上杉謙信
越後の戦国大名。武田信玄との川中島の戦いで知られる
1530-1578(享禄3-天正6)
戦国時代の武将。越後の守護代長尾為景(ながおためかげ)の子。初名は虎千代、元服して景虎(かげとら)、のち政虎(まさとら)、輝虎(てるとら)に改名。道号ははじめ宗心、元亀元年(1570)から不識院謙信。父為景は実質的な越後国主で、死後は嫡子晴景(はるかげ)が継いだが、長尾一族では内紛が続いた。晴景の弟であった景虎(謙信)は春日山(新潟県上越市)の臨済宗林泉(りんせん)寺の天室光育(てんしつこういく)に預けられたのち、母方の古志(こし)長尾家の栃尾(とちお)城(新潟県長岡市)に移り、中越地方を掌握した。晴景や長尾政景(まさかげ)との抗争を経て、天文17年(1548)末、晴景を継いで春日山城に入り、天文20年(1551)には政景を制圧して上越・中越地方を統一した。また政景の子の喜平次(きへいじ、のちの上杉景勝)を養子にして、下越地方の「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれた領主らを掌握、越後一国を領した。
以後、外征に転じ、天文21年(1552)には小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)に追われた関東管領(かんとうかんれい)上杉憲政(うえすぎのりまさ)支援のため関東に出兵。同年、従五位下、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任じられ、翌22年(1553)には上洛して後奈良(ごなら)天皇に拝謁した。その後、関東出兵は永禄12年(1569)まで続く。一方、甲斐の武田信玄に追われた小笠原長時(おがさわらながとき)、村上義清(むらかみよしきよ)らを支援した北信濃出兵は川中島(かわなかじま)の戦いとして有名で、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで繰り返された。
永禄2年(1559)に再上洛し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)に拝謁。同4年小田原の北条氏康を攻めたが、落城させるには至らず撤退した。その直後、上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られて上杉政虎(うえすぎまさとら)と称し、古河公方の足利藤氏(あしかがふじうじ)を擁し、厩橋(うまやばし)城(群馬県前橋市)を関東進出の拠点とした。永禄12年(1569)北条氏康と和睦(わぼく)して越相(えつそう)同盟を結び、ともに武田信玄に対抗したが、天正元年(1573)の信玄死後は越中・能登・加賀に進出し織田信長と対峙することとなった。天正6年(1578)3月、春日山城で没。林泉寺と高野山清浄心(しょうじょうしん)院に供養塔があり、墓は明治初年に上杉家廟所(山形県米沢市)に移された。終生妻をもたず、死後に養子の景勝と景虎の間で跡目争いの御館(おたて)の乱が起こる。勝利した景勝は上杉家の当主となり、出羽米沢藩の初代藩主となった。
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上越観光Navi(公益社団法人 上越観光コンベンション協会)
長野県長野市にある。
上杉家文書(国宝)はじめ、関連史資料を所蔵。
長野県長野市若里1-1-4に所在。
新潟文化物語
新潟県のホームページ
上越市のホームページ
栃尾観光協会
一般社団法人米沢観光物産協会監修サイト。
武田信玄と上杉謙信の戦いを通して戦国時代を知る。
上杉謙信像(江戸末、写)を見ることができる。
参考文献
- サンプルページ「上杉謙信」の項。
- サンプルページ「上杉謙信」の項。
- サンプルページ「上杉謙信」の項。