疫病(大井皐龍さん作成)
病気に関する資料を集めました。
僕は病気に関する資料を集めてみようと思いました。とちゅうで調べる言葉を昔の言葉に合わせて疫病と変えて探してみたりして工夫しました。いろんな資料を集めてみると、病気について調べていたのに、土偶や仮面、お祭りの資料などが出てきて、「なんでだろう?」とぎもんに思いました。調べているうちに、「土偶や仮面やお祭りは、昔は病気とかをおさめたいという気持ちの目的だったのかな?」という考えがうかびました。集めた資料は、いろんな見せ方をできると聞いたので、地図であらわすやつと写真とせつめいであらわすやつでまとめました。
疫病の資料の地図
疫病にかんする資料
- 土偶
東京国立博物館,Tokyo National Museum
土偶は縄文時代草創期に上半身を簡略化したものが出現し、その後、全身を表現するようになり、後期・晩期には東日本で盛行します。多くは乳房の表現をもつことから女性を表すとみられ、出産などの子孫繁栄や、病気やけがを治すお守りとして用いられたと考えられています。(東京国立博物館)
- 福田型銅鐸
徳川頼貞氏寄贈,Gift of Mr. Tokugawa Yorisada,東京国立博物館,Tokyo National Museum
銅鐸には病気や災厄を避けるために眼や顔を表現したものがあり、これを邪視文+じゃしもん+銅鐸と呼んでいます。初例が広島市東区福田(木の宗山)から発見されたことから「福田型銅鐸」とも呼ばれていますが、近年同じ鋳型で作られた銅鐸との関係から佐賀地域で作られたものと考えられています。(東京国立博物館)
- 薬師如来立像
北又留四郎氏他2名寄贈,Gift of Mr. Kitamata Tomeshirō and two others,東京国立博物館,Tokyo National Museum
霊山として知られる那智山+なちさん+で、経典類を埋納する経塚+きょうづか+から出土しました。左手に蓋つきの薬壺+やっこ+を持つことから、病気治癒で知られる薬師如来とわかる点は貴重です。大きな頭部、重ねるような衣のひだに飛鳥時代後期ごろの特色がうかがえます。(東京国立博物館)
- アイヌ鍬形
北海道アイヌ,Hokkaido Ainu,尾田勝吉氏・泉麟太郎氏寄贈,Gift of Mr. Oda Katsukichi and Mr. Izumi Rintaro,東京国立博物館,Tokyo National Museum
アイヌ語でペラウシトミカムイ<へらをお持ちになる宝の神さま>などといわれる。古い兜の鍬形を模したもので病気をなおす呪具として用いられた。山の洞窟に秘匿されたり、地中深く埋められたりしたため伝世するものはない。本資料も偶然に畑から発掘された。 アイヌは身のまわりにある自然から得られた様々な素材を巧みに利用し、日々の生活に用いていました。例えば美しい刺繍のパッチワークが施された樹皮製の衣服「アットゥシ」や、見事な彫刻が施されたた木製のお盆は、その代表です。 アイヌはそのほかにも、ガラスや金属など、自分たちでは作らなかった素材や製品を、周辺民族や和人(わじん)との交易によって手に入れていました。アイヌ自らが作った道具と共に、ガラスや金属で作られた道具を、自分たちの暮らしに役立てていたのです。 この作品は、アイヌが和人から手に入れたもののひとつで、本州で用いられた、兜の前に立てる飾りである「鍬形」(くわがた)を模したものです。全体を鉄で作り、銀の金具で装飾を施しています。こうした鍬形は、アイヌ語では「ぺラウシトムカムイ」つまり「箆(へら)をお持ちになっている宝の神さま」、あるいは「キラウシトミカムイ」つまり「角(つの)をお持ちになっている宝の神さま」とも呼ばれています。病人の枕元におくことで病気を治し、災いを払うなどの霊力をもつ宝物として用いられました。 アイヌの宝物の中でも特に重要とされた鍬形は、集落の有力者が用いるものとされていました。家に置いておくと祟(たた)りをもたらすため、普段は山の洞窟に隠しておかれたり、地中深くに埋められたりしました。そのため、伝世品として現在に受け継がれている例はなく、現在知られているものは全て、偶然に発見されたものです。この作品も大正5年1916年に、北海道栗山町(くりやまちょう)の畑地の開墾中に、重なって発見された7点の鍬形の一つです。(東京国立博物館)
- アイヌ鍬形
北海道アイヌ,尾田勝吉氏・泉麟太郎氏寄贈,東京国立博物館
アイヌは身のまわりにある自然から得られた様々な素材を巧みに利用し、日々の生活に用いていました。例えば美しい刺繍のパッチワークが施された樹皮製の衣服「アットゥシ」や、見事な彫刻が施されたた木製のお盆は、その代表です。 アイヌはそのほかにも、ガラスや金属など、自分たちでは作らなかった素材や製品を、周辺民族や和人(わじん)との交易によって手に入れていました。アイヌ自らが作った道具と共に、ガラスや金属で作られた道具を、自分たちの暮らしに役立てていたのです。 この作品は、アイヌが和人から手に入れたもののひとつで、本州で用いられた、兜の前に立てる飾りである「鍬形」(くわがた)を模したものです。全体を鉄で作り、銀の金具で装飾を施しています。こうした鍬形は、アイヌ語では「ぺラウシトムカムイ」つまり「箆(へら)をお持ちになっている宝の神さま」、あるいは「キラウシトミカムイ」つまり「角(つの)をお持ちになっている宝の神さま」とも呼ばれています。病人の枕元におくことで病気を治し、災いを払うなどの霊力をもつ宝物として用いられました。 アイヌの宝物の中でも特に重要とされた鍬形は、集落の有力者が用いるものとされていました。家に置いておくと祟(たた)りをもたらすため、普段は山の洞窟に隠しておかれたり、地中深くに埋められたりしました。そのため、伝世品として現在に受け継がれている例はなく、現在知られているものは全て、偶然に発見されたものです。この作品も大正5年1916年に、北海道栗山町(くりやまちょう)の畑地の開墾中に、重なって発見された7点の鍬形の一つです。(東京国立博物館)
- 馬鈴薯の疫病とその防ぎかた
