヰツト」があり、「舟をモーターにして動かすのが、廻り舞台にうまくはまるなど、実に才気煥発な作」と激賞され、本人としても会心の作だったようだ。俳優の似顔絵をよく描いた画家・芳賀敏兼(雅号・松龍庵)の筆によるもので、贔屓客が依頼して五郎に贈ったものだろう。

五郎の肖像画

油絵具で描かれ、黒を背景とした本格的な西洋風のポートレイト。大正14年(1925)に開場して以来昭和14年(1939)までの15年間、新橋演舞場で毎年公演を行ったことを記念して、五郎は『十五年の足跡』という本を刊行するとともに、この肖像画を劇場に飾らせた。喜劇俳優というより政治家や実業家のように見えるが、功成り名を遂げた五郎は、自分もまたそうした立派な人物の一人であると、見る者に思わせたかったのかもしれない。

楽屋鏡台

五郎が楽屋で使っていた鏡台。透かしの紋は花菱と浮線扇。このうち浮線扇は五郎の芸紋で、浮線蝶という紋の蝶を扇に代えたもの。花菱の由来は不明だが、この鏡台を寄贈した贔屓客の定紋かもしれない。

座布団

臙脂色の地に、五郎の芸紋である浮線扇が白く描かれている。天狗という寄贈主は不明だが、個人ではなく、料亭の名前のようにも思える。

法被

藍染の法被。衿の部分に「曾我廼家」、天柱紋には浮線扇、背の大紋には五郎。格子は菊五郎縞によく似ているが、よく見ると縦筋と横筋がそれぞれ5本、中に「呂」が入っているので、「五郎」と読ませることがわかる。

楽屋暖簾

贔屓筋から贈られた楽屋暖簾。紫地に、五郎の芸紋である浮線扇が真ん中に、「曽我廼家五郎丈江」、(送り主を表す)「名古屋 小幡 方」という文字が左右に、それぞれ白く染め抜かれ、右上には束ね熨斗が白く縁取りされたうえで赤く染め抜かれている。左下のロゴは「藤」の字を45度傾けた「井」の字と丸で囲んだもので、慶長16年(1611)、今の名古屋市中区で創業し、明治43年(1910)には業種変更して日本で2番目の百貨店となった、いとう呉服店の「いとう丸」。現在の松坂屋だ。

浴衣

木綿の単衣だが、法被と同様、縦筋と横筋がそれぞれ5本、中に「呂」が入っている「五郎縞」になっているので誂えたものだろう。

角帯。ミシン縫いなのでおそらく市販の量産品。八つ剣菱紋のように見える文様も、とくに意味はなかったと思われる。木綿の単衣にあわせて締めたのではないか。

長着

正絹紬の袷、縞柄。

拍子木

硬木製の四角柱という、一般的な拍子木。

御神前報告 三十六快笑集

昭和12年(1937)4月、五郎は三十六歌仙にちなんだと称して自作から36本の作品を選び、「三十六快笑」と名づけて赤坂・日枝神社に奉告する。明治38年(1905)6月初演『ハッピリー』から、昭和10年(1935)6月初演『湯の街』まで、よく上演されたものが選ばれたようだが、選択の基準は不明で、その後もとくにこれらの作品の上演回数が多くなった、ということはなかった。市川團十郎家の「歌舞伎十八番」、尾上菊五郎家の「新古演劇十種」など歌舞伎俳優の「家の芸」の向こうを張ったともとれる、この「三十六快笑」の題目は、古風に巻物に筆書で記されて桐箱に収められており、歌舞伎に負けない喜劇の伝統を作ろうという五郎の心意気をよく表している。

残存脚本一覧表

寄贈時の記録に「昭和二十五年調」とあるので、昭和23年(1948)11月1日の五郎の死後、跡目をめぐって争いが起き、東西に二代目曾我廼家五郎が両立していた時期に作製されたものか。大阪で二代目五郎を名乗った五郎の後妻、秀子夫人が、上演演目の選定を容易にできるよう、亡夫の脚本を整理して作らせたものだと思われる。400作以上の題目が並べられており、2種類の全集『曾我の家五郎喜劇全集』『曾我廼家五郎全集』に収録されていないものも多数ある。

