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新劇~文芸協会と自由劇場

日本の新劇運動の先駆となった二つの劇団

新劇は、歌舞伎・新派劇に対して、西洋近代劇の影響をうけて起こった演劇をひろく指す。明治末期の文芸協会と自由劇場の活動に始まり、芸術座、築地小劇場、新協劇団、新築地劇団の時代を経て、戦後の文学座・俳優座・民芸をはじめとする諸劇団の公演活動を総称する。現在では演劇界全体の多様化がさらに進展し、日本の現代演劇の中核であった新劇の役割や影響力も相対的に低下しているが、その伝統や技術はさまざまな形で現代の舞台芸術に生かされ、新たな表現を生み出す源泉となっている。このギャラリーでは、新劇運動の先駆となった文芸協会と自由劇場を取り上げる。

関連するひと・もの・こと

演劇人 坪内逍遙

早稲田大学演劇博物館が2007年に開催した企画展の出展資料をデータベース化した「企画展『演劇人 坪内逍遙』データベース」のアイテムをご紹介します。

新派~草創期の新派と川上音二郎

旧劇である歌舞伎に対抗して、明治中期から起こった大衆的な現代風俗劇

新国劇

大正6年(1917)、沢田正二郎を中心に、新しい国民演劇をめざして組織された劇団

「もっと知りたい! 歌舞伎の世界」

歌舞伎は伝統演劇の代表ですが、現在も大変人気の高く、生きている演劇です。立命館大学アート・リサーチセンターの歌舞伎関係資料を様々な角度から紹介します。

文芸協会

明治39年(1906)設立。坪内逍遙が中心になり、島村抱月、東儀鉄笛、土肥春曙らによって文学・美術・演劇などの進歩・改善・普及を目的としたが、次第に活動を演劇方面にしぼって新劇運動を推進した。明治42年(1909)以降は逍遙が直接指導に乗り出し、自邸内に演劇研究所を開いて俳優養成を開始。その一期生に松井須磨子、二期生に後に新国劇を創設する沢田正二郎がいた。明治44年(1911)、松井須磨子がノラを演じたイプセンの人形の家はセンセーションを巻き起こしたが、抱月と須磨子の恋愛問題が表面化し、内部の対立もあって大正2年(1913)に解散した。

文芸協会「文芸協会組織一新趣意」書 明治44年3月

文芸協会発足の際に作られた坪内逍遥による設立趣意書。協会の目標を演劇に絞り、全責任を負って協会の組織改革に着手すること、大久保余丁町の自邸内に設立した付属演劇研究所を拡張して演劇公演にたえるものにすること、研究所終了の卒業生を公演にあてること、などを記している。

文芸協会 公私演記録

明治45(1912)年3月作成。

帝国劇場の舞台正面(『帝国劇場写真帖』)

明治44年(1911)3月、文芸協会の第1回公演の2か月前に開場した帝国劇場の舞台正面。全階椅子席、ロビー、食堂、喫茶室を備え、客席、廻廊ともにヨーロッパ大都市の劇場にならった本格的な劇場。文芸協会の第1回・2回・6回の公演はここで行われている。

帝国劇場の外観(『帝国劇場写真帖』)

丸の内の皇居に面した場所に建築された帝国劇場の外観。日本初のヨーロッパ風劇場で、ルネサンス風フランス式5階建て。設計・施工は横河民輔 (よこがわたみすけ)。

帝国劇場の花道(『帝国劇場写真帖』)

客席は座席番号を決め、前売り方式を採用し、案内係制度にするなど近代的な興行制度を取り入れて、江戸以来の芝居小屋の制度、イメージを一新した。

文芸協会の女優(『続団菊以後』)

文芸協会の俳優養成所の草創期の女性生徒。右から林千歳、五十嵐茅野、松井須磨子、山川浦路。

島村抱月・松井須磨子誓紙 大正2年6月4日

松井須磨子と島村抱月の恋愛事件は、互いに既婚者だったこともあり、文芸協会は須磨子を脱退処分とし、抱月は幹事を辞任した。この「誓紙」は、須磨子の文芸協会脱退の際に、抱月が須磨子と交わしたもの。今後2、3年以内に必ず結婚する旨などが記されている。

