400 Years of Western Paintings - Masterpieces from Tokyo Fuji Art Museum -
2019年9月から2022年11月にかけて、山口県立美術館、茨城県近代美術館、大分県立美術館、宮崎県立美術館、沖縄県立博物館・美術館、岡山県立美術館、栃木県立美術館、佐賀県立美術館、熊本県立美術館、富山県美術館(開催順)の各会場で開催された当館所蔵作品による企画展「西洋絵画400年の旅」(展覧会名称は会場により異なる)のオンライン展覧会です。
Foreword
We are proud to present an exhibition introducing Western paintings from the collection of Tokyo Fuji Art Museum, which was made possible through the generous cooperation of museums and sponsors in the prefectures of Yamaguchi, Ibaraki, Oita, Miyazaki, Okinawa, Okayama, Tochigi, Saga, Kumamoto, and Toyama.
Dedicated on November 3, 1983 in a now-thriving university town in the western suburbs of the Japanese capital, the museum is rooted to this belief of its founder, Daisaku Ikeda, president of the Soka Gakkai International: “Art transcends differences of ethnicity, nationality, religion and custom; it forges a spiritual bond among people.”
Priding itself as “a museum creating bridges around the world” to facilitate the exchange of cultures, our museum has established cordial relations with art museums and cultural institutes in 32 countries and territories to date. We do so by bringing the world’s finest works of art to Japan while reciprocating in kind by introducing the foremost Japanese treasures to the world through special exhibitions that showcase their beauty and wonder through a unique set of prisms and perspectives.
Our museum’s collection is comprised of some 30,000 artworks from Japan and other Asian cultures, as well as the West, ranging from paintings, prints, photography, sculptures, ceramics and lacquer ware to armor, swords and medallions of various periods and cultures. Especially noteworthy is its outstanding collection of Western oil paintings that spans a five-hundred-year period from Renaissance to Impressionism and contemporary through Baroque, Rococo, Neoclassicism and Romanticism.
This exhibition will enable visitors to see masterpieces, chosen from our superlative collection with great care and consideration, that chronicle the history of oil paintings in the West created over four centuries.
Our museum wishes to reiterate our heartfelt gratitude to the many individuals and institutions that have rendered their support and assistance to ensure the exhibition’s success. Our hope is that the visitors of the art museums in the aforementioned prefectures will enjoy the works on display as much as we have in selecting them.
September 2019
Tokyo Fuji Art Museum
Table of Contents
“Genres” and “Hierarchies” of Paintings
現代の感覚からすると、そこに「何が描かれているのか」という内容によって絵画の格や価値が決まり、しかもそれが描いた画家自身の社会的なステータスや制作の姿勢にも影響する、という状況は少々想像しにくいかもしれない。しかし、第I部で中心的にとりあげるルネサンスから19世紀前半くらいまでの西洋絵画の世界では、時代や地域、カトリックかプロテスタントかといった宗教的状況などによって多少の温度差はあるものの、絵画が扱う主題=「ジャンル」による格付けが大きな影響力を持っていたのである。このことは、西洋絵画の基礎知識として、是非とも心に留めていただきたいポイントである。