月別興行成績表(昭和8年)

五郎はこれを毎年掛軸として作らせたようだ。月毎に上演演目・劇場が記され、日毎の興行成績が細かく報告されている。赤く塗りつぶされているように見えるのは「大入」の文字で、その日の公演が大入り満員だったことを表している。斜線の引かれた日は満員でなかったことを示す。また、この昭和8年(1933)の興行成績掛軸にはないものの、昭和9年(1934)の興行成績掛軸にある凡例を見ると、丸印は休日、丸の中に十字が入った印は乗込休(乗り込んだ先の劇場での仕込みのための休演)、四角は稽古のための休演だとある。いちばん左の欄には大入り満員の日数、公演日数、休演日数が記されており、たとえば昭和8年1月の新橋演舞場では公演日数29日のうち26日が大入り満員で、29日に打ち上げて休日を1日とった後、31日に翌月東京・新歌舞伎座での稽古を行ったことがわかる。

月別興行成績表(昭和9年)

昭和9年(1934)の興行成績掛軸。いちばん下の備考欄には、五郎劇に関する種々の出来事が記されている。たとえば1月1日に『村の女傑』が、2月1日に『無閑マダム』が封切とあり、この2作品の初演年月がわかる。

月別興行成績表(昭和10年)

昭和10年(1935)の興行成績掛軸。備考欄の1月10日には「松田文相ヨリ官邸ニまねかれて「君、日本精神発揚ノタメニ大イニ勉強シテクレ」ト……」とある。松田文相とは昭和9年(1934)7月に組閣された岡田啓介内閣で文部大臣を務めた松田源治(1875〜1936)のこと。大衆に人気のあった五郎劇を利用して国民精神の涵養に努めようとする政治家は多く、五郎もまたそのような政治家の誘いを喜んでいた。

月別興行成績表(昭和12年)

昭和12年(1937)の興行成績掛軸。備考欄に「十二月九日 南京陥落ニ際シ満員ノ観客ヲ前ニ舞台ヨリ万歳三唱」とあるのが目立つ。

月別興行成績表(昭和13年)

昭和13年(1938)の興行成績掛軸。備考欄に「閑院宮若宮妃殿下御台覧 一月十一日 御台覧ノ光栄ニ浴ス」とある。閑院宮若宮は昭和20年(1945)に第七代閑院宮となる春仁王(1902〜1988)を指すので、閑院宮若宮妃殿下とはその妻・一条直子(1908〜1991)のことだ。「敬三様応召入隊サル 六月三日光輝アル応召ニヨリ芽出度堺輜重四連隊に入隊サル 万々歳」とあるのは、五郎の息子・和田敬三の応召について記したもの。

月別興行成績表(昭和14年)

昭和14年(1939)の興行成績掛軸。3月12日、17日、18日、25日の欄には「慰問マチネー」とあり、御園座公演で昼興行を慰問公演として工員等を招待したことがわかる。また、7月新橋演舞場公演では18〜21日が丸印となり、その中に「防」「空」「演」「習」と書かれている。これは防空演習のための休演だ。

月別興行成績表(昭和15年)

昭和15年(1940)の興行成績掛軸。いちばん上に「皇紀二千六百年奉祝」とある。この年の10月からこれまでの記号ではなく、「休演」「乗込」「稽古」のスタンプが使われるようになる。同じ大入り満員でも「ヒル」「ヨル」と白抜きされるものが出てくるのは、昼興行・夜興行とも大入り満員だった、ということだろう。「慰問マチネー」「防空演習」の書き込みも散見される。

月別興行成績表(昭和16年)

