シェークスピヤ最終講義をする逍遙 / 企画展『演劇人 坪内逍遙』データベース
シェークスピヤ−我国竟にシェークスピヤ無からんや−
逍遙のシェークスピヤ翻訳は明治14年(1881)、23才の時に『ジュリヤス・シーザー』(のちに『自由太刀余波鋭鋒』として出版)に着手したことにはじまり、昭和10年(1935)、77才の新修シェークスピヤ全集用の改訳まで、実に50年以上に及びました。
【シェークスピヤ全訳】
逍遙のライフワークだったのが、シェイクスピアの全訳でした。昭和3年(1928)に20年をかけた集大成として『シェークスピヤ全集』を刊行。さらに、昭和8年(1933)から10年(1935)にかけて、文体を統一したり、誤りを訂正した『新修シェークスピヤ全集』全40巻を刊行して完成させています。
「沙翁講義」「大正十三年七月稿沙翁講義」「沙翁以前の英国劇壇」「沙翁時代の殺人劇」「沙翁講義・ソネット」「沙翁書史・沙翁時代の劇場その他」「シェークスピヤ、ベーコン、他」「書評他」「読書抄」「沙翁劇講義」。背後の大きな紙は「シェークスピヤ300年記念祭展示目録」。
はじめ『沙翁傑作集』全20巻として明治42(1909)〜大正12(1923)年に、続いて『沙翁全集』全20巻として大正15(1926)〜昭和3(1928)年にかけて、早稲田大学出版部から刊行されたもの。本邦初のシェークスピヤの個人全訳。
『シェークスピヤ全集』の印刷用原稿。朱筆で真っ赤に染まった原稿は、血みどろとでも形容したくなる鏤心彫刻ぶりで、この仕事に対する逍遥の情熱ががうかがえます。
昭和8(1933)〜10(1935)年、中央公論社。 『シェークスピヤ全集』刊行後に、逍遙が個人訳として翻訳の統一を目的に改訂したもの。
(新修シェークスピヤ全集用)これが逍遙最後の仕事となりました。
【鴎外と逍遙の没理想論争】
明治21年(1888)にドイツ留学から帰国した鴎外が、逍遙に挑んだ文学論争。「しがらみ草紙」と「早稲田文学」で展開しました。
森鴎外との論争を収録した『文学その折々』
激しい論争を戦わせた2人でしたが、森鴎外が訳した『マクベス』に逍遙は序文を寄せています。
【逍遥と松井須磨子】
女優・松井須磨子(本名・小林正子)は、1911年(明治44)に逍遥が指導した文芸協会第1回公演『ハムレット』でデビューしました。松井は、『復活唱歌(カチューシャの唄)』『ゴンドラの唄』など複数のレコードを発表し、流行を博しました。