最も格が高いのは「歴史画」と呼ばれるジャンルである。歴史画といっても、必ずしも歴史的な事実をとりあげているわけではなく、歴史も含め神話や聖書などの物語(テキスト)をビジュアル的に再現して描いた、広い意味で「何かを物語る絵画」である。聖なる、あるいは高貴な歴史画以下、“世俗的”なジャンルが続き、王侯貴族など身分の高い人々を描いた「肖像画」、その次に名もなき人々の生活を描いた「風俗画」が位置し、そして自然や都市の景色を描いた「風景画」、命のない“物”を描く「静物画」が最下位というランキングになる。このようなランク付けの背景には、基本的にキリスト教的価値観に根ざすヨーロッパでは、神に似せて作られた人間は全ての命あるものよりも優れた存在と考えられ、さらに自然は人間よりも一段下に見られてきた、ということがある。神々や人間が描かれている歴史画、肖像画、風俗画が、風景画や静物画よりも上位に位置付けられるのは、ある意味当然なのである。
歴史画が“高尚”なジャンルとされるのは、イタリアは15世紀、古代ギリシア・ローマの文芸復興によって人間性を復活しようとしたルネサンス以来の伝統である。古代の神話や英雄のストーリー、聖書のエピソードなどを絵画に「物語らせる」には、幅広い古典の教養や学識に加え、幾何学的な遠近法を使いこなすなど、高いレベルの頭脳労働が必要とされた。そのため、歴史画(絵画)を描くことは職人的な単純作業ではなく、古代ギリシア・ローマに由来する自由学芸(文法学、修辞学、論理学、算術、幾何学、音楽、天文学)に並び立ち、画家は詩人や人文学者に近しい存在と考えられたのである。なお、この時期に絵画に導入された遠近法は、単に絵を描くための技術ではなく、絵画という二次元平面に、神が創りたもうた「世界」を三次元的に再現するための画期的な手段であり、さらにいえば、神ではなく人間の視点によって「世界」を認識するための、まさに未曾有のシステムでもあった。これは、中世的な神中心主義から人間を解放しようとするルネサンスの時代精神を象徴するものであった。
歴史画によって絵画の価値と画家の地位を向上させようとする価値観は、その後ヨーロッパ各地に設立される美術アカデミー(教育機関)に引き継がれ、歴史画とそれ以外/以下のジャンルの序列が形成されていく。やや特殊なのは、共和制かつ偶像崇拝を禁止するプロテスタントを国教とした17世紀のオランダで、教会や貴族といった美術作品を大々的に発注する大口の顧客が稀で、歴史画以外の風俗画や風景画、静物画が市民に絶大な人気を博した。ただし、流通量はともかく、理論上はあくまでも想像力と多彩な能力が求められる歴史画が尊ばれるという状況があった。
なお、歴史画以外のジャンルについては、風俗的な要素や風景、静物などは最初から単独で描かれていたわけではなく、元々は歴史画の中に、全体を構成する一部として描かれていたものが出発点となっている。たとえば、歴史画の背景として描かれていた人々の生活「風俗」や自然の「風景」、人物の近くに置かれた果物や器、花などの「静物」が、徐々に個別に描かれる対象として注目され、やがては「風俗画」や「風景画」、「静物画」として独立していくのである。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
I-1. 歴史画─神話、物語、歴史を描く~絵画の最高位~
絵画ジャンルの格付けトップに位置する歴史画。歴史画とは、文字通り歴史上の出来事を題材にしたものはもちろん、聖書等にもとづく宗教画、ギリシア・ローマ神話の物語を描いた神話画、徳や学問、五感といった抽象的な概念を表した寓意画(アレゴリー)、さらには古典文学や伝説等から題材をとって描いたもの等をいう。これらの中で、私たち日本人には「抽象的な概念を表す寓意画」なるものがイメージしにくいかもしれない。具体的には、「慈愛」「賢明」(fig. 1)といった徳、あるいは「幾何学」「音楽」「哲学」といった学問、さらには「国」「四大陸」といったものまでが、主に女性の姿をした「擬人像」とその「アトリビュート」等により表される。
そもそも歴史画が格付けのトップとされるようになったのは、イタリアの初期ルネサンスの人文主義者レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404–1472:画家・建築家でもありルネサンスの「万能の天才」と言われるひとり)が『絵画論』(1435年)の中で、歴史画(=istoria:本来的には物語・歴史の意味)こそ画家の最高の仕事であると記したことにさかのぼる。この価値観は16世紀のイタリアを経て、その影響のもと17世紀のフランスで発展。1648年に設立されたフランス王立絵画彫刻アカデミーでは、歴史画をトップとして、以下肖像画、風俗画、風景画、静物画と続くジャンルの序列化(ヒエラルキー)も進められた。そしてこれは19世紀半ばに至るまで、美術界を支配することとなる。
この様な価値観の形成には、画家は歴史画を描くにあたり、相当の知識と能力が必要とされたことも大きい。題材が聖書であれ、ギリシア・ローマ神話であれ、あるいは歴史上の出来事であれ、目前の情景を描くのとはわけが違う。歴史や聖書、神話等に関する深い知識と教養、それを画面に表現する上での構成力や想像力がなければ描くことはできない。例えば、登場人物の服装や人数、背景となる建築物や風景、その他のモティーフ等、様々な要素をどう表現するか、画家にはクリアしなければならない問題が数多く出て来る。すなわち歴史画には必然的に、人物、風景、動植物、様々な事物等、他の絵画ジャンルの要素がすべて入ることとなるのだ。加えてそこには様々な意味、寓意や教訓も含まれている。また、描く側のみならずそれを見る側にも知識がなければ、そこに表現された内容・意味を読みとることが出来ない。
こうしたことから歴史画は「偉大な絵画」として、上位に位置づけられ、大きな画面に描くことが認められた。19世紀にレアリスムの画家クールベ(1819–1877)が《オルナンの埋葬》を発表して物議を醸すのも、歴史画にのみ許された大画面に、歴史画でないものを描いたからにほかならない。
