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日本の武士の兜の変遷

武士の兜は平安時代に成立し、時代や戦闘方法の移り変わりとともにその形状が変化した。本来は、戦闘時に頭部を守るための防具であったが、いつしか、武士たちの願い・個性・信条などを表すシンボルとなり、随所に工芸技術を凝らした「用」と「美」を兼ね備えた兜がつくられるようになった。中世の古典的な「星兜」や「筋兜」、戦国時代に花開いた奇抜なデザインの「変わり兜」、江戸時代の大名が仕立てた豪勢な「懐古調の兜」など、ここでは、日本の兜の変遷を紹介する。

平安時代~室町時代(11~16世紀)

「星兜」「筋兜」の誕生

日本の武士の兜は、平安時代中期(10世紀頃)、武士の誕生とともに生まれ、平安時代後期(12世紀)には、ある程度定着したとみられている。平安時代から鎌倉時代にかけて、騎馬の武士が用いた「大鎧(おおよろい)」にあわせて使われた兜は、「星兜」と言われるもので、鉄板をはぎ合わせて鋲(びょう)を裏から打ってつくられ、鋲頭の突起が星のように見えることからこの名が付いた。はぎ合せた鉄板の数は時代が下るにつれて増加し、鎌倉時代中期以降には二十間~三十間前後になった。南北朝時代から室町時代には、徒歩戦に適した胴だけの甲冑「胴丸(どうまる)」「腹巻(はらまき)」が主流となり、それに伴い、より軽量な「筋兜」が現れる。筋兜は、鉢の鉄板を平鋲留めにした兜で、上級武士は、鉢の筋に鍍金(めっき)を施す、前方に鍬形(くわがた)を付けるなど、華やかな装飾を施した。室町時代後期には、鉢の頂辺が低く、前後が張り出した「阿古陀形(あこだなり)」と呼ばれる形が好まれた。

平安時代(11世紀)/東京都足立区伊興町の経塚遺跡から出土した星兜鉢。本来の鉢の裾に高さ約4㎝の帯状鉄板をめぐらせて鉢を拡大する改造が行われている。元来の鉢は、内径20cm程で、台形の鉄板10枚を張り合わせた古様のものであったと考えられる。

平安時代(12世紀)/福島県郡山出土。台形の鉄板10枚を星とよばれる鋲で張合わせて形成した兜鉢。鉢が小形で浅い点、星が大きく厳めしい点、髻 (もとどり)を出す頂辺の孔が大きい点など平安時代のなかでも特に古いと考えられる形式を示す。

平安時代(末期)/三重県四日市市鵜森神社所蔵。鉄板を矧(は)ぎ合わせ、黒漆塗を施した十六間四方白の星鉢。鎬垂(しのだれ)は前に三条を垂れて星を打ち、正面には花先形(はなさきがた)の眉庇(まびさし)を付ける。時代の特色が著しい平安時代末期を下らぬ希有の遺品。鎌倉時代の響孔(きょうこう)、南北朝以降の忍緒付鐶(しのびおつきかん)があり、永く相伝使用されていた。

鎌倉時代(13世紀)/宮崎県児湯郡西米良村出土。前後左右に飾りの金銅の地板を配した四方白(しほうじろ)の星兜鉢で、鍍金の星には刻座(きざみざ)を入れ、前後の地板の下端を花先形で猪目透(いのめすかし)とするなど入念な製作を示している。

室町時代(15世紀)/兜の鉢は銅に鍍金を施した筋で覆われ、正面は左右にそそり立つ鍬形と日輪によって飾られている。鍬形の根元をはじめ、胴や袖の金物には華麗な彫刻が施され、胴丸に一層の華やぎを与えている。

室町時代(15世紀)/筋兜と袖を備えた胴丸。筋兜とは、鎌倉時代末期頃から出現した兜の一種。 鉢の張り合わせに、星と呼ぶ笠鋲を用いず、からくりどめとして、縁の筋だけを立てている。南北朝時代以後の胴丸、腹巻に付属する兜はほとんど筋兜であった。

室町時代(15世紀)

室町時代(15世紀)

室町時代(16世紀)

安土桃山時代~江戸時代前期(16~17世紀)

