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飛鳥時代の仏教の広がりについて

飛鳥時代の仏教に関連する芸術作品、記述をまとめ仏教がどう広がっていったかを知る。

館長からの挨拶

西暦538年に百済から伝来された仏教。

その仏教が最初日本でどのように広まっていったかを、展示されている作品から読み解きます。

如来立像

日本に仏像が伝わって少したったころ、7世紀の飛鳥時代後期につくられた木の仏像です。もとは奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)に伝わりました。この時代の仏像で今に伝わるものは数が限られます。なかでも木の像はとても貴重です。この像はクスノキという香りのよい木からつくられています。これは、仏像は香りのいい木からつくりなさいという、インドから伝わったきまりによるものです。子どものような幼い顔は、ちょっと悲しげです。見方によっては、おじいさんのようにも見える不思議な仏像です。実は、この仏像と同じような表情が、今も法隆寺に安置されている重要文化財の六観音像(ろくかんのんぞう)や金堂天蓋(こんどうてんがい)の飛天(ひてん)に見られます。いずれも、天智9年(670年)に一度消失した法隆寺を再建したころにつくられたものと考えられています。横から見てみましょう。胸を引いておなかを少し出す、くの字に曲がった体は、この時代の仏像の特徴です。もとは、頭の上に螺髪(らほつ)と呼ばれる渦巻状の髪の毛がびっしり付けられていたのですが、長い年月の間にそのほとんどが失われてしまったようです。 左の手のひらを上げて、正面に向けているのは、「おそれなくてよいですよ」という意味。右の手を下ろして前に差し出しているのは、「願いをかなえましょう」という意味。みなさんが仏像をご覧になるときに、よく見かける手の形だと思いますが、一般的な像とは左右が逆になっています。ゆるやかなS字状の姿勢や奥行きの薄い体つきの表現は、飛鳥時代の仏像の特徴です。とくに子供のような顔立ちは、飛鳥時代後期にみられる要素です。同時代の仏像は金銅仏が多いなか木彫像は珍しく、霊木として信仰されることもあったクスノキでつくられています。 館長からの一言 奈良時代まではクスノキの仏像が主流でしたが、飛鳥時代は金属で作られた仏像が多く、希少なものでした。

観音菩薩立像

両手で人々の願いをかなえてくれるという珠(たま)を捧げ持ち、蓮の花の上に立った菩薩像(ぼさつぞう)。体の両側にヒレのようにして衣を広げているのに対し、奥行きのない薄い造形は、正面から見ることを強く意識しています。また全体を二等辺三角形にまとめた姿も特徴的です。これらは7世紀初めの飛鳥時代前期に活躍した止利仏師(とりぶっし)の流れを汲む様式です。一方で衣の先端をわずかに後ろへ流した表現やおだやかで優しい顔つきは、止利の作風から一歩進んだものです。飛鳥時代の後半に、より自然な身体を持った仏像へ変わっていく過渡期に作られた作品といえるでしょう。この像をさらに重要なものとしているのが、台座の正面に刻まれた銘文です。そこには「辛亥の年の7月10日に亡くなった笠評君のため、その日、残された子供と伯父の二人が仏像を作ることを誓った」とあります。「評」というのは土地の単位で、西暦の645年頃から704年頃にかけて使用されたことが分かっています。評君とは、その土地の長官のこと。辛亥の年は60年に一度めぐってきますが、「評」の使用期間にあるのは651年のみであり、これによってこの像の制作された年が分かりました。 館長からの一言 大化の改新の時期に作られた仏像です。

独尊像塼仏

借宿廃寺@かりやどはいじ@は古代白河郡衙@しらかわぐんが@に関連して7世紀末に建立された寺院であると考えられています。塼仏は塔や金堂、講堂といった主要な建物の堂内の荘厳@しょうごん@に用いられたものでしょう。樹の下で、ひとりで結跏趺坐@けっかふざ@する仏の姿が表されています。 館長からの一言 珍しい焼き物による仏教の芸術品です。

