From Hokusai to Hiroshige: Grand Masters of Ukiyo-e Art from TFAM’s Permanent Collection
東京富士美術館で2014年12月6日から2015年3月29日まで開催された企画展「とことんみせます!富士美の浮世絵 〜北斎の富士と広重の五十三次、風景画、美人画、役者絵勢揃い〜」展のオンライン展覧会です。
あいさつ
本展では、東京富士美術館が所蔵する浮世絵コレクションから約250点を厳選し、「第一章 江戸の浮世絵」、「第二章 上方の浮世絵」の二章立てで展示します。
第一章では、庶民のなかで花開いた江戸の浮世絵を紹介します。葛飾北斎の《冨嶽三十六景》[前期展示]と歌川広重の《東海道五十三次》[後期展示]は、江戸時代後期の浮世絵を代表する風景版画として世界的にも広く知られており、かれらの作品が印象派の画家たちに影響を与えたことは周知の事実です。本展ではこの2つのシリーズを2期にわけて展示するとともに、幕末の歌川派を代表する絵師、歌川国芳の《相馬の古内裏》[後期展示]などの名品も展示します。
第二章では 上方、とくに大阪で展開された役者絵を紹介します。美人画、風景画、役者絵など多くのジャンルが出版されていた江戸にくらべて、上方では役者絵がそのほとんどを占めていました。当初大阪では、北洲など歌舞伎の贔屓で絵心のある者が役者絵を手がけていましたが、やがて浮世絵人気にともない、柳斎重春や春梅斎北英といった職業絵師が誕生し、上方役者絵は天保年間頃(1830-1844)に頂点を迎えました。このコーナーで紹介する上方役者絵の多くは、近年当館コレクションに加えられたもので、本展が当館での初お披露目となります。
本展では、北斎や広重の風景画や国芳の武者絵、歌麿の美人画、そして大阪を中心に発展した上方役者絵をご覧頂く事によって、バラエティーに富んだ東西の浮世絵の世界を楽しんで頂ければ幸いです。
Table of Contents
第1章 江戸の浮世絵
「浮世絵」という言葉が登場するのは天和年間(1681-84)頃で、版本挿絵を手がけていた菱川師宣が、挿絵を独立した版画として手がけたのが浮世絵の始まりとされる。当初は墨一色やそれに筆で彩色したものであったが、明和2年(1765)に鈴木春信が数色の色版を摺り重ねる技法を完成させた。錦の織物のように美しいこの多色摺の版画は「吾妻錦絵」と呼ばれ、江戸市中で大評判となった。
「浮世」には「現代風の」という意味が込められているが、新しい風俗や話題に対して旺盛な好奇心を抱く庶民のなかに花開いたのが浮世絵であった。当時の「浮世」の代表は二大歓楽地といわれた遊里と芝居町で、ここを土壌として美術や文学、演劇や芸能といった豊かな実りがもたらされたのであるが、浮世絵もその果実のひとつであった。したがって浮世絵は、遊女や芸者などを主人公とする「美人画」と、歌舞伎役者を描く「役者絵」を中心に展開することとなる。風景を描く「名所絵」が浮世絵のジャンルとして確立されるのは江戸時代後期と遅く、北斎や広重の登場でようやく美人画や役者絵とならぶ浮世絵の主題となりえたのである。
前期展示作品 2014年12月6日(土)~2015年2月1日(日)
Women in a Room
An Honest Girl, from the Series "A Parent's Moralising Spectacles"
葛飾北斎《冨嶽三十六景》
浮世絵における風景画の確立は天保年間頃で、美人画や役者絵に比べて遅れて登場する分野である。その背景には、庶民の行楽や旅行に対する関心の高まりとともに浮世絵の彫摺技術の進歩があった。
葛飾北斎は「冨嶽三十六景」において、富士山というひとつの対象を、様々な場所、季節、気候条件で連作することによって、富士の様々な諸相を自由自在に描き出した。さらに北斎はここで舶来の化学染料、通称ベロ藍と呼ばれる、それまでの植物性の藍には無い鮮烈な青色を多用することによって、当時の人々の感性に直接訴えかける鮮烈なインパクトを放ったのである。こうして様々に新しい手法を取り入れた風景表現の斬新さが、人々の異国趣味を刺激して大いに成功し、これ以降、名所絵が浮世絵のジャンルとして確立したのである。
眼前で激しく逆巻く大波と波間の遥か遠くに鎮座する富士山。動と静、遠と近を対比させる絶妙な構図は、海外でも「グレート・ウェーヴ」と称され、画家ゴッホや作曲家ドビュッシーをはじめ世界的に賞讃を受けた。波に翻弄される3艘の船は「押送り舟」と呼ばれる舟で、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していた。千葉県木更津方面から江戸湾を臨んで描いたとの説もある。
冨嶽三十六景シリーズを代表する作品。画題にある「凱風」とは南風のこと。「赤富士」とも称されるこの情景は、夏から秋にかけての早朝にかぎり見られるという。諸説はあるが、右側に寄せられた構図は左側(東)からの光を意識しているとも感じられ、河口湖付近から富士の北側を捉えたと思われる。秋を予感させる鰯雲の中に悠然とそびえるその偉容は、富士を形象化した作品の中でも唯一無二の逸品といえよう。
冨嶽三十六景シリーズの三役にも挙げられる作品。《凱風快晴》と双璧をなすように、富士の堂々たる姿を表した本図は、《凱風快晴》が「赤富士」と称されたのに対し「黒富士」と呼ばれた。漆黒に包まれた裾野から山頂へのシャープなグラディエーションと頂の尖った形容が、富士の峻厳さとその周辺に立ちこめる静寂な雰囲気を伝えている。画題の「白雨」は夕立を意味する。裾野に描かれた稲光りが画面全体にいっそう鋭さを与えるとともに奥より迫る黒く染まった雨雲が、これから来るであろう俄雨を予兆する。
見事な曲線を描いた橋がまず目に飛び込んでくる。万年橋は東西に流れる小名木川と南北に流れる隅田川の合流地点に架けられた橋。海抜の低かった深川では洪水対策のため、川の両岸の石積を高くしていたという。この石積の上に架けられた橋は周囲よりも高い位置から富士を臨める絶好の見物スポットだったのかもしれない。富士は橋桁の間にひっそり描かれるが、そこに視線が向くようにとの思いか、水上の舟は富士に舳先を向けて浮かんでいる。
駿台は現在の文京区本郷に位置する神田駿河台のこと。神田界隈ではここだけが高台であったため、富士がよく見えたという。季節は新緑の時期であろうか、周囲に繁る木々や野に生えた草を3種の鮮やかな緑で表し、眼下に見える神田川の青とも見事に調和して、画面全体が爽やかにまとめ上げられている。荷を担ぐ行商人の姿、巡礼をする者、お供を連れた武家の姿、額に扇をかざす者など、画中に描かれた人物たちの動きもさまざまで面白い。
円座松とは現在の渋谷区神宮前にある龍岩寺の庭にあった笠松のこと。「枝のわたり三間(約5.6m)あまりあり」ともいわれ、山のようにも見えるこの松は江戸の名所であった。富士の姿は霞雲をはさみ、実際よりも大きめ描かれているとみられる。画面右下には酒に興じる一行がおり、通りすがった通行人もこの景色に見入っている。よく見ると画面左下には、松の添え木にまじり、落葉を掃除している者の足と箒だけが描かれている。
千住は現在の足立区。かつては奥州街道の起点で、水戸街道、日光街道へも続く交通の要衝であり、江戸四宿のひとつとして有名であった。ここでは宿場の風景は描かず、ややはなれた隅田川上流の荒川水門脇のあたりを描いている。リズミカルな水門の柱の間にあえて富士を配置し、構図に一工夫加えている。頭を下げ、山なりになった馬の体躯と富士の姿を相似させている点も面白い。
玉川は多摩川のこと。山梨から東京を経て神奈川に流れる川で、この図では川の中流域にあたる調布あたりの渡し場からの眺めと思われる。川のほとりには1組の人馬がおり、波立つ川の上を1艘の船が対岸を目指している。中景の霞雲を隔てて見える、遠景の富士の姿は明らかに大きく描かれている。多摩川の流れの手前側は空摺(色を使わず圧力で紙に凸凹をつける技法)を用いて表現されている。
