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北大路魯山人の肖像 / 国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

北大路魯山人

日本の陶芸家。書家、篆刻家としても一家をなし、絵画、料理などでも活躍した多彩な芸術家。美食家としても知られる。

1883-1959(明治16-昭和34)

陶芸家。書家。篆刻家。本名房次郎(ふさじろう)。明治16年(1883)3月23日、京都・上賀茂神社の社家(禰宜)北大路清操(きたおおじきよあや)の次男に生まれる。誕生前に父が死亡して生後すぐに里子に出され、10歳の時に木版師福田武造の養子となった。小学校卒業後、京都市内の薬屋での丁稚奉公を経て養父の仕事を手伝いながら西洋看板のペンキ描きを職とし、社寺や商店が主催する懸賞の「一字書き」に応募して賞金を得るようになって書への興味を深めた。

明治36年(1903)上京。翌年11月に日本美術展覧会に隷書「千字文」出品して一等賞を受けて書家として頭角を現し、書家の岡本可亭(岡本太郎の祖父)の弟子となった。明治40年(1907)、24歳で福田鴨亭(ふくだおうてい)を名乗って独立。明治43年(1910)、朝鮮京城に赴き、総督府印刷局勤務のかたわらに書道、篆刻を学び、上海に呉昌碩(ごしょうせき)を訪ねた。帰国後は福田大観を名乗り、数年間にわたって東京、京都、長浜、金沢を転々としながら文人、数寄者との交流を深め、老舗の名店や旅館の濡れ額(屋外に掲げる刻字看板)を多数制作し、竹内栖鳳、川合玉堂らの落款印を刻していずれも高い評価を得た。また、須田菁華から陶芸の手ほどきを受け、料理探求への関心を本格化させた。

大正5年(1916)、生家の姓を継いで北大路房次郎となり、この頃から北大路魯卿を号とした。大正8年(1919)に東京京橋で古美術店「太雅堂芸術店(のちに太雅堂美術店)」を開店。来客に料理を出す「美食倶楽部」を店内に設けて好評を博し、さらに大正14年(1925)に赤坂山王台に会員制の高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を開設。みずから料理長なって料理・食器の演出に腕をふるって成功をおさめた。昭和2年(1927)には茶寮の食器を焼くために北鎌倉に星岡窯(せいこうよう)を築き、陶芸に本格的に取り組んで作品展をたびたび開催するが、昭和11年(1936)に経営上の理由で茶寮を解雇され、以後は星岡窯を拠点に作陶に専念し、日本画、漆芸などにも手を染めた。

昭和29年(1954)、米欧各地を訪れ、個展、講演を催して国際的な名声を得たが、昭和34年(1959)12月21日死去。


関連する人・もの・こと

本で知る

魯山人作印章「雅俗山荘珍賞」 (『雅俗山荘漫筆 第二』)

白獅子の印鈕に二字三行で「雅俗山荘珍賞」。阪急電鉄、宝塚少女歌劇団、阪急百貨店を創立した実業家小林一三のために魯山人が制作したもの。小林は美術品の収集家としてもしられ、特に愛玩した品にはこの印を押した小片を貼っていたという。「雅俗山荘」は小林の旧邸の称。「逸翁美術館」として使われていたが、現在は「小林一三記念館」となっている。

北大路魯卿 『常用漢字三体習字帳』

北大路魯卿名義の書道の手本。大正13年(1924)9月、日本書院刊。

北大路家蒐蔵古陶磁展観図録

魯山人が収集した陶磁器の図録。昭和9年(1934)9月26日から29日に上野の松坂屋で開催された「北大路家蒐蔵古陶磁展覧会」と銘打った売立の際の目録として制作された。魯山人が製陶の参考と研究のために蒐集した5000点を超える収集品の中から自ら選んだ約200点の写真を載せる。魯山人はこの選択について「安くとも面白いものを選んだ」と述べている。

星岡茶寮 『輝く日本』伸び行く大阪

大阪の星岡茶寮について記す。昭和11年大阪毎日新聞社刊。「すべての食器陶磁、漆器、卓、その他室内外の装備にいたるまで、有名な北大路魯山人氏の製作あるひは意匠により成つてゐるため典雅、趣味的なることこの上なく、(略)現在会員千数百名」とする。

書籍にみる魯山人の名前の変遷

福田大観 『京都ダィレクトリー』 大正4年

大正4年(1915)に刊行された京都に関する名鑑。「美術」の項に「附記 彫刻及篆刻家」として、「福田大観」の名が見られる。篆刻家としての名が高まった頃の資料。

北大路魯卿 『栖鳳印存』広告(官報 大正10年06月01日 2649所収) 

『栖鳳印存』は、竹内栖鳳(たけうちせいほう)の印譜。副題「北大路魯卿先生篆」。魯山人の篆刻によって、大正3年(1914)から大正9年(1920)までに使用された88点を収録する。東京本郷の文明堂書店刊。唐本仕立帙入二冊。掲出画像はその広告文で、大正10年(1921)6月の官報の末尾に載っているところから、本書の刊行も同年と思われる。「本印譜は斯界の泰斗北大路魯卿先生の筆に成るもの 篆刻上の感興としても見るべきもの頗る多し」という惹句から、当時すでに魯山人が篆刻の大家として扱われていたことがわかる。なお、『栖鳳印存』は、昭和56年(1981)に覆刻版が刊行されている。