農林省農政局 編,農業技術協会
- 辟邪絵 天刑星
奈良国立博物館,Nara National Museum
辟邪絵五幅は、邪悪な鬼類を退治する五つの辟邪神(天刑星・鍾馗(しょうき)・栴檀乾闥婆(せんだんけんだつば)・神虫(しんちゅう)・毘沙門天(びしゃもんてん))を描く一巻の絵巻が、切断されて掛幅に改められたものである。描かれる諸神はいずれも中国の辟邪信仰に基づくものと考えられるが、画風や詞書の書風が近似する沙門地獄草紙(しゃもんじごくぞうし)一巻(同じく切断され諸家分蔵)とともに伝来したことから、ともに六道絵(ろくどうえ)の一部を構成していたという見解がある。このうち天刑星図は、岩に腰掛ける天刑星が、四臂に悪鬼をつかんで喰う姿が画面いっぱいに描かれる。朱・丹・緑青による対比を強調した色調や、強い朱隈を施した肉身描写、仏画を思わせる張りの強い鉄線描などを用いる画風など、平安から鎌倉にかかる時期の南都仏画に近い。天刑星の特色ある姿形についても、平安後期に奈良で描かれた額装本華厳五十五所絵(東大寺蔵)のうち大天神像に極めて近いことが指摘されている。本図の詞書によれば、天刑星が捕えて食べている悪鬼は、牛頭天王(ごずてんのう)をはじめとする疫鬼であるという。天刑星は、もともと天界にいて星々を司るとされる中国の道教神で、わが国では陰陽道(おんみょうどう)において駆使される式神(しきがみ)の根源として重視されるとともに、祇園社(ぎおんしゃ)に祭神として祀られる牛頭天王の同体異名とも考えられた(『神道集』巻第三「祇園大明神集」)。また天刑星は真言密教でも重視され、鎌倉時代初期には疫病に対する祈寿法として天刑星法が盛んに行われたという。本絵巻が描かれる時点で天刑星が牛頭天王と同体と認識されていたかは不明だが、辟邪新の天刑星が疫病を司る神である牛頭天王が習合していく過程を示唆しており、大変興味深い。(奈良国立博物館)
- 牛頭天王宮社号額
これは、牛頭天王を祀った牛頭天王宮(天王社)に掲げられていた社号額。裏面の銘により、寛文13年〈1673〉7月に奉懸されたもの。 牛頭天王は祇園精舎(釈迦が説法を行った寺院)の守護神とされ、日本では神仏習合により、蘇民将来説話の武塔神や素戔嗚尊と同一視された。疫病を鎮める神として信仰され、祇園社および牛頭天王社に祀られたが、明治政府の神仏分離令により、多くの祇園社・牛頭天王社が牛頭天王を素戔嗚尊と切り離し、素戔嗚尊を祭神とするようになった。仏教由来の「祇園」や「牛頭天王」の語を社名から外す神社も多く(京都の祇園社が八坂神社に改称した例が有名である)、この社号額も、そうした風潮により流出したものであろう。(慶應義塾ミュージアム・コモンズ)
- 「観音霊験記」 「西国順礼」「二十一番」「丹後国 穴穂寺」「辰女」
豊国〈3〉、広重〈2〉,万亭 応賀,南伝弐 山庄板 山田屋 庄次郎(錦橋堂)
目録に拠ると西国順礼三十三番・秩父順礼三十四番・坂東順礼三十三番の計100枚の揃物。以下目録題。 ○西国順礼三十三番 01那智山 和泉式部・02紀三井寺 威光上人・03粉川寺 渋川左太夫・04槙の尾 光明皇后・05藤井寺 藤井安基・06壺坂寺 すがる・07岡寺 長門の少女・08長谷寺 中臣信親・09南円堂 冬嗣公・10三室戸寺 農女・11醍醐寺 聖宝僧正・12岩間寺 はせを翁・13石山寺 良弁僧正・14三井寺 杉女・15今熊野 後白川院・16清水寺 盛久・17六波羅密寺 空也・18六角堂 聖徳太子・19革堂 東山大工・20良峰寺 源算上人・21穴穂寺 辰女・22総持寺 山陰中納言・23勝尾寺 百済国の后・24中山寺 美丈丸・25新清水 赤松氏範・26法花山 法道仙人・27書写山 性空上人・28成相寺 斉遠禅師・29松尾寺 宗太夫・30竹生島 松室の児・31長命寺 佐原藤十郎・32観音寺 人魚・33谷汲 金売信満/○秩父順礼三十四番 01(034)四万部 幻通沙門・02(035)大棚 夜行鬼女・03(036)岩本 子持石・04(037)荒木 荒木丹下・05(038)語歌堂 本間孫八・06(039)萩の堂 禅客・07(040)牛伏 悪臣悪報・08(041)西善寺 唄念仏・09(042)明智寺 横瀬兵衛・10(043)大慈寺 儒仏論・11(044)坂氷 門海沙門・12(045)野坂寺 山賊遁世・13(046)はけの下 火難の女・14(047)今宮 石原宮内・15(048)蔵福寺 疫病降伏・16(049)西光寺 円比丘・17(050)林寺 林定元・18(051)神門 巫女神託・19(052)竜石寺 飛行之像・20(053)岩の上 孝子・21(054)矢の堂 神鏑・22(055)栄福寺 人畜・23(056)おが坂 内山源蔵・24(057)しら山 恋ヶ窪遊女・25(058)久那 子持鬼女・26(059)下かけ森 畠山重忠・27(060)上かけ森 宝明沙門・28(061)橋立 那司某・29(062)笹の戸 竜女・30(063)深屋 唐の鏡・31(064)鷲の窟 本田近常・32(065)般若 豊島の娘・33(066)こさかけ 楠正成・34(067)水潜 雨乞/○坂東順礼三十三番 01(068)杉本寺 時頼の伝・02(069)岩どの 頼朝郷・03(070)田代 のぶ綱・04(071)長谷 義秀・05(072)飯泉 三貫長者・06(073)い山 隠鐘・07(074)かなゐ 汐くみ女・08(075)星のや 見不知の森・09(076)慈光寺 足立盛長・10(077)比企 二王の伝・11(078)吉見 田むら将軍・12(079)慈恩寺 慈覚大師・13(080)浅草 石の枕・14(081)ぐみやうじ 七ツ石・15(082)白岩 高崎氏の伝・16(083)水沢 伊加保姫・17(084)出流 影向杉・18(085)中禅寺 慈悲心●・19(086)大や寺 孝子源三郎・20(087)西明寺 国母の伝・21(088)やみう寺 玄翁和尚・22(089)佐竹寺 矢はぎ又右衛門・23(090)さしろ 狩人の伝・24(091)両引 杉戸のいはれ・25(092)大御堂 みこ石・26(093)清滝 滝壺の伝・27(094)飯沼 漁夫の伝・28(095)なめ川 旭御前・29(096)千葉寺 千葉介・30(097)高倉 徳義上人・31(098)笠森 おもり女の伝・32(099)清水 熊野権現・33(100)那古木 鉢作の伝