犬目峠は現在の山梨県上野原市に位置する。ここの峠は富士の眺めが良いことで知られていた。本図で北斎は、高さによって見え方が変わっていく富士山の表情を白、藍色、茶色の三色で摺り分けることによって巧みに描き出している。一面緑に覆われた坂道を2組の旅人が歩みを運んでおり、峠の高みから見る富士の景色に思わず目を止めている。小さく描かれた人物が、この眺望の雄大な景色と緩やかな時間の流れを強調している。
描かれているのは、現在の愛知県名古屋市中区不二見町の付近の光景と思われる。職人が自身を取り巻くほどの大きな桶の製作に一心不乱に取り組んでいる。その桶の中を通して遠方に小さな富士の姿を捉えるという大胆奇抜な構図に感嘆させられる。桶の大きな円と富士の小さな三角形という組み合わせにも北斎の遊び心を感じる。画中に描かれた職人は、約15年前に刊行されている『北斎漫画』にも登場している。
浅草本願寺は現在の台東区浅草に位置する。もともと神田明神下にあったが、明暦3年(1657)の明暦の大火の後、浅草へ移転した。大屋根をもつこの壮大な建築は江戸の市民を驚愕させたという。屋根の職人たちは幾分小さく描かれており、屋根の大きさが強調されている。屋根と同じ高さから町を見下ろすアングルが斬新である。また屋根と富士山との対比も面白い。藍摺りを基調にしながら朱色の凧がアクセントとなっている。
佃島は元々、隅田川の河口に自然にできた寄洲。徳川家康は幕府を江戸に置くにあたり、摂津国佃村の漁民を江戸に呼び寄せ、ここに漁村を作った。幕府は佃島の漁民たちに江戸近海で優先的に漁が出来る様な特権を与えて保護したといわれ、毎年冬から春にかけては白魚漁がさかんに行われ江戸風物のひとつとなった。西の空が夕暮れに染まる時間帯、人を乗せる船、物を乗せる船、漁船など、さまざまな用途の船が島の周囲を行き来している。
七里ヶ浜は、現在でも多くの観光客が訪れる神奈川県鎌倉市に位置する海岸。前景にあるのは鎌倉山で、中景には七里ヶ浜の集落が描かれている。その左側に見える島が相模湾に浮かぶ江の島と思われる。描かれた時間帯は西の空が染まる夕方頃と考えられ、逆光で暗がりとなっていく集落や島の色合いも見事に表現されている。本作の摺りでは退色のため判別しづらいが、富士の左側の空には夏の湧き立つ入道雲が描かれている。
梅沢は現在の神奈川県中郡二宮町に位置する。「梅沢左」とあるが「梅沢庄」か「梅沢在」の誤刻だと考えられる。梅沢は大磯と小田原の間にあった立場(休憩所)として賑わっていた。左右に配置された雲、水辺に寄り添う5羽の鶴、そして富士に向かって悠然と飛ぶ2羽の鶴は、蓬莱山図など縁起のよい吉祥図を想起させる。本図は発色がよく、当時人気のあった顔料であるベロリン藍(通称ベロ藍)を基調に仕上げた藍摺りと呼ばれる作品。
海の断崖で漁をする姿かと見紛うほど、迫り出した岩と波しぶきが目に止まる。描かれた場所は、富士山北西部を流れる笛吹川と釜無川が合流し富士川となる地点、鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡)付近とみられる。漁をする父と魚籠を覗き込む息子、それを見下ろす富士の姿、三者三様の光景が画面を飽きさせないものにしている。富士の山容と、突き出た岩と漁師、そして漁師から放たれた網とが三角の相似をなしているのも面白い。
三島越とは、甲府盆地から富士山麓を経て駿河国・相模国へと続く鎌倉往還(各地方と鎌倉を結ぶ古道)を指す。本図は、鎌倉往還の甲駿国境にある籠坂峠から臨んだ富士の姿とみられる。画面中央を巨木が貫き、背後に富士がそびえる圧巻の構図である。3人の旅人が手をつないで巨木の大きさを計ろうとするしぐさがいかにも人間らしい。富士の周囲に漂う雲の形もユニークな雰囲気を醸し出している。
よく晴れた日には諏訪湖からも富士を眺望でき、渓斎英泉や歌川広重も好んでその光景を描き残している。画面を遮るようにV字に大きく描かれた二本の松から見下ろすように諏訪湖を配し、富士の形と相似するように弁財天の祠を置くなど、北斎の構図への強いこだわりを感じさせる。本作のような大胆な構図は、印象派の画家モネにも影響を与えたとされ、彼が描いた崖のほとりに立つ税関吏小屋のシリーズへの影響が示唆されている。
江尻は清水港に隣接した東海道の宿駅で、現在の静岡県静岡市清水区にあたる。富士山麓特有の強風に苦しむ旅人と、それとは対照的に泰然と佇む富士の姿を輪郭線だけを用いて描いている。当の本人たちには気の毒だが、菅笠や懐紙が風に乗って飛ばされる様は、殊の外リズミカルで、この瞬間に居合わせた面白みを感じさせる。樹木が傾くほどの凄まじい風の動きと背景の富士とが見事なコントラストをなしている。
遠江は現在の静岡県西部に位置する。巨大な材木を人の高さの倍以上もの高さにまで立て、2人木梚き職人が大きな歯の特別なのこぎり使い、1人は材木によじ登り、上から丹念に切れ目を入れ、1人は下から切れ目を入れている。富士は材木を支える支柱が作った三角形の間から顔を覗かせている。職人たちが働く傍らでは、子どもが焚火をしており、その煙は富士を取り巻く雲と連動するように、バランスよく材木と対角線の方向に伸びている。
牛堀は霞ヶ浦の東岸、現在の茨城県潮来市に位置する。画面の中央に「苫舟」と呼ばれる霞ヶ浦付近の航行に適した船底の浅い舟が、右下から対角線上に突き出るようにして描かれている。また朝食の支度にかかっているのか、舟から身を乗り出した男は米のとぎ汁を川に流し、その音に驚いた2羽の白鷺が舞立つ様子も捉えられている。大胆な構図の中にも、夜明け前の静まり返った空気を感じさせる抒情性にあふれた作品といえる。
駿河町は現在の日本橋室町。越後屋三井呉服店は、今の三越百貨店の前身で、日本橋の北側、現在の室町三丁目にあった。看板に「現金、掛け値無し」とあるように、全ての商品に定価をつけた商売は大成功を納め、当時大いに繁盛していた。地上から見上げたような構図で、その視線の先に生き生きと働く屋根職人の姿と風に漂う凧を配する。江戸の庶民の日常生活に静かに溶け込んだ富士の姿が捉えられている。
御厩川岸は隅田川の両国橋と吾妻橋の中間、現在の厩橋が架かる付近。本図は富士の位置からして厩橋の北側からのアングルを捉えており、まさに今、渡し船が対岸の浅草方面に向け離岸した刹那を描いている。船は帰路を急ぐ客で溢れ返り、一日の疲れからかうずくまる客もいれば、汗を拭こうとしているのか、水面に手拭いを濡らしている客もいる。船を漕ぐ船頭の視線の先には、夕日に浮かんだ富士の美しいシルエットを臨むことができる。
五百羅漢寺は当時、深川(現在の江東区大島)にあり、境内にあった三匝堂は三階建ての高層建築で、らせん状の回廊がサザエのようであるため、さざえ堂とも呼ばれた。ここから隅田川を隔てて富士が良く見えたという。遠近法を駆使した安定的な構図が清澄な雰囲気を演出している。欄干にもたれた人々の姿態描写も巧みで、富士を見ながらくつろぐ人々のリラックスしたムードを伝えてくれる。
下目黒は現在の目黒区の一帯を指している。当時は田畑が多い農村で、将軍が鷹狩りをする御鷹場としても知られていた。画面の中央、道端で話をしている2人の男は鷹匠で、男たちの手の先には鷹が止まっている。また田畑には、畑仕事をしながら鷹匠たちの話に耳を傾ける農夫やクワを担いで畑へ向かう農夫の姿も見え、農家の母子が描かれている。富士山は起伏に富む小高い丘の間から遠慮がちに顔を出している。
青山穏田村は現在の渋谷区神宮前の原宿あたり。当時は至るところでこのような水車が見られるような田園地帯であったとみられ、近くには今では地下に埋設されてしまった渋谷川(隠田川)が流れていた。この水車は、渋谷川沿いに作られたもので、江戸名所のひとつにもなっていた。賑やかに働く人びとや激しい水流によって回る水車と、彼方にそびえる孤高の富士との対比が面白い。
