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頼山陽

江戸後期の詩人、史家。その著書『日本外史』『日本政記』は簡潔な名文で、幕末・維新期の思想界に大きな影響を及ぼした

1780-1832(安永9-天保3)

 江戸後期の漢詩人、史家。名は襄(のぼる)、字 (あざな)は子成(しせい)。通称は久太郎(ひさたろう、後、きゅうたろう)、また徳太郎。山陽・三十六峰外史と号した。父は、広島藩儒の頼春水 (らいしゅんすい)。母は大坂の町医者飯岡義斎(いのおかぎさい)の娘静子(号、梅颸 (ばいし) 1760-1843 )。父の弟の頼杏坪(らいきょうへい)も儒学者で広島藩儒。幕末の志士頼三樹三郎(らいみきさぶろう)は山陽の三男。

父春水が家塾を開いていた大坂江戸堀の生まれ。春水が広島藩儒者となって広島に移り、少年時から叔父杏坪の指導で素読を始めて才をあらわした。寛政9年(1797)18歳のとき江戸の昌平坂学問所に遊学。叔父にあたる尾藤二洲(びとうじしゅう)に学び、翌10年(1798)に帰郷。御園淳子と結婚するが、寛政12年(1800)21歳のとき脱藩・出奔。24歳まで自宅の一室に幽閉されて淳子とは離縁となり、二人の間に生まれた長男聿庵(いつあん)は父春水の子として育てられた。文化6年(1809)、30歳で父の友人の儒者・漢詩人の菅茶山 (かんちゃざん) の廉塾 (れんじゅく) の塾頭をつとめた後、文化8年(1811)に京都で私塾を開いて生計を立て、文化11年(1814)に二人目の妻りえ(梨影)を迎えた。

文政元年(1818年)、父春水の三年忌の忌明けを期して西遊の旅にたち、約1年間九州各地を遊歴。「雲か山か呉 (ご) か越 (えつ) か 水天髣髴青一髪 (せいいっぱつ)」という詩句で有名な「泊天草洋(天草洋に泊す)」詩は、この旅中の詩作。この頃から山陽の文名は高まり、文政5年(1822)に三本木通丸太町に水西荘を構えて終の棲家とし、多くの門人に囲まれながら、小石元瑞(こいしげんずい)、篠崎小竹(しのざきしょうちく)、浦上春琴(うらがみしゅんきん)、梁川星巌(やながわせいがん)などの知友と交わった。

詩は杜甫、韓愈、蘇軾に学んで詠史詩を得意とし、文は近世後期の第一人者と称され、簡潔かつ情熱的な名文で多くの読者を得た。日本の武家の歴史を記した『日本外史』は文政9年(1826)成稿。翌年求められて松平定信に献上されるなど生前から写本として流布し、死後刊行されて明治にいたるまで大ベストセラーとなった。日本の歴史を詠じた『日本楽府』は文政13年(1828)の上梓で、生前唯一の刊行書。他に、文政8年までの詩を自選した『山陽詩鈔』(天保3年、1832刊)、史書『日本政記(弘化2年、1845刊)、文政9年以降の詩を編年で収めた『山陽遺稿』(天保12年、1841刊)、政論書『通議』(天保11年、1804刊)などがある。天保3年(1832)9月23日に53歳で没。墓は京都東山長楽寺に現存する。


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江戸後期の史書。頼山陽著。22巻。文政9年(1826)成立、松平定信に献じられた。源平二氏から徳川氏に至る経過と、代表的武家の沿革を漢文体で記す。文章の魅力と尊王思想の明解さとによって一大ベストセラーとなり、明治初年に至るまで非常に流行した。生前から写本として流布し、版本としては、著者没後の天保7年(1836)頃に刊行された拙修斎叢書所収の木活字版全22冊をはじめとして多くの版がある。そのうちでは、弘化元年(1844)の川越藩による版 (川越版・松平氏版)が最も普及したとされる。掲出は川越版の見返しと序の冒頭。

拙修斎叢書の一冊として刊行された『日本外史』。山陽没後の天保7年(1836)頃刊。木活字版。22冊。それまでは写本として流通していた同書初の刊本。「拙修斎叢書」は中西忠蔵(1796頃−?)を版元とし、頼山陽、中井竹山、尾藤二洲(びとうじしゅう)らの著作を木活字版によって収録した叢書。中西は元金沢藩の武士。字は伯基。江戸に出て昌平黌に学び、江戸下谷御徒町幕府御家人中西家を継いで出版に携わった。掲出は国立公文書館の内閣文庫所蔵本。川中島での上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの場面。版心に「拙修斎叢書」の文字が見える。