さて、本展出品作についてみていくと、歴史上の事件を題材にしたものが最も多く8点(cat.nos. 1, 5–10, 12)、そのうちナポレオンを描いた作品(cat.no.12)は、理想の英雄像=肖像画としての性格も持っている。次いで聖書から題材をとったものが2点(cat.nos. 2, 3)、ギリシア・ローマ神話にもとづくものが1点(cat.no. 4)である。なお、ブーシェの田園に憩う羊飼いの男女を理想化して描いた作品(cat.no. 11)は、厳密には「パストラル(牧歌的田園画)」というジャンルに分類されるが、パストラルは古代ギリシア・ローマの「田園詩」以来、様々な文学や演劇・音楽にも表現され、また絵画に表されたイメージも理想的・神話的なものであることから、本展では構成上、歴史画に分類して紹介している。
(茨城県近代美術館 山口和子)
王位を剥奪され、領地を失い、農民のような生活を余儀なくされた貧窮のアブドロミノに、アレクサンドロス大王(前356—前323)が使者を遣わし、略奪した王冠を返還するという大王の寛大な行為を描いた場面。本作については、1780年にカルロ・ジュゼッペ・ラッティが『ジェノヴァの優れた絵画・彫刻・建築の解説』第2版の中で触れているが、17世紀イタリア絵画の研究者であるミナ・グレゴーリ女史は次のように述べている。「このテーマは非常に珍しいもので、あまり一般的ではないが、ストロッツィの絵画世界や趣好に合致したものである。ベラスケスの《ブレダの開城》(プラド美術館)に描かれているアンブロージオ・スピノラを思い起こさせるような人間性豊かな表情の使者が、百姓姿の侍者を後ろに従えた鄙びた風采のアブドロミノと共に描かれている。そこにはフランドル派風俗画に見られる下層民への同化が明瞭に示されており、このことは17世紀ジェノヴァ派の特徴の一つでもあった。」ちなみに、《ブレダの開城》は本作とほぼ同じ頃に描かれた作品で、ジェノヴァ出身の将軍スピノラが勝利者として要塞の鍵を受け取るという姿で登場するので、制作年代・都市・構図の上で共通点があって面白い。作者のストロッツィは、フランドル絵画の影響を受けつつ17世紀ジェノヴァ派の基礎を確立、後にヴェネツィアに移住し、ヴェネツィア派バロックの大様式を形成した画家である。画面は王冠を中心として主要人物の顔が対角線上に配置された安定した構図を持ち、その一人一人の人物は多様な個性と豊かな表情を備えている。また技法の上でも、濃密な厚塗り、重厚な筆の動きと自在なタッチの塗りのマチエールの魅力が特徴的であり、カラヴァッジョ風の強い明暗法を用いることによって画面に鮮烈で劇的な効果を与えることにも成功している。この絵は、1617年のものと推定されているドリア家の最初の財産目録に「アレクサンダー大王」の題名で記録されていて、続いて1625年以前に作成された目録では「イル・プレーテの作品 王冠を贈られた農夫」と記述されている。その後、少なくとも18世紀後半まで、ジェノヴァの名家ドリア一族のジュゼッペ・ドリア(1730—1816)のコレクションで、その宮殿の重要な客間を飾っていたことが判っている。
ヘラルト・デ・ライレッセは、17世紀フランドルを代表する歴史画家。フランス古典主義の影響を受けた彼の美術理論は著作『大画法書』で知られ、同書は江戸時代の日本に伝わって、北斎などの浮世絵師らにも影響を与えられたと考えられている。本作の主題は、旧約聖書「創世記」の一場面。昼の暑いころ、100歳のアブラハムが、樫の木がある天幕の入口に座っていると、主の使いである3人の天使の訪問を受け、彼らの足を洗い、食べ物を供して歓迎した。天使たちはアブラハムに「90歳の妻サラが彼の子を授かる」ことを告げる。後ろで予言を聞いていたサラは、おもわず笑ってしまうが、「なぜ笑うのか。主に不可能はない」と咎められ、サラは急いで笑ったことを否定する。本作では天幕は立派な建物として表現され、3人の天使たちは導きを象徴する杖を持って表現されている。画面中央では、年老いたアブラハムが驚いた表情で手を広げ、ややわかり辛いが、画面右端の扉の奥の暗がりで妻サラが聞き耳を立てている。後日、彼らの言葉通り男の子が生まれ、イサクと名付けられた。イサクはヘブライ語で「彼は笑う」という意味である。ある時、アブラハムは神の試練として「少年のイサクを神に犠牲として捧げよ」との命令を受けたとき、それに服する姿勢を示して信仰の篤さを認められたのである。
この絵の主題は、旧約聖書に語られた預言者ナタンがダヴィデ王を諌める場面(「サムエル記下」12章1—14節)。ウリヤの妻バテシバに恋したダヴィデは、ウリヤを危険な戦場に派遣する。ダヴィデのもくろみ通りにウリヤが戦死すると、ダヴィデはバテシバを妻にしてしまい、二人のあいだには息子が生まれる。しかし神は、ダヴィデのもとに預言者ナタンを遣わす。そこでナタンは、ダヴィデに富者と貧者の譬え話を語り、ダヴィデに自分の犯した罪を諭すのである。すなわち、ある富者は多くの家畜を所有していたにもかかわらず、客人をもてなす時、自分の家畜を屠殺するのが惜しくなり、貧者が自分の家族同様に可愛がっていた雌羊を盗んでもてなした、と。ダウィデはその男のことを非常に怒り、彼は殺されるべきであるという。ナタンはダヴィデに「あなたはその男だ」と告げる。つまり、栄華をきわめたダヴィデ王が自分の部下の妻を奪ったのは、この富者と同じだというのである。そして、神はこのダヴィデの罪に対する罰として、彼とバテシバの息子の命を奪ったという。画面には、杖を手にした質素な身なりのナタンと、王笏を持ち豪華な衣装を身につけたダヴィデが描かれている。ここでヘルダーは、譬え話の富者と貧者を暗喩するかのように、対照的な衣装に身を包んだ二人の人物の顔の表情と手ぶりを表現力豊かに描き出し、対話によってあぶり出される心理的な反応を表現しようとしている。明暗の対比で浮かび上がる人物に深い精神性を与えつつ、自身では気がつかないような人間の心の奥底、目には見えない人間の心理的な領域を視覚化しようと試みているかのようである。ヘルダーはアムステルダムでレンブラントに学び、師の後期様式に手を加え展開させた。ヘルダーの最高傑作のいくつかは、しばしばレンブラント作品と見なされたこともあり、「ヘルダーの絵はレンブラントの絵よりも美しすぎる」との批評があるように、精錬された美感に溢れている。