神奈川県藤沢市に位置する江の島は当時も人気の観光名所であった。現在は橋が架かっているが、当時は本図のように干潮時に現れた砂州を歩いて江の島へ渡っていた。限られた時間の中で江の島の弁財天詣でに急ぐ人々の動きが伝わってくる。また渡った先には大きな石灯籠が見え、そこが参道の入口であることが分かる。参道脇にはすでに店が軒を連ねており、ここに多くの人が訪れていたことを窺わせる。砂州の両側に寄せる波の点描表現も面白い。
田子の浦は現在の静岡県富士市一帯の海岸を指し、富士の真南に当たり、海と富士の距離が最も近いエリアでもある。『百人一首』にも「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(山辺赤人)と詠まれたように古くから名所として知られていた。富士の手前に顔を見せるのは愛鷹山。そのふもとの浜辺では塩田で黙々と働く人びとの姿が見られる。遠景と対照をなすかのように、近景では4隻の船が荒れた海の中で格闘している。
吉田は現在の愛知県豊橋市に位置する東海道の宿場。「不二見茶屋」はまさに富士が見える茶屋として有名であったのだろう。お座敷の一角を陣取った2人の女性客も見物を楽しんでいるようだ。軒下には「御茶津希(=おちゃつけ)」との看板が掲げられており、その下には「根元吉田ほくち」とこの地の名産であった火口(火打ち石の火を受けるもの)の掲示も見える。駕篭者の一人が草鞋を履きやすくするために木槌でたたく姿も興味深い。
上総は現在の千葉県中南部一帯を指す。この一帯は江戸時代、海運で大いに賑わっていたようだ。本図は、浦賀水道付近からの眺めと推測される。同型の2隻の船が精巧な描写で描かれているが、よく見ると側面に開いた窓からは乗客であろうか、3人の男たちが顔を覗かせているのが分かる。その男たちの顔の縮尺からすると、この船は10m近くあるとみられるが、実際は定かではない。富士は大きく弧を描いた帆の彼方に小さく配されている。
日本橋から西方向を臨んだ情景。川の両岸に立ち並ぶ蔵は西洋の透視画法を用いて描かれ、その消失点には江戸城、そしてその彼方に富士山が配される。画面手前に描かれた日本橋には、最早まっすぐ歩くことが許されないほど、往来する商人たちの姿で埋め尽くされており、江戸ならでは活気を感じさせる。またこの日本橋の模様を大胆に切り取ることで、静かに佇む遠景の江戸城と富士山との対比が生まれ、画面にさらなる面白みを与えている。
関屋の里は現在の足立区千住付近の隅田川に面する一帯のことを指す。鎌倉時代に関所が設けられていたことからその名がついたという。朝霞がたちこめる早朝であろう。遠方には朝の日に照らされた赤富士が見える。田畑にのびる堤の上を疾駆する3騎の早馬の臨場感がよく伝えている。右端に描かれているのは法令などを掲示する高札場。中央に伸びる松の木は明らかに富士の山容を意識した枝振りをしている。
登戸浦は現在の千葉県千葉市中央区に位置する。地名は「のぼと」又は「のぶと」と呼ばれ、浅瀬に立った鳥居は登渡神社のものとされる。鳥居の周辺には潮干狩りを楽しむ人々が描かれ、画面左側にははしゃぎ回る子どもたちの姿も見える。中央に大きく描かれた鳥居の中に富士が描かれるが、鳥居の大きさや角度、海面と陸地の配分など、全て計算されたかのような構図は極めて精巧といえる。
箱根湖水は神奈川県足柄下郡に位置する芦ノ湖のことを指す。富士をはさみ左側に見える山は三国山、右側の山は駒ヶ岳であるとみられる。波ひとつない湖面が広がり、湖畔のほとりには杉に囲まれた箱根神社がひっそりと佇んでいる。人物はおらずきわめて静寂な風景が広がる。構図を見ると、横に平たい形で様式化された霞雲と、画面の所々に縦に勢いよく生えた杉の木々とが、画面に縦と横の一定のリズムを生んでいる。
現在の山梨県笛吹市に位置する御坂(三坂)からみる河口湖と富士の風景である。中央には赤茶けた山肌をあらわにした夏の富士が描かれている。またここから見る富士の姿は、河口湖の湖面に反射して逆さに見えることから「逆さ富士」としても有名である。ここでも波ひとつない湖面に富士の姿が映し出されている。しかし、湖面に映し出されているのは雪をかぶった冬の富士であり、そこには現実ではありえない虚構の風景が広がっている。
程ヶ谷は現在の神奈川県横浜市保土ヶ谷区。程ヶ谷宿近くの品濃坂は松並木が見事であったという。北斎はその松の枝振りを見事にとらえて描いている。また松の前ではさまざまな人間模様も描かれて、左側の駕篭を担ぎ、一旦休憩する二人の男とその中で熟睡する客。汗を拭く左側の男のしぐさは何ともコミカルで憎めない表情を浮かべている。また右側の草鞋の紐を結び直す男の描写も巧みで北斎の技量を感じさせる。
現在の墨田区に位置する本所立川には当時多くの材木問屋があった。明暦の大火の以後、火事が起きた際に建替えで必要となる材木がここに蓄えられていたという。本図では材木置場に立てられた無数の材木の向こうに富士が顔をのぞかせている。また、中央で木挽きをする人をはじめ、材木を高々と放り投げる人、それを受け取る人などそれぞれの職人の動きに北斎の巧みな人体表現を見ることができる。
千住は日光街道最初の宿場で、本図はその南に位置する山谷(現在の台東区浅草)から花街である新吉原(現在の台東区千束)を眺めた構図。手前には鉄砲や槍をもった大名行列が国元へと向かう様子が描かれるが、一人一人が手にしている赤い色の兵具入れが明らかにリズミカルに配置されていることに気づかさざるを得ないであろう。隊列の向こうには稲刈りを終えた2人の農婦が田んぼの畦道に腰を下ろし、物珍しそうに行列を眺めている。
現在の品川区に位置する御殿山には、江戸時代に桜の木が植樹され、海と桜を一度に楽しめる名所として賑わっていたようだ。富士は計算されたかのように、2本の桜の合間から顔を見せている。本図の画面手前には、御殿山の丘陵にゴザを引いて酒を興じる男衆や、家族連れであろうか、稚児を肩車する男性に同じく稚児をおんぶする女性、はたまた扇を手におどける男たちなど、思い思いに花見を楽しむ人々の姿が生き生きと描かれている。
仲原は現在の神奈川県平塚市中原に位置する。目の前には平野が広がり、悠然とした富士の姿を臨むことができる。富士の手前にあるのは大山で、当時、神仏習合の霊場であった大山を詣でる「大山詣で」は庶民の間で人気を集めていた。画中ではまさに大山詣でに向かう修験者がおり、その人手を見込んだ行商人の姿なども見える。一方、そうした世間のことには見向きもせず、ひたすら川で網をすくう男の姿もありのまま描かれている。
伊沢は現在の石和のこと。山梨県笛吹市にあたる。日の出前の時間帯。宿場町の背後を静かに流れる笛吹川と富士の裾野に立ち込める朝靄が清澄な雰囲気をつくり出し、朝靄の先には朝焼けに浮かび上がる富士山の偉容が姿を現そうとしている。手前に目をやると、林立する小屋がリズミカルに並び、早立ちする人馬が慌ただしく列を作っている。近景の宿場町、中景の笛吹川、遠景の富士の三者がひとつの風景の中で見事に調和を果たしている。
当館所蔵の収蔵番号6269-EA328と同じ図柄だが摺りが違う。本作では富士の左側に競り立つ山肌の茶色が反転している。後年に違う摺りのパターンの一つとして摺られたものと考えられる。違いを比較してみるのも面白い。
大野新田は現在の静岡県富士市につくられた新田集落である。大野新田を通る東海道からの富士の眺め。時間帯は東の空が染まる早朝の頃と考えられる。農夫たちが葦を背負った牛を引き連れて歩く様子を捉えている。牛に積まれた葦、また牛の足が一定のリズムで並ぶ様子は滑稽みがあり、先頭を行く農夫とその前を歩く農婦が同じポーズをとっている姿もまた面白い。奥には富士沼が広がり、牛の列に驚いた数羽の白鷺が飛び去る姿が見える。