- 仙台藩と疫病--(仙台の災害の歴史 ; 1)
菅原 美咲,仙台商工会議所
- 疫病送り・民間療法・年中行事資料
菊地 洋子,万葉堂書店
- 疫病の時代
酒井シヅ編 ; 村上陽一郎 [ほか] 著,大修館書店,酒井, シヅ(1935-)||サカイ, シズ <AU00331232> 村上, 陽一郎(1936-)||ムラカミ, ヨウイチロウ <AU00215670>
- 疫病と世界史
ウィリアム・H・マクニール著 ; 佐々木昭夫訳,中央公論新社,McNeill, William Hardy, 1917- <AU00211095> 佐々木, 昭夫(1933-)||ササキ, アキオ <AU01081440>
- 自己免疫病
マッケイ, バーネット 共著,大谷杉士 訳,岩波書店
- 博多祇園山笠 熱い夏
夏を彩る博多祗園山笠(はかたぎおんまやまかさ)。鎌倉時代、僧侶が疫病退散を願い、水を撒いて回った事が始まりとされています。伝統を背負い、地域の平安を祈り、豪華絢爛なヤマが走ります。\n\n(この動画は、2015年に放送したものです。)(NHKアーカイブス「みちしる」)
- 疫病流行記
デフォー 著,泉谷治 訳,現代思潮社
- 疫病と海
秋道智彌, 角南篤編著,西日本出版社,秋道, 智彌(1946-)||アキミチ, トモヤ <AU00189387> 角南, 篤||スナミ, アツシ <AU01117695>
- 慈善救済史料
辻善之助 編,金港堂書籍
- 滑川のネブタ流し
滑川のネブタ流しは、富山県滑川市で毎年7月31日に行われる伝統行事で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。「ネブタ」と呼ばれる大きな松明に、紙や野菜で作った人形(ひとがた)を飾り付け、海に流し去ることで、けがれや疫病、睡魔を払い、無病息災を祈願します。\n\n(この動画は、2013年に取材したものです。)(NHKアーカイブス「みちしる」)
- 博多祇園山笠 追い山
博多祇園山笠は、およそ770年前、博多で流行した疫病を払うために、町人に担がれた僧侶が町中を清めた回ったことが起原とされています。祭りの最後を締めくくる「追い山」で、重さ1トンあまりもある「舁き山」をはっぴに締め込み姿の男衆が担いで全長およそ5キロのコースを豪快に駆け抜けます。\n\n(この動画は、2008年に放送したものです。)(NHKアーカイブス「みちしる」)
- 湯沢の町並み
秋田県の湯沢は横手盆地南部の城下町です。町の入口に立つ鹿嶋様は、高さが4mあまりもあり、疫病退散と豊作を祈願したみちのくの守り神です。 鳥海山を臨む湯沢市は、おいしい米と豊富な湧き水に恵まれた町です。古くから酒造りが盛んな湯沢には、今も市内に造り酒屋があります。\n\n(この動画は、1999年に放送したものです。)(NHKアーカイブス「みちしる」)
- ナゾの箱形土製品!
奈良文化財研究所
平城京左京二条二坊十五坪で出土した謎の箱形土製品について 奈文研研究員が紹介します。 2019年の調査でみつかった箱形土製品。 他の遺跡でも類例がなく、用途不明です。 一体この遺物は何なのでしょうか。研究員がナゾに迫ります! ……………………………………… ウェブサイト https://www.nabunken.go.jp/ Facebook https://www.facebook.com/nabunken (奈良文化財研究所)
- 疫病と世界史
ウィリアム・H・マクニール著 ; 佐々木昭夫訳,中央公論新社,McNeill, William Hardy, 1917- <AU00211095> 佐々木, 昭夫(1933-)||ササキ, アキオ <AU01081440>
- 日田祇園山鉾集団顔見世
大分県日田市で毎年7月に行われる「日田祇園祭」。豆田地区の豆田八阪神社、隈地区の隈八坂神社、竹田地区の竹田若八幡宮の3つの神社の祭礼行事です。300年以上前に、疫病や水害を払うのを祈願したのが始まりといわれています。1989年から、9つの山鉾の集団顔見世(かおみせ)が始まりました。祭り当日は別々の地区で巡行する「山鉾(やまぼこ)」が、祭りの2日前、日田駅前に一堂に会します。\n\n(この動画は、2016年に取材したものです。)(NHKアーカイブス「みちしる」)
- 2020年度 赤米献上隊
奈良文化財研究所
この秋、平城宮跡に赤米献上隊がやってきました。 兵庫県八鹿(ようか)町小佐(おさ)地区では、平城宮跡出土の木簡(★)に因んで、1980年に赤米の栽培を始めました。 例年、地元・八鹿小学校の児童たちが田植えや稲刈りなどの体験活動をおこない、その締めくくりとして平城宮跡を訪れ、収穫した赤米を届けてくれています。 出土遺物に因んだ地域間交流として、奈文研職員が天平人に扮して受け取るとともに、木簡や平城宮跡について解説をおこなっています。 ★https://mokkanko.nabunken.go.jp/reader/?cr=6AAFOD39000003 -------------------------------------------------------- 奈良文化財研究所ホームページ (https://www.nabunken.go.jp/) #平城宮#養父#赤米 #木簡#天平人#地域間交流
- 明和のみんわ 斎宮絵馬
明和町
明和町に伝わる民話を取材し、まとめた野田那智子さん著「明和のみんわ」を音訳ボランティアの明和 鈴の音会の皆さんのナレーションでお届けします。 第19回は斎宮地区に伝わる斎宮絵馬のお話です。(明和町)
- 明和のみんわ 石風呂
明和町
明和町に伝わる民話を取材し、まとめた野田那智子さん著「明和のみんわ」を音訳ボランティアの明和 鈴の音会の皆さんのナレーションでお届けします。 第9回は前野地区に伝わる石風呂のお話です。(明和町)