ユニークな「変わり兜」が百花繚乱

戦国時代には、兜の需要が高まり、「頭形(ずなり)兜」「桃形(ももなり)兜」など、製作が簡単で量産しやすい形状のものが広まった。また、槍や鉄砲を使った団体戦が展開された戦国時代末期には、より頑丈で軽快に動くことができる「当世具足(とうせいぐそく)」と呼ばれる新しい形式の甲冑が出現する。これに伴って、兜も大きく変化し、戦場で武将が自らの存在を主張したり、敵を威嚇したりするために、奇抜な意匠を凝らした「変わり兜」がつくられるようになった。変わり兜は、鉄板の上に、和紙や革などで成形する「張懸(はりかけ)」という技法が使われているものも多く、動物や植物、兜以外の被り物など、さまざまな物の形を象って鉢や立物(装飾)がつくられた

安土桃山時代(16世紀)/朱塗の胴の意匠が、金剛力士像の体躯を連想させる仁王胴具足。兜は、糟毛(かすげ、灰色に少し白い毛がまじった馬の毛)を鉢全体に植え、後ろに髻を結って人の髪型のようにした「野郎頭」と称するもの。

安土桃山時代(16世紀)/徳川家康の四天王の1人、榊原康政(1548~1606)が関ヶ原の合戦の直前に家康から拝領した具足。ヨーロッパの甲冑を模倣して作った南蛮胴で、兜の鉢は舶載品の可能性が考えられる。大きく盛り上がった白い毛は、当時「唐の頭」と称されたヤクの毛である。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/明智光秀の重臣、明智光春所用と伝わる当世具足。兜の鉢は鉄板を打ち出した堅牢なつくりで、正面には兎の耳と月の形をした立物を付ける。いわゆる「変わり兜」と呼ばれる装飾的な兜で、意匠を凝らした奇抜な造形が見所。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/ホタテガイ(板谷貝)の形を模した朱漆塗の変わり兜。変わり兜の中には、サザエやホタテガイなどの貝をモチーフにしたものもみられる。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/鉢は鉄黒漆塗の一の谷形で、縁を金の沃懸地(いかけじ)とする。後立(うしろだて)に馬藺(ばりん)の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している。三河(愛知県)の岡崎藩士であった志賀家に、同家の祖が豊臣秀吉から賜った兜として伝えられた。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/筋兜は、鉄板の数により何間の兜と呼び、本作は六十二の鉄板数から六十二間となる。吹返には牧野家伝来を示す三ツ柏紋が施され、前立は煉革に金箔を押した大三日月が置かれている。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/六十二間の筋兜の代表的なものの一つ。兜鉢の周囲に取り付けられた錣は、金漆塗りの地に古代紫糸を切付小札(こざね)で五段に威(おど)しており、装飾物の脇立には、木彫に金箔を押した鹿角型のものを置いている。信州の松代城主真田家伝来。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/徳川家康から初代水戸藩主となった子の頼房に伝えられた兜。鉢の上に革製の湾曲した一の谷と呼ばれる頭立(ずだて)を設け、後立に檜製の長大な大釘の立物を挿す。全体を銀箔押しとし、しころは白糸威。釘は物をよく打ち抜く意を表現したものであるといわれる。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/板札を金箔押しとし、紫・紅・萌黄(もえぎ)・紺・白糸で威した色々糸威の具足。兜は鉢に熊毛を植え、正面に眉や皺を打出す。華やかな色彩感と、リアルで奇抜な表現が独特の迫力を生み出している。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/桐製黒漆の大きな水牛の角を象 (かたど)った立物が兜の両側に高く突き出し、胴・小手・草摺など総体に熊の毛を植え付け、黒糸で威した具足。全身真黒の中に、真紅の面頬がいかにも鮮やかである。

安土桃山~江戸時代(16~17世紀)/金箔押しにした札(さね)を紅糸で威した当世具足。兜は筋兜鉢に鍬形を付けた伝統的な形式だが、吹返や袖の冠板などには桐や菊の金物を打っており、全体を華やかに仕立てている。

安土桃山~江戸時代(17世紀)/元和2年(1616)、徳川家康の遺品として尾張徳川家へ譲られた16領の同形の具足のうちの1領と考えられている。紅・白・縹(はなだ)・紺の色々糸威の具足で、兜の吹返や草摺の裾板に桐文の蒔絵を施す。

江戸時代前期(17世紀)/兜から胴、袖、草摺、佩楯(はいだて)に至るすべてに黒熊と思われる毛を植えた当世具足。兜のしころと面頬の垂は、金小札に紺、紅、白の糸で色々糸威(いろいろいとおどし)としており、総体に異様な雰囲気を与える。

江戸時代前期(17世紀)/徳川家康の九男で、尾張徳川家をおこした徳川義直が大坂の陣(1614-15)で用いたと伝わる当世具足。兜は昔の中国の役人がかぶっていたような冠の形をしており、奇抜。当世具足は、この具足のように兜のデザインに趣向を凝らしたものが多く、大きな見どころとなっている。