昭和16年(1941)の興行成績掛軸。備考の11月の箇所に「十七日午後二時十分 豊島寅吉氏逝去」とある。豊島は明治37年(1904)2月の曾我廼家兄弟劇の浪花座初出演以来、太夫元(制作者兼マネージャー)として興行主である松竹と五郎を仲介してきた。備考の12月には「座長 松竹専属トナルト共ニ豊島系裏方従業員其儘座長直属トナル」とあり、8日の日米開戦直前に五郎劇の体制に大きな変化が起きていたことがわかる。

月別興行成績表(昭和17年)

昭和17年(1942)の興行成績掛軸。備考欄の正月に、「戦時下ノ新体制ニ即応シテ三時間半ノ一興行制トナリ正午ヨリ三時半マデ四時ヨリ七時半マデ二部制トナル」とある。昼興行と夜興行で演目を変えていたのを改め、1日2回同じ演目で上演することにした、ということだ。また開演・終演時間を早めたのは灯火管制のためだろう。備考欄の6月には「卅日 敬三殿 谷垣美代子嬢と婚約整ヒ午後二時ヨリ新大阪ホテルニテ芽出度華燭ノ典ヲ挙ゲラル」、8月には、「八日 歌舞伎座三階ホールニテ十時ヨリ敬三様新夫妻ノ披露会挙行」とある。備考欄で五郎の私生活が触れられることは息子の敬三のこと以外になく、五郎が息子のことを気にかけていたことがよくわかる。

月別興行成績表(昭和19年)

昭和19年(1944)の興行成績掛軸。昭和18年(1933)のものは残されていない。昭和17年(1942)までの興行成績掛軸にはない「慰問」の文字が目につく。昭和19年2月に「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、3月には歌舞伎座・新橋演舞場など大都市の19劇場が閉鎖されたので、これまでのように都市の大劇場で公演の最中に慰問公演を行なって工員や傷病兵等を無料招待するのではなく、地方の工場や病院に出かけて慰問公演を行うようになったからだ。備考欄の3月には「当劇団左ニ分割ス」とあって、五郎を座長とする五郎劇本体、大磯を座長とする別働隊がそれぞれ慰問に出かけることになったことが記されている。

五郎舞台写真帖

五郎の遺品が秀子夫人から寄贈された際に受け取った舞台写真を、国立劇場の当時のスタッフが分類してフォルダに収納したものだろう。ファイルの材質や経年変化の状態から、五郎劇の関係者が五郎の生前から分類していたものとは思われない。全部で749枚の写真が収められている。

御奉公足跡集(賞状集)

ボール紙に布張りの表紙に「御奉公」「足跡集」「曾我の家」とある。昭和6年(1931)9月、満州事変が始まる頃から、五郎は数々の国策に協力するようになる。傷病兵や工員の慰問のため各地の陸海軍病院や軍需工場に赴いて公演を行っただけでなく、軍需品購入のため献金を醵出(きょしゅつ)したり、「弾丸切手」とよばれる、戦費調達のため発売した、抽選くじ付きの郵便貯金債券の売りさばきに協力したりもした。「御奉公足跡集」は、五郎のその功労を讃え軍や官公庁、市町村の長などが送った感謝状を保存したもので、34点が残されている。その一つに『銃後の大阪』感謝状がある。「恤兵(じゅっぺい)映画」とは、前線で戦う兵士の慰安のために作られた映画のこと。映画『銃後の大阪』のうち、五郎劇の舞台「へちまの花」を記録した一部はマツダ映画社が保存している。

多与梨集(書簡集)