菩薩半跏像

 片脚を組んだ膝の上に右肘を休め、ほおづえをつく姿の仏像です。軽く丸めた背中や、ややかしげた首、そしてほんのわずかに頬に触れる右手の指先などのしぐさが、自然な印象を与えます。 腕には装飾品をつけ、髪を頭の上で結い上げたスタイルから、これが菩薩であることがわかります。このように片脚を組み、じっと考える姿の半跏思惟像(はんかしいぞう)は、日本では人々を救う弥勒菩薩(みろくぼさつ)として信仰されることが多くありました。 銅の表面に金メッキをしてつくられたこの仏像は、霊山として知られる和歌山県・那智山の経塚から掘り出されました。経塚とは、土の中に、経典の入った経筒や、鏡、仏像などを埋めておさめた場所のことです。平安時代後期に、釈迦の死後二千年経つと仏の教えが衰えてしまうという末法思想(まっぽうしそう)が流行した際、56億7000万年後にこの世に登場して人々を救済するとされたのが弥勒菩薩でした。そのときまで仏の教えを残すため、人々は経塚をつくったのです。いわば56億7000万年後の未来に向けたタイムカプセルに、この仏像はおさめられていました。霊山+れいざん+として知られる和歌山県の那智山+なちさん+から出土した金銅仏です。片脚を組み、思案する姿の半跏思惟+はんかしゆい+像は、日本では仏滅から56億7千万年後に現れる弥勒菩薩+みろくぼさつ+として信仰されることが多く、飛鳥時代を中心に作られました。後世、弥勒の出現に備えて埋納+まいのう+されたものと考えられます。 館長からの一言 この時代に多かった金属製の仏像です。56億7000年後に残すために金属て作ったと考えられます。

薬師如来坐像

クスノキの一材から大半を彫り出したうえ、表面にペースト状のものを塗り重ねて成形する技法で制作されています。面長な顔立ちや簡略な衣の襞+ひだ+が奈良時代末の特色を示しています。明治期に奈良・法隆寺の近辺で入手したと伝わります。 仏教では、さまざまな名前、姿や形、役割をもった仏たちが登場します。如来とは、真理に達した者という意味です。もともと仏教を開いた釈迦如来のみを指しましたが、釈迦の死後、仏教が発展していくと、他にも如来がいると考えられるようになりました。 この像は薬師如来といいます。名前に「薬」という字があることから分かる通り、あらゆる病気を治す力を持っているとされています。如来は基本的な姿かたちが共通していて、この像にもあらわされているように、螺髪(らほつ)という粒状の巻き毛がいくつもある髪型、首元の三本の皺(しわ)、布をまとうだけの質素な服装などが主な特徴です。 造形を見てみましょう。顔は面長で端正なつくりで、衣の襞(ひだ)は浅くシンプルに彫りあらわされています。 この像は、ひとつの木材から像のおおよその形を彫り出した上、表面にペースト状の物質を塗り重ねて成形する技法でつくられています。この技法は「木心乾漆造」(もくしんかんしつづくり)と呼ばれます。表面のペースト状の物質については、最近の研究により、楡(にれ)という木の樹皮の裏の、粘り気のあるものに、木の粉などを混ぜたと考えられるようになっています。こういった工程により、原型である木の重厚さと、ペースト状の物質が持つ柔らかさの両方の特性が発揮されるのです。その一方で手間や時間、大きな財力が必要とされます。この技法は、主に奈良時代の8世紀に用いられたもので、それ以降の時代の仏像は、表面のペースト状の物質の層が薄くなり、木造に分類されます。 館長からの一言 このやり方は主に奈良時代で使われており、先駆けのような形になっています。

ご覧いただきありがとうございました。

飛鳥時代の仏教について興味を持っていただけたら幸いです。

現物を飾る限定展を開催します。

今回で興味を持っていただけた方はぜひ足を運んでいただきたいです。