江戸時代前期(17世紀)/徳川家康に仕えた武将で、「四天王(してんのう)」のひとりといわれた榊原康政が使っていた具足の兜。この具足は、使った人がはっきり分かっており、実際に身につけている姿が絵にのこっている。

江戸時代前期(17世紀)/丈の高い鉢と裾広がりの脇立を黒漆塗とし、頂辺には銀箔を押して富士山を表わす。𩊱(しころ)は両肩を短く、後中央を長くした日根野形といわれる形式で、帯状の板の上端に刻みを入れ、表面を伝統的な札仕立てのように見せかけた切符札白糸で五段に威している。

江戸時代前期(17世紀)/鉄板を打ち出して栄螺(さざえ)を表わした変わり兜。栄螺は縁起物で丈夫な殻が堅い守りに通じることから戦国武将に好まれた意匠である。胴は西洋の甲冑を模した和製南蛮胴。草摺は黒毛植で裾板のみ白毛植としている。要所には丸に梶葉紋の赤銅製金物を飾っている。

江戸時代前期(17世紀)/桃形は南蛮兜の影響のある形で、前方中央から後方にかけて一条の鎬を立て、左右両面を平骨に仕上げ、敵の攻撃物をすべらせて避けるのに役立った。𩊱(しころ)は、黒漆塗りに萌黄糸を六段に素懸威(すがけおどし)した日野根型で、吹返に花菱紋を金で、前立は木彫に鍍金を施した蛇之目紋。

江戸時代前期(17世紀)/兜鉢は鉄地の烏帽子形で、側面に切鉄で大きな桐紋をあらわしている。正面や裾にも桐紋の鋲を打ち、いずれも銀の布目象嵌(ぬのめぞうがん)を施す。しころは六段下りで、紫糸の素懸威(すがけおどし)としている。豊後国(大分県)日出藩主の木下家に、豊臣秀吉の兜として伝来。

江戸時代前期(17世紀)/徳川家康に仕えた美濃岩村城主・松平家乗(1575~1614)所用の具足。伝統的な技法を用い、兜などは装飾を抑えたシンプルなかたちをしているが、大胆な色の取り合わせなどによって全身に統一感を持たせ、当世具足ならではの華やかさと格調の高さが生まれている。

江戸時代前期(17世紀)/野郎頭形といわれる変わり兜。鉢に糟毛を植えて髪型をあらわし、後には髻を結い、銀箔押しと黒漆塗にした鉢巻を付けている。しころは帯状の鉄板の上端に刻みを入れ、伝統的な札仕立てのように見せかけた切付札を茶糸威としている。

江戸時代中期~後期(18~19世紀)

豪華絢爛な太平の世の

やがて、太平の時代が訪れると、武士が甲冑を着て戦に出る機会は少なくなるが、江戸時代中期までは、外見重視の奇抜な変わり兜が引き続きつくられている。18世紀末以降、八代将軍・徳川吉宗の奨励で復古的思想が流行し、大鎧、胴丸といった中世の甲冑に関心がもたれ、研究が進んだ。財力のある大名たちは、故実家や研究者の指導を仰ぎながら、中世甲冑の模造や復元を行い、豪華な装飾を施した復古調の星兜や筋兜もつくられた。

江戸時代中期(18世紀)/兜鉢は薄鉄の五枚張りで、その上に鯱(しゃち)の形を和紙で厚く張り抜いてある。全体を厚く漆で塗り固め、口と鼻孔は朱漆塗り。目は金胴の薄板を貼り付け、錏(しころ)は鉄板付盛上札を朱漆塗りとし、その上から黒漆を塗る。日根野形五段を紫絲威(むらさきいとおどし)とし、吹返しは一段丸形で、黒漆塗りとして銀の覆輪をめぐらせる。

江戸時代中期(18世紀)/室町時代末期以降、甲冑の意匠が自由に表現されるようになるにつれて、兜も好みの形が作られた。江戸時代には、和紙を張り重ねた張子作りの型に漆を塗った張懸兜は精巧を極めた。本作は中央に徳川家の紋である三葉葵を、そして全面に蜻蛉と蝶を平蒔絵で描いた兜で、徳川家にゆかりのあるものと推測される。