江戸時代後期の画家、村瀬秋水(1794−1876)による『日本外史』の写本。秋水が若年の頃に刊行以前の『日本外史』草稿を山陽本人から借りて写したもの。後に人に請われて手放すが、文久4年(1864)再び入手し、数十年ぶりにめぐりあった喜びを掲出の識語に記している。村瀬秋水は、美濃国、上有知(こうずち)の人。姓は源、名は徽、字は世猷。秋水と号した。

漢詩集。1巻1冊。頼山陽著。文政11年(1828)成立、同13年(1830)刊。聖徳太子から豊臣秀吉までの歴史上の人物から題目を選んだ楽府体の66首から成る。明の李東陽著「擬古楽府」を模したもの。掲出の詩は本能寺の変をうたった一首。

江戸後期の史書。16巻。頼山陽著。天保3年(1832)成立。天保9年(1838)序、弘化2年(1845)刊。木活字版。山陽が生前に完成した最後の著述で、代表的業績の一つ。神武天皇から後陽成天皇に至る間の日本史を漢文編年体で記し、歴史叙述の間に主要な人物の業績や事項をめぐって山陽独自の史観を述べる。『日本外史』とともにしばしば版を重ね、幕末から明治にかけて広い思想的影響を与えた。文久元年(1861)に頼氏正本が刊行された。掲出本は、刊年不明の木活字版。

漢文体の政論書。3巻。木活字本。頼山陽著。和漢の史実を通して、政治、経済、国防などに関する自説を述べる。『日本外史』『日本政記』とならぶ、頼山陽の代表的著述。その初刊は山陽没後8年の天保11年(1840)で、『日本外史』や『日本政記』と同じく、中西忠蔵による「拙修斎叢書」の一環として刊行された。掲出は佐賀県立図書館本。版心に「拙修斎叢書」の文字が見える。

漢詩集。頼山陽著。後藤松陰校。菅茶山評、篠崎小竹序。大本8巻4冊。天保4年(1833)刊。寛政5年(1793)から文政8年(1825)に至る、山陽14歳から46歳までの自選の詩を編年して収録。山陽没後の刊行。文政9年(1826)以降の作品は『山陽遺稿』(天保12年刊)に収められる。異版、注釈も多く、多くの読者を得た。

巻一所収、上杉謙信と武田信玄の川中島での一騎打ちを題材とした「題不識菴撃機山図」詩。「鞭声粛々夜過河、暁見千兵擁大牙、遺恨十年磨一剣、流星光底逸長蛇」。「雲耶山耶呉耶越、水天髣髴青一髪」で知られる「泊天草洋」と並んで、山陽の作中もっとも人口に膾炙した詩。「不識菴」は上杉謙信、「機山」は武田信玄の号。

漢詩文集。頼山陽著。文集10巻・詩集7巻・拾遺(詩)1巻・附行状。篠崎小竹序。天保12年(1841)編刊。山陽の死後門人の編纂によるもので、文集は、書・論・伝・碑・記・序・雑の体別に121篇を収録。詩集7巻は文政9年(1826)以降、山陽没の天保3年(1832)9月に至る7年間の作約八百首中から530首を収める。晩年の円熟した境地の詩は『山陽詩鈔』よりも本書に見るべきものが多いとされる。

森鷗外の書き入れのある『山陽遺稿』。森鷗外の旧蔵書である東京大学総合図書館「鷗外文庫」所収。書入れは巻四の「北条子譲墓碣銘」に集中しており、巣鴨真性寺にある北条霞亭の墓碣銘の文章と『山陽遺稿』所収のそれとの比較に用いられたことがうかがわれる。掲出画像に見られる「霞亭先生北条君墓」という朱字の書き入れは、『山陽遺稿』になく真性寺墓碣銘には存在する語句に対する鷗外の注記。

伝記・評伝など

肖像・旧居など

頼山陽の肖像。大雅堂・池野義亮画。天保3年(1832)8月の作。山陽の死の直前、門人達が同門の弟子で画家であった池野義亮(池大雅の子)に依嘱して、山陽の形見として描かせたもの。原画は、広島県呉市の文化財。

