解説
昔、東天竺(インド)ビシャリ国に月蓋長者がいた。一子如是姫の愛に溺れ、釈尊の教化にも従わず放逸不善の行い限りなかった。 諸々の疫神集まって、長者を懲らしめるため、如是姫を病気におとしめた。長者は、仏力に頼るほかなしとして、大林精舎に詣で、釈尊にすがった。釈尊、一心に西方にむかって三尊の名号を唱えると、三尊は長者の楼門に姿を現し、大悲の光明を放ち国中を照らし、如是姫はじめ国中の人々を悉く全快させた。 長者らは感激のあまり、この三尊の御影を写し、長く芳恩に報いたいと釈尊に申しあげると、神通第一の目連を竜宮城に遣わしエンブダゴンを取り寄せた。如来と釈尊の光明でこれを照らすと、一光三尊の仏像が現れた。1,400年を経て、三尊は自ら百済国に渡った。ときに国王の夢に、伽藍を建て如来を奉じ、数多の僧侶をおいて供養せしめ、とあり代々の百済の国王は仏教を興隆した。 百有余年をへて聖明王のとき、東方の日本国に渡遷すべしとのお告げがあり、船は難波(大坂)に着いた。ときに欽明天皇13年のこと。帝、これを喜び、その受入れを諸臣にはかるが、大臣蘇我稲目のみが受入れを主張し、オワリダノ御殿を建立した。ときに国中熱病がはやった。これは異国から渡来の仏像を尊敬するがためであり、わが国の神々を怒らしめたがためである。帝、聞こし召し、大臣尾輿の下知により、オワリダの伽藍に火を放ち、仏像・経綸ともに焼きたてたが、一光三尊の仏像は猛火にも変わることはなかった。尾輿は怒って仏像を難波の堀江に沈めた。 忽ち黒雲禁裏の殿上を覆い、王宮は灰塵と化し、尾輿も熱病で地獄に落ちた。帝、尾輿に諮られ仏を失いしを悔い再度如来を迎え、供養をなすと、天下は穏やかになった。敏達の御代、尾輿の子守屋らは疫病の流行に乗じ、如来を鉄盤にて打ち潰したが、如来は益々輝きをまし、尾輿は根負けして再度如来を難波の池に沈めた。4年の歳月を経て、聖徳太子は難波の堀江に至り、今は仏法興隆のとき、早く都へ帰り給えと祈ると、如来忽ち水面に浮かび、「吾、水底にあって待つべき者あり」として、再度水底に沈んだ。 ここに信濃国伊那郡麻績の里に本多善光というものがいた。都に登って帰国の折、難波の堀江に通りかかると、水底より光明輝き、妙なる御声にて善光と呼んだ。善光、歓喜の涙に咽び、如来をおぶって国に帰った。 皇極天皇の御代、如来のお告げにより水内郡芋井の里に遷し、御使え申しあげた。 皇極天皇は、深く如来を敬神し善光・善佐を召して一光三尊仏のため伽藍造営の勅願を下し、善光のイミナをもって寺号を善光寺と賜り、永く如来を安置し奉った。
収録されているデータベース
信州デジタルコモンズ 県立長野図書館所蔵資料
長野県の文化機関の所蔵資料のほか、信州の人々が営んできた身近な生活の記録を画像や映像で残し、「知の共有地」として活用するデジタルアーカイブ「信州デジタルコモンズ」で公開している資料のうち県立長野図書館所蔵分です。
最終更新日
2010/03/10