Rakugo and storytelling in the early Meiji period (1868 – around 1890)
明治初年から明治10年代の落語と寄席
落語のはじまりは、江戸初期の「醒睡笑(せいすいしょう)」の作者安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)からと言われています。元禄時代(1688-1704)に京都の露ノ五郎兵衛、江戸の鹿野武左衛門が話芸としての落語を確立し、天明年間(1781-1789)に江戸の烏亭焉馬(うていえんば)によって盛んとなり、三遊派・柳派の二派から多くの名人を輩出、幕末には三遊亭円朝が出て江戸落語を集大成しました。
江戸から東京へ。明治維新によって落語や寄席を取り巻く環境は大きく変わりますが、世相の混乱はありつつも、庶民の娯楽としての落語人気が衰えることはありませんでした。幕末から引き続いて三遊亭円朝が落語界を牽引し、旧幕時代の『累ケ淵後日の怪談』(のちに『真景累ケ淵』と改題)や『牡丹燈籠』に続いて、『塩原多助一代記』『怪談乳房榎』などを口演し、そのかたわらで巷のニュースを錦絵とともに伝える「錦絵新聞(「郵便報知新聞」など)」の書き手としても活躍します。また、円朝以外でも、柳派の重鎮・初代柳亭(談洲楼)燕枝、人情噺、音曲噺をよくした3代目麗々亭柳橋、芝居噺の名手6代目桂文治、粋な芸風で鳴らした4代目桂文楽、大きな体で「お相撲」のあだ名の2代目古今亭志ん生、滑稽噺の2代目柳家(禽語楼)小さんなどが人気を競いました。
一方で、維新後の東京には地方出身者が徐々に多くなってきます。これにともなって江戸っ子好みの渋い人情噺よりも笑いの多い滑稽噺が好まれる風潮が生じ、明治10年代になると、初代三遊亭円遊が滑稽な文句と踊りの「ステテコ踊り」で一躍人気を得ました。ほぼ同じ時期に「ヘラヘラ踊り」の初代三遊亭万橘(まんきつ)、「郭巨(かっきょ)の釜掘り」の4代目立川談志、鉄道馬車のラッパを吹きながら高座に上がった4代目橘円太郎などがいずれも大喝采を浴びたので、世間ではこの4人を珍芸四天王と呼びました。
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Storytelling and rakugo performers in 1868
維新の混乱期を過ぎる頃から、明治政府による寄席芸能に対する統制が徐々に強化されていきます。明治10年(1877)に出された「東京府寄席取締規則」では、「猥褻の講談」や「演劇類似の所作」の禁止などの規制が記されています。三遊亭円朝が明治5年(1872)に派手な道具噺から扇子一本の素噺に転じた理由にはこうした動向を考えてのこととも言われますが、明治12年(1879)8月に内務省警視局から出された通達では、「燈火ヲ消シ客席ヲ暗黑ニスヘカラス 」という条項も追加され、客席の燈火を消して暗くすることまで禁止されます。これでは場内を暗くして幽霊を出す怪談噺がなりたちません。
また、明治9年(1876)には「諸芸人鑑札制度」という名の営業免許制度が設けられ、免許者には「鑑札」が交付されるとともに、等級に応じて税金が課せられました。下に掲げる「諸芸人名録」はこの制度のために作成された芸人の名簿で、「上級之部」などとあるのは、税金の等級を示しています。
Rakugo performers in 1868
Popular rakugo performers of this period
楽屋で「朝野新聞」を手にする三遊亭円朝。左上の囲みに中に「三遊亭は男がよくて親に孝行だとね」などと書かれている。明治の漢学者、信夫恕軒が「三遊亭円朝伝」を連載したのが、成島柳北主筆の「朝野新聞」である。
文政9年-明治27年(1826-1894) 本名斎藤文吉。この双六では、「春風亭柳桜」となっているが、これは柳橋の名を息子の4代目に譲って、柳叟→柳桜と改名した後のもの。音曲噺、人情噺に秀で、「四谷怪談」「天一坊」などは得意のネタ。