駿河国は現在の静岡県東部付近をいう。片倉という地名は存在しないため、静岡県駿東郡清水町にある徳倉の誤刻の可能性が指摘されている。駿河は茶の名産地であったことから、このような大規模な茶園が多く見られたと考えられるが、霞の向こう側に見える小屋の一帯も同じ敷地内だとすれば相当な面積を有していたとみられる。画面の中央2ヶ所の茶畑に笠を被り並んで茶摘みをする女性たちが見られ、男性はひたすら茶葉を運ぶ仕事に従事している。
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所である大井川。金谷は現在の静岡県島田市に位置する。江戸時代、架橋、渡船が禁じられていた大井川では川越しの人足や馬の背に荷駄や人を乗せる徒渡しが行われていた。まるで、海のように波打つ川を、金谷宿と島田宿の双方から徒渡しで往きかう旅人や荷駄が描かれている。向こう岸には堤防が波のうねりと呼応するような形で描かれている。
「冨嶽三十六景」シリーズ中で唯一、富士の山容が描かれていない富士である。描かれた人物は皆、富士講と呼ばれた富士山を信仰する人たちで、白雲が湧き立つ中、杖を使い、険しい山肌を這うようにしながら登っていく。彼らの顔は一様に疲れきっており、登山の過酷さを物語っている。画面右上にあるのは石室で、登山者たちが体を休めるために使用していたようで、すでに数十人がうずくまって休息をとっている。
「伊賀越道中双六」のうち岡崎の場面。敵である澤井股五郎を追って藤川の宿までたどり着いた唐木政右衛門は、股五郎の許嫁お袖の父、山田幸兵衛の家を訪ねたところ、偶然にも幸兵衛はかつての武術の師匠であった。幸兵衛は政右衛門が股五郎の追っ手とは知らない。そこへ巡礼姿をした政右衛門の女房お谷が、大雪に見舞われて幸兵衛宅の門口を訪れる。政右衛門は自分が股五郎の追っ手と悟られるのを恐れて、お谷を追い返し、目に涙を浮かべて、お谷が抱いていたわが子の首をはねる。その涙にすべてを悟った幸兵衛は愛弟子政右衛門の苦衷を察し、股五郎の行方を教えてやる。
源義経を描いた「義経千本桜」のうち「川連館」の場面。静御前とともに義経の後を追っていた佐藤忠信。じつは狐が化けた偽物であった。この忠信狐、義経が天皇から賜り、静御前に預けていた「初音の鼓」を慕い、付き従っていたのである。じつはこの鼓は千年の年を経た雌雄の狐の皮を張ったものであり、その狐こそ忠信狐の両親であった。義経がかくまわれていた川連法眼の館を舞台に、佐藤忠信を詮議する義経と静御前。ついに素性をあかす狐。狐が親を思う子の情に感じた義経が、源九郎という自分の名とともに鼓を与えるという伝奇的なドラマが繰り広げられる。本図には、静御前に斬りつけられて姿を現した狐が描かれる。
源義経を描いた「義経千本桜」のうち「川連館」の場面。静御前とともに義経の後を追っていた佐藤忠信。じつは狐が化けた偽物であった。この忠信狐、義経が天皇から賜り、静御前に預けていた「初音の鼓」を慕い、付き従っていたのである。じつはこの鼓は千年の年を経た雌雄の狐の皮を張ったものであり、その狐こそ忠信狐の両親であった。義経がかくまわれていた川連法眼の館を舞台に、佐藤忠信を詮議する義経と静御前。ついに素性をあかす狐。狐が親を思う子の情に感じた義経が、源九郎という自分の名とともに鼓を与えるという伝奇的なドラマが繰り広げられる。本図には、静御前に斬りつけられて姿を現した狐が描かれる。
「伊達家の三代藩主・伊達綱宗が吉原の高尾太夫に魂を奪われ、廓での遊蕩にふけって隠居させられた。これはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐と黒幕である伊達兵部ら一味の仕掛けによるものであった」。江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動、いわゆる「伊達騒動」について、巷ではこのような物語がつくられ、歌舞伎でもそのような筋書きでたびたび上演された。ただし同時代の事件などは題材とすることが禁止されていたため、ここでは鎌倉時代の物語とされている。本図は、吉原に入り浸っていた足利頼兼(伊達綱宗)が、恋する高尾太夫が自分を裏切ったのではないかとの疑いを抱いて問いただしている場面である。
「伊達家の三代藩主・伊達綱宗が吉原の高尾太夫に魂を奪われ、廓での遊蕩にふけって隠居させられた。これはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐と黒幕である伊達兵部ら一味の仕掛けによるものであった」。江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動、いわゆる「伊達騒動」について、巷ではこのような物語がつくられ、歌舞伎でもそのような筋書きでたびたび上演された。ただし同時代の事件などは題材とすることが禁止されていたため、ここでは鎌倉時代の物語とされている。本図は、吉原に入り浸っていた足利頼兼(伊達綱宗)が、恋する高尾太夫が自分を裏切ったのではないかとの疑いを抱いて問いただしている場面である。
両国橋は、江戸の下町を流れる隅田川にかかり、当時橋をはさんで見世物小屋など各種の店が連なり、江戸最大の賑わいをみせる場所であった。画面は夏の花火の光景で、橋の上は無数の見物人であふれ、川面は数え切れないほどの屋形舟でごったがえし、舟上では花火に浮かれる男女が思い思いの姿で夏の夜を楽しんでいる。大きくアーチを描く橋を中景として両岸の家並みがやや極端な遠近法で処理され、あの下にはさらに下流の橋が小さく描かれていて、雄大で臨場感に富んだ一大パノラマとなっている。
歌川国芳
歌川国芳は近年注目されている浮世絵師で、国芳をテーマとした展覧会もたびたび開催されている。彼が活躍した時代は、格差拡大による社会不安や飢饉による一揆、水野忠邦による天保の改革とその行き詰まりなどで幕府の力は衰退し、さらにペリーの黒船来航などの外圧と、まさに明治維新へと向かう幕末の混乱状態にあった。浮世絵もさまざまなお触れによって取り締まりの対象となっていた。国芳は江戸っ子で一本気な性格であったといい、厳しい取り締まりにも関わらず、それに屈せず斬新さと多様性にあふれた浮世絵を生み出した。
なかでも、三枚続きの錦絵には名品が多く、まるで映画のワンシーンのような劇的な画面構成は見るものを圧倒する。兄弟子の国貞(三代豊国)とともに幕末の浮世絵界を牽引し、彼の門下生は70数名に及んだといわれる。
Sasaki no Saburou Moritsuna, from the series Japanese Heroes for the Twelve Signs
Kusunoki Kawachi-hangan Masashige, from the series Japanese Heroes for the Twelve Signs
Kajiwara Heizou Kagetoki, from the series Japanese Heroes for the Twelve Signs
Sakata Kaido Maru
Oniwaka Rikinosuke
The Battle of Shijo Nawate
後期展示作品 2015年2月5日(木)~3月29日(日)
A Disobedient Girl, from the Series A Parent's Moralising Spectacles
Cherry Blossoms in the Shin-Yoshiwara Courtesan’s District
Cherry Blossoms in the Shin-Yoshiwara Courtesan’s District
Beautiful Woman Reading a Letter