ギリシア・ローマ神話に登場する女神たちを、ロココ風の感性で優美に描き出した作品。トリトンが法螺貝を吹き鳴らして愛と美の女神の誕生を祝福し、海のニンフたちもその若く美しい姿を波間に漂わせ、この華やかなセレモニーに参加している。愛を燃え立たせる松明や、美と芳香と棘でこの女神に擬せられるバラを持ったクピドたちがヴィーナスの頭上で飛び交っている。
Pastoral Music
Bonaparte Crossing the Great St. Bernard
I-2. 肖像画─王侯貴族から市民階級へ~あるべき姿/あるがままの姿~
人の似姿を表す肖像画やそれに類する肖像作品(彫刻やレリーフ、硬貨など)は、個人の記録や記念のために作られる。つまり、特定の誰かを記憶し、形あるものとして永遠に留めるためのものである。
現存する肖像画の最古の例は古代エジプトにさかのぼり、他のジャンルと比較しても群を抜いて古い歴史を持つ。そもそも、大プリニウス(23–79)によれば、絵画の起源は、戦いにおもむく恋人の影の輪郭をなぞったことなのだそうだ(『博物誌』35巻)。もちろん、これはロマンチックな伝説だが、今目の前にいない人や、失った人をしのぶ拠り所として、古くから肖像の需要があったのは間違いない。
ヨーロッパにおける肖像画は宗教美術一辺倒だった中世に一端途絶えるが、ルネサンス以降、人間中心主義によって個人が尊ばれるようになるにつれて、フランドル*で復活して花開き、支配者層を中心に肖像画が普及していった。ニーズの増大に応じて肖像画の専門画家も登場し、16~17世紀には王侯貴族から裕福な市民までがこぞって肖像画を注文するようになる(cat.nos. 13–16)。肖像画を注文して所有することは社会的地位の高さや成功の証しであり、支配者や権力者にとっては、その権威を目に見える形にして、徳や名声を宣伝するための格好の道具であった(cat.nos. 15, 19, 21, 22)。
肖像画で往々にして問題となるのは写実性と理想化とのバランスで、実際のモデルと、本人(もしくは肖像画の依頼主)が描いて欲しいイメージとの間にはズレが生じるものである。特に、君主がお抱えの画家に肖像画を描かせるような場合、その肖像画は威厳ある君主としての姿を「演出」するためのプロパガンダ装置としての機能が期待される。ここで、「本当の私」と「見せたい私」との間に何らかのギャップが存在するのは、当然といえば当然である。美醜の面で欠点を修正するだけではなく、「このように見せたい」「こうあるべき」という、一定の「公的」なイメージの方向性が存在すると考えるべきであろう。とはいえ、あまりにも本人からかけ離れていては肖像画として意味がないので、どの程度美化するか、あるいはどのくらい包み隠さず正直に描くかは、画家の腕の見せ所ともいえる。
多少の理想化はさておき、優れた肖像画とは、目鼻立ちなどの顔の造作や身体的な特徴が正確に伝わると同時に、モデルの人となりや精神性などが感じられるものであろう。外見、内面ともに、描かれた人物がどんな人物だったのかが分かり、さらに、衣装をはじめ、持ち物や家具、背景などによって、その人を取り巻く環境や、描かれた時の状況まで伝わってくれば、申し分ない。もちろん、写真がない時代の肖像画については、実際にモデルにどの程度似ているかは、後世の我々には判断が難しいものではあるのだが……。
肖像画は立像か座像が多いが、君主や軍人などは騎馬像もある(cat.no. 12は本展では歴史画のセクションに入れているが、騎馬肖像画でもある)。体のどこでトリミングするかで、頭部のみの頭像やバストアップの胸像、半身像、全身像などがあり、さらにどの方向を向いているかで、正面像、真横を向いた側面像、少し斜めを向いた四分の三正面像などに分けられ、ヴァリエーションは多彩である。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
* ベルギー西部を中心として、オランダ南西部、フランス北東部を含む地方。中世以降毛織物業が盛んとなり、経済的繁栄を背景に美術も独自の発展を遂げた。
繊細な光を反射する緞帳を背景に、椅子に座った男性が、威厳と気品に満ちた眼差しでこちらを見つめている。この男性の洗練された趣味を示すように、窓際に金の機械時計、男性の隣にゴリアテの首に片足をかけるダヴィデの彫刻が置かれている。開け放たれた窓の向こうには、古代ローマ帝国時代に皇帝の霊廟として建設され、当時は教皇のための要塞として使用されていたサン・タンジェロ城が描かれている。このことは、この人物とヴァチカンとのつながりを象徴しており、おそらく同地に滞在していたヴェネツィアの外交官だと推測される。
粗く素早い筆さばきを用いた大胆で個性的な画風で知られるハルスは、何人かの人物の特徴を一瞬のうちに捉える集団肖像画を得意としたが、1620〜30年代にかけては、風俗画も盛んに手がけた。多くは単身の人物を扱ったもので、《陽気な酒飲み》(1628/30年頃、アムステルダム国立美術館)に代表されるように、画面の中から見る者に気さくに話かけるような表情・身振りや、くつろいだ自由なポーズなど、従来の肖像画にはない新しい要素が導入されている。そして1630年代も末頃になると、内省的な趣を強め、色彩も抑制された地味なものへと変化していく。このようなハルスの最盛期に描かれた本作は、説教師の威厳ある風貌が的確に捉えられており、この時期の表現に特徴的なプリマ画と呼ばれる直描きの技法による自由な筆致を彷彿とさせるような伸びやかな筆遣いも見られる。同時代に活躍したレンブラントの、重厚で格調高い趣をみせる肖像画と比較すると、ハルスの作品には実際にモデルの息づかいが感じられるような庶民的な実在感があり、モデルの心理と人間性を巧みに描出することに成功している。右側の背景の上方に記された銘には、モデルの年齢と制作年が書き込まれているが、これはハルスの肖像画に見られる記述で、このモデルが73歳であることが分かる。17世紀のオランダで創造された黒を基調色とする色彩感、自由で伸び伸びとした筆さばきは、はるか2世紀後のフランスにおける印象派の父マネの芸術を予見させるかのようである。