ボール紙に布張りの表紙には、半分消えかかった筆跡で「多与梨集」「曾我の家」とある。五郎が受け取った手紙や葉書をスクラップブックに貼っていったもの。差出人の名前・住所が書かれた裏書きまで貼られているものが多いのは、住所録を兼ねていたからだろう。メモ等が書き入れられていることはないので、正確な年月日まではわからない。全部で16通なので、ある時期に受け取ったものを貼っていったように思われる。有名無名を問わず選ばれているが、ファンレター等はなく、私信か官公庁からの感謝状が大半を占める。本名・和田久一名義で市村羽左衛門から五郎に宛てた手紙は、昭和18年(1943)9月の鳥取地震の際、巡業でその地を訪れていて被害に遭った羽左衛門の息子・十六世市村家橘(のちの二世市村吉五郎)の見舞いに五郎が訪れたことに礼を述べている。昭和15年(1940)10月の大日本俳優協会結成式以来、羽左衛門と五郎のあいだに交友関係が続いていたことを示すものだ。ほかに朝日新聞記者で随筆家としても名が高かった杉村楚人冠が、高齢による健康悪化のせいで招待された公演に行けない詫びを書いたもの等もある。五郎は大正3年(1914)7月の外遊のとき楚人冠の知己を得ていた。

阿呆陀羅経木魚

昭和14年(1939)10月、新橋演舞場で初演された「阿呆陀羅経」の小道具。本作で五郎は弟の罪を被って刑に服し、出獄後に阿呆陀羅経屋となった兄を演じた。江戸中期に大坂で始まったといわれる阿呆陀羅経は俗謡の一種。経文めかした文句を願人坊主とよばれた僧形の門付芸人が小さな2個の木魚をたたき、または扇子で拍子をとりながら歌い歩いて、銭を乞うたことから始まり、大正期には寄席芸としても演じられた。

眼鏡・眼鏡台

五郎が愛用した鼈甲の丸眼鏡と眼鏡台。

インクスタンド

伊東屋ロメオ万年筆と同様、五郎が執筆の際に使用したもの。製造元は不明だが、蓋が金箔で縁取りがしてある等凝った作りで、高価なものだったと思われる。

万年筆

大正3年(1914)に発売されたという伊東屋オリジナルのロメオ万年筆は14金のペン先、独特の丸みを帯びたデザインは流行のアール・デコ風。ただし、発売時のカタログに掲載された3種類のロメオ万年筆はどれももっと細身で、軸に幾何学模様が入っているものが多かったから、特注して作らせたものかもしれない。

文鎮

『大大阪市民新聞』は大正14年(1925)5月、太田舜堂によって創刊され、昭和16年(1941)頃まで発刊されていた新聞。何かの記念に贈呈されたものだろうが、五郎との関係も含め、詳細は不明。

水差し

ガラスの小瓶にカニや海草、色紙等を保存液とともに詰めたもので、真ん中の1本の台紙には科学標本のように「ウミノシタ」「ヘイケカニ」というラベルが貼られている。寄贈時の記録には「水差し」と残るが、海浜観光地の土産物として売られていたものではないか。五郎の甥で、のちに東京で二代目曾我廼家五郎を名乗って、大阪で二代目五郎となった後妻・秀子夫人と対立することになる蝶太郎(本名・荒井勝次郎)は、五郎劇団をやめた後、熱海で隠遁生活をしていた。昭和23年(1948)10月、死の床についていた五郎のもとを訪れた際に、蝶太郎がこの土産物を持ってきたという想像はできなくもない。

雅印

篆書体で曾我廼家と彫ってある雅印。印材は紫水晶のようだが、経年変化で褪色している。

原稿用紙

中央に芸紋の浮線扇と「一堺漁人脚本用紙」が印刷されている特製の脚本用紙。原稿用紙のような枡目はなく、登場人物とその台詞を分けて書けるよう、上に横線が2本入っている。縦も、太い線で区切られた枠内に細い線で引かれているのは、訂正や加筆をするためのスペースだったはずだ。どこで作られたかは判然としないが、丸善が作家のために特製原稿用紙を作っていたことはよく知られている。

「大正四年当用日記」

博文館が刊行していた日記帳『大正四年当用日記』。1月1日の頁から記述は始まっているが、その内容は大正4年(1915)ではなく、昭和22年(1947)のもの。古川緑波が詳細に日記をつけていたのは有名だが、五郎に日記をつける習慣があったかは不明だ。