The Actors Matsumoto Koshiro V as Akahori Mizuemon and Iwai Kumesaburo as the Geisha Omatsu
歌川広重《東海道五十三次》
北斎の「冨嶽三十六景」が大ヒットしたのを受けて、広重は天保4〜6年頃にかけて、新興の版元保永堂から「東海道五十三次」を刊行した。東海道の街道沿いの風景に、月光や雨、霧、雪など、多彩な天候の変化を織り交ぜて旅情豊かに描き出したこのシリーズは大好評を博し、広重の代表作となった。弟子の三代広重の伝えるところによると、広重は天保3年、数え年三十六歳のときに、幕府から朝廷へ馬を献上する公式の儀礼に同行して京都へ上ったといわれ、「東海道五十三次」はその道中の様子を描いたともいわれる。
北斎の風景画の魅力が、組み合わせや構図の面白さを追求した画面の構成力にあるのに対して、広重の風景画の魅力は、四季の変化豊かな日本の気象現象を巧みに描き出した深い抒情性にある。
現在の東京都中央区にあたる。東海道の起点・日本橋の朝の景色。朝焼けを背に大名行列が橋を渡り始める様子が窺える。先箱持ちを先頭に毛槍と続き、陣笠の従士たちが整然と列をなしている。手前には魚河岸から帰った魚屋や野菜売り、犬の姿を見ることができる。左右に開いた大木戸の間から覗くような視点が面白く、大木戸の縦格子と毛槍の縦のラインと橋の板目の横のラインが画面に一定のリズムを与え、堅固な構図を作り上げている。
現在の東京都品川区にあたる。東海道の最初の宿場町となるのがここ品川である。本図では大名行列のしんがりの姿が描かれている。「日之出」という画題からして、明け方近くの情景であろう。街道脇の店のほとんどは閉まっているが、手前の茶屋だけは店を開け、中には客らしき女の姿も見える。品川は吉原につぐ遊里としても栄えていたという。右側の切り立つ山が八ッ山、左に開ける海が品川湾だが、今日ではいずれも見ることはできない。
現在の神奈川県川崎市川崎区にあたる。東海道五拾三次の道のりの最初に渡る大きな川が本図で描かれる多摩川である。対岸に見えるのが川崎宿。多摩川は六郷川とも呼ばれ、ここを渡す船は「六郷の渡し」といわれた。もともとは大きな橋が架けられていたが、たびたび洪水で流されたため、舟で渡河するようになったという。画面奥には西日で真っ赤に染まった空と雪化粧した富士の姿のコントラストが美しく、情感をかき立てられる。
現在の神奈川県横浜市神奈川区にあたる。神奈川台と呼ばれた宿場町の情景。急勾配の上り坂の街道沿いにはずらりと茶屋が並んでいる。店の前には客引きの女たちが並び、通行人を盛んに呼び止めており、手を引かれた旅人とのやり取りには活気が感じられる。手前には六部と呼ばれた巡礼者の姿が見え、目の前の光景をよそに静かに歩を進めている。茶屋の海側には露台が設けてあり、茶屋に入った者だけがその絶景を味わえたことも窺える。
現在の神奈川県横浜市保土ヶ谷区にあたる。夕刻の新町橋(帷子橋とも呼ばれた)の景色。橋の下を流れるのは帷子川である。橋の向こうに保土ヶ谷宿が見え、街道沿いに店が軒を連ねている。一番手前には「二八」の看板を掲げたそば屋があり、客引きの姿も見える。大名行列と思われる男たちの一行、橋を渡ろうとする虚無僧や武士を乗せた駕籠の姿からはこの宿場の活気が伝わってくる。店の裏手には対照的にのどかな田園風景が広がる。
現在の神奈川県横浜市戸塚区にあたる。橋のたもとには「左かまくら道」との道標が立っている。橋を渡り左へ曲がると鎌倉へ向かう別道があった。「こめや」と書かれた大きな看板を掲げる旅籠が見える。軒先には「大山講中」や「月参講中」など様々な神仏参詣の団体の名前が掛けられており、ここがこれら講中の指定休憩所だったことが分かる。旅人がまさに旅籠に到着した場面。不器用そうに馬から飛び降りる仕草は滑稽味を帯びている。
現在の神奈川県藤沢市にあたる。手前を流れる川は境川、架かる橋は遊行寺橋と見られる。奥の山中にひっそりと佇む遊行寺と、その門前町として栄えた藤沢宿の様子が描かれる。眼前に鳥居を置いた構図は斬新で、広重特有の感性を垣間みることができる。この鳥居は江の島弁財天のもので、江の島を目指す4人の座頭が今まさに通り抜けようとしている。広重はこの鳥居をよほど気に入ったのか、別のシリーズでも違う角度から描いている。
現在の神奈川県平塚市にあたる。遠景に見えるまん丸い形をした山は高麗山で、その後ろには小さく富士の姿が見える。縄手道とは畦道のことで、ここでは奥に向かって「く」の字に表現され、画面に奥行きをもたらす効果を生んでいる。中央には道沿いに立つ樹木の合間を上半身裸の状態で先を急ぐ早飛脚と、空になった駕籠を担ぎ、帰路につく駕籠かきが描かれる。街道脇に立つ平塚宿との境を示す榜示杭が、一種のアクセントとなっている。
現在の神奈川県中郡大磯町あたり。右側に見える山は高麗山。この山には『曽我物語』の曽我十郎と恋仲であった虎御前ゆかりの草庵があったとされる。「虎ヶ雨」とは虎御前が十郎を偲び流した涙を指し、十郎が討死した陰暦5月28日に降る雨のことをいう。構図をみると、左右に立て分け、左側に遠く臨む静かな海を描いたのに対して、右側に立ち並ぶ宿場町の店の重なり、折れ曲がった樹木などを巧みに描き入れ、画面の均衡を保っている。
現在の神奈川県小田原市にあたる。遠景の様々な色彩と形で構成された山の表現が斬新に映る。山のふもとには小さく小田原城とその城下の町並みが描かれている。手前を横切る酒匂川は幕府の政策により架橋や渡船が禁止され、川越し人足による徒渡しによって渡る方法しかなかった。ここではふんどし姿となった人足の肩車を使って渡る者や、複数の人足が担ぐ輦台(川を渡すための台)で渡る者など、様々な徒渡しの様子が描かれている。
現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあたる。主役の富士を凌駕するように極端に競り立った山が画面中央に描かれ、対照的に白く雪化粧した富士が遠景にひっそり佇んでいる。山間を抜ける細く急勾配な坂道を下る大名行列の姿は「天下の嶮、千尋の谷」と謳われた箱根の峠越えの厳しさを物語っているかのよう。モザイク画を思わせる多彩な山の岩肌の表現と連なる大名行列の動きが画面にリズムをもたらし、観る者の好奇心を満たしてくれる。
現在の静岡県三島市にあたる。早朝に宿を発つ旅人に光をあて、朝霧が立ちこめる情景を描き出している。奥に見える鳥居は三島明神(現在の三島大社)のもの。手前の駕篭の一行は三島から箱根方面へ、左側の3人の人影は沼津方面へと向かっている。背景描写には、あえて輪郭線を用いず、シルエットのみを捉えて描くことで、霧による湿潤な空気感、駕篭の一行を取り巻く空間の広がり、夜明け前の静寂さまでもが見事に表現されている。
現在の静岡県沼津市にあたる。街道沿いを流れる狩野川に沿って橋を渡った向こうは沼津宿である。本図で注目すべきは中央の男が背負う大きな天狗の面であろう。この男は讃岐の金毘羅参りへの途上で、天狗の面は金毘羅大権現への奉納品とみられる。その前を行く2人連れは比丘尼とその従者。手には布施を受けるための柄杓を持っている。夕闇が迫る黄昏の時間帯。宿場へと急ぐ人々を、皓々と照った月の光がやさしく包み込んでいる。
現在の静岡県沼津市にあたる。母娘であろうか、2人の女性とお供の男性。その背後には、朝焼けをバックに雪を被る雄大な富士がそびえており、女性たちはその偉容に思わず足を止めている。富士の頂が画面をはみ出すように描かれた斬新な構図には、すでに人気を博していた葛飾北斎の《冨嶽三十六景》シリーズへの対抗心のようなものを感じとることができる。田畑に戯れる2羽の鶴が峻厳な富士の姿を和らげるアクセントにもなっている。
