Encho Sanyutei and new media
明治20年代の落語と寄席
明治の落語を語る上で、三遊亭円朝の名を欠かすことはできません。円朝は本名出淵次郎吉(いずぶちじろきち)、2代目三遊亭円生門人の橘家円太郎の子として天保10年(1839)4月1日江戸・湯島に生まれます。父と同様に2代円生に師事し、17歳で小円太から円朝と改名。大道具を使った派手な芝居噺の自作自演で人気を博しますが、明治5年(1872)に扇子一本の素噺(すばなし)に転向。新作の怪談噺、人情噺を創作・口演し、そのかたわらで、『怪談牡丹灯籠』をはじめとする落語の速記本を出版し、これは明治の言文一致文体に大きな影響を与えました。その芸域は、『真景累ヶ淵』『塩原多助一代記』などの創作人情噺から、『黄金餅』『死神』『心眼』などの落し噺におよび、話芸の巧みさ、新作の創作力、弟子の育成力などで他の追随を許さない、近代落語の祖というにふさわしい存在でした。
円朝がみずからの作品を速記という形で後世に残したことは、結果として非常に大きな影響を後世に残しました。録音、録画といった技術のない時代の円朝の落語が現代にまで生きているのは、速記という技術の賜物です。この技術は一人円朝のみならず、同時代の落語という芸能の記録を現代までに伝えてくれています。
速記落語の登場は、落語という芸能の性格を大きく変える契機となりました。それまでの落語は基本的に住んでいる町内の寄席で聞くもので、寄席がある場所は、東京でいえばほぼ江戸以来の市街地ですから、落語はごく限られた都市住民の娯楽であったといって差しつかえありません。しかし、印刷された雑誌や書籍を通して享受できる速記落語は全国の読者が対象です。限られた都市の住民が享受する芸能から、「いつでも、どこでも、誰でも」楽しめる全国的な娯楽として落語が定着する基礎はこの時にできたと言えるでしょう。
円朝門下には、3代目・4代目円生、2代目円橘、2代目円右、4代目円左、4代目円喬、初代円遊などの名手がそろい、談洲楼燕枝率いるライバルの柳派も名人上手を揃えて対抗します。こうして明治20年代の落語界は、黄金期ともいうべき時代を迎えます。
Table of Contents
Encho Sanyutei: The great performer of Meiji rakugo
文久3年(1863)、25歳の円朝は戯作者、趣味人などをメンバーとする三題噺の会「粋狂連」に参加します。粋狂連は、山々亭有人(さんさんていありんど)、仮名垣魯文(かながきろぶん)などの戯作者や瀬川如皐(三世)、河竹黙阿弥などの狂言作者が名を連ねる集まりで、当時大流行していた三題噺を仲間内で創作・口演する会をしばしば催しました。「粋狂連」の一員となったことは円朝の名声を高めます。この頃の円朝は派手な衣装で女性の人気を集め、気障(きざ)なところもあったようですが、当時の人気役者といっしょに錦絵に描かれるなど、流行の最先端を行く存在でした。
明治に入ると円朝の交際範囲は、福地桜痴、山岡鉄舟、渋沢栄一、井上馨といった政財界の実力者を含む朝野の「名士」にまで広がります。粋狂連以来旧知であった山々亭有人(条野採菊)は『菊模様皿山奇談』『今朝春三組杯』といった円朝作を草双紙に仕立てた作品を明治初年に発表し、ジャーナリストに転じて「やまと新聞」を創刊後は同紙上に円朝の落語の速記を積極的に掲載します。同じ新聞人だった福地桜痴は海外文学の素材を提供して円朝の翻案落語の創作をたすけ、山岡鉄舟は禅を通じて円朝と深く交わります。
これらの文人・趣味人と交際は、円朝自身の創作活動に大きな影響を与え、また同時に、落語家全体の地位を高めることにも大きく寄与しました。
A young Encho Sanyutei
戯作者や劇作家などと交際のあった円朝は、寄席の外に活躍の場を広げることにも積極的でした。自作を山々亭有人(条野採菊、1832−1902)や笠亭仙果(2代、1837−1884)などの戯作者の素材として提供したり、新聞で話題の事件を高座にかけたりしたのはその例で、「錦絵新聞」の筆写に名をつらねたりもしていました。「錦絵新聞」は、新聞記事の中から、強盗、殺人、心中、奇談など庶民が興味を持つような事件を錦絵と平易な解説で読ませた新しいメディアで、現代の写真週刊誌などに近いものです。明治7年から8年に発刊された東京日日新聞(錦絵版)、郵便報知新聞など、約四十種類が知られていますが、円朝は有力な筆者の一人でした。また、元々芝居噺を得意としていた円朝の人情噺が歌舞伎の舞台で演じられたこともしばしばで、「怪談牡丹燈籠」「真景累ケ淵」「塩原多助」「文七元結」などは頻繁に上演された円朝原作の歌舞伎です。