北大路魯卿 『常用漢字三体習字帳』大正13年

大正13年(1924)9月刊行。政治家で当時文部大臣だった鎌田栄吉の序。「氏(魯山人)が我が国書界に於ける最近の声価は既に世の周く知る所、以て之を学ぶ者は所謂一挙にして両得なることが能きやうと思ふ」とある。

北大路房次郎 『職業別電話名簿』(東京・横浜近県)大正15年。

大正14年(1925)に開設された「星岡茶寮」の名が載る職業別電話帳。名義人は「北大路房次郎」。

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北大路魯山人書簡 牧野伸顕宛

魯山人から牧野伸顕に宛てた書簡。昭和初期の魯山人は永田町で高級料亭の星岡茶寮を運営する一方、北鎌倉に星岡窯を築き作陶に励んでいた。この書簡は星岡窯への招待状であり、大根の煮ころがしなどの田舎料理でもてなしたいと述べている。便箋の左下には「星岡茶寮」と印刷されており、専用の便箋であることがわかる。

上加茂社家町の図

上賀茂神社の社家町周辺の地図。近世中期頃写。上が北。中央上に「大田社(太田神社)」があり、その南に「北大路町」の名が見える。魯山人の生家北大路家はこの付近にあったものと思われる。

明治4年5月7日 「仕人北大路清操印鑑遺失ニ付謹慎」

魯山人の父親の北大路清操に対して謹慎5日の処分を言い渡す刑部省の行政文書(明治4年5月7日付)。処分の理由は、小川町の元土屋邸(旧土浦藩邸)と坂下門の中間のあたりで、皇居の門に出入りするための「御門鑑札」を紛失したことによる。同年2月に清操は神祇官配下の使番の役を雇止となっており(『明治4年神祇官太政官往復留』)、この時期は宮内省管轄の内舎人局の「仕人」として東京で職についていたと思われる。「刑部省」は、明治政府成立時の最高司法機関。明治2年(1869)設置。

北大路魯山人肖像 外部サイト

昭和25年(1950)撮影。 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

北大路魯山人肖像 外部サイト

昭和29年(1954)12月撮影。 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

呉昌碩書扁額「道徳文章」

中国、清末の文人で、書家・篆刻家として知られた呉昌碩(1844-1927)の印。魯山人がその風を慕って、上海に尋ねて篆書の扁額をもらったとされる。

須田菁華作 色絵古九谷写徳利

魯山人が陶芸を学んだ須田菁華の作品。

絵葉書

「大阪星岡茶寮の庭園の花菖蒲」と題された絵が印刷された絵葉書。カラー印刷。菖蒲の花が咲いている庭園が描かれている。

星岡窯

臥龍峡 星岡窯入口(鎌倉山崎)

星岡窯入口の切通し。大正から昭和初期

やきものの里山崎

星岡窯付近。昭和34年(1959)皆吉邦雄撮影。

倉久保付近

撮影場所は深沢地域、山崎の星岡窯の付近。昭和41年(1966)鈴木正一郎撮影。

新作品陳列場 星岡窯(鎌倉山崎)

大正から昭和初期。

星岡窯工房 (『北大路家蒐蔵古陶磁展観図録』写真)

手前の棚は、伊賀、信楽、唐津、などの窯跡から発掘された陶片を陳列している。その奥が工房の正面。

星岡窯参考館内部(『北大路家蒐蔵古陶磁展観図録』写真)

参考館は昭和2年(1927)に星岡窯の山寄りの奥の方に建てられた。魯山人が蒐集したの多くの陶磁器がガラスケースに入れられ、赤絵は赤絵、染付は染付、唐津は唐津というように陳列されていた。

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タイトル主催者会場開始終了

魯山人作の器

鉢

紅白椿鉢 / 北大路魯山人 (1883 - 1959)

粉引鉢 / 北大路魯山人 (1883 - 1959)

なんばん手鉢

日本画家横山大観の旧蔵品。

花入・花生

呉須花入 / 北大路魯山人 (1883 - 1959)

織部不老長春字花生

皿など

織部魚鱗文俎板角鉢

織部焼の脚付き板皿は作者の特徴を最もよく伝えると言われる作風の一つ。本作では緑釉の帯と鉄絵による三角形の鱗模様が海浜の風情を思い起こさせる。この形の皿は焼き魚、刺身や鮨、前菜など様々な料理の盛り付けに重宝で、作陶から饗膳まで一貫した美を追求した作者の姿勢が感じられる。

椀

その他

見に行く

  • 足立美術館 外部サイト

    島根県の美術館。約400点の魯山人コレクションを所蔵。2020年に開館した「魯山人館」では、120点以上の作品が常時展示されている。庭園の美しさでも知られる。

  • 魯山人寓居跡 いろは草庵 外部サイト

    大正4年秋から翌年春までの約半年間、魯山人は山代温泉に滞在し、菁華窯などの刻字看板を彫った。 「いろは草庵」は、その寓居を当時そのままに公開するしている。 仕事場や書斎、囲炉裏の間が見学できるほか、土蔵を改装した展示室では作品も展示している。  

参考文献

  1. 山田和 著,文藝春秋