天保3年-明治22年(1832-1889) 本名福原常蔵。初代の門人。 大きな体から「お相撲志ん生」と仇名され、人情噺、滑稽噺ともに巧妙だった。
天保9年-明治27年(1838―94) 本名新井文三。はじめ4代目文治の門人。一時、幇間 (ほうかん) となるが、6代目文治の弟子として落語界に復帰し、4代目文楽を襲名。花柳界物の人情噺を得意とした。その口癖から「デコデコの文楽」と呼ばれたが、その芸風は「春水の人情本を、その侭にゆく(伊藤痴遊『痴遊随筆』)と称された。
天保14年-明治44年(1846-1911) 4代文治の長男。3代目文楽から文治を襲名。「下谷上野は山かつら、桂文治ははなし家で」という尻取り歌にうたわれた名手。道具入りの芝居噺に長じた。
文政7年-大正12年(1824-1923) 本名吉本庄三郎。2代目正蔵の門人。怪談噺の名手。入門したのは江戸末期のことだが、正蔵を襲名したのは60歳を過ぎた明治21年(1888)で、晩年は沼津に住んで百歳の長寿を保った。「沼津の正蔵」とも。
嘉永元年-大正7年(1847-1918) 本名川村赤吉。明治中頃の名人。父は初代馬きん。人情噺を得意とし、一時講釈師に転向したこともあるが、文明開化の象徴である写真を題材にした自作『開明奇談写真廼仇討』をのこしている。
嘉永2年-明治31年(1850-1898) 本名大藤楽三郎(おおふじらくさぶろう)。初代柳亭燕枝の門下。燕寿から2代目小さんを襲名。3代三遊亭円遊と並ぶ滑稽噺の名手として人気を博した。晩年は「禽語楼(きんごろう)小さん」と改名するが、その名は『仮名文章娘節用』の「小三金五郎」を裏返したもの。女性に大変もてたという。得意は「五人廻し」「猫久」など。三遊亭円遊(鼻の円遊)と仲がよく、円遊が高座で「ステテコ」踊りを始める前から、座敷では小さんと二人で「ステテコ」を踊っていたもいう。
万延元年-明治33年(1860―1900) 3代目麗々亭柳橋の長男。明治11年(1878)に若くして柳橋を襲名。道具入り人情噺を得意とし、座り踊りの名手としても知られた。掲載書は、当時流行の俗謡の文句を集めた本で、明治15年(1982)刊。「ておどり 柳橋」として、得意の坐り踊りの文句が紹介されている。端唄の「羽織隠して」をもじった文句で、「はをりはいしてそできりつめて/どふてもきうはよさんせと/いひつゝたてたれんぐわせき/じようきほそみち/ひたはしる、アレみや/しやんせこの/かいくわ(羽織廃して袖切り詰めて、どふでも旧は止さんせと、言ひつつ建てた煉瓦石、蒸気細道ひた走る、アレ見やしやんせ、この開化)」。「煉瓦石(れんがせき)」は、煉瓦を用いた建物や舗装路。
Enshi (Danshuro) Ryutei, leader of the Yanagi School
幕末から明治初年にかけて、落語家の寄席ビラと役者絵を組み合わせて見立てた錦絵のシリーズが盛んに出版される(「ビラ」は人目につくところに貼った絵入りの広告の意味)。寄席ビラは「ビラ文字」という歌舞伎の勘亭流にも似た独特の書体で書かれ、寄席の木戸や湯屋、髪結床、町内の辻々などに貼り出されたもので、これらの錦絵は宣伝用のポスターの役割も果たしたものと思われる。「はなしの花盛りの大よせ」は、慶応3年(1867)の刊行で、豊原国周(とよはらくにちか 1835-1900)画。「俳優落語当りくらべ」は明治6年(1873)の刊行で、これも豊原国周画。興行中の役者絵に、同じ題材の落語家のビラを組み合わせたもの。「俳優落語三十六家撰」は、明治 14 年((1881 )刊で守川周重(生没年不詳)画。役者絵の役名、演題にちなんだ落語家のビラが描かれ、その落語家の経歴を併載する趣向のシリーズとなっている。
Rakugo performers depicted in nishiki-e (Ukiyo-e multi-colored woodblock prints)