Encho’s gesaku (frivolous and entertaining popular literature) works and his articles for Yubin Hochi Shimbun Newspaper
Rakugo works by Encho that became kabuki plays
Prominent figures related to Encho
Encho and sokki (shorthand) rakugo
「珍芸四天王」の人気もようやく一段落のきざしを見せてきた明治17年(1884)7 月、三遊亭円朝の口演を速記した「怪談牡丹灯籠」が東京稗史出版社から刊行されました。毎土曜日に一編ずつという方式で発売された「怪談牡丹灯籠」は、円朝の口演がそのまま読めるということで人気を集めて大きな成功をおさめます。当時日本の速記術は黎明期で、田鎖綱紀 (たぐさりこうき、1854―1938)が日本で初めての速記講習会を開いたのはこの直前の明治15年(1882)10月のことでした。東京稗史出版社は曲亭馬琴の読本の翻刻出版などを行っていた版元ですが、田鎖の門人の若林玵蔵(かんぞう)と酒井昇造に円朝の人情噺を速記することを依頼し、二人は速記の普及と宣伝のためにこれを引き受けました。円朝の人情噺は毎日一席ずつで15日で語り終えるのが常だったので、円朝は15日間休まずに席を勤め、二人も欠かさず通うことを約束して話がまとまりました。
それまでも落語を活字にした本は珍しくありませんでしたが、高座の口調をそのままに味わえる速記落語の新しさは類のないものでした。これをきっかけに落語の速記は大いに流行し、円朝自身も明治19 年(1886)10 月7 日に創刊されたやまと新聞などに自作の人情噺を続けざまに連載し、やまと新聞は円朝の人情噺で読者を獲得して部数を伸ばします。
さらに明治22年(1889)、講談・落語の速記雑誌『百花園」が金蘭社から発刊されて速記落語の人気に拍車をかけます。『百花園」は毎月2回発行(途中から月1回)、明治30年頃までに200号以上が刊行されていますが、刊行初期には毎号1万5千部程度の売り上げがあったとされ、追随する雑誌がいくつも誕生しました。
円朝以外の落語家もこのブームに乗って、落語家の名前を冠した「~落語集」というタイトルの速記本が多数刊行され、その流通は昭和初期まで続きます。
The shorthand book Botan Doro (“Peony Lantern”)
明治17年(1884)に東京稗史出版社出版社から刊行された『怪談牡丹燈籠』。原作は、江戸前期の仮名草子『御伽婢子(おとぎぼうこ)』からの翻案もので、元治(1861-1865)頃の成立とされる。
第1編の見返しの社告。この年(明治17年)7月にまず2冊を刊行し、8月以降は毎土曜日に一冊ずつ刊行する予定と述べ、代金は1編7銭5厘、全13 編で前金87銭となっている。社告の上部に速記の見本が掲載されている。
二葉亭四迷が、自作の『通俗虚無党形気』(ツルゲーネフ『父と子』の抄訳)の広告の中で円朝に触れた言葉。「言文一途の主義に基いて紳士社会に行はれまする上品な東京語を以て飜訳して御座いますから至極面白く出来てをりまして悪く申せば円朝子の猿真似ですが賞(ほめ)て申せば此小説なぞが日本新体文章の嚆矢に相成りませうか」として、円朝の口調が自らの言文一致体の手本となったことを述べている。フランスの小説家、ジョルジュ・オネー作、加藤瓢乎翻訳の『鍛鉄場主』巻末の広告に寄せられた文章。
東京稗史出版社から版権を取得した文事堂が刊行した『怪談牡丹燈籠』。明治18年(1885)刊。春のやおぼろ(坪内逍遥)序。活版印刷の洋装本に速記術という新しさとうらはらに、序文や口絵・挿絵の体裁、1編を2回に分けた構成などは、江戸後期の人情本とほとんど変わっていない。掲出はその口絵。浪人萩原新三郎と、幽霊となって新三郎のもとに通うお露と女中のお米が描かれる。牡丹の燈籠を手にするのがお米。
春のやおぼろ(坪内逍遥)による序文。「三遊亭の叟(おぢ)が口演(くゑん)せる牡丹燈籠となん呼做(よびな)したる仮作譚(つくりものがたり)を速記といふ法を用ひてそのまゝに謄写(うつ)しとりて草紙となしたるを見侍るに通篇俚言俗語のみを用ひてさまで華ありとも覚えぬものから句ごとに文ごとにうたゝ活動する趣ありて宛然(さながら)まのあたり萩原某に面合はするが如く阿露の乙女に逢見る心地す」。