現在の静岡県富士市にあたる。元吉原から吉原へ、田んぼの中を曲がりくねって続く松並木の街道は、富士の姿を左に見ることができ、「左富士」と呼ばれ、皆に親しまれた名所であった。馬に乗る3人の子どものうち、左の2人は眼前に見えてきた富士に気づき、夢中に見つめているが、右端の子どもは居眠りしているのか、頭を右にがっくりと垂れている。松の並木が迫り来るようなリズムを作り出し、画面に何ともいえない臨場感を与えている。
現在の静岡県静岡市清水区にあたる。深々と降りしきる雪の中、夜道を3人の人物が慎重に足を運んでいる。彼らが被る笠や蓑にもうっすら雪が積もり始めている。人物以外を白と黒で描き、静寂に包まれる雪の夜の心細さを表現するとともに、黄と青に着色した人物を配置して全体に効果的な対比を創出している。舞台となった蒲原付近は元々雪深い地域ではないが、揃物のバリエーションの一つとして雪景の設定で描かれたものと考えられる。
現在の静岡県静岡市清水区にあたる。薩埵峠は峠に入る前の波打ち際で荒波にさらわれる旅人も多く、「親知らず子知らず」と呼ばれ、東海道の難所の一つとして知られていた。海に面した切り立つ峠を越える際、突然背後に現われる富士の姿に旅人は感動したという。駿河湾越しに見える富士が美しく、急勾配な峠の輪郭とそこに生えた松のフォルムが共鳴するかのように配される。海上に浮かぶ船の四角い帆も画面に一定のリズムを与えている。
現在の静岡県静岡市清水区にあたる。奥に見える白浜に青松の景色は三保の松原である。その先には船の四角い白い帆が浮かぶ。興津川を渡るのは2人の力士たち。一方は人足が4人掛かりで担ぐ駕籠に乗り、もう一方は馬に乗る。江戸時代、相撲は勧進相撲と呼ばれ、寺社奉行の許可のもとで社寺への寄進や修復費用を賄う目的で開催された。力士の重さに手を焼く人足と馬の姿と、意気揚々とした力士の姿がほのぼのとした滑稽味を感じさせる。
現在の静岡県静岡市清水区にあたる。江尻は現在の清水港。中央には有名な三保の松原が見え、遠方には愛鷹山がごつごつとした山並みが見える。おそらく愛鷹山の左側には富士も見られたに違いない。春の陽光が海に燦々と降り注ぎ、海面がキラキラと輝いている。本来であれば愛鷹山の先には伊豆半島が続くはずだが、ここでは大幅に省略され、水平線まで見渡すことができ、大小無数の帆船も相まって開放感にあふれた構図となっている。
現在の静岡県静岡市葵区にあたる。安部川の徒渡しの様子が描かれる。3人の女性がおり、駕籠のまま渡る者、蓮台に乗って渡る者、人足に背負われて渡る者と各々の渡り方で渡る姿が見える。女性陣の後には肩車で渡る男性も続いている。向こう岸からは2組の男たちが渡ってきており、一方は馬に荷物を載せて引く2人の人足とその荷を支える馬子、一方は歩いて川を渡る客とそれを導く人足たちである。当時の川越えの苦労が伝わってくる。
現在の静岡県静岡市駿河区にあたる。松尾芭蕉の句に「梅 若菜 丸子の宿のとろろ汁」と詠われた丸子宿の情景。茶店には「名ぶつとろろ汁」との看板が立てかけられ、床几に腰を掛けた旅人が大きな口を開けて、名物のとろろ汁を美味そうに頬張っている。「お茶漬け」「酒さかな」の看板も掲げられ、店内には巻き藁に刺さった魚や干し柿も見える。背景のこんもりとした山は横田山である。本図の後摺りでは「丸子」が「鞠子」と改変される。
現在の静岡県藤枝市にあたる。画面左右から迫ってくる山の斜面の間を通る宇津之谷峠を農夫たちが行き交う。この峠道は桃山時代に豊臣秀吉が整備し、後に街道として利用されるようになったという。道の脇には作られた水路を勢いよく流れる岡部川が描かれている。向こうから歩いてくる3人の中の奥の人物を上半身のみ描き、3人が急な峠を登ってきた様子を巧みに描写している。右側の山中に『伊勢物語』で有名な「蔦の細道」がある。
現在の静岡県藤枝市にあたる。「人馬継立」とは運ばれる荷物の人足と馬が交代することをいい、本図はその様子が描かれている。右上の問屋場の役人が見守るなか、荷物の引き継ぎ作業が行われ、汗をふき、休みをとる者や荷物を積み直す者など、思い思いの姿が見られる。当時の風情を知れる興味深い図案である。人足が担ぐ荷物に立てられた名札には、版元の「保永堂」、馬のお腹には版元の主人、竹内孫八にちなむ「竹内」の文字が見える。
現在の静岡県島田市にあたる。松尾芭蕉の歌にも「五月雨の雲吹きおとせ大井川」とあるように、大井川の川渡しは東海道中最大の難所で、梅雨の時期に増水した際には嶋田宿に足止めされることも多々あったという。広重はその川渡しの様子を、実際にはありえない、かなり高い視点から俯瞰して描いている。大井川駿岸とは駿州、嶋田宿側の岸という意味。大名行列の一行が人と荷物とに別れながら、次々と川を渡す様子が賑やかに描かれている。
現在の静岡県島田市にあたる。大井川の遠州金谷宿側の岸の様子。川を渡る一行は小さく描かれるが、客人や人足一人一人の動きの細部まで描写されているのに驚く。渡り終えた人足たちの中には疲れ果てて寝転ぶ者までおり、当時の徒渡しの苦労が伝わってくる。同シリーズの「大井川駿岸」とともに大井川越えを題材とした図であるが、本図では遠景にごつごつとした山々やさらに遠くの山をシルエットで表すなど、河原のみを捉えた「大井川駿岸」の構図との描き分けを意識している。山の中腹に見える集落が金谷宿である。
現在の静岡県掛川市にあたる。西行法師が新古今集で「年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山」と詠ったことで知られる。その急勾配の坂は東海道の難所の一つであった。坂下の石は、金谷宿の夫を訪ねる途中に山賊に殺された妊婦の霊が乗り移ったとされ、夜中に泣き声が聞こえてくるとの謂れから「夜泣石」と呼ばれた。後に妊婦の赤子は村人に助けられ、飴で育てられたといい、以来「子育て飴」はこの地の名物になった。
現在の静岡県掛川市にあたる。掛川宿のはずれ、二瀬川に架かる大池橋の様子が描かれる。橋の向こう側から渡ってくる僧侶に老夫婦が頭を下げ、後ろの童子は空の凧に夢中になりおどけている。遠景には、火伏の神である秋葉権現が祀られている秋葉山が見え、手前にはその秋葉権現の常夜燈が立っている。上空には丸凧が2つ見えるが、一方は糸が切れてしまったのか、空を浮遊し、もう一方は画面をはみ出るほど高々と舞い上がっている。
現在の静岡県袋井市にあたる。「出茶屋」は葦簀などを使った簡易な作りの茶屋で、道端で旅人が休憩できる憩いの場であった。身をかがめ、石を組み合わせたかまどで火を起こしているのが、この店の主人。木の枝から吊るされた薬缶で湯を沸かしている。使い込まれた薬缶は底が墨で真っ黒になっている。主人の左側には、駕籠かきの一人がかまどから火を貰って一服しようとしている。左側の縁台で腰掛けて休んでいるのは飛脚であろう。
現在の静岡県磐田市にあたる。天竜川の渡舟の様子が描かれている。天竜川の水は川瀬を2つに分け、東を大天竜、西を小天竜と呼んだ。画面手前が小天竜、奥が大天竜である。朝のまだ早い時間帯であろうか。遠景にはぼかしの技法を使い、朝霧にむせぶ天竜川の叙情をよく表現している。中州の向こうでは大名行列が何艘かの舟に乗り分けて、大天竜を渡り始めている。手前では渡舟を終えた船頭たちが一息つきながらその様子を眺めている。
現在の静岡県浜松市中区にあたる。街道脇の大きな杉の木の根元で、焚火をしながら暖をとる旅人たち。焚火から立ちのぼる煙が黒から白へ変化している様子も良く捉えている。刈入れの終わった田んぼに立て札の立つ松林があるが、これは「颯々松」と呼ばれた旧跡で、その昔、将軍足利義教が松の下で酒宴を催した際に「浜松の音はざざんざ」と謡ったことで有名になったという。右奥に見えるのが浜松の宿場で浜松城の天守閣も見える。