フランドルの出身で、16歳のときには工房を構え弟子をもっていたと伝えられるヴァン・ダイクは、若くして華やかな活動を展開し、21歳で英国ジェームス1世の宮廷画家となった。22歳からの6年間はイタリアで過ごし、ヴェネツィア派とりわけティツィアーノの作風を吸収しつつ、貴族の肖像画を数多く手がけ大成功を収めた。そして確固たる名声と実力とともに、28歳で故郷アントウェルペンに戻る。以後、再び英国に渡るまでの5年間は、肖像画の注文が絶えることなく多忙を極めたが、その間オランダに2度赴き、そこでオランダ総督オラニエ公フレデリック・ヘンドリックとその妻アマリア・フォン・ソルムスの肖像画を数点描いた。本作はそのうちの最も出来映えの良い作品で、滑るような白い肌をもつ貴婦人のからだが、高雅な黒のドレスに包まれ、茶系色の錦織の掛け物を背景にしてシックな色調の中に凜然と輝きを放っている。ここに描かれた女性の夫フレデリック・ヘンドリック(1584ー1647)は、1625年から没年までオランダの総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の公爵で、現オランダ王室の遠い源流に位置する人物である。この夫妻の肖像を描いた対作品は2組あり、本作はもとオラニエ=ナッサウ家に伝わる完成度の高い方の組の妻の絵で、これと対をなす夫の肖像画は現在アメリカのバルティモア美術館に収蔵されている。またもう1組はマドリードのプラド美術館の所蔵となっている。この絵についてはエリック・ラールセンがカタログ・レゾネの中で次のように評価を下している。「妻の肖像の出来映えは、夫のそれより上質と思われる。どちらも間違いなくオリジナル作品である。この夫人の肖像画は、念入りに技法を駆使した素晴しい仕上がりである」(『ヴァン・ダイク』)
Portrait of Anne Carr, Countess of Bedford
Portrait of the Marquise de la Ferté-Imbault
Portrait of Don Sebastien Marie Gabriel de Bourbon-Bragance
本作はダヴィッドの大作《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式》の中に描かれる、今まさにジョゼフィーヌに王冠を授けようとする皇帝を部分的に抽出したもので、彼の工房で描かれたと考えられる。古代風の金の月桂冠を被り、白テンの毛皮と金の刺繍で装飾を施された赤と白の絢爛たる皇帝の盛装が、暗転させた背景と緑の絨毯に映える。人物を真横から捉え、左方向へと流れる動勢を計算され尽くした技法で描かれたこの図像は、劇的な舞台装置の中で威厳にあふれたハイライトを形づくっている。
エリザベート王女(1764-1794)は、ルイ15世の息子である王太子ルイ・フェルディナンドとマリー=ジョゼフ・ド・サックスとの間に8人兄弟の末娘として生まれた。ルイ16世は10歳年上の兄にあたる。謙虚で信仰心が篤く、聖女と呼ばれた彼女は、1789年に勃発したフランス革命の最中にも、兄の国王ルイ16世を慕い、その運命を共にした。革命の運命の嵐に巻き込まれた彼女は、国王一家とともに幽閉された後、1794年5月9日に死の宣告を受け、翌日30歳でその生涯を閉じた。1782年、エリザベートは画家ヴィジェ=ルブランのためにポーズを取った。その際に描かれた最初の肖像画は現在所在不明であるが、その絵をもとにした幾つかのヴァージョンが知られており、本作もその1枚である。本作で王女は、モスリンのキャミソールにすみれ色の絹のドレスを着て、ライトブルーの絹の大きなリボンと縞模様のベルトをつけて描かれている。彼女が被っている色とりどりの花をあしらった大きな麦わら帽子は、当時の貴族たちに流行した田園趣味を象徴している。ヴィジェ=ルブランはエリザベートについて、「昔の牧人劇に登場するかわいい恋人役のような魅力ある人だった」と評しているが、本作にもそのような王女の魅力が十分に表現されていよう。
やや斜めを向いた皇帝ナポレオン。彼の射るような視線と引き締まった口元は、今まさに画面の外の人物に向かって、命令を伝えようとしているような印象を受ける。自信に満ちたその表情には、フランス皇帝としての威厳が備わっている。このような皇帝の肖像画は、各宮殿を飾るため複製画が多数制作されたが、本作もその1点と思われる。本作のオリジナルは現在ヴェルサイユ宮国立美術館に所蔵されている。
この肖像画に描かれているアダム・ファーガソン(1723-1816)は、『国富論』の著者アダム・スミスと並ぶ、スコットランド啓蒙を代表する思想家である。主著に『市民社会史論』があり、原始社会から市民社会への発展を論じた本書は、マルクスらの社会的分業論に大きな影響を与えたとされる。1759年、彼はデヴィッド・ヒュームの後押しでエディンバラ大学の教授となった。のちに彼が担当した道徳哲学講座はエディンバラ大学の人気講座となり、遠くロンドンからも受講者が訪れたという。本作に描かれたファーガソンの傍らにも、道徳哲学についての著作が積まれている。仄暗い部屋を背景に、赤い椅子に座る碩学の風貌が、強い明暗表現によって浮かび上がっている。
幼い頃から絵の世界に興味を示したミレーは、1833年にシェルブールに赴き、ダヴィッド派の肖像画家ムシェルについて初めて絵を学んだ。2年後には、同じシェルブールの画家でグロの弟子ラングロワに師事。翌年には、シェルブール市の奨学金を得てパリに行き、アカデミズムの画家ドラローシュのアトリエに入門した。しかし、ミレーはこうした教室での修業には馴染めず、もっぱらルーヴル美術館に通って模写をするという日々が続いたが、1840年、《ルフラン氏の肖像》でサロンに初入選を果たし、画家としてスタートをきることができた。26歳のときである。彼は肖像画家として身を立てるためにシェルブールに戻り、さっそく同市から依頼された前市長の肖像画を仕上げるものの、モデルの理想化を排したその作品のリアリズムに、市議会は受取りを拒否するという出来事もあった。職業画家としての成功と失敗の因子が交錯するなかで、1841年秋、最初の妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚。二人はパリに出て新出発を期すが、その成功はおぼつかないものであった。このような時期に描かれたと推測されるこの肖像画は、鼻の下と顎にかすかに薄い髭を生やした長髪の男性を、限られた色数と簡潔なタッチで、冷徹にして虚飾のない表現で描き出している。同じ頃に制作された肖像画で良く知られたものに《自画像》(1841年、シェルブール、トマ・アンリ美術館蔵)があり、その作風は本作と良く似た特徴を示している。画面左下に大きな文字で記された署名は《ウィトル氏の肖像》(1845年、日本・個人蔵)にあるのと同じタイプのもので、はっきりと力強く書かれた筆跡には、まだ初々しさが感じられる。後にバルビゾン派を代表する農民画家として有名となるミレーの最初期の肖像画の一つである。