- 明和のみんわ 祓川の渡船哀話
明和町
明和町に伝わる民話を取材し、まとめた野田那智子さん著「明和のみんわ」を音訳ボランティアの明和 鈴の音会の皆さんのナレーションでお届けします。 第18回は竹川地区に伝わる祓川の渡船哀話のお話です。(明和町)
- 明和のみんわ 弘法さん
明和町
明和町に伝わる民話を取材し、まとめた野田那智子さん著「明和のみんわ」を音訳ボランティアの明和 鈴の音会の皆さんのナレーションでお届けします。 第22回は新茶屋地区に伝わる弘法さんのお話です。(明和町)
- じょうもん発見!是川縄文館 02 「国宝・合掌土偶」
八戸市
※BGMを削除したため一部音声に聞きづらい部分があります。 2012年4月放送 制作:八戸テレビ放送 是川縄文館の最新情報などはHPをチェック!(八戸市)
- 明和のみんわ 経石塚
明和町
明和町に伝わる民話を取材し、まとめた野田那智子さん著「明和のみんわ」を音訳ボランティアの明和 鈴の音会の皆さんのナレーションでお届けします。 第1回は大淀地区に伝わる経石塚のお話です。(明和町)
- 【みんなでMYBUN!】埋文センターなにしようと?~展示作業しようと~
福岡市
福岡市埋蔵文化財センターからの動画配信です。 第3回目は当センターで現在開催中の企画展示「疫病に負けるな!~福岡の場合~」ができるまでを紹介いたします。(福岡市) 福岡市の公式Youtubeチャンネル、登録お願いします。https://www.youtube.com/user/Fukuokachannel 福岡市 ふくおか市政だより WEB版、お役立ち情報が盛りだくさん!スマホ・タブレットにも対応しています! https://dayori.city.fukuoka.lg.jp/ 福岡チャンネルでは福岡市や市長の動きを動画で配信しています。 https://www.city.fukuoka.lg.jp/f-channel/index.html 福岡公式LINEアカウントはじめました。https://line.me/R/ti/p/%40fukuokacity 福岡市公式ホームページ http://www.city.fukuoka.lg.jp 福岡チャンネル https://www.city.fukuoka.lg.jp/f-channel/index.html 福岡チャンネル youtube https://www.youtube.com/user/Fukuokachannel 福岡チャンネル、ニコニコチャンネル https://ch.nicovideo.jp/fukuokacity twitter http://twitter.com/#!/Fukuokacity_pr twitter https://twitter.com/fukuoka_dayori 「埋蔵文化財センター」とは? 埋蔵文化財とは、「地下に埋まっている文化財(遺跡や出土品)」のことで、考古学の研究対象となるものです。文化財は国民共有の財産であるため、市内の遺跡発掘は、福岡市が責任をもって行っています。埋蔵文化財センターは、市内遺跡・考古学の情報を広く市民の皆様に知っていただくために、昭和57(1982)年に開館しました。展示室、図書室などをご利用でき、収蔵庫や保存処理設備の見学もできます。文化財の適切な取扱いができる方であれば、出土品の調査・見学も可能です。館外活動としては、資料の貸出し、館外展示、出張展示、出前授業などを行っています。 開館時間 9時から17時(入館は16時30分まで) 休館日 毎週月曜日・年末年始(12月28日から1月4日) 入場無料 ホームページ https://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/
- 明和のみんわ 業平の恋
明和町
明和町に伝わる民話を取材し、まとめた野田那智子さん著「明和のみんわ」を音訳ボランティアの明和 鈴の音会の皆さんのナレーションでお届けします。 第3回は大淀地区に伝わる業平の恋のお話です。(明和町)
- 20 特集 復興のための文化力 東日本大震災の復興と埋蔵文化財の保護 (発掘された日本列島2015):文部科学省
文化庁
発掘された日本列島2015 特集 復興のための文化力 東日本大震災の復興と埋蔵文化財の保護(文化庁)
- 明和のみんわ ひささ池の白うなぎ
明和町
明和町に伝わる民話を取材し、まとめた野田那智子さん著「明和のみんわ」を音訳ボランティアの明和 鈴の音会の皆さんのナレーションでお届けします。 第23回は大淀地区に伝わるひさき池の白うなぎのお話です。(明和町)
- 日本遺産~祈る皇女斎王のみやこ 斎宮~8斎宮跡出土品
明和町
平成27年4月 文化庁が新たに創設した制度「日本遺産」に明和町が申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が認定されました。この番組では「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」を語る上で不可欠な文化財群をご紹介します。第8回目は「斎宮出土品」です。(明和町)
- 伊場遺跡発見70年、その魅力を再発見
浜松市
発見から今年で70年を迎える「伊場遺跡」は、都以外の地域で初めて100点を超える木簡が見つかったことで知られています。都以外の地域に関する古代の文献資料がほとんど伝わっていない中、この伊場遺跡群での文字資料の発見は古代史学界に大きなインパクトを与えました。そんな伊場遺跡を大調査!発掘当時を知る方へのインタビューなどを通じて、その歴史を紐解きます!(浜松市)
- 【丹後街道を往く】若狭の道標を見て歩く ~順礼の道標~【道端の石造物を見て歩く】
美浜町
令和2年11月14日(土)に行われた「みはま土曜歴文講座」現地探訪シリーズ「道端の石造物を見て歩くⅣ ~道標を巡る2~」の様子です。若狭地方に残る西国三十三所順礼に伴う道標の解説を動画配信しています。(美浜町)
- レントゲンだけじゃない!?X線でわかる世界!?