頼山陽の塑像。最晩年の衰えた容貌を描いた大雅堂義亮作の肖像より生前の姿を伝えるともいう。

頼山陽の似顔。揮毫に応じる山陽を、友人の山本梅逸(南画家。1783-1856)が横からスケッチしたものという。生前日常の風貌をよく伝える。

頼山陽の生誕地(遺趾)。大坂江戸堀北一丁目浜側にあった父春水の家で、春水はここで家塾靑山社を開いていた。前を流れる江戸堀川の北べりに臨んだ書斎を「春水南軒」(江戸堀川の春水を南に控えた書斎の意) と号し、それがやがて「春水」の雅号の出所となった。

頼山陽がその死までの晩年を過ごした住居。鴨川に架かる丸太町橋の西側のたもとに位置し、鴨川を隔てて東山連峰を望んだ。水際には書斎の「山紫水明処」が設けられた。当時の水西荘の様子は、山陽の依頼で仙台の画家・菅井梅関が描いた「水西荘図」(文政13年)によってうかがい知ることができる。

頼山陽が晩年を過ごした住居「水西荘」内に建てた書斎。文政11年(1828)建築。国定史跡。四畳半と二畳の二室と水屋からなる藁葺平家建。「水西荘」内に築かれた建築物のなかで唯一現存する建物。『日本政記』の執筆もここでなされた。

京都市東山長楽寺の山陽墓所。

松平定信に献上された『日本外史』原本。

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頼山陽の肖像画賛の原稿。上は、親友の篠崎小竹に宛てた自筆原稿で、賛の前半部分。文末の「垂死襄上(死にそうな山陽より)」に驚いて小竹は大坂を発ち、9月17日京の山陽宅に到着。2人は連日語らい、小竹の到着の6日後の23日山陽臨終。下は、後に小竹が揮毫した賛の後半部分。2人で作った賛文の続きや、山陽から最後の著作『日本政記』を託されたことなどを記録する。

頼山陽最晩年の天保3年(1832)に喀血した際の心情を詠じたものである。末尾に、後藤世張(松陰)にあてた8月17日付の手紙を附属する。

頼山陽が詩人として私淑する中国宋代の蘇東坡の詩集から「書王定国所蔵煙江畳嶂図」「遊金山寺」「衆星堂雪一首」と題する詩などを抄出し揮毫したもの。蘇東坡のほか、明の董其昌の書風の影響をうけた山陽ならではの書の実力を発揮している。

江戸時代後期の南画家、金井烏洲(かないうじゅう 1796-1857)作の「月ヶ瀬探梅図巻」に寄せた頼山陽の題。天保2年(1831)、烏洲が同巻を携えて水西荘に山陽を訪ねて題賛を請うたもの。山陽はこれに「筆籠萬玉」の題と3首の絶句を与えた。「月ヶ瀬探梅図巻」は、烏洲が奈良県添上郡の梅の名所月ヶ瀬梅渓の景観を描いたもので、山陽の他に、浦上春琴、篠崎小竹、小石元瑞らが題跋を寄せている。

文政12年(1829)3月、上京中の母と妻子を伴って伊勢神宮に参拝した際の作。山陽50歳の作。自筆。「平地生雲気、橫天畳木陰 萬年神在處 兆庶子来心 此水流今古 何人測浅深 姦雄欺裔冑 不遁大陽臨」。

山陽は、当時儒者の主流であった唐様書道に長じ、比較的多くの遺品が伝存する。この一行書「春風到此山」(春風此の山に到る)は、筆勢も強く堂々とした筆致を示す。

七言絶句十二首からなる山陽の「十二媛絶句」は文政10年(1827)の詠作とされるが、この屏風にはそのうち10首が書写されている(「仏御前」「千手前」が抜けて「菖蒲」「伊賀局」が入る)。文政10年の執筆とすれば、山陽48歳であった。行書体を中心に整然とした書きぶりは、唐様の能書を遺憾なく発揮する。

篠崎小竹は江戸後期の儒学者(1781-1851)。頼山陽の友人。文中に「長州園記、今早春より被託、此節せかまれ、如此書キなくり申候」とある「長州園記」は、長州藩の抱屋敷(かかえやしき)について山陽が記した「鎮海園記」のこと。完成をせかされた山陽が、文章の批正を小竹に依頼する文面。宛所に「小竹老兄 世張同覧」とある「世張」は山陽の弟子の後藤松陰(1797−1864)の字(あざな)。松陰は小竹の婿でともに大坂在住。翌日の9月2日にも「園記」の批正を急ぐよう催促する山陽の書状(篠崎小竹宛)が『頼山陽全書 全伝 下』(木崎愛吉、頼成一 共編)に収録されている。