サージェントは洗練されたスタイルと性格描写をもって、アメリカやイギリスの上流階級の人々のポートレートを描き続けた。モデルの女性は当時、女性のための実用服として定着しつつあった「ブラウス」に紫色のベルト、そして簡素なスカートを履き、上着として毛皮のあしらわれたケープを羽織っている。19世紀末にはアール・ヌーヴォーが流行し、コルセット を使用し、腰の部分を締めつつ、自然な曲線を意識したフォルムが愛好された。サージェントはクロード・モネとも親交をもち、印象主義をよく理解していた画家でもあるが、本作のように静的でアカデミックな要素の強い絵画を主とした。
I-3. 風俗画─市井の生活へのまなざし
「風俗」というと、ある時代や社会における生活上のしきたりや風習、あるいは「風紀」的な意味を思い浮かべるかもしれないが、西洋絵画における風俗画とは、特殊なしきたりや風習をことさらにとり上げて描くものではなく、広く日常生活の情景を描いた絵画のことである。
17世紀以降、フランスの絵画彫刻アカデミーにより、「肖像画」や「風景画」などと、描かれた内容によってジャンル分けがなされ、歴史画を頂点とするヒエラルキーが形成されていく。ただし、現在「風俗画」を意味する「ジャンル・ペインティング」(ジャンル画)は、元々は「風俗画」という意味ではなく、歴史画以外の全てのジャンルをまとめて呼ぶ言葉だった。つまり、ジャンル画とは、“高貴で聖なる”歴史画に対して、世俗的で価値が低い「その他大勢」のジャンルを総称する言葉だったのである。やがて「肖像画」「風景画」「静物画」というジャンルの区分がより明確になり、18世紀末には、それらのどれにも属さない「日常生活の情景」がジャンル画と呼ばれるようになる。ここで「その他大勢」だったジャンル画という言葉と、日常生活を描く絵画としての「風俗画」が結びつくのである。これは、単に最後に残ったものをまとめたということではなく、当時のフランスで、市民階級の成長にともない、彼らの生活を支える日々の労働や家庭生活といった現実の生活に関心が向けられ、絵画においても日常的な情景が多く描かれるようになったということなのである。
風俗的な描写自体は、中世の(個人用祈禱書)の月歴画(12ヶ月の自然や労働を描いたもの)やヴェネツィア派の絵画にも見られるが(cat.no. 26)、本格的な風俗画は、16世紀のフランドルを地ならしに、17世紀のオランダで盛んに描かれるようになった。1609年に宗主国スペインから実質的に独立を果たし、共和制の下で市民社会が成立したオランダでは、普通の市民の現実的な感覚に合った絵画の需要が高く、小難しい歴史画ではなく、身近な題材を扱った風俗画や風景画、静物画が好まれた。また、海洋貿易によって社会の広い層に富がもたらされ、一部の富裕層だけではなく普通の市民も絵画を購入して、家のいたる場所に飾っていたという。なお、教会や貴族の大邸宅ではなく一般家庭に飾るには、大画面に描かれる仰々しい歴史画よりも、それ以外の手頃なサイズの絵画の方が好都合だった。
風俗画は日常生活を描いたものだが、実のところは、目にした現実をありのままに再現しているとは限らない。我々は風俗画ときくとつい、当時の生活風俗を忠実に「記録」したものと思いがちだが、17、18世紀の風俗画は、道徳的な意味合いや教訓が込められていたり、女性(主婦)の美徳など、当時の社会の価値観を反映しているものも少なくない。たとえば、楽しげな宴会のシーンを描きながら、飲酒や喫煙を戒めるメッセージや、子供がいる前で羽目を外す親への風刺をこめるなどしたのである(fig. 5)。
18世紀末のイギリスで好まれた「ファンシー・ピクチャー」(cat.nos. 28, 29)は肖像画と風俗画の性格をあわせ持つが、こちらは道徳的な意味を含むものではない。ただ、「ファンシー」(空想)という語が示す通り、田園風景は空想的で、当時の生活の情景そのままというわけではない。伝統的な風俗画を見る際には、どこまでが現実でどこからが虚構なのかを見極めたり、隠された意味を読み解くことも楽しみの一つとなる。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
優雅な服をまとった貴族の少年が、こちら側、すなわち私たち絵の鑑賞者がいる部屋に入ろうとしている。傍らに立つ騎士見習は後ろを振り返り、カーテンの後ろにいる男と会話を交しており、足元のグレイハウンド犬がその声のする方を見上げている。ヴェロネーゼは、貴族の別荘の装飾をいくつか手がけているが、本作はもともと、それらの部屋のドアに描かれた装飾画であった。(本作では作品の保存のため、後年になって、絵具層がカンヴァスに移し替えられている。)絵の中の架空の扉を開けて入ってくる騎士見習や少年を愛らしく描く、こうしたトロンプ=ルイユ(だまし絵)的な手法によって、建築家・彫刻家・画家が共同作業をして一つの邸宅の総合的な装飾に取り組む上で、建築装飾から絵画装飾へと切れ目無くつながる大きな効果をあげている。この絵は、《戦士と騎士見習》と題される同じサイズの別作品と対をなしており、洒落た室内装飾の一翼を担っていたのであろう。本作にみられるようなローズとグリーンの微妙な色彩のハーモニーと、柔らかい黄色の明るさは、ヴェロネーゼが好んだ特色ある色の使い方である。またヴェロネーゼは、犬や子どもを描くことが好きで、《エマオの巡礼者たち》や《カナの婚宴》(ともにルーヴル美術館)のような大きな宗教画においてさえ、婦人像とともに子どもや犬を描き込んでいる。こうした世俗的表現は、17世紀フランドル絵画のルーベンス、ヴァン・ダイクや、18世紀フランスのロココ絵画に先駆するものとして注目される。
A Young Girl and Her Dog
Figures Before a Cottage