江戸時代中期(18世紀)/室町時代後期以降、兜に自分の好みが表現されるようになり、いろいろな形の変わり兜が生まれた。本作のような唐冠は、中国の冠を象ったもので安土・桃山時代に流行し、簡単な頭形兜の上に薄鉄、煉革、和紙の張懸けで作られている。背後の纓が立物としての効果を示し、耳のように左右に突き出ている。

江戸時代中期(18世紀)/兜は鉄錆地の筋兜で、金箔押の御弊の前立と兎耳の脇立を付けている。胴は桶側胴で、桜花、花菱、蔦紋、梅花の透し紋鋲を打った二枚胴である。袖は七段の大袖紺絲威で、全体に重厚で深みのある、江戸時代中期の優秀作。

江戸時代中期(18世紀)/兜鉢の矧ぎ方は、4枚の鉄板を互いに接してその面に筋鉄を重ねて矧ぎ留めたアジア大陸における兜の構成法で、天辺を伏鉢式で押さえ、四葉座で覆っている。腰巻は銀覆輪とし、檜垣の代わりに銀板で、巻雲状のものを置いている。作域は、兜鉢が異国風で珍しく資料的に貴重。

江戸時代中期(18世紀)/兜の鉢は桃形で、月形の脇立を付けている。胴は鉄板を横に矧ぎ、梅花形の鋲を打つ。構造は左脇の3ヶ所と右脇の2ヶ所を蝶番で留めて6枚に分割できる六枚胴。籠手の冠板の内側に「為澤木氏正造之」「筑前住藤原金久作」の銘がきられている。    

江戸時代中期(18世紀)/江戸時代の後期になると、復古的な思想に基づいて古い形式の甲冑が作られるようになった。この兜もその一例で、覆輪をかけた筋鉢に、紫糸裾濃威(むらさきいとすそごおどし)のしころをつけ、立物は鍬形と龍。雲州松平家に伝来したもの。

江戸時代中期(18世紀)/兜をはじめ胴や袖などを金茶絲で威して統一し、各部に梅枝の透彫り、梅花、木瓜の紋の金物を施した胴丸。平安時代の胴丸を模しており、完成度の高さ、漆塗り技術の腕の確かさから、江戸時代の大名が儀礼用として名工に注文して作らせたものと思われる。

江戸時代中期(18世紀)/兜は鉄錆地の二十四間二方白で、前後に枝菊透かし彫りの地板を置いている。裾濃(すそご)というのは、染職の色のぼかし方の一つで、上方の色をうすくし、下方を濃くした色彩効果のこと。紫裾濃威は、袖などを上段から下段へ次第に濃い糸で威したものを指す。

江戸時代後期(19世紀)/漆塗りの仕上げと威しの手法が優れており、揺ぎ札の流行した江戸時代後期の希少な逸品である。兜をはじめ、鎧の各部に牡丹模様の金物が、また胴の前面には尾長島の藍染抜きの模様が施されている。全体に落ち着いた調子に統一され、極めて美しい鎧の一つである。

江戸時代後期(19世紀)/幕末の薩摩藩主島津斉彬が着用したと伝えられる大鎧。兜の鉢は、古く鎌倉時代のものを転用しており、各所に取り付けられた金具の装飾は豪華な作りで、他に例を見ないほど手の込んだ金具である。全体に勇壮さ、重厚さに優雅さ、軽快さの感じられる上品な作風。

江戸時代後期(19世紀)/切付毛引威しで威糸は紺色を用い、胴は横はぎ胴で黒漆塗りに金の高蒔絵で雲龍の図柄を施した作品。兜の鍬形台、吹返、篭手に据え紋の「蔦」がおかれている。兜の作者は、水戸徳川家のお抱え工「水府紀義徳」で、藩主の斉昭より義の字を賜り甲冑師となった明珍派の一人。

関連するひと・もの・こと

参考文献

  1. 『戦国武将変わり兜図鑑』須藤茂樹 解説,新人物往来社
  2. 『日本甲冑図鑑』三浦一郎 著,永都康之 画,新紀元社
  3. 『日本の鎧兜 : 時を越えた武将の美学ニッポンの「技」と「美」』宝島社
  4. 『変り兜 : 戦国のCOOL DESIGN』橋本麻里 著,新潮社
  5. 『世界大百科事典』(JapanKnowledge)
  6. 『日本大百科全書』(JapanKnowledge)
  7. 『国史大事典』(JapanKnowledge)
  8. マルチメディアマイペディア 百科事典CD-ROM日立デジタル平凡社,平凡社
  9. JapanKnowledge・コトバンク所収コンテンツの最終アクセス日は、いずれも2024/11/20。