幕末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年(1839-1892)による「牡丹燈籠」。 「新形三十六怪撰」のうちの一図。幽霊のお露と牡丹燈籠をさげたお米が描かれている。
「牡丹燈籠」を速記した速記者(1857-1938)。速記を田鎖綱紀(たくさりこうき)に学び、日本の速記術の実用化に大きな功績を残した。『若翁自伝』は、若林玵蔵 の自伝。大正15年(1926)刊。
速記者。若林玵蔵とともに田鎖綱紀(たくさりこうき)の速記を学び、「牡丹燈籠」の速記にも若林とともに従事。その後も講談、落語の速記本を数百担当した。
主な速記雑誌
Other shorthand books by Encho
Rakugo shorthand books by authors other than Encho
The age of competition between the Sanyu School and the Yanagi School
明治24年(1891)、三遊亭円朝は席亭連への不満から寄席への出演を停止しますが、やまと新聞などを舞台とした自作の発表は精力的に継続し、それらをまとめた多くの速記落語本を刊行しました。2代目三遊亭円橘、4代目三遊亭円生、2代目三遊亭円馬、4代目橘家円喬などの弟子にも恵まれて依然として落語界、特に三遊派の中心として重きをなします。円朝の作品が現代まで生き続けているのは、速記にのこされたこともさることながら、これらの弟子が師の創作した作品を高座にかけて語り伝えたことも大きく寄与しています。
一方、三遊派のライバルと目される柳派も柳亭燕枝(談洲楼燕枝、1838-1900)を中心に3代目春風亭柳枝、2代目禽五郎小さんなどの腕利きが揃って対抗します。柳亭燕枝は、初代春風亭柳枝 門下ですが、のちに談洲楼燕枝と号しました。「談洲楼」は団十郎のもじりで、燕枝が9代目市川団十郎と親交があったところからの号です。三遊亭円朝と並ぶ人情噺 、芝居噺の名人で自作もあり、仮名垣魯文の門下として阿良垣痴文の筆名も持っていました。明治の前半頃までは三遊派・柳派の区別もさほど厳格でなく、どちらも同じように高座に上がっていましたが、明治20年代に入るころから柳派、三遊派の二大派閥が各席を半月ごとに交替で勤める興行形態が形成されたこともあり、人材的に充実した両派の競争は落語の黄金時代を招来します
Rakugo world of this period
Major rakugo performers of this period
明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれた三遊亭円朝。
長らく柳派の総帥として君臨したが、明治23年(1890)、柳派頭取の地位を弟子の3代目春風亭柳枝に譲った。掲出の肖像は、明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれたもの。
明治10年(1878)柳橋の名を息子の4代目に譲った後、明治16年(1883)に初代春錦亭柳桜と改名。明治27年(1894) 6月 8日没。掲出の肖像は、明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれたもの。
明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれた4代目桂文楽。
弘化3年-明治37年(1846-1904) 本名立岩勝次郎。三遊亭円朝の弟子。一時廃業するが、3代目三遊亭円喬などを経て、3代目円生没後の明治15年(1882)、4代目を襲名。落し噺の名人といわれ、円朝亡きあとの三遊派を統率した。
明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれた4代目三遊亭円生。掲出の肖像は、明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれたもの。
天保8年-明治39年(1837−1906) 本名佐藤三吉。はじめ3代目立川焉馬(たてかわ-えんば)に入門するが、明治2年(1869)に三遊亭円朝の門下にうつって円橘と改名した。人情噺(ばなし)、落とし噺を得意とし、円朝門下の四天王に数えられえた。弟子に三遊亭万橘(へらへらの万橘)、浮世節の立花家橘之助などがいる。