19世紀後半のフランスは、美術の世界でも官展に対抗して印象派が第1回展を開く(1874年)など、新しい時代への転換に向かって、地殻変動が起きた時代であった。しかし正統派を自認するアカデミズムの勢力は健在であった。アレクサンドル・カバネルとともに、この時代のアカデミズム絵画を代表する画家であるウィリアム・ブーグローは、マネや印象派の画家たちの絵画を拒否した保守派の人物としても有名で、“ブーグロー風”という言葉が印象主義の反意語として用いられもした。彼は新古典主義の画家ピコの弟子で、1850年にローマ賞を受賞、歴史画や神話画の大作をサロンに出品している。微妙な明暗まで再現する精緻な描写と磨きあげられたマティエールが際立つその様式は、アカデミックな写実技法の極致といえる。一方、ブーグローは風俗画も数多く制作した。1870年代以降は、愛情あふれる母子、牧歌的な風景に愛らしい少女といった定型化した作品を数多く制作するようになった。本作はこのような時期に描かれた牧歌的少女像のひとつである。網を左肩に担ぎ、籠を右手に抱えてポーズする漁村の若い娘。海辺の場所や着衣などは地味で、頭に被ったスカーフの色と模様がこの絵で唯一の華やかな部分である。それゆえに顔や首すじ、腕や手といった露出した肌の部分の生々しさ、また磁器のように滑らかでみずみずしい描写に、自然と見る者の目は導かれる。ある意味で写真的ともいえる人体の描写は、ブーグロー特有の表現法でもある。
ミケーレ・ゴルディジャーニは、裕福な家に育ったが、小遣いを稼ぐためにタバコ屋の看板描きや、市場での女中や主婦相手の似顔絵描きをはじめ、後の肖像画家としての訓練をしていった。1856年には、上流階級の注文を受けるようになる。さらに1861年、フィレンツェで開催されたイタリア博覧会では、イタリア王ヴィットリア・エマヌエルの肖像が好評を得て、肖像画家として最高の名誉と栄光と富を獲得した。本作は、ミケーレの名声が頂点を迎えた時期に描かれたもの。貴族、政治家、音楽家、俳優など、多くの国の上流階級の人々から注文が相継いだ。素早く仕事を片づけるために写真を用いていたが、実物をそのままに写し出す写真とは違い、彼は実物の欠点を弱め、より気品高く描くことに努めた。その作品からは、一瞬の心の動きを捉え、そこに一筋の表情の美しさを見い出し、表現することができた彼の才能をうかがい知ることができる。
明るいピンク色のドレスに身を包んだ若い貴婦人が、化粧室の鏡の前でポーズをとっている。このドレスは、1870年代から80年代にかけて流行し、腰の後ろに膨らみを作るための腰枠の名前に因み、「バスル・スタイル」と呼ばれる。女性はこれから始まる夜会の身支度しているのであろう。モデルが顎の下に手をやり、今まさに結ぼうとしているような髪飾りは、既婚女性が正装用としてよく用いたものである。またチェストの上には手袋や香水瓶が置かれ、女性の幾分高揚した雰囲気を演出している。「化粧をする女」という主題は、フォンテーヌブロー派の時代から愛好されてきたが、本作も甘美な親密さがあふれる愛らしい作品である。
I-4. 風景画─「背景」から純粋な風景へ~自然と都市~
西洋美術は、基本的には人間の表現を中心に展開してきた。自然の風景を描くこと自体は古代の壁画などにも見られるが、西洋絵画においては、まずは神話画や宗教画などの物語の舞台を構成する「背景」として登場した。そこで描かれたのは、様々なイメージを合成した風景か、あるいは全くの空想の産物であったり、理想化された風景も多い。風景画の成立前史としては、元々フランドル絵画における背景の自然描写は優れて写実的で、特に細部の描き込みには目を見張るものがあった。16世紀、デューラー(1471–1528)が「良き風景画家」と記したフランドルのパティニール(1480頃–1524)は宗教的な物語を描きながらも、人物よりも風景描写を優先して視点の高いパノラマ的な風景を描き出した点で画期的であった(fig. 6)。完全に独立した風景画となると、ドイツの画家アルトドルファー(1480頃–1538)が始祖とされ、1520年代に「物語」を説明するための背景ではない、人の姿のない純粋な風景画を描いている。
時はまさに宗教改革の時代で、ヨーロッパはカトリックとプロテスタントに二分され、各地で混乱と戦乱が巻き起こっていた。16世紀末には、主に宗教上の理由で、画家を含む多くの人がカトリック文化圏のフランドルからプロテスタントが主流の北部ネーデルラント(オランダ)に移住したが、17世紀のオランダにおける風景画ジャンルの成立と発展には、オランダに移住したフランドル出身の風景を得意とした画家たちの功績も大きいのである(なお、同様のことは、風俗画や静物画にもいえる)。
プロテスタントを国教として共和制を敷いたオランダでは、歴史画は高い地位を保ってはいたもののそのシェアは減退し、人気という点では、新たに経済の担い手となった市民にとって親しみやすい絵画ジャンルの圧勝であった。「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」といわれる通り、低湿地を干拓して国土を広げ、さらに80年の長きにわたった対スペインの独立戦争を勝ち抜いたオランダ人は自国に誇りを抱き、その気候風土に根ざした風景画(cat.nos. 34, 35)を愛好した。また、海洋貿易国家らしく海景画も好まれた。
オランダの風景画は写実性が高いものが多いが、この時代の風景画はアトリエの中で制作されており、スケッチを元に合成や改変がなされるなど実際の風景とは異なるケースが多い。画家が屋外にカンヴァスを持ち出し、太陽光の下で制作するようになるのは19世紀以降のことである。
多種多様な風景画が量産されたオランダでは建物画や都市風景画も描かれたが、都市を描いた絵画で目を惹くのは、18世紀にヴェネツィアで活躍したカナレット(1697– 1768)に代表される、ヴェドゥータと呼ばれる都市景観画である(cat.nos. 38, 39)。厳密な遠近法にもとづいて都市の景色が描かれたヴェドゥータは、イギリスの上流階級の子弟が見聞を広げるためにイタリアなどに旅行する「グランド・ツアー」の土産物としてもてはやされ、イギリスにわたったカナレットは同地の風景画の展開に大きな影響を与えることにもなった。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
