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聖徳太子


  • 聖徳太子像

    横山松三郎撮影,By Yokoyama Matsusaburo (1838-84),東京国立博物館,Tokyo National Museum

    聖徳太子が16歳の時の姿の像

  • 聖徳太子坐像

    東京国立博物館,Tokyo National Museum

    <p>聖徳太子の像とこれを納める厨子+ずし+です。像と厨子はもともと別のものが後世に取り合わせられたと考えられますが、厨子の扉には太子の『勝鬘経+しょうまんぎょう+』の講義を聞いた5人を描きます。像の姿はこのときとは異なる摂政+せっしょう+の姿とみられますが、どちらも聖徳太子の伝記に関係するものです。<br /></p>

    平安末期に作られた坐像

  • 聖徳太子絵伝

    上野法橋・但馬房筆,By Kōzuke no Hokkyō and Tajima no Bō,東京国立博物館,Tokyo National Museum

    <p> N1の聖徳太子絵伝につぐ太子絵伝の古い遺品。太子の生涯を編年的にまとめた『聖徳太子伝暦』にもとづいて、70余りの事蹟を4面に描く。各面は事蹟内容をおおむね四季に分類して配置し、各幅ごとに桜、梅、藤、紅葉、雪山を描いて季節を表わしている。こうした四季絵的太子絵伝は、類例も少なく貴重である。<br /> 古様でおだやかな作風を示し、修理の際に発見された裏打紙の墨書から嘉元3年(1305)上野法橋と但馬房の二人によって描かれたことがわかる。平成22年、重要文化財に指定された。<br /></p>

    14世紀に描かれた聖徳太子の生涯を4面に分けて描かれたもの

  • 聖徳太子孝養像

    聖徳太子〈574-622〉は、推古天皇の摂政として、官位十二階・十七条憲法の制定、新しい国家体制の基礎となし、遣隋使の派遣による大陸文化の導入、さらには深く仏教に帰依して四天王寺・法隆寺を建立するなど、古代の政治・文化に偉大な功績を残したことで、わが国歴史上最も著名な人物の1人である。死後まもなくして、その遺徳をしのび礼拝・供養する聖徳太子信仰が起こり、日本仏教の祖として、時代・宗派を超えて篤く信奉された。まず、中納言藤原兼輔が、延喜17年〈917〉に『聖徳太子伝暦』(2巻)を編んだ。これは、太子の事跡を編年体に叙述したもの。太子受胎の伝説から薨去まで、太子の生涯にわたる。さらに大化改新(645年)や太子一門・蘇我氏の滅亡まで含んでいる。延久元年〈1069〉には絵師秦到貞によって『聖徳太子伝暦』を絵画化した障子絵が作られるなど、これに準拠した彫刻や画像・絵伝がつぎつぎに制作された。なかでも太子絵伝は、四天王寺絵堂の壁画、法隆寺絵殿の障子のほかに、絵巻や掛幅など、さまざまな形式で制作された。本図は、太子孝養像の一種で、太子16歳の絵姿。父用明天皇の病気平癒を祈る姿を表わしたとされるもの。髪を美豆良(古代男子の髪型の一種。頭髪を左右に分け、これを束ねて耳のあたりで結ぶ)に結い、袍の上に袈裟を着けた童形で、両手で柄香炉を持つ立像という典型的な姿に描かれている。装飾性の強い豪奢な色彩や台座・香炉の形から、室町時代・15世紀の制作と思われる。また、二重の框座(かまちざ)に乗る画像は珍しい。

    聖徳太子が16歳の時の姿の像

  • 聖徳太子像

    高村光雲作,By Takamura Koun (1852-1934),高村光雲氏寄贈,Gift of the artist,東京国立博物館,Tokyo National Museum

    <p>小像ながら、険しい表情を浮かべる聖徳太子の姿がよく表わされている。「老猿」などの大作で知られる高村光雲は、日本近代を代表する彫刻家のひとり。徹底した観察による写実表現が特徴。宮内省から名誉ある帝室技芸員に任命された記念に、作者本人から寄贈された。<br /></p>