現在の静岡県浜松市にあたる。古来、浜名湖は遠州灘とは砂州で隔てられた湖だったが、室町時代の大地震により湖と海を隔てていた砂州が決壊し、海につながる汽水湖となった。その決壊した場所を「今切れた」との意味で「今切」と呼ぶようになり、「今切の渡し」と呼ばれた渡し船が行き交うようになった。手前の並んだ杭は波除杭で遠州灘の荒波から渡し船を守るために幕府が築いたもの。この位置からも遠く富士を臨むことができる。
現在の静岡県湖西市にあたる。舞坂の渡し船「今切の渡し」を描いたもの。先を行く幔幕が張られた船は大名行列の一行を乗せた御座船である。時刻は夕刻頃と見られ、西の空が暮れようとしている。後続の舟には中間と呼ばれるお供たちが欠伸をしたり、身体を丸めて寝入る姿が見える。舟が向かう先に見えるのは新居の関所。この関所は幕府の直轄下にあり、取り調べが特に厳しいことで知られ、船着き場はこの関所の中に置かれていた。
現在の静岡県湖西市にあたる。白須賀宿への道中、汐見坂からは遠州灘の絶景が臨まれた。手前の下半分を半円状にくり抜いたように丘陵を描き、その奥の坂道を大名行列の一行が列をなして進む。遠景には真一文字に水平線が引かれ、海上には大名行列と呼応するかのように舟が浮かぶ。行列の一行が担ぐ荷物の中の赤い2つの狭箱には、広重の「ヒロ」を表す紋様があしらわれており、こうしたさりげないところに広重の遊び心が垣間見える。
現在の愛知県豊橋市にあたる。猿ヶ馬場周辺は姫小松の景勝の地として知られ、奥まで見渡せるなだらかな平原にはこの姫小松が無数に繁茂しているのが見える。茶店の看板には「名物かしは餅」とあるように、この辺の名物はかしわ餅であった。道を行く3人の女性は、瞽女と呼ばれた盲目の女性たちで、彼女らは諸国を廻りながら三味線や琵琶を弾いて「瞽女唄」を披露して生計を立てていた。よく見ると3人とも各々楽器を持ち運んでいる。
現在の愛知県豊橋市にあたる。眼下の豊川に架かる豊川橋は長さ200メートルにおよび、吉田大橋とも呼ばれた。画面右に配されるのは吉田城の天守閣であ、城には升目状に足場が組まれ、左官職人が壁の補修を行っている。上に目をやると場違いにも鳶職人が一人、遠くの景色を楽しんでいる。題材を手前に配置し、奥の景色と対比させる手法は、広重が得意とするものだが、ここでも画面に遠近感と興趣をもたらす絶妙な効果を生んでいる。
現在の愛知県豊川市にあたる。御油の宿では日暮れになると「留女」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きが盛んで、画中のような光景も大げさではなかった。『東海道中膝栗毛』には「両がはより出くる留女、いずれもめんをかぶりたるごとくぬりたてるが…」とあるが、その情景そのままの図といえる。手前の男は風呂敷を引っ張られ苦しむ顔がいかにも滑稽で、後ろの男も袖を引っ張られ困惑している様子が窺える。画面右の旅籠の中の様子も面白く、留女に観念したのか、草鞋を脱ぐ旅客に足洗い用の盥を差し出す老女も見える。
現在の愛知県豊川市にあたる。旅籠屋の室内を上から覗き込むような構図。左側の部屋では横たわり煙管をふかす男性のもとへ女中が2膳分の食事を運び入れ、その横では按摩師が懸命に客を口説いている。右側の部屋には飯盛女と呼ばれる招婦たちが念入りに化粧を施している。奥の階段にも下りてくる人の姿が見え、こうした人々の動きからこの旅籠屋の活況が伝わってくる。中庭に配置された蘇鉄と石灯籠も本図に一つの興趣を添えている。
現在の愛知県岡崎市にあたる。街道と宿場の境界には棒示杭が立てられており、棒鼻とは宿場の出入口のこと。本図では「八朔御馬進献」の行列を宿場の役人が入口まで出迎える様子が描かれる。八朔とは8月1日。幕府はこの日、朝廷に御馬を献上することを重要な儀式としていた。行列の中の御幣を立てた馬が献上される御馬である。広重はこの「八朔御馬進献」に同行し、それが《東海道五拾三次》シリーズにつながったともいわれている。
現在の愛知県岡崎市にあたる。眼前を流れる矢矧川に架けられた矢作橋は、幕府によって架けられた東海道随一の大橋であった。東海道の名所をまとめた書籍である『東海道名所図会』には「長さ二百八間(約370メートル)…東海第一の長橋なり」とある。広重はこの大橋に大名行列の一行をずらりと並ばせることで、その長さをより一層強調したかったのであろう。対岸に姿を見せているのが、徳川家康が生誕したとされる岡崎城の天守閣である。
現在の愛知県知立市にあたる。首夏、すなわち夏の初めの馬市の様子を描いている。ここでは毎年4月の末から5月の頭にかけて馬市が開かれていた。野原に立つ杭に多くの馬がつながれており、今まさに馬を連れてきた者の姿も見える。中央の一本松の下では馬喰と呼ばれる馬の仲買人による取引が行われており、そのため、この松は談合松と呼ばれた。様々なポーズをした馬の姿、風になびく草原の描写は動きに満ち、観る者を飽きさせない。
現在の愛知県名古屋市緑区にあたる。鳴海の名物であり地場産業でもあった有松絞りに因んだ図。街道沿いに建つ2軒の店はいずれも有松絞りを商う店である。2階建ての立派な蔵造りの店構えはこの村がいかに有松絞りで潤っていたかを窺わせる。手前の店を見ると客人が腰をかけ店主と何やら話にふけっており、暖簾には広重の「ヒロ」の組み合わせた家紋があしらわれている。2組の旅人たちはこうした店には目もくれず歩みを進めている。
現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。宮とは熱田神宮のこと。ここでは毎年5月5日に馬の塔といわれる、近郊の村々から馬を奉納するという神事が行われていた。本図では、裸馬に荒薦を巻き、人々が伴走しながら献馬する、俄馬の場面を描いている。奥の藍染めの半纏を着た一群と手前の赤い有松絞の半纏を着た一群が競り合う迫真のシーン。人馬が通り過ぎるスピード感を強調するように、鳥居の左側部分だけが画面の中に収まっている。
現在の三重県桑名市にあたる。宮から桑名までは海路で7里(約28キロメートル)の距離があり、そこを渡す船は「七里の渡し」と呼ばれた。海に大きく突き出た城は桑名城である。2艘の船は帆を降ろし、右下に見える陸地へ今まさに着岸せんとしている。船の帆柱の縦のラインと水平線および城の石垣による横のラインを軸に、手前に波に揺れ動く船、奥に整然とした海と堅牢な城を配して、全体的に調和のとれた構図が作り上げられている。
現在の三重県四日市市にあたる。三重川は現在の三滝川とみられ、左奥の集落の向こうに立つ帆柱からこの辺りがその河口付近であることが分かる。まず目に飛び込んでくるのは、風に激しく煽られる柳とその根元で風に翻弄される男の姿であろう。吹き飛ばされた笠をあわてて追いかける仕草と表情は何ともユーモラスである。画面右にも強風の中、慎重に歩を進める旅人の姿が見える。広重の作の中でも風の動きを着眼した珍しい作品といえる。
現在の三重県鈴鹿市にあたる。遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな山容と色彩が美しい。山のふもとに見えるのが石薬師寺である。田んぼの畔道を突き当たると寺の立派な山門があり、その右手に宿場が広がっている。田んぼではすでに稲刈りが終わっており、周囲の木々が色づいていることからして、季節は晩秋から初冬あたりと思われる。時間帯は夕暮れであろうか、山里にはひと仕事終えたようなのんびりとした時間が流れている。
現在の三重県鈴鹿市にあたる。本シリーズの白眉の一枚。「白雨」とは夕立のこと。手前に置かれた急勾配の坂を必死に駆け登る駕籠かきと、転がり落ちるように下る旅人と農夫が描かれる。坂と直角に交差して降り注ぐ雨脚の描写、どす黒い雨雲を思わせる空のぼかし、雨の飛沫に煙る竹林の濃淡のシルエット、全てが激しい夕立の場面を見事に演出している。旅人の番傘に版元を示す「竹のうち」や「五十三次」とデザインされているのも面白い。