長崎県埋蔵文化財センター
X線といえばレントゲン撮影がすぐに思い浮かびますが、長崎県埋蔵文化財センターにはレントゲン撮影装置(透過X線撮影装置)の他に蛍光X線分析装置があります。調べたいモノにどんな元素がどれくらい含まれているのかを調べることができる装置ですが、そこからさまざまなことがわかります。 この動画では蛍光X線分析装置について実験や解説を交えてご紹介します。(長崎県)
- 日本遺産~祈る皇女斎王のみやこ 斎宮~1大淀
明和町
平成27年4月 文化庁が新たに創設した制度「日本遺産」に明和町が申請した「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」が認定されました。この番組では「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」を語る上で不可欠な文化財群をご紹介します。第1回目は「大淀」です。(明和町)
- 【道端の石造物を見て歩く】文化遺産カードの地を巡る ~みはま土曜歴文講座・現地探訪~
美浜町
令和2年11月7日(土)に行われた「みはま土曜歴文講座」現地探訪シリーズ「道端の石造物を見て歩くⅢ ~文化遺産カードの地を巡る~」の様子です。美浜町竹波の石製九重層塔、美浜町丹生の磨崖仏、美浜町宮代の六体地蔵石仏、美浜町新庄の隧道の解説を動画配信しています。(美浜町)
- 三重県明和町 宇爾櫻神社 天王踊
明和町
三重県多気郡明和町宇爾櫻神社の天王祭(例祭)で奉納される「天王踊」。疫病追放、五穀豊穣、氏子安全などを願って行われる。別名「有爾中かんこ踊り」ともいわれている。 起源は江戸時代の中頃とされるが、伝え聞くところによれば、練習風景を見せず、、書き物をせず、口伝えのみで受け継がれてきたため、近世以前の資料は残されていない。 明治41年の神社合祀以降中断されていたが、地区に残されている関係資料には、「宇示中青年團復興第一回天王踊昭和十二年度」と記されていることから昭和12年に村人の敬神の熱意から復活している。その後、踊りが年々盛大となり、昭和31年には伊勢神宮へ奉納。しかし昭和35年には踊り子不足で中止となり、昭和57年に神社が宮建ちされたのを機に22年ぶりに復活。以降、毎年行われるようになり、現在は有爾中天王踊保存会が中心となって、踊りの奉納と保存活動が行われている(平成29年は休止)。昭和60年「宇爾櫻神社かんこ踊り」として明和町の無形民俗文化財に指定されている。 本記録動画は、文化庁の補助を得て、令和元年度に実施されたものを記録し、明和町日本遺産活用推進協議会が作成しました。(明和町)
- 疫病部落
CHIGIRI Kosai,知切光歳
- 鼠と人及疫病
福山匡敏 著,二松堂
- 煙草疫病研究報告
專賣局
- 改正絵入平假名付并御詠歌 善光寺如来略縁起
中沢 多助/著,ナカザワ タスケ,中沢多助
昔、東天竺(インド)ビシャリ国に月蓋長者がいた。一子如是姫の愛に溺れ、釈尊の教化にも従わず放逸不善の行い限りなかった。 諸々の疫神集まって、長者を懲らしめるため、如是姫を病気におとしめた。長者は、仏力に頼るほかなしとして、大林精舎に詣で、釈尊にすがった。釈尊、一心に西方にむかって三尊の名号を唱えると、三尊は長者の楼門に姿を現し、大悲の光明を放ち国中を照らし、如是姫はじめ国中の人々を悉く全快させた。 長者らは感激のあまり、この三尊の御影を写し、長く芳恩に報いたいと釈尊に申しあげると、神通第一の目連を竜宮城に遣わしエンブダゴンを取り寄せた。如来と釈尊の光明でこれを照らすと、一光三尊の仏像が現れた。1,400年を経て、三尊は自ら百済国に渡った。ときに国王の夢に、伽藍を建て如来を奉じ、数多の僧侶をおいて供養せしめ、とあり代々の百済の国王は仏教を興隆した。 百有余年をへて聖明王のとき、東方の日本国に渡遷すべしとのお告げがあり、船は難波(大坂)に着いた。ときに欽明天皇13年のこと。帝、これを喜び、その受入れを諸臣にはかるが、大臣蘇我稲目のみが受入れを主張し、オワリダノ御殿を建立した。ときに国中熱病がはやった。これは異国から渡来の仏像を尊敬するがためであり、わが国の神々を怒らしめたがためである。帝、聞こし召し、大臣尾輿の下知により、オワリダの伽藍に火を放ち、仏像・経綸ともに焼きたてたが、一光三尊の仏像は猛火にも変わることはなかった。尾輿は怒って仏像を難波の堀江に沈めた。 忽ち黒雲禁裏の殿上を覆い、王宮は灰塵と化し、尾輿も熱病で地獄に落ちた。帝、尾輿に諮られ仏を失いしを悔い再度如来を迎え、供養をなすと、天下は穏やかになった。敏達の御代、尾輿の子守屋らは疫病の流行に乗じ、如来を鉄盤にて打ち潰したが、如来は益々輝きをまし、尾輿は根負けして再度如来を難波の池に沈めた。4年の歳月を経て、聖徳太子は難波の堀江に至り、今は仏法興隆のとき、早く都へ帰り給えと祈ると、如来忽ち水面に浮かび、「吾、水底にあって待つべき者あり」として、再度水底に沈んだ。 ここに信濃国伊那郡麻績の里に本多善光というものがいた。都に登って帰国の折、難波の堀江に通りかかると、水底より光明輝き、妙なる御声にて善光と呼んだ。善光、歓喜の涙に咽び、如来をおぶって国に帰った。 皇極天皇の御代、如来のお告げにより水内郡芋井の里に遷し、御使え申しあげた。 皇極天皇は、深く如来を敬神し善光・善佐を召して一光三尊仏のため伽藍造営の勅願を下し、善光のイミナをもって寺号を善光寺と賜り、永く如来を安置し奉った。(県立長野図書館)
- 煙草疫病ノ予防及処理法
編者:専売局
- ジャガイモ疫病に関する研究
山本昌木 著,島根農科大学植物病学研究室
- 疫病と狐憑き : 近世庶民の医療事情
