茶の湯の器3 唐津焼・萩焼・薩摩焼・高取焼・京焼
唐津焼・萩焼・薩摩焼・高取焼・京焼の茶陶。
「茶陶」は、茶の湯のための焼き物のことで、茶碗や茶入、水指、花入、懐石器などをさす。ここでは、桃山時代に日本に渡来した朝鮮陶工たちの手によって発展、あるいは、開窯した唐津焼・萩焼・薩摩焼・高取焼と、江戸時代初期に優雅な色絵様式を確立し、以後茶陶が盛んに作られた京焼の茶の湯の器を紹介する。
唐津焼
佐賀県唐津市を中心に、古くは肥前一帯(佐賀県と長崎県の一部)で作られていた陶器。茶の湯の世界では、「一楽、二萩、三唐津」といわれ、そのわびた風情から、古来茶道具に用いられ、珍重されてきた。室町時代末期には既に窯業が行われていたとみられるが、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の後、渡来した朝鮮陶工によって窯が増加し、本格的な生産が開始した。朝鮮の焼き物の特徴を残した素朴な風合いを魅力とし、鉄絵の具で文様を描いた「絵唐津」がよく知られる。
萩焼
山口県萩市・長門市で作られる陶器。大名茶人であった萩藩主・毛利輝元が、文禄・慶長の役の後に朝鮮から日本に渡った陶工・李勺光、李敬兄弟に、御用窯として開窯させたのを始まりとする。ざっくりとした荒い陶土を生かした、柔らかく素朴な作風で、絵付けなどの装飾はほぼ行われない。また、吸水性があるため、使い込む内に表面の貫入から茶が浸透し、色合いが変化するのも特徴。遺品には井戸茶碗などの高麗茶碗を写したものが多い。
薩摩焼
鹿児島県で作られた陶器。文禄・慶長の役の後に、薩摩藩主・島津義弘が連れ帰った朝鮮陶工が藩内の各地に窯を開いたことに始まる。その時の陶工の人数は80人にものぼるといわれ、薩摩焼の古窯跡は50箇所以上知られる。各窯場は粘土や陶工の技法の違いによって多様な展開をみせたが、後に5系統に分けられ、その内、竪野系、龍門司系、苗代川系の3系統が現在も残っている。土の精製を繰り返すことで鉄分を取り除いた「白薩摩」、鉄分の多い陶土を用いて黒褐釉を掛けた「黒薩摩」が伝統的に焼かれていたが、江戸末期に竪野窯が京都の色絵技法を導入して以後、色絵が主流となった。
高取焼
福岡県で作られる陶器。文禄・慶長の役の頃に、福岡藩主・黒田長政に従って日本に渡来した、朝鮮陶工・八山(日本名高取八蔵)が慶長5年(1600)に、現直方市にある鷹取山の麓に窯を築いたのが発祥とされる。以降、内ヶ磯、山田などに窯を移しながら、黒田藩の藩窯として栄えた。初期には、当時流行していた織部好みの豪快な茶陶が作られたが、後に、小堀遠州の指導を受けて、綺麗さびを感じさせる遠州好みの瀟洒で洗練された茶陶を作った。
京焼
桃山時代以降に、京都で作られた陶器の総称。一般的に楽焼は除外する。江戸時代初期より東山一帯を中心に本格的な作陶がはじまり、17世紀中頃、野々村仁清が洛西の御室仁和寺門前に開窯。仁清が茶人・金森宗和の指導を受け、優雅な色絵陶器を大成したことにより、華やかで洗練された色絵を特徴とする京焼の典型が完成した。続いて、仁清の陶法を学んだ尾形乾山(けんざん)が鳴滝に開窯。兄・尾形光琳と組んで琳派の画風を取り入れた雅な加飾陶器を作り、人気を博した。その後、京焼は一時不振になったが、18世紀後半、奥田穎川(えいせん)が京焼で初めて磁器製造に成功して以降、第二の黄金時代を迎え、初代清水六兵衛、仁阿弥道八、永楽保全などの名工が活躍した。
関連するひと・こと・もの
参考文献
- 茶道資料館 編,淡交社
- 仁木正格 著,主婦の友社
- 陶工房編集部 編,誠文堂新光社