「欧州巡遊記念落書證」

黒い革張で横開きになったものの見返しの遊びに、Adressbuch(アドレス帳)とドイツ語で書かれ、その後はHisakazu Wada (“Soganoya Goro”—Stage Name) / Member of Japanese Comic Actors Society, Osaka, Japan)と続く白い紙が上下逆さまに貼り付けられている。最初の頁には「欧州巡遊記念 落書證」とあり、次頁からは大正3年(1914)6月に出国し、朝鮮半島からシベリア鉄道を経由してドイツやイギリスに滞在したときに知己となった人々が25頁にわたって名前と住所を書いている。さらに一言二言書き添える人も、無署名で見開き2頁に及ぶ文を書き連ねている人もいる。有名無名を問わないが、のちにドイツ演劇研究の大家となる新関良三の名前もある。その後、空白の1頁を挟んで昭和21年(1946)の日記になる。

「新聞雑誌投稿集」

布張りの茶の表紙に、油性ペンで「新聞雑誌投稿集」「昭十四、十一、廿三調」「一堺漁人」と書いてある。糸綴じで頁はバラバラになる寸前になっている。見返しに「新聞雑誌の投稿の下がきとして」云々とある。「一堺荘漫筆」は、五郎劇の絵本番付(公演プログラム)にいつも五郎が載せていた随筆。

「腹案覚」

表表紙に「昭和六年三月大阪中座記念 創立三十周年改調」とあり、背表紙に「寄贈 一堺漁人脚本台帳 松 曾我廼家五郎蔵書 東京雀寿司本店」とある。前半では新聞・雑誌に寄稿した記録が記される。後半では「昭和八年三月調査」「執筆脚本目次一冊綴」とあり、作品が「晴天の巻」「紅顔の巻」というように11の「巻」に分類されて1巻には50作品あるいは30作品が並べられている。分類の基準は不明で、大まかな時代順になっていると思われるものの、厳密な初演年月順でもなく、また2種類の全集での並び順にも一致しない。

「腹案乱雑記」

表表紙には黒の背景に赤字で「昭和十五年七月京都」「皇紀二千六百年記念改調」「腹案乱雑記」とあり、背表紙には金箔押しで『一堺漁人作脚本台帳4 曾我廼家五郎蔵書』とある。上演作品の腹案(アイデア)が複数収録されている。腹案なので、上演記録の残っていない作品も含まれる。211〜222頁には「終戦後上演可能性狂言」が、昭和21年(1946)2月3日調査の結果として挙げられている。占領期にGHQの傘下機関である民間検閲局(CCD)は演劇台本の検閲も行った。日本の軍国主義・国家主義や、封建思想の宣伝になる作品は上演を禁じられたが、五郎は検閲される前に上演禁止になりそうな作品を自ら外していたようだ。

「上演狂言明記」

表表紙には黒の背景に赤字で「上演狂言明記」とあり、背表紙には「一堺漁人脚本台帳10 曾我廼家五郎蔵書」と記されている。作品ごとに上演地(大阪、京都、東京、名古屋・神戸、其他と分かれている)と年月・劇場名を記したもの。作品名のすぐ下の数字は上演時間だろう。過去の作品を上演するために選ぶ際、新作の上演時間との兼ね合いで見繕うのに役立ったはずだ。

「口上挨拶」

表表紙には黒の背景には何も書かれてないが、背表紙には「寄贈 一堺漁人脚本台帳 竹 曾我廼家五郎蔵書 東京雀寿司本店」とある。絵本番付の冒頭にかならず掲載されていた五郎の「口上挨拶」自筆原稿。大正12年(1923)10月大阪中座興行から昭和9年(1934)7月大阪歌舞伎座興行まで、1頁に一つの興行の口上挨拶が書かれている。五郎の几帳面さがうかがえるだけでなく、大正14年(1925)10月30日初日甲府大和座での興行の口上挨拶等、番付の所在が不明で、種々の記録にも残ってない興行の口上挨拶もある、貴重な史料。