現在の三重県亀山市にあたる。《蒲原 夜之雪》に次ぐ雪景の代表作。斜めに画面を二分する大胆な構図がとられ、画面の左側には、朝焼けに染まる中、塵一つない冬の朝の澄んだ空気が見事に表現されている。右側上方には亀山宿の入口で、崖の上に築かれた京口門が姿を見せ、そこを目指し、極端な勾配を登る大名行列が描かれる。白と黒のモノトーンで描かれた雪景色のなか、空と行列をなす人々に施された彩色が画面に生気を与えている。
現在の三重県亀山市にあたる。鈴鹿の関は、畿内にある逢坂の関、不破の関と並んで三関といわれた。本陣とは参勤交代の大名が宿場で宿泊するところをいう。本陣には宿場の有力者の家があてられた。本図はその本陣を早朝に出発する様子を描いている。支度をする駕籠かきの表情が豊かで、手前の立て札の画面をはみ出す仕掛けも面白い。陣幕には定紋が張り巡らされているが、これは広重の実家、田中家の文字を組み合わせたものである。
現在の三重県亀山市にあたる。画面左に見えるのは岩根山で奇岩や松、滝などで知られていた。山肌には流れ出す2条の滝が見える。室町時代、狩野元信がこの山を描こうとしたが描き切れず、山間に筆を捨てたという謂れから筆捨山と呼ばれている。山と街道の間の窪みには鈴鹿川が流れているとみられる。街道沿いは茶店があり、山の見物に勤しむ客で賑わっている。遠景のなだらかな山のシルエットが筆捨山の奇抜さをより際立たせている。
現在の滋賀県甲賀市にあたる。京都から江戸を目指すと最初の大きな峠が鈴鹿峠であった。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる」と馬子唄に詠われた土山は、雨の多い場所として知られ、画面右側に描かれた田村川の激しい水流は、そのことを物語っている。《庄野 白雨》のそれとは違い、雨を表す線が無数に交差し、雨足の強さを強調している。降りしきる雨の中、田村川に架かった橋を大名行列の一行が静かに渡り始めている。
現在の滋賀県湖南市にあたる。宿場と宿場の間にある休憩所を立場と呼び、そこには名物を出す店があった。本図にも立場の茶屋の様子が描かれ、店の暖簾には「いせや」の文字が見える。『東海道名所図会』には目川にある青菜を炊き込んだ菜飯と田楽豆腐が名物の「伊勢屋」が紹介されており、広重はそれをそのまま取り上げている。店には活気があり、前を通る一行の中の一人の男性が、前を行く女性を呼び止める姿がいかにも滑稽である。
現在の滋賀県草津市にあたる。草津は東海道と中山道の分岐点にあたり、交通の要所として賑わっていた。ここには名物の「姥が餅」を食べさせる「うばがもちや」があり、この茶屋は旅人の格好の休み処として古くから知られていた。茶屋の店内には、この餅をこねる人、運ぶ人、待つ人、食す人などさまざまな人間模様が描かれている。茶屋の前を横切る道がまさに東海道で、早駕籠と荷物担ぎが休む間もなく往来する様が窺える。
現在の滋賀県大津市にあたる。大津宿と京都との山間に走井の里があった。「走井」とは勢いよく湧き出る井戸との意で、ここは良質な水の水量豊かな場所であった。茶店の軒端には湧き出る走井が描かれるが、この水で作られた走井餅は土産物として人気があった。街道には米俵や薪を積んだ牛車がリズミカルに3台並んで下りてくる。遠景に見える山は逢坂山。逢坂山は絶えず湧き水で道がぬかるみ、牛車での運搬には苦労したという。
現在の京都市東山区にあたる。江戸の日本橋を起点に始まった《東海道五拾三次》も京の玄関口といわれた三条大橋が終着点である。鴨川に架かる三条大橋。川向こうには京都の町並みが広がり、その背後には東山三十六峰が見える。本図で三条大橋の橋桁は木組みで描かれるが、実際は石製の橋杭だったという。橋上は駕籠持ちや飛脚、茶筅売り、被衣姿の女性、見物客など多種多様な人々で賑わい、古来より栄えてきた京都の活気を思わせる。
歌川国芳
歌川国芳は近年注目されている浮世絵師で、国芳をテーマとした展覧会もたびたび開催されている。彼が活躍した時代は、格差拡大による社会不安や飢饉による一揆、水野忠邦による天保の改革とその行き詰まりなどで幕府の力は衰退し、さらにペリーの黒船来航などの外圧と、まさに明治維新へと向かう幕末の混乱状態にあった。浮世絵もさまざまなお触れによって取り締まりの対象となっていた。国芳は江戸っ子で一本気な性格であったといい、厳しい取り締まりにも関わらず、それに屈せず斬新さと多様性にあふれた浮世絵を生み出した。
なかでも、三枚続きの錦絵には名品が多く、まるで映画のワンシーンのような劇的な画面構成は見るものを圧倒する。兄弟子の国貞(三代豊国)とともに幕末の浮世絵界を牽引し、彼の門下生は70数名に及んだといわれる。
The Tactician, Yamamoto Kansuke Nyudo Haruyuki, from the Series One Hundred Brave Generals at the Battle of Kawanakajima
The Loyal General, Takeda Samanosuke, from the Series One Hundred Brave Generals at the Battle of Kawanakajima
The Brave General, Hara Hayato no Shou, from the series One Hundred Brave Generals at the Battle of Kawanakajima
Benkei's Heroic Strength: Playfully Dragging the Bell of Mii Temple up to Mt. Hiei
Princess Takiyasha Calling up a Monstrous Skeleton Specter at the Old Palace in Soma
Princess Shiranui, from the Series Mirror of Warriors of Our Country
第二章 上方の浮世絵
京都や大阪の上方では版本は非常に発達していたが、江戸のように挿絵が一枚絵の版画として独立していくことはなかった。絵画といえば肉筆画であり、版画を主とする変則的なあり方は、当時の上方の文化にはなじまなかったのである。上方で一枚摺の浮世絵が登場するのは、江戸の菱川師宣から約一世紀遅れてのことで、寛政年間(1789-1801)に流光斎如圭が役者絵を手がけたのに始まる。以後上方の浮世絵は、庶民のもっとも大きな楽しみとして人々に親しまれていた歌舞伎の役者絵を中心に展開していく。上方の役者絵は本職の絵師ではなく、北洲など歌舞伎の贔屓で絵心のあるものが手がけていたが、やがて浮世絵人気にともない、柳斎重春や春梅斎北英といった職業絵師が誕生し、天保年間頃(1830-1844)に頂点を迎えた。
江戸の役者絵が役者を美化して端正に描いたのに対して、上方の役者絵は欠点と思えるような部分も飾らずありのままに描くのを特徴としており、ここには東西の美意識の違いが見て取れる。






































































































































































































































































































































































