養蚕
殷代の古代中国王朝に起源をもち、明治期の日本においては外貨獲得の重要産業となった。
蚕を飼育し、繭から生糸をとること。蚕は鱗翅目カイコガ科に属する蛾で、日本には600種ほどが生息。長年の品種改良の影響で飛ぶことはできず、自ら餌を得ることもできないため人為的な世話が不可欠となる。孵化したばかりの幼虫は体長わずか1cmほどであるが、4回の脱皮を繰り返しておよそ25日後には体重は1万倍に成長する。その後、2〜3日間をかけて営繭(えいけん)と呼ばれる繭作りを行う。春に孵化した蚕を春蚕、夏から秋にかけて孵化した蚕を夏蚕、秋蚕と呼び、現在では遺伝子組み換えによる新種開発も進む。
養蚕の起源は古く、中国の最古王朝である殷代(紀元前17世紀頃〜紀元前1046年)まで遡る。当時の甲骨文のなかに「蚕」「桑」「糸」などの文字があり、また埋蔵品に付着した布が絹であったことから、殷代の黄河流域で養蚕が始められたと考えられている。一方、3世紀後半に成立した中国の史書『魏志倭人伝』のなかには邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝に絹を献上した記録などが残され、日本においても古代から養蚕が広まっていたことがわかっている。
大化改新を経て、大宝元年(701)に大宝律令が制定されると、政府は公民に口分田を与えて桑や漆を栽培させ、調物は原則として絹と定められた。その結果、奈良時代になると養蚕は近畿から関東、東北地方にまで普及し、平安時代にはほぼ全国に広がった。江戸時代になると幕府は財政逼迫の対策として養蚕を奨励し、需要の高まりとともに蚕種製造、製糸、機織りなど業態の分化が進展する。
安政6年(1859)に横浜が開港を迎えると、絹糸は輸出品の代表格として外貨獲得の重要品目となり、欧州を中心に旺盛な輸出が続いた。富国強兵を掲げる明治政府は養蚕業の拡充に力を注ぎ、明治5年(1872)には群馬県富岡に日本初となる機械式製糸工場となる富岡製糸場を建設し、明治42年(1909)には生糸生産高で世界一位の座に上り詰めた。第一次世界大戦以降はアメリカが最大の輸出相手国となった。
しかしながら、昭和4年(1929)の世界恐慌に端を発する世界的な需要低迷、かつ第二次世界大戦(1939〜1945)の勃発や安価な化学繊維の普及に伴って絹糸の生産は次第に伸び悩み、養蚕業は衰退の一途を辿ることになった。
古来、人間に益する昆虫であることから、蚕は「匹」ではなく「頭」と数えることが多く、養蚕が盛んだった地方では現在でも親しみを込めて「お蚕(こ)さま」などと呼ぶ習わしが伝わる。
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参考文献
- 沢辺満智子 著,慶應義塾大学出版会
- 日本蚕糸学会 編,朝倉書店
- 鈴木芳行 著,吉川弘文館