スクラップ帳「東京劇評」

布張りの茶の表紙に、油性ペンで「東京 劇評」と書いてある。昭和10年(1935)5月4日〜昭和12年(1937)1月までの新聞記事が掲載されている。最後が曾我廼家蝶六の死亡記事になっていることからわかるように、劇評に限らず、新聞に掲載された五郎劇関連の記事を切り貼りしている。新聞名と年月日を記した丸印スタンプを押しており、五郎の生真面目さがうかがえる。現在では原紙が保存されていない新聞も多い。また、巻末には昭和7年(1932)6月1日付の『曾我廼家新聞』、同年11月1日付の『新歌舞伎ニュース』が綴じられている。

スクラップ帳「第三号劇評」

SCRAPBOOKと印刷された茶の紙表紙に「第三号 劇評」「昭和五年十一月興行 帝都御目見得揃(ならび)二十五週年紀念興行 於帝国劇場」とある。昭和5年(1930)1月から昭和7年(1932)7月までの新聞記事が切り貼りされている。昭和5年に松竹は帝国劇場を買収し、同年6月に五郎劇は初出演となった。そのことに五郎は興奮して雑誌記者に話していたことを評論家の三宅周太郎が記している。帝劇出演が五郎のなかで一つの区切りとなったことは間違いない。

スクラップ帳「第参号劇評切抜帖」

ダンボール紙製の表表紙に「第参号(昭和十八年に前後して) 劇評切抜帖」と書かれている。昭和17年(1942)~昭和18年(1943)の上演作品、ことに移動演劇と時代物の大作『千利休』関連の記事関連の切り抜きが多い。『大阪保険』第四号(昭和4年(1929)11月1日)も綴じられている。

スクラップ帳「劇評集」

黒の表表紙に赤インクで「劇評集」「Collected by S. Kashiwagi」とあり、見返しには「自昭和七年九月 至(空欄)」「劇評集」「Edited by Sencho」とある。柏木泉蝶は五郎の遠縁にあたる人で、当時五郎劇の脚本部に属していた。昭和9年(1934)5月までの五郎劇関連の新聞・雑誌記事が切り貼りされている。

スクラップ帳「第二号劇評」

SCRAPBOOKと印刷された茶のボール紙製の表表紙に「第二号 劇評」とあり、「曾我の家太郎(?)」と勘亭流で書かれた千社札が2枚貼ってある。赤い「大入」の貼り文字が2箇所、白いものが1箇所。「曾我廼家五郎劇文芸部」の青インクのスタンプも押されている。昭和4年(1929)5月〜昭和5年(1930)10月公演についての新聞劇評が切り貼りされている。

スクラップ帳「切抜」

茶のボール紙製の表表紙に「切抜 自 昭和十五年三月興行 至 十六年五月興行」と書かれている。昭和15年(1940)3月に行われた「満支鮮巡演公演」(満州、中華民国、朝鮮の三カ国巡演公演)のチラシや、同年10月の大日本俳優協会の発足を伝える新聞記事等も貼られている。明治42年(1909)年に結成された大日本俳優協会は歌舞伎俳優の組合だったが、このとき発足した大日本俳優協会では新派や喜劇の俳優も加わった。五郎は監事の末席に連なったことをことのほか喜んでいたようだ。

スクラップ帳「切抜帳」

茶のボール紙製の表表紙に「昭和七年十一月 切抜帳」と書かれている。直線だけで構成された文字は当時流行していたモダニズム風のもの。昭和8年(1933)5月5日付JAPAN TIMESに掲載された5月新橋演舞場公演の劇評が切り抜かれ、柏木泉蝶の手によるその翻訳がその横に貼られている。興味深いのは観客からの手紙を貼り付けていること。『東京日日新聞』に掲載された昭和16年(1941)5月新橋演舞場公演についての三宅周太郎の劇評に反論する内容で、五郎が新聞劇評に一喜一憂していること、一観客の感想に力づけられることもあることがよくわかる。