安政元年-大正7年(1854−1918) 本名竹沢斧太郎。三遊亭円朝に入門。明治17年(1884)2代目円馬を襲名。明治24年(1891)、師円朝の寄席引退を機に大阪にうつり、そのまま定住した。円朝ゆずりの人情噺で名人といわれた。晩年円翁と改名。
嘉永3年-明治40年(1850―1907) 三遊亭円朝の弟子。「ステテコ」踊りの珍芸で一世を風靡し、昼夜19軒の寄席を掛け持ちしたという伝説を持つ。初代三遊亭万橘(へらへらの万橘)、4代目橘家円太郎(ラッパの円太郎)、4代目立川談志(釜掘りの談志)とともに珍芸四天王と称されたが、珍芸が廃れた以後も人気を保ち、前座噺的に扱われていた落し噺を積極的に取り上げ、斬新なギャグを入れて改作した。『野ざらし』『船徳』などの滑稽噺を今日の形に定着させた功績は大きい。大きな鼻がトレードマークで「鼻の円遊」のあだ名もある。本来は3代目となるが、有名になったため俗に初代といわれる。本名は竹内金太郎。
明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれた円遊。ステテコのポーズを取っている。
嘉永2年-明治31年(1849−1898) 初代柳亭燕枝(後に談洲楼)の弟子。本名は大藤楽三郎。明治16年(1883)、燕寿から2代目柳家小さんを襲名。明治21年(1892)松本順(良順)から贈られた楼号をとって禽語楼小さんと称し、明治27年(1898)には弟子の小三治に3代目小さんを譲り、みずからは柳家禽語楼となった。初代円遊と仲が良く、滑稽噺を得意とした。円遊とともに落し噺の旧作を改作して現在に伝えた功績がある。また、『当世はやり諸げいの大よせ』(明治15年)には、燕寿時代の小さんがステテコを踊る図が掲載されている。
天保11年-大正3年(1840-1914) 明治から大正時代の落語家。もとは幕府の御家人で、本名は小島長重。彰義隊に加わったのち、司法省に出仕。裁判所の書記となるが女性問題で職を辞して落語家となった。『よかちょろ』『火炎太鼓』などの滑稽噺を得意とした。
明治3年-明治35年(1871-1902) 本名鳥羽長助。ステテコの円遊の弟子。14歳で入門して少年落語家として注目を集め、早くから達者な芸を披露して、円遊の跡を継ぐ者として期待されたが、32歳の若さで急死した。
嘉永5年-明治33年(1852-1899) 初代柳亭燕枝(のちに談洲楼燕枝)の弟子。明治6年(1872)初代柳亭燕路で真打となり、明治11年(1878)に3代目の柳枝を襲名、柳派の頭取となった。掲出の肖像は、明治22年(1889)10月5日発行の速記雑誌『百花園』の付録に描かれたもの。
万延元年-明治33年(1860-1900) 本名斎藤亀吉。父は明治初年の落語界の大物で「落語睦連」の頭取をつとめた3代目麗々亭柳橋。明治11年(1878)若くして柳橋の名跡を継いだが、音曲噺、人情噺は父親譲りで、高座での坐り踊りの名手と言われた。噺家芝居では立女形をつとめたという。41歳の若さで亡くなった。
弘化4年-昭和5年(1847−1930) 本名倉片省吾。慶応頃に三遊亭円朝に入門。3代目橘家円蔵、三遊亭小円朝などをへて2代目三遊亭円楽となるが、大正8年(1919)に橘家ニ三蔵(のちの8代目林家彦六)に円楽をゆずって三遊亭一朝。三遊派の稽古台的存在で、怪談噺や道具入芝居噺をはじめとする円朝直伝の落語を後進につたえた功績で知られる。昭和後期に名人と言われた6代目三遊亭円生(1900-1979、山崎松尾)も一朝の薫陶を受けた一人。
Unconventional rakugo performers: Black Kairakutei
明治20年代から30年代にかけての落語界で異彩を放ったのが初代快楽亭ブラック(1858-1923)です。オーストラリア生まれで、本名はヘンリー・ジェームズ・ブラック ( Henry James Black)。父親はジョン・レディー・ブラック(John Reddie Black 1826-1888)いうスコットランド出身のジャーナリスト、文筆家で、明治5年(1872)、東京銀座4丁目に日刊紙「日新真事誌」を発刊し、近代化への夜明けを迎えた日本を描いた『ヤングジャパン』の著者としても知られています。「日新真事誌」は発刊早々左院(太政官内に設置された立法上の諮問機関)御用の新聞となったクオリティ・ペーパーでしたが、日本の政治・社会に論評を加え、民選議院の設立運動を支持するなどして政府の干渉を招き、明治8年(1875)年廃刊となっています。