The four masters of unusual comic tricks
珍芸四天王とは、明治10年代に登場し、落語界の新しい笑いの担い手となった4人の落語家です。明治13年(1880)頃から滑稽な文句と踊りの「ステテコ踊り」で一躍人気を博した初代三遊亭円遊、ほぼ同じ時期に「ヘラヘラ踊り」で売り出した初代三遊亭万橘(まんきつ)、「郭巨(かっきょ)の釜掘り」の4代目立川談志、鉄道馬車のラッパを吹きながら高座に上がった4代目橘円太郎。この4人の生み出した笑いは、伝統的な落語の芸からは大きく逸脱したものでしたが、デフレ不況やコレラ禍で沈んでいた明治10年代から20年代にかけての落語界で未曽有の大喝采を浴びました。
彼らの芸が実際にどんなであったかは、下記でも紹介している劇作家岡鬼太郎の『あつま唄』や、明治時代の小説家馬場孤蝶の『明治の東京』などの文章によってもわかりますが、ここでは画像資料として、明治16年(1883)に発売された『新作咄面白双六(安藤徳兵衛画)』という双六に描かれた4人の珍芸を紹介します。『新作咄面白双六』は、当時神田に実在した寄席白梅亭が背景に描かれ、寄席芸人の絵のコマを回って、中央の庵看板(いおりかんばん)を上がりとする形式の双六で、当時の人気芸人の高座の様子が描かれています。人気絶頂の四天王が、三遊亭円朝をはじめとする落語界の名人・重鎮とともに描かれている貴重な資料です。
Enyu Sanyutei and his suteteko (man’s underwear) comic dance
『日本国語大辞典』によれば、明治3年(1870)刊、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』初編・上に「角力甚九のすててこ踊(オド)り」という用例があります。これは弥次喜多の二人が遊郭で「すててこ」を踊る場面で使われています。また、『日本国語大辞典』の「すててこ」の項目では、式亭三馬の『浮世床』二編下の例で「アすててこ すててこ すててこてん てこてんとんとん」という潮来節の囃し言葉もあげられています。従って、「すててこ」という踊りは(円遊の「すててこ」と同じであったかどうかは別として)だいぶ以前からあったものと思われます。円遊の功績は独特の振りやしぐさとともに、それを寄席の芸の中に取り入れたところにあるようです。
明治15(1882)年に刊行された『当世はやり諸げいの大よせ』は当時のはやり唄、俗謡の文句を演者の名前とともに収録した小冊子ですが、ここで紹介されている「すててこ」の演者は燕寿と円遊の二人になっています。燕寿は柳亭燕寿、後の2代目柳家小さん(禽語楼小さん)のことで、円遊とは仲がよく、後年、円遊とともに滑稽噺の名人として知られます。後に「ステテコ」は円遊の専売となりますが、この頃はまだ燕寿と円遊二人の持ちネタと認識されていたようです。その他、初代三遊亭円馬(1828-1880)を「すててこ」の創始者にあげる説もあります(『古今東西落語家事典』初代円馬の項)。
踊りの様子は、後ろ鉢巻きに着物をからげてステテコを見せながら、招き猫のような手つきを見せるというのが、当時の写真や『新作咄面白双六』などからわかりますが、踊りとともに歌われたた歌詞(文句)については、いろいろバリエーションがあります。たとえば、『当世はやり諸げいの大よせ』に収録された燕寿の「すててこ」の歌詞は、「かうもりがでゝきてはまのゆふすずみ」となっていますが、これは端唄「蝙蝠」です。文政年間に7代目市川団十郎が大阪に下ったさいに地元のひいきが作ったと言われています(蝙蝠は団十郎の家紋)。