昼田源四郎[著],みすず書房,昼田, 源四郎(1946-)||ヒルタ, ゲンシロウ <AU01053795> 〔著〕
- 暴力と不平等の人類史 : 戦争・革命・崩壊・疫病
ウォルター・シャイデル著 ; 鬼澤忍, 塩原通緒訳,東洋経済新報社,Scheidel, Walter, 1966- <AU01117995> 鬼澤, 忍(1963-)||オニザワ, シノブ <AU01083249> 塩原, 通緒(1966-)||シオバラ, ミチオ <AU01067301>
- インフルエンザ : 人類最後の大疫病
W.I.B.ビヴァリッジ著 ; 林雄次郎訳,岩波書店,Beveridge, W. I. B. (William Ian Beardmore), 1908- <AU01069660> 著 林, 雄次郎(1920-)||ハヤシ, ユウジロウ <AU01069661> 訳
- 疫病と狐憑き : 近世庶民の医療事情
昼田源四郎[著],みすず書房,昼田, 源四郎(1946-)||ヒルタ, ゲンシロウ <AU01053795> 〔著〕
- (疫病流行ニ付書状)
鈴木理八郎
- 疫病守護の荒神興
松園 家昭
- 類疫病家人別名前帳
早瀬浦
- 20_青森県史資料編近現代3
(資料年月日)1918年12月16日 (出典)『褒賞』 黒石市役所所蔵<br>(解説)<br> 本項に掲載した資料は、年代順に配列されているが、内容別に見れば、衛生状態の調査報告、民間の保健意識、衛生の督励、医療制度の改善の各事項に関するものを集成した。衛生状態の調査報告に関するものは、資料500・501・503・504である。資料500は、上北郡三沢村(現三沢市)が上北郡長にあてた調査報告である。結核・トラホーム・ハンセン病(当時はらい病と称されていた)が調査されているほか、上下水道がないことなどが報告されている。資料501は、1918(大正7)年の町村長例会での諮問事項に対する三沢村の回答である。衛生思想普及に取り組んでいることが指摘されている。資料503は、県立青森病院長が雑誌に寄稿した文章で、青森市の衛生状態を論じている。まず気候について、夏季の青森市は避暑地として適当であること、冬季は健康によいとはいえない気候であることが指摘されている。その一方で、青森市の道路が広いことや、空気がきれいであることは居住条件として優れていること、上下水道の充実は健康状態の改善に役立ったことが述べられている。しかし、家屋が他都市と比べて遜色があり、衛生的とはいえないことが指摘されている。資料504は1920年時点での無医師町村数の調査である。これによれば、県下2市168町村のうち、無医師町村は64となっている。<br> 資料502は、民間の保健意識に関するものである。これは、1週間の疫病退散祈願をおこなった妙法講の代表者が、喜捨された資金を黒石町伝染病院の建設資金として寄付するという内容の願いである。この資料は伝染病に対する民間の意識が高まっていることを示している。<br> 資料493~496は衛生の督励に関する資料である。資料493は、1913年の凶作に際し、食物などが悪化し、衛生状態に影響を及ぼすことを注意している文書であり、資料494は、田名部警察署長が奥内衛生組合長に、衛生状態の督励を促している文書である。資料495・496は、上北郡役所が三沢村長に出した文書であり、前者は不良飲料水の改善を促したものであり、後者は防疫事務講習について連絡したものである。<br> 資料497~499・505は医療制度の改善に関する資料である。それぞれ、産婆講習規定の改正の資料、青森看護婦会の会規、医師の配置増加と産婆の養成を求める東津軽郡役所の文書、青森県立青森病院の看護婦講習生の募集についての文書である。いずれも医療体制の充実を目指す文書である。(青森県環境生活部)
- 13_青森県史資料編近世3
江戸西荒井総持寺の弘法大師御影、町・在へ配布などの触
- 排出する都市パリ : 泥・ごみ・汚臭と疫病の時代
アルフレッド・フランクラン著 ; 高橋清徳訳,悠書館, 八峰出版 (発売),Franklin, Alfred, 1830-1917 <AU01001605> 高橋, 清徳(1941-)||タカハシ, キヨノリ <AU01001606>
- 戌亥の風
久野, 昭
日本に吹く主要な季節風は二つある。ひとつは冬季に吹く北ないし西北からの季節風であり、もうひとつは夏季の南ないし東南からの季節風である。不意に激しく吹く西北の季節風は、西日本では「あなし」とよばれてきた。「あな」はこの場合は恐怖をも含む感嘆詞であり、「し」は息であり風である。古代、漁師も農夫もこの「あなし」を怖れた。(日本文化研究センター)
- 病と風土 : 古代の慢性病・疫病と日常生活
ジョイス・ファイラー著 ; 内田杉彦訳,學藝書林,Filer, Joyce <AU00253203> ファイラー, ジョイス <AU00255036> 内田, 杉彦(1957-)||ウチダ, スギヒコ <AU00253202> 鈴木, 八司(1926-)||スズキ, ハチシ <AU00231138>
- 20_青森県史資料編近現代3