    大正に作られた像

  • 聖徳太子絵伝

    川合玉堂氏寄贈,Gift of Mr. Kawai Gyokudō,東京国立博物館,Tokyo National Museum

    <p> 聖徳太子(しょうとくたいし)は、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家の体制をうちたてた、飛鳥時代(あすかじだい)の政治家です。四天王寺(してんのうじ)や法隆寺(ほうりゅうじ)を建てるなど、仏教の興隆にもつとめました。<br /> この作品は、聖徳太子の生涯を描いた3幅の掛け軸です。第一幅は太子が16歳から21歳までの間の11場面、第二幅は22歳から29歳までの間の13場面、第三幅は太子の死からその24年後の大化(たいか)の改新(かいしん)により蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺されるまでを描いています。場面の内容からすると、もとは8幅(ぷく)一組で太子の全生涯の物語をカバーしていたと考えられます。<br /> 興味深いエピソードがたくさん描かれているのですが、とても全部は紹介できませんので、ここではそのうちの一つをご紹介しましょう。<br /> 第二幅の下のほうを見てください。黒い馬に乗った聖徳太子が描かれています。これは、太子がまだ20代の頃のお話。太子が諸国から馬を献上させたところ、その中に1頭の神馬がいることを見抜きました。太子がその馬にまたがると、馬は天高く駆けて雲の中に消えていき、富士山を越え、現在の長野県、信濃国(しなののくに)まで行き、さらに今の福井県から新潟県にあたる越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご)を通って3日で都に駆け戻ったという伝説の場面です。雪をかぶった富士山を、聖徳太子をのせた馬が軽々と越えていく様子が描かれています。</p><br /><p>日本仏教興隆の祖として知られる聖徳太子の生涯の事蹟を描いた図です。各幅とも上から下へ順に事蹟が配されています。事蹟内容から本来は八幅一組と推測され、独自の場面選択や図様が特徴的です。品のある穏健な描写と彩色が美しい作例です。<br /></p>

    聖徳太子が生涯で行ったことが絵に描かれている

  • 聖徳太子立像

    東京国立博物館,Tokyo National Museum

    <p> 6世紀半ばごろ、アジア大陸から朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝えられました。その後、仏教を受け入れるのに大きな役割を果たした人物に、聖徳太子(しょうとくたいし)という人がいます。聖徳太子は飛鳥時代に天皇を助けて、当時の日本の国家の中心で活躍しました。また現在の奈良や大阪などの各地に寺院を建て、日本で仏教が発展する基礎をつくりました。この聖徳太子に対する信仰は、彼が亡くなってから間もなく起こりました。聖徳太子の生涯には数々の奇跡的なエピソードが伝わり、そのエピソードを描いた絵画や、そのときどきの年齢に応じた姿の彫刻が作られるようになります。とくに13世紀の鎌倉時代以降、信仰の高まりとともに作品の数も飛躍的に増えていきます。<br /> この像はそのなかの一つで、聖徳太子が2歳のときの姿です。2歳のとき、東の方角を向いて両手を合わせ、「南無仏」(なむぶつ)と唱えた、という伝承にもとづいています。「南無仏」とは、仏を信仰することを意味します。赤い袴(はかま)をはき、右の腰から袴を留めるベルトのような紐が垂れています。足は袴のなかに隠れ、裾(すそ)が後ろの方に引きずられている点も特徴です。<br /> 頭は体全体に比べて大きく、体の肉付きはふっくらとしていて、幼い子どもの体の特徴をよくあらわしています。手やお腹に括(くく)り線を刻むことで、体の肉付きの良さがより強調されています。一方で、眉をややひそめて目尻をあげる表情には、利発(りはつ)さが感じられます。</p><br /><p>ふっくらとした幼児らしい体つきながら、凛々+りり+しい表情で立つ聖徳太子像です。二歳の春、東方を向いて合掌し「南無仏+なむぶつ+」と唱え、手から釈迦+しゃか+の遺骨である仏舎利+ぶっしゃり+を出現させた伝承にちなむ姿で、南無仏太子と呼ばれます。鎌倉時代後期以降盛んに造像され、篤+あつ+く信仰されました。<br /></p>