一方、これと並んで掲載されている円遊の「ゆふべふろのあがりばで、このはらおびをかゝさんが」は、義太夫の『染模様妹背門松(お染久松)』の「質店」の段のさわりです。大正年間録音のSPレコード『お座敷スケッチ 散財』(ニッポノホン5903:大阪南地 堺屋席なべ唄)の中にも「すててこ」が取り上げられていますが、歌詞は「向う横町のお稲荷さんへ一銭あげて」で始まっています。この歌詞はいくつかある「すててこ」のバリエーションの中では最もポピュラーなものですが、もとは古くからの手毬唄のものです。これらを考えると、元来「すててこ」には決まった歌詞はなく、当時親しまれた音曲の歌詞を適宜あてはめて踊っているうちに、徐々に形が固まっていったものと思われます。
その他、「さても酒席の大一座」で始まるもの、忠臣蔵五段目の山崎街道を題材としたもの、中には日清戦争を題材としたものなどが、「すててこ」の歌詞として音曲のさわり集などに収録されています。これらのうち、はっきり円遊の名とともに載っているのは『当世はやり諸げいの大よせ』の「ゆうふべふろのあがりばで」のみで、「すててこ」と伝えられるその他の歌詞のすべてを、円遊が歌って踊ったかどうかははっきりしません。
Mankitsu Sanyutei I
Danshi Tatekawa IV
Entaro Tachibanaya IV
Column “Storytelling in Tokyo in the second decade of the Meiji period (c. 1877 – c. 1880)”
江戸時代、天保改革の前は江戸に125軒の寄席があったとされる(暉峻康隆『落語の年輪』)。天保の改革の影響で一時は15席にまで減少するが、改革がやむと旧に復し、明治初年の東京には200席近い数の寄席があったという。
寄席芸人に鑑札が発行された明治8年(1875)頃からは公式な記録も残されるようになり、明治9年(1876)の『東京府管内統計表』によれば、東京府全体の寄席の数は227軒となっている。この統計の寄席は落語専門の席だけではなく、講談・義太夫・浪花節などの専門席も含むので注意が必要だが、明治10年(202軒)、12年(186軒)、13年(163軒)と寄席の数は減り続けて、明治14年には、松方デフレといわれる大不況の影響か、149軒(東京府統計書)にまで減少する。明治14年は、ちょうど三遊亭円遊、三遊亭万橘、橘家円太郎、立川談志らの「四天王」の人気が沸騰し出した時にあたっている。その後、明治16年(163軒)から増加に転じると、17年(173軒)、18年(199軒)、19年(230軒).20年(234軒)と順調に数字を伸ばすが、これには四天王の珍芸の人気を支えた新しい客層の流入も寄与しているものと推測できる。
一方寄席の立地を見ると、明治12、13、14年と16年の東京府のデータに市内(15区)と郡部の内訳が出ているが、この時期の郡部の寄席数は、10~15軒で、全体の一割に満たない。また郡部というのは、荏原郡、南豊島郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡のことで、具体的には品川(荏原郡)、新宿(南豊島郡)、板橋(北豊島郡)、千住(南足立郡)を指している。いずれも四宿と言われた遊郭のあった場所(日光・奥州街道の千住、中山道の板橋、甲州・青梅街道の内藤新宿、東海道の品川)で、新しい客層の流入の兆しはあるが、寄席の立地は、まだまだ江戸以来の市街地から大きく外れることはなかったと思われる。
References
- 諸芸懇話会, 大阪芸能懇話会 編,平凡社
- 山本進 著,河出書房新社
- 暉峻康隆 著,河出書房新社
- 橘右近 著,小学館
- 小島貞二 著,エーピーピーカンパニー,丸善出版事業部
- 関根黙庵 著,雄山閣
- 斎藤忠市郎 [ほか]編集,立風書房
- 斎藤忠市郎 [ほか]編集,立風書房
- 柏木新 著,本の泉社
- 永嶺重敏 著,勉誠出版
- 延広真治 校注,岩波書店
- 「落語」「寄席」「三遊亭円朝」の項目。
- 「落語」「寄席」の項目。
- 「落語」「寄席」の項目。