ブラックは8歳の頃に父親に呼び寄せられて来日します。明治11(1878)年頃、演説会に出演したのをきっかけに講談の2代目松林伯円(1832-1905)と知り合い、伯円のすすめで講釈師として寄席に出るようになります。伯円は白浪物で知られ、「泥棒伯円」の異名をとった講釈師ですが、洋装でテーブルを使った新聞講談などでも知られた人でした。父の死後いったん高座を退き、英語教師などをして生計を立てますが、その後寄席に復帰して三遊派の落語家となり、明治24年(1891)に快楽亭ブラックを名乗って、青い目に似合わぬべらんめえ口調の落語で人気者となりました。この頃の番付類でもブラックの名前は大きく扱われています。明治26年(1893)には石井アカと結婚(婿養子)して日本に帰化し、本名も石井ブラック(貌剌屈)と変えて、奇術や催眠術なども手掛けました。
明治36年には、来日した英国グラモフォン社のフレッド・ガイスバーグ (Fred Gaisberg )が落語・長唄・常磐津・義太夫などの日本の芸能276面(片面円盤)を録音するのを仲介し、みずからも吹き込みに参加して数枚のレコードを残しました。この録音は当時の各界の名人芸を幅広く収録した貴重な記録になっていますが、芸の世界に顔のきくブラックの尽力は大きなもので、結果として、4代目橘家円喬、初代三遊亭円右、初代三遊亭円遊、3代目柳家小さんといった当時の名人の録音が、そして何より、ブラック本人の肉声が今に伝わることとなりました。
その後しだいに人気も下降し、養子として迎えた弟子の松旭斎天左(石井清吉)と暮らして地味な晩年を送りますが、関東大震災後になくなりました。他の弟子に、2代目談洲楼燕枝がいます。
快楽亭ブラックの翻案作品
Column “Storytelling from around 1887 through 1897”
明治20年に234軒を数えた東京府全体の寄席の数は翌年以降も243軒(21年)、255軒(22年)と増え続ける。明治22年の255軒は東京府・東京市の統計全体を通して最高の軒数である。翌明治23年は経済恐慌の影響からか199軒となり、24年193軒、25年196軒といずれも200を下回るが200軒近くはキープしている。
明治26年以降は軒数を記載したデータを欠くが、寄席からの納税額の記録は明治15年から大正年間まで継続しているのでこれを参照すると、明治26年以降だと、793円(26年)、892円(27年)、889円(28年)、871円(29年)、826円(30年)という推移で漸増傾向が見られる。寄席の数も増える傾向にあったと推測できる。
また、納税額から市部と郡部の割合を見ると、明治19年まで郡部の寄席の納税額は東京府全体の5%程度でしかないが、明治21年に郡部の納税額が全体の9%を記録し、その後も高い数値を保って明治26年以降は14%、23%、20%、21%、20%と伸びて全体の2割を占めるようになる(上図表参照)。寄席の軒数は不明であるが、郡部での観客動員数が着実に増えていたことはうかがえる。伝統的な江戸・東京の市街地の住民に限定されていた寄席の客層が、この頃に大きく変わりつつあったと言えるだろう。珍芸四天王以降の「新しい笑い」の定着、落語速記の隆盛による落語人気の高まりという落語自体の変容による要素もあるが、東京外からの人口流入、鉄道の新設などによる都市空間の拡大も大きな要因だったと思われる。
References
- 諸芸懇話会, 大阪芸能懇話会 編,平凡社
- 山本進 著,河出書房新社
- 暉峻康隆 著,河出書房新社
- 暉峻康隆 著,河出書房新社
- 橘右近 著,小学館
- 小島貞二 著,エーピーピーカンパニー,丸善出版事業部
- 関根黙庵 著,雄山閣
- 斎藤忠市郎 [ほか]編集,立風書房
- 永井啓夫 著,青蛙房
- 斎藤忠市郎 [ほか]編集,立風書房
- 角川書店
- [三遊亭円朝] [著],倉田喜弘, 清水康行, 十川信介, 延広真治 編集,佐藤至子, 佐々木亨, 山本和明, 延広真治, 清水康行, 佐藤かつら, 磯部敦, 吉田弥生, 倉田喜弘 校注,岩波書店
- 岩波書店文学編集部 編,岩波書店
- 三遊亭円朝 著,人間文化研究機構国文学研究資料館,平凡社
- イアン・マッカーサー 著,内藤誠, 堀内久美子 共訳,講談社
- 小島貞二 著,恒文社
- 延広真治 校注,岩波書店
- 「落語」「寄席」「三遊亭円朝」「速記」の項目。
- 「落語」「寄席」「速記」の項目。
- 「落語」「寄席」の項目。