スクラップ帳「特殊切抜」

ベージュのボール紙製の表表紙、「昭和八年度特殊切抜」と書かれた題字の横に赤字で「昭和二十年度特殊切抜帖」とある。特殊切抜帖とはありながら新聞劇評の切り貼りが多い。そうでないものとしては、アメリカ軍が配布した伝単(宣伝謀略用の印刷物)が貼られているのが興味深い。「日本軍部指導者諸君 諸君は、日本の国土、海域及び上空を防衛し得ると日本国民を信服させる事が出来るだらうか。」とあり、東条英機をはじめとする軍人たちの顔写真を載せているのは、文字どおり日本軍部指導者に向けて発せられたというよりも、一般人の動揺を狙ったものだろう。これを貼り付けておいたところに、五郎の、というより、当時の国民の心情がうかがい知られる。新聞で報道されなくても、この頃になると日本の敗戦は市井の人間にも十分予測されるものだった。

スクラップ帳「SCRAP BOOK」

硬い紙の茶の表紙にはSCRAPBOOKと印刷されているだけで、中身も月日のみ記されて年が記されていないが、「敵艦見ゆ」や十郎の追善劇についての新聞記事の切り抜きが最初に貼られており、これらが7月の記事と記されていることから、昭和10年(1935)からの記録だとわかる。昭和11年7月の大阪歌舞伎座公演の宣伝が切り抜かれていること、また昭和9年11月25日に亡くなった五郎の糟糠の妻ヤスヱの三回忌の墓参の記事が出ていることから、昭和10年・11年の新聞記事の切り抜きであることがわかる。

スクラップ帳「脚本用参考新聞切抜集」

茶のボール紙製の表表紙に「脚本用 参考 新聞切抜集((2))昭和一三年、七、一調」とある。「脚本創作用 参考 新聞切抜集((4))」は昭和14年(1939)の新聞記事の切り貼りだったから、約半年で1冊のスクラップブックを消費していたようだ。創作のためとはいえ、その几帳面さには感心させられる。もっとも、切り抜きもせず、貼られてもいない新聞が挟まれていたりするので、五郎の多忙さも伝わってくる。

スクラップ帳「脚本創作用参考新聞切抜集」

茶のボール紙製の表表紙に「脚本創作用 参考 新聞切抜集((4))」と万年筆で書かれている。新聞劇評をおもに切り貼りしたスクラップブックの筆跡とは明らかに異なり、五郎の自筆のように思える。前者は柏木泉蝶はじめ五郎劇脚本部の人間が作成したのだろうが、この「脚本創作用新聞切抜集」は文字どおり五郎が創作のために自分で切り抜いて作っていたものだろう。五郎は新聞で報じられた事件をもとに台本を書くことがよくあった。記事の日付を見ると、昭和14年(1939)のものが大半となっている。同年に出版された『十五年の足跡』の表紙見本も貼り付けてあり、自著の装幀についても五郎はこだわっていたことをうかがわせる。

自筆上演台本

「千利休 堺の巻」「海」「黄金の雨」「日支隣同士」「へちまの花」の自筆上演台本。五郎の上演台本は阪急池田文庫等も所蔵しているが、このように布表紙をつけて題箋(だいせん)を貼り、和綴(四つ目綴じ)にするという凝った装幀のものはほかに見かけない。贔屓客等への贈答品として作成したとも考えられる。題箋に「午歳の巻 第八号」等とあるのは、「腹案覚」にもある五郎独自の分類法だが、どういう基準で分類していたのかは不明。ここに挙げた5冊を含む計487冊の上演台本が寄贈されている。

「十五年の足跡」

大正14年(1925)に開場して以来昭和14年(1939)までの15年間、新橋演舞場で毎年公演を行ったことを記念して、双雅房から出版された。各年の新橋演舞場公演での演目のリストと、新聞各紙に掲載された劇評の抜粋、その時々に自分の身に起きた出来事を語る五郎の随筆からなる。

「曾我廼家五郎全集」

全12巻。アルス社より、昭和5年(1930)〜昭和8年(1933)にかけて刊行された。アルス社の社長は、詩人・北原白秋の兄だった北原鉄雄。『白秋全集』全18巻など文化・芸術関係に強く、『曾我廼家五郎全集』とほぼ同時期に『精神分析大系』というシリーズで日本初のフロイト選集を全14巻で刊行していた。