「貴稿」を正月早々読み終わったが返事をするのを忘れたこと、海鼠腸(このわた)を贈られて酒の肴とした礼などを述べる。日付は「閏正月17日」。山陽の在世中の閏正月は享和3年(1803)または文政5年(1822)が該当するが、享和3年は出奔後自室に幽閉されていた時期でふさわしくない。文政5年なら山陽43歳、水西荘を構えて終の棲家とする直前にあたる。

耶馬渓は頼山陽が名づけたことで有名になった大分県北西部の名勝。菊池寛の『恩讐の彼方に』の舞台となった「青の洞門」がある。作者の杜秋艇は豊後の国(大分県)日田の人。姓は森氏だったが、頼山陽の勧めにより杜の字に改めたという。田能村竹田に絵を学んだ南宗画家。

江戸時代後期の南画家、田能村竹田作。天保3年(1832)、3歳年下の友人であった頼山陽に頼まれて本作を描いたが、これを届けに京都に向かう途中で、山陽は死去し、翌4年にその経緯を書き加えて、共通の友である木米(もくべい)に贈ったもの。その直後に木米も没した。

山陽の家族

頼山陽の父(1746-1816)。杏坪の兄。広島藩の藩儒。尾藤二洲らと朱子学を奉じ、藩の儒学興隆と程朱学への統一に尽くした。名は惟寛、字は伯栗。通称弥太郎。著「春水遺稿」など。『近世名家肖像図巻』は、松平定信が谷文晁に命じて描かせ、座右に備えたものと伝えられ、当時の名士46人の肖像を収録する。

頼山陽の叔父(1756-1834)。山陽の父春水の末弟。名は惟柔、字は季立、別号は春草。広島藩の藩儒として宋学の興隆に努力のかたわら、山陽の教育に尽力した。著「芸備通志」「春草堂詩鈔」など。『近世名家肖像図巻』は、松平定信が谷文晁に命じて描かせ、座右に備えたものと伝えられ、当時の名士46人の肖像を収録する。

中国の古典『書経』(尚書・商書ともいう。孔子の刪定した中国古代の政道を記したもの)の「咸有一徳」に記される一文である。長鋒の筆先を自在に操る、器用な一面をのぞかせる。中国明の書法である。

山陽の母静子は大坂の医師飯岡義斎の娘。香川景樹に師事して和歌をよくし、梅颸(ばいし)と号した。文章も巧みで84歳で没するまでの50年以上にわたる日記を残した。掲出は春水との新婚旅行記の一節で、静子20歳の筆跡。

頼山陽の三男(1825-1859)。幕末に梁川星巖、梅田雲浜らとともに尊攘派の志士として活動したが、安政の大獄で捕えられ、吉田松陰、橋本左内らとともに刑死した。

頼三樹三郎自詠の七言絶句。語意ならびに田能村直入(たのむらちょくにゅう 1814-1907)の箱書から、直入に与えた詩幅であったと思われる。三樹三郎は狂生を号するほど気性の激しい性格の持ち主であったようだが、この筆跡にはその僻は見られない。比較的穏やかな筆致である。

頼支峰(らいしほう 1823-89)は、江戸末期の儒者。頼山陽の二男。名は復(あきお)、字は士剛(しごう)。父山陽の高弟の後藤松陰(1797-1864)、牧百峰(1801-1863)らに学び、詩文をよくした。掲出は支峰の子・潔(きよし 1857-1929)の箱書によると、支峰詠「秦蔵六画彜」と題する詩という。

二洲は江戸後期の儒学者で頼山陽の叔父(山陽の母静子の妹が二洲の妻)。柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれた。特に漢詩に造詣が深く、その学問は簡明にして重厚、特に歴史事象の考察を得意として「寛政異学の禁」以後の儒学界をリードした。その字も明瞭な表現が特徴的。

江馬細香(1789-1861)は、幕末の女流画家・詩人。大垣の侍医江馬蘭斎の次女。画を玉潾和尚 (ぎょくりんおしょう)、浦上春琴に学んだ。頼山陽・梁川星厳らと親交があり、特に山陽は細香と結婚しようとしたが、父蘭斎の拒絶にあって、これを断念したと伝えるられる。詩集『湘夢遺稿』は、山陽の批評を付して死後出版されたもの。

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参考文献