松井須磨子 牡丹刷毛

松井須磨子の自伝。自からの芸術論も交えて語る。大正3年(1914)刊。掲出は、「人形の家の思出」と題する一文。

文芸協会公演会旗

新興の化粧品会社中山太陽堂(現クラブコスメチック)より贈られた旗。

団菊以後

文芸協会第1回公演の際の絵葉書。

中沢弘光 故郷

ズーダーマンの戯曲『故郷』の主人公マグダに扮した松井須磨子。中沢弘光画。 明治45年(1912)刊。

関連資料

公演の記録

第1回 ハムレット 明治44年5月

記念すべき第1回の公演は、開場したばかりの帝国劇場で行われた。絵本筋書に「第4回公演」とあるのは、これが帝国劇場の4番目の公演だったため。主な配役は、土肥春曙のハムレツト 東儀鉄笛のクローディアス王と墓堀男(二役)、森英次郞のホレーシオ 上山浦路の王妃ガーツルード、松井須磨子のオフィーリアなど。

第2回 人形の家/寒山拾得/お七三吉/ヴェニスの商人 明治44年11月

2回目の公演は、イプセン作、島村抱月訳・演出の『人形の家』、坪内逍遥作の舞踊劇『寒山拾得』と『お七吉三』、『ヴェニスの商人 法廷の場一幕』が帝国劇場で上演された。松井須磨子による『人形の家』のノラは特に絶賛され、彼女の出世芸となった。

第3回 故郷 明治45年5月

第3回公演では、ズーダーマン作、島村抱月訳の『故郷』が上演され、『人形の家』以上の大盛況となった。松井須磨子の演じた主人公のマグダ(掲出写真)は、「人形の家」の主人公ノラと並び、19世紀末の「目覚めた女性」の象徴とされた。ズーダーマンはドイツの劇作家作。

第4回 二十世紀  大正1年11月

第4回公演はバーナード・ショー原作、松居松葉訳の『二十世紀』。上演は有楽座。

第5回 思い出 大正2年2月

第5回公演は、フェルステル作、松居松葉訳の『思い出(アルトハイデルベルヒ)』を有楽座で上演し、非常な好評をもって終了した。松井須磨子と島村抱月の恋愛問題が表面化したため、大正2年5月に須磨子は文芸協会を退所となり、協会での舞台はこの公演が最後となった。

第6回 ジュリアス・シーザー 大正2年6月

文芸協会最後の公演。帝国劇場で上演された。掲出は公演のポスター。

公演の舞台写真

第1回 ハムレツト 明治44年5月/東儀鉄笛の墓堀男と土肥春曙のハムレツト(『舞台之華』)

帝国劇場での公演。舞台稽古を指導した坪内逍遥が開幕中も楽屋と見物席の間を往復してダメを出したという逸話が残っているが、逍遥の指導もあって土肥のハムレットは出色の出来だったという。

第1回 ハムレツト 明治44年5月/松井須磨子のオフィーリア(『牡丹刷毛』)

第1回公演『ハムレット』でオフィーリアを演ずる松井須磨子。可憐な演技の好演だったと評される。

第2回 人形の家 明治44年11月/松井須磨子のノラと東儀鉄笛のクログスタッド(『舞台之華』)

この公演でノラを演じた松井須磨子は、「新しい女」のシンボルとなった。

第2回 人形の家 明治44年11月/松井須磨子のノラと土肥春曙のヘルマー(『舞台之華』) 

第2回公演では、『人形の家』と舞踊劇『お七三吉』『寒山拾得』、『ヴェニスの商人』の一部が上演された。

第2回 お七吉三 明治44年11月/坪内くに子のお七と上田洋一の吉三(『舞台之華』)

第2回公演の『お七吉三』『寒山拾得』は長唄を地とした舞踊劇。坪内くに子は逍遥の養女。

第2二回 お七吉三 明治44年11月/坪内くに子のお七と上田洋一の吉三

1911(明治44)年12月7日(書入) 舞踏劇の役者の男女の写真

第3回 故郷 大正1年11月/松井須磨子のマグダ

ズーダーマン作『故郷』の第一幕の写真。右端が松井須磨子のマグダ。左端は林千歳の妹マリー、中央は土肥春曙の父シュワルツェ。

第5回 二十世紀 大正1年11月/松井須磨子のグラントン夫人(『牡丹刷毛』)

大正元年(1912)11月、有楽座で文芸協会公演、バーナード・ショー作『二十世紀』のグラントン夫人は松井須磨子にとっては老け役で、興行の成績も不成績に終わった。

自由劇場

小山内薫と2代目市川左団次が中心となり、近代劇研究・上演を目的に明治42年(1909)に結成。同年11月に東京有楽座で、第1回試演としてイプセン作ジョン・ガブリエル・ボルクマンを上演して知識人層を中心に大きな支持を得た。ゴーリキー、ハウプトマンなどの外国戯曲を取り上げながら、日本人作家の戯曲も積極的に上演し、女方も含む歌舞伎俳優たちを擁したのも大きな特徴だった。大正8 年(1919)まで9回の公演を最後に活動を休止するが、文芸協会と並んでその後の日本の新劇運動に大きな影響を与えた。