(資料年月日)1923年3月6日 (出典)『青森県報 第一〇八六号』 青森県立図書館所蔵<br>(解説)<br> 本項に掲載した資料は、年代順に配列されているが、内容別に見れば、衛生状態の調査報告、民間の保健意識、衛生の督励、医療制度の改善の各事項に関するものを集成した。衛生状態の調査報告に関するものは、資料500・501・503・504である。資料500は、上北郡三沢村(現三沢市)が上北郡長にあてた調査報告である。結核・トラホーム・ハンセン病(当時はらい病と称されていた)が調査されているほか、上下水道がないことなどが報告されている。資料501は、1918(大正7)年の町村長例会での諮問事項に対する三沢村の回答である。衛生思想普及に取り組んでいることが指摘されている。資料503は、県立青森病院長が雑誌に寄稿した文章で、青森市の衛生状態を論じている。まず気候について、夏季の青森市は避暑地として適当であること、冬季は健康によいとはいえない気候であることが指摘されている。その一方で、青森市の道路が広いことや、空気がきれいであることは居住条件として優れていること、上下水道の充実は健康状態の改善に役立ったことが述べられている。しかし、家屋が他都市と比べて遜色があり、衛生的とはいえないことが指摘されている。資料504は1920年時点での無医師町村数の調査である。これによれば、県下2市168町村のうち、無医師町村は64となっている。<br> 資料502は、民間の保健意識に関するものである。これは、1週間の疫病退散祈願をおこなった妙法講の代表者が、喜捨された資金を黒石町伝染病院の建設資金として寄付するという内容の願いである。この資料は伝染病に対する民間の意識が高まっていることを示している。<br> 資料493~496は衛生の督励に関する資料である。資料493は、1913年の凶作に際し、食物などが悪化し、衛生状態に影響を及ぼすことを注意している文書であり、資料494は、田名部警察署長が奥内衛生組合長に、衛生状態の督励を促している文書である。資料495・496は、上北郡役所が三沢村長に出した文書であり、前者は不良飲料水の改善を促したものであり、後者は防疫事務講習について連絡したものである。<br> 資料497~499・505は医療制度の改善に関する資料である。それぞれ、産婆講習規定の改正の資料、青森看護婦会の会規、医師の配置増加と産婆の養成を求める東津軽郡役所の文書、青森県立青森病院の看護婦講習生の募集についての文書である。いずれも医療体制の充実を目指す文書である。(青森県環境生活部)
- 両国花火
喜多川歌麿筆,By Kitagawa Utamaro (1753?-1806),東京国立博物館,Tokyo National Museum
8代将軍徳川吉宗が、飢饉と疫病による死者の慰霊と悪病退散を祈願して隅田川の川開きの際に花火を打ち上げて以後、両国の花火は江戸の夏の風物詩となった。モノトーンのシルエットで表わされた岸辺と舟、赤い提灯の火が際立って夜の景色であることがわかる。(東京国立博物館)
- 東京政談
◆東京日日、明治13.12.18<BR>東京政談 第六号 十二月十八日発兌<BR>(官令)(社説)地方官会議ハ断然明治十四年ヨリ廃ス可シ(評論)三日大輔再ビ権ヲ陸軍ニ握ラントス○黒田清隆公ガ新婚ノ大景気○某大臣窃カニ五十三号布告ノ大出来ナルヲ喜ブ○島根県下郡区戸長ノ怪願○大臣参議ノ門ヲ叩ク者ハ尽ク疫病神歟○某蝙蝠県令ノ寐言(雑報)(外報)共ニ数件<BR>京橋区加賀町五番地由己社内 猶興社 (人間文化研究機構)
- コロンブスの不平等交換 : 作物・奴隷・疫病の世界史
山本紀夫著,KADOKAWA,山本, 紀夫(1943-)||ヤマモト, ノリオ <AU00190257>
- 疱瘡絵の文献的研究
川部, 裕幸
浮世絵の一つに「疱瘡絵」と称されるものがある。疱瘡絵はかなり特殊な浮世絵である。疱瘡(天然痘)にかかった病人への見舞い品として贈られたり、病人の部屋に貼られるという用途に限って用いられた浮世絵である。また、疱瘡絵は、全面、濃淡二種の赤色のみで摺刷されているという、際立った特徴を持つ。(人間文化研究機構)
- コロンブスの不平等交換 : 作物・奴隷・疫病の世界史
山本紀夫著,KADOKAWA,山本, 紀夫(1943-)||ヤマモト, ノリオ <AU00190257>
- <共同研究報告>飢餓と栄養供給 : 一九世紀中期東北地方の一農村
高木, 正朗,森田, 潤司
前近代社会の人々は、今日の開発途上国の国民や未開社会の人々がしばしばそうであるように、頻繁に穀物の不作や飢餓に直面した。一九世紀中期日本の最もひどい凶作(不作)はベーリング海からの寒気の吹き込みに起因する天保の飢饉だった。(人間文化研究機構)
- 東京医事新誌
太田雄寧 編
◆東京日日、明治22.8.21<BR>●東京医事新誌 第五百九十四号 八月十七日発行<BR>〔目次〕〔緒論〕読食物論第一(医学士森林太郎君)●〔原著〕鶏皮ヲ肉芽面ニ植接シタル治験(医学博士佐藤進君)●二三ノ結核性腹膜炎及ヒ肋膜炎患者ニ就テ(医学士笠原光興君)T、m、生ニ荅フ(戸塚環海君)●〔投書〕三浦郡悪疫病因ノ論難ニ就テ(医科大学生ノ一人N.T.)●偶感(ヽ木生)●〔抄録〕心臓弁膜疾患ノ結果ニ就テ(医学士栗本庸勝君抄録)●薬物及嗜好料ノ胃液ニ働クコト●下熱薬ニ依ル上熱●少女ノ伝染スヘキ腟炎●第十回国際医学会●鼓脹●実扶的里●胃拡張●〓ノ種接●皮ノ寄生植物ヲ殺ス●支那ノ病人●「コンマ」菌ヲ検スルノ難1、2、●〔会報〕大日本私立衛生会(大沢博士の演説)●〔雑報〕医学会総会の演説者●大日本私立衛生会第七次総会の景況●築地の流行病●成医会講習所●其他十数件<BR>東京々橋区南鍋町二丁目二番地 東京医事新誌局(人間文化研究機構)
- 衛生必用/防疫要論
小川三之助 著訳 早川光蔵 編
