第6回公演『ジュリアス・シーザー』ポスター / 企画展『演劇人 坪内逍遙』データベース
文芸協会—近代演劇の革新へ向かって—
早稲田大学講師だった島村抱月が欧州留学から帰朝すると、抱月を中心として演劇や美術など文化全般の研究と実行を行う目的で、文芸協会が発案されました。当初は大隈重信を会頭として明治39年(1906)に発足、第1回公演として『桐一葉』などが上演されました。その後、経済的な損失を招いて活動を停止。逍遙が会長となり、演劇に活動をしぼることで明治42年(1909)、改革に乗り出しました。
第2次文芸協会発足の際に作られたもの。明治44(1911)年2月、逍遙は協会の目標を演劇に絞り、全責任を負って改組に着手、4月には大久保余丁町の自邸内の敷地を無償提供して付属演劇研究所を設立し、公募による俳優養成に乗り出しました。
文芸協会試演場の舞台正面に掲げられていた孔子『論語』からの言葉です。文字は弘法大師の書から集成しました。「子曰 志於道 拠於徳 依於仁 遊於芸/子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ。孔子の教え。《天の道を求め、道徳を根底にして、人の道(仁)を身につけ、学芸の世界を楽しむ(そうありたいものだ)》」
【演劇研究所と松井須磨子】
改革の中、逍遙は自宅敷地内に「演劇研究所」を設立して、研究生を育てました。明治44年(1911)に第1期生の卒業公演として上演されたのが『ハムレット』で、オフィーリヤは松井須磨子が演じました。第2回公演は『人形の家』と『ベニスの商人』(逍遙訳)で好評を博します。『人形の家』は、『青鞜』運動とともに新しい女性を印象づけました。しかし、第5回公演後に松井須磨子と妻子ある抱月の恋愛スキャンダルが発覚。大正2年(1913)の第6回公演『ジュリアス・シーザー』(逍遙訳)を最後に、文芸協会は解散することになります。
ハムレット オフィリア ガーツルード レーヤーチーズ 墓堀人
明治44(1911)年11月 帝国劇場
この公演ではイプセン作、島村抱月訳・演出の『人形の家』の他に逍遙作の舞踊劇『寒山拾得』『お七吉三』、それまでにも何度か上演したシェークスピヤ『ヴェニスの商人 法廷の場一幕』が併演されました。イプセンの近代劇上演へと逸る協会の若いメンバーのために、舞踊劇とシェークスピヤで公演のバランスを図り、万一の不評に対する防衛策をとる形となりました。公演は好評を博し、世間的には、作品選定における新旧世代の齟齬を印象づけました。
須磨子が逍遙へ宛てた遺書。大正7(1918)年11月、抱月がスペイン風邪で急逝、2ヶ月後には須磨子もあとを追って縊死しました。自殺する直前の年の暮れ、須磨子は余丁町の逍遙邸を訪ね、「先生……どうも……申し訳ございません……」と言ったきり下を向き、逍遙もまた「いゃあ……」と答えたものの、困ったような表情を浮かべたままだったといいます。