市川左団次のボルクマン(関根黙庵『明治劇壇五十年史』)

自由劇場第1回公演『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の市川左団次。

左団次のボルクマンのメイクアップ(伊原青々園『続団菊以後』)

第1回公演『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』での、市川左団次のメイクアップ。伊原青々園が画家の真山孝治に写生させたスケッチ。作者イプセン本人の写真を参考に左団次が工夫したもので、雑誌『歌舞伎』の口絵にも使用された鉛筆書き。

自由劇場による『夜の宿』の舞台(久保栄『小山内薫』)

自由劇場による『夜の宿』は明治43年(初演)と大正3年(再演)の2回の上演があるが、掲出の写真がどちらのものかは不明。『夜の宿』は、後に『どん底』の名で上演されるようになったゴーリキー作の戯曲。新劇の代表的レパートリーの一つ。

自由劇場第7回公演『夜の宿(どん底)』番組 大正2年10月

ゴーリキーの『夜の宿(どん底)』の再演のプログラム。渡欧旅行から帰国した小山内薫がモスクワ芸術座で見た舞台をもとに演出を一新させた舞台のもの。明治43年(1910)の第3回試演でも同じ『夜の宿』を上演しているが、この時は小山内薫がロシアの舞台を実際に見ておらず、12枚の絵葉書の写真から舞台の様子や扮装などを推量しながらの演出だった。

自由劇場第8回公演『星の世界へ』番組 大正3年10月

『星の世界へ』は、レオニード・アンドレーエフの作。有楽座で上演。

自由劇場第9回公演『信仰』番組 大正8年9月

『信仰』は、フランスの劇作家ウージェーヌ・ブリューの作。自由劇場の最後の公演。帝国劇場での上演。

三宅周太郎 演劇五十年史「自由劇場成立」

自由劇場の規約。規約は小山内薫と市川左団次の手によるもので、「目的―本劇場は会員組織の一団体にして、会員の総数を興行資本主併せて看客と頼み、主として俳優を職業とする者を技芸員として、新時代に適応せる脚本を忠実に試演し、新興脚本の為、新興演劇術の為に、一条の小径を開くを以て目的とす」に始まり、以下会員定数、会員資格、会員費などについて定めている。

小山内薫 演劇論集「夜の宿の器械的失敗」

大正2年(1913)11月の自由劇場第7回公演「夜の底」に関する小山内薫の自評。舞台の背景、光線、音響などの「器械的失敗」について記す。モスクワでロシアの芸術座の公演を実見した後の演出だが、それをふまえての反省を見ることができる。

島崎藤村 後の新片町より「ボルクマン」

島崎藤村による自由劇場の第1回公演「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」評。同作は、イプセン作・森鷗外訳。

関根黙庵 明治劇壇五十年史「自由劇場」

著者の関根黙庵は、劇評家。江戸の人。演劇研究家関根只誠(しせい)の次男。

伊原青々園 続団菊以後「自由劇場の旗揚」

演劇評論家の伊原青々園による、自由劇場旗揚げの頃。

公演の舞台写真

第1回試演 ジョン・ガブリエル・ボルクマン 明治43年1月/市川左団次のボルクマン(『舞台之華』)

左は市川左升のフォルダル。有楽座の舞台。自由劇場の俳優は左団次をはじめとして現役の歌舞伎役者で、彼らにとっては西洋近代劇の長い対話のセリフをマスターするのはかなりの難事だったという。その中で左升のフォルダルは出色の出来だったと評された。

第2回試演 出発前半時間 明治43年6月/市川左団次のオペラの役者(右)(『舞台之華』)

『出発前半時間』はヴェーデキント原作。上演は有楽座。明治座の普通興行とこの試演が日程的に重なって、『出発前三時間』の稽古中に左団次が過労で卒倒したというエピソードがある。

参考文献

  1. 伊原青々園 著,相模書房
  2. 秋庭太郎 著,理想社
  3. 秋庭太郎 著,理想社
  4. 関根黙庵 著,玄文社
  5. 田中栄三 著,演劇出版社
  6. 戸板康二 編,青蛙房