「曾我の家五郎喜劇全集」

五郎が一般読者のために刊行した2種類の戯曲全集の一つ。全20編。大鐙閣より大正11年(1922)〜12年(1923)にかけて出版された。大正9年(1920)から『マルクス全集』を刊行し、他にも『日本文化史』全12巻などの学術書の刊行元として知られていた大鐙閣から、五郎がなぜ全集を出すことになったのかは定かではない。博文館や大日本雄弁会講談社といった大衆向けの書籍を多く出していた出版社を選ばなかったのは、喜劇の創始者としての自らの権威と正統性を欲していた五郎らしい。そもそも商業演劇の作品が活字になることはまれで、たとえば松竹新喜劇に数々の名作を提供した舘直志(二代渋谷天外の筆名)は戯曲集を公刊していない。舞台人の間では、「上演台本」は舞台で俳優が演じてはじめて生命がやどるもので、「戯曲」として自立しているものではない、という考えが根強くあるからだろう。けれども五郎は、自分の作品を「文学」つまり読むものとして世に問うことにした。活字として残すことが歴史に残ることだ、という確信があったのだ。

契約書(興行権譲渡)

五郎の死のちょうど1年前、昭和22年(1947)11月1日付で交わされた興行権譲渡の契約書。「曾我廼家五郎劇一座ノ支配人トシテ貴殿ニ興業権一式ヲ依任吏候」という冒頭で言及される、萩村鉄郎なる人物の来歴等は不詳。昭和16年(1941)11月の太夫元・豊島寅吉の死後、五郎は松竹専属となっていたが、この時期に至ってなぜ新たな代理人を立てることになったのかは不明だ。もっとも、翌年3月以降、五郎は喉頭がんの手術の予後が悪く入院したまま休演続きとなり、五郎劇の命運は再び松竹が握ることとなったから、この契約以降も萩村が活躍することはほとんどなかった。
参考:企画展 曽我廼家五郎―「喜劇」の誕生
令和4年8月1日~11月23日(※開催終了) 国立演芸場 演芸資料展示室 展示監修:日比野啓 曽我廼家五郎(そがのや・ごろう、1877〜1948)は、歌舞伎の下廻りだった同僚の十郎とともに1904年、道頓堀・浪花座で「改良大喜劇」と称して曽我の家十郎・五郎一座を旗揚げし、明治末期の日本に「喜劇団」ブームが起きるきっかけを作った人物です。五郎劇と呼ばれたその作品や上演は、現在の松竹新喜劇の人情喜劇の系譜に継承されているとはいえ、今ではその名を知る人は少なくなりました。この展示では、戦前の東京大阪の商家で「歌舞伎に行こうか五郎劇に行こうか」と言われたほどの人気と格式を誇った五郎劇の概要を紹介しながら、国立劇場所蔵の遺品を中心に、かつての「喜劇王」曽我廼家五郎の生涯と業績をたどります。
参考: 「喜劇」の誕生―評伝・曾我廼家五郎
著者:日比野啓 令和6年(2024)刊行、白水社 松竹新喜劇の「伝統」を創った元祖・日本の喜劇王!曾我廼家五郎(1877-1948)の初の本格評伝。歌舞伎や俄をもとに、日本に「喜劇」という語を定着させ、明治・大正のモダニズム文化を駆け抜け、エノケンやロッパが登場してくる昭和初期まで唯一の日本の喜劇王として君臨した曾我廼家五郎は、なぜ忘れられてしまったか?戦争の時代を経て喉頭ガンで亡くなるまでの人生と作品を、国立劇場所蔵品をはじめ浩瀚な資料とともに、当時の政治や社会の動きと関連づけながら跡づけてゆく。最初は革新者、後年は伝統の体現者として歴史に名を残そうと格闘するさまが明らかに!文化的正当性をめぐる、「泣き笑い」の日本近代史。