◆東京日日、明治21.5.25<BR>医学士小川三之助著訳 早川〓蔵編纂<BR>●衛生必要/防疫要論 定価金三十銭 郵送費金十銭<BR>世人ノ懼レ且ツ忌ムモノハ何ヨヤ疾病ナリ就中其最モ甚シキ者ハ伝染六大病是ラナリ世人已に其懼ル可ク忌ム可キコトヲ知ル然レトモ之レガ予防ノ方法ヲ審ラニセズ為ニ貴重ノ生命ヲ夭シ〓〓復タ還ラサルニ至ル豈憐ム可キニアラスヤ著者夙ニ其〓ニ当リ之ヲ憂ルノ余リ本書ヲ著シ以テ之ヲ救生セントシ世ニ公ニスルニ際シ某県ニ於テ数千部ヲ買上クルノ恩命ヲ蒙リタリ依テ本書ノ衛生上必用有益ナル知ル可キナリ且ツ伝染悪疫病流行ノ時〓已ニ迫レリ豈躊躇ス可キノ時ナランヤ故ニ苟モ衛生上ニ注意セラルヽ人ハ勿論該時務ヲ取扱ハルヽ人士ハ一本ヲ購読シ以テ彼ノ無形的ノ最モ懼レ最モ悪忌ス可キ病根ヲ防カンレンコトヲ希望ニ堪ヘズ請フ愛読ヲ玉ヘ<BR>発行所 東京浅草区並木町二十二番地 日野屋本店 関平十郎<BR>売捌所 同日本区新大坂町十番地 仙台堂 小林喜右衛門<BR>同 同京橋区南紺屋町七番地 神戸甲子二郎(人間文化研究機構)
- 御触(洋書輸入・疫病予防等ニ付)
郷方手代中
- 東国の中世村落における開発と災害
原田, 信男
古代や近世のような統一権力の場合とは異なり,地域的な分権制を原則とする中世社会では,国郡を単位とするような大規模な土木工事が,行いにくい政治的環境下にあった。こうした中で,小稿では中世東国において,どのように耕地の開発が行われ,どのような災害が惹き起こされていたかを問題としたい。まず中世村落における開発については,これまで指摘されたような山間部の谷田を中心とするものではなく,平地部の沖積地においても早くから開発が行われていた。例えば鎌倉期には,幕府や荘園領主が局地的に労働力を動員して,利根川などの沖積低地悪水地帯にも人工的に提防が築かれている。洪水という災害から集落と耕地を守る人工提防の造築を行うとともに,用水路を確保しつつ水田開発の進展が,領主側の強い意志によって図られたのである。なお人工堤防や用水路などの土木工事に関する技術や知識は,寺院の僧侶たちによって主に伝えられたと考えられる。一方災害については,会津盆地の『塔寺八幡宮長帳』『異本塔寺長帳』や,富士山北麓の『妙法寺記』(『勝山記』)など,地域的に連続した史料が残る。これらから中世東国における災害の性格をみれば,近年流行している気象変動論に基づく小氷期による冷害が主体なのではなく,風水害が最も多く時には早害なども加わり,さらには疫病などが蔓延して被害者が増大したことが窺われる。さらに中世における飢饉は,異常気象や天変地異などによる自然の災害に加えて,それぞれの地域における人為的な収奪の問題も大きかったが,基本的には地域ごとの自然発生的な要素が極めて強かった。確かに中世社会においては,統一的な権力によって大規模な開発が進められたわけではなく,自然現象を克服する技術は相対的に低かった。しかし,代わりに全国規模の経済・流通システムに組み込まれ,藩単位で飢饉に追い込まれる近世に較べれば,被害の程度も比較的小規模に留まりえたものといえよう。(国立歴史民俗博物館)
- 文久三年/閑叟公疫病に罹らる
秀島成忠
- 配符ニ而申遣候(疫病除御礼ニ付)
大庄屋役所
- フランス公衆衛生史 : 19世紀パリの疫病と住環境
大森弘喜著,学術出版会, 日本図書センター (発売),大森, 弘喜||オオモリ, ヒロヨシ <AU01116303>
- 疫病神
黒川博行 [著],KADOKAWA
- 疫病神
黒川博行 著,日本障害者リハビリテーション協会
- 疫病神
黒川博行 著,新潮社
- 疫病神
黒川博行 著,新潮社
- 芦の尻の道祖神祭り
長野県,ナガノケン
正月の松飾りに使われた注連縄を1月7日に持ち寄り、1.5メートルほどの文字碑の道祖神石碑を芯に、怪異な神面を飾りつけ、来年の1月7日までの1年間、悪霊や疫病より集落を守る守護神とする。外した神面と残った注連縄や正月飾りは、どんど焼きとして焼かれる。この道祖神は、1998年長野冬季オリンピックの開会式に登場した。開催日:1月7日開催場所:芦の尻集落(県立長野図書館)
- 北信濃の柱松行事
長野県,ナガノケン
修験者が行った「験比べ」と夏の疫病除けの祭り、京都の祇園際に由来し、江戸時代初期から行われてきたといわれている。子ども達の灯篭行列と若者達の神輿がそれぞれ村を練り歩き、大日堂へ向かう。神輿は灯篭行列に突っ込んだり、大日堂前の炎の周りを勢いよく回ることから「暴れ神輿」と呼ばれ、祭りは「炎の奇祭」とも呼ばれる。【開催日】7月19日に近い週末【開催場所】内山地区 (県立長野図書館)
- 疫病帝国
デイヴィッド・エディングス 著,宇佐川晶子 訳,早川書房
- 岡田屋百手神事
伝承によると、応仁2年(1468年)岡田屋で疫病が大流行し多くの死者が出たので、村に祀られる松江八幡・八大龍王・大歳大明神に悪鬼退散の祈願をし、鬼に見立てた的に矢を射たところ疫病が治まったといいます。以来、感謝と厄除け・五穀豊穣を祈り、毎年3月に的射の神事が奉納されています。命中した矢の数で、作柄の吉凶などが予測され、的場で厄除け祈願された小的は、魔除け・五穀豊穣のお守りとして各家に持ち帰る習わしがあります。(宇部市教育委員会)
- 居能盆踊り
江戸時代後期に居能地域に流行した疫病を治めるために、下関市伊崎から伝えられた踊りを三嶋神社に奉納したものと言われています。 現在でも、古くから伝えられてきた踊りの型や昔ながらの口説きが残っています。 8月15・16日の2日間、地域の人々により奉納されています。(宇部市教育委員会)
- 疫病新論
渡辺寅次郎 著,佐藤直次郎 閲,野田忠広 等校,三春堂
- 北海道大学医学部附属癌免疫病理研究施設規程の制定について
文部省大学学術局大学課
- 乍恐口上書ヲ以奉願上候(疫病流行ニ付)
細呂木村村役人




























