ここに描かれている海戦がいつの出来事かは確認されていない。さまざまな旗や紋章から察するところ、おそらくオランダとバーバリの交戦であったと推測される。バーバリは、現在のエジプト西部から北大西洋沿岸一帯の北アフリカの古称。海洋画というジャンルは17世紀の初めにオランダで好まれ、はじめてこのジャンルの専門画家も現れて、のちに海洋国イギリスでも愛好された。
ファン・ホイエンは、熱心に風景画の表現を探求した。小さなボートを所有し、それに乗って海や湖に出て、風や太陽の光、水面の見え方の変化を観察している。1625年頃より単色による簡潔で構築的な画面へと作風を変化させ、モノクローム的色彩の風景画へ移行していく。こうした彼の様式が後のオランダ風景画に大きな影響を与えた。川面の穏やかな流れと遠景の町のシルエットが、詩的な静けさを演出している。前景右では、ボートに乗った三人の釣り人が投網で漁をしている。その左奥には、たくさんの人を乗せて町に向かう小舟が描かれ、そのマストにはオランダの三色旗が掲げられている。画面の大半を空が占め、低くとられた水平線に垂直に立つ幾本かの帆船マストが、ともすれば単調になりがちな画面にリズムと奥行きのある空間を作り出している。こうした低い視点からみた水平線と広い空という構図は、ファン・ホイエンが生み出した独自のスタイルといえる。モノクローム的色彩の微妙な色調の変化を重視した作者にとって、光の当たり具合でトーンが少しずつ変化する雲や川面は絶好のモチーフとなった。トーン重視の作風は本作の描かれた1640年代に至って円熟を見せている。
The Halt Before the Inn
ウィルム・デ・ヘゥスは17世紀オランダの画家ヤン・ボト(1615頃—1652)の弟子であったと考えられており、師の作風を忠実に守った画家である。本作に描かれた構図や主題を理解するためには、ヤン・ボトの様式を解読することが必要であろう。ヤン・ボトはイタリア、ローマ平原の空想的な、または現実の景観を背景として描いた一群のオランダ人画家のリーダーで、その画面上には牛を追う農夫や、夕陽に映えるローマの廃墟を眺める旅人が登場する。本作は、このボトの描く風景の生き写しで、樹木、植物、岩、急流、その上に架かる橋、山道を往く旅人(ここでは赤ん坊を抱いた若い母親がロバに乗り、その傍らをその夫と覚しき男性が歩いている)、牛と山羊を追う牧童たち、遠くの廃墟など、画面に登場すべき〈要素〉がすべて盛り込まれている。ここにはアルプス以北の国々の画家たちが理想とした、南の国イタリアの明るい陽光と牧歌的な詩情あふれる風景への憧憬が託されているのである。
17世紀のオランダで、イタリア的な風景画が流行した要因の一つに、オランダではまず見ることができない強い陽気な日射しと、詩情溢れる広大な田園での生活に対する人々の憧憬を挙げることができよう。古典の英雄や歴史物語に胸を踊らせていたとは判じがたく、それは画中に神話・歴史上の登場人物が配されず、物語性が含まれないことからも証明される。17世紀オランダの大都市に暮らす市民にとって、田舎での素朴な生活を夢想させてくれる風景画は、ほんの束の間でも心の清涼剤になったことであろう。
Piazza San Marco, Venice
本作は、当時ローマの有名な観光地として知られていた2つの広場を対で描いた2作のうちの1点である。(もう一方の絵は「クィリナーレ宮殿の広場」を描いた作品で、同じく東京富士美術館の所蔵)ナヴォーナ広場は、古代ローマ時代に競技場を造ったのが始まりで、8世紀頃には広場となったようである。噴水を配した壮大な空間はバロック時代の「都市を一種の劇場と見なす」思考が窺えるが、広場では折しも街頭演劇の最中で、まさしく広場の「劇場性」を象徴するかのような多重の意味をもつ描写となっている。
カナレットの作品はしばしば弟子たちの手で模写されており、本作もジェームズが師カナレットの作品に基づいて描いたものと推測される。ここに描かれた眺めは、ヴェネツィアの大運河の入口にあたるスキアヴォーニ埠頭から、西側の方向すなわちヴェネツィアの中心部サンマルコ広場の方角を望んでいる。水面が光に反射するさま、丹念に描き込まれた船や街並み、ゆったりとした筆遣いによる空との対比などは、いかにもカナレットの技術を学んだ様子が見て取れるが、画面全体を覆う生硬さは残念ながら否定できない。
この作品では、広場にある実在の教会のかわりに、気紛れに今にも壊れそうな建物を描き込んでいる。こうした絵は「カプリッチョ」(奇想画)と呼ばれ、18世紀には、しばしば実在するものと空想上のものとを組み合わせた都市風景画を意味した。本作の舞台となった広場は実在したと思われるが、描かれたいくつかの要素は架空のものであろう。広場の向こう側には、廃墟になりかけた建物があり、その周辺には幾人かの人物が散在し、左手奥に目を向けると、潟になっており、船が停泊しているという不思議な風景である。
I-5. 静物画─動かぬ生命、死せる自然
静物画は、英語ではStill life(元々はオランダ語のStillevenに由来)、フランス語ではNature morteという。直訳すれば、前者は「静止した生命」、後者は「死んだ自然」だが、life(生命)もnature(自然)も、この場合はむしろ「生き生きとした」「自然に即した」という意味で、Still lifeもNature morteも、動かない物、命のない物を生き生きと写実的に描く、というニュアンスのようだ。いずれにしても、静物画は、構成や構図を考え抜いた画家が、動かない物を自分の思うように並べて、正確に描写する絵画のことである。描かれる「物」は、日々の生活に密着したものがほとんどで、果物や野菜、狩猟の獲物や海産物といった自然からの収穫物や、皿や酒杯などの器や、楽器や書物などの人工物もとりあげられる。花の絵はそれだけで一大ジャンルといえるほど、人気が高い。
静物的な要素は古代ギリシア・ローマの時代から描かれていたが、時代が下ると、歴史画や肖像画において、題材となっている物語や、登場人物やモデルの行いや性格などをより分かりやすく伝えるために、様々な「添え物」が描き込まれた。とりわけフランドルの画家たちは、歴史画の中の調度品や花などを描写することに熱心だった。そして、たとえばバラが愛や聖母マリアを象徴するなど、克明に描かれた「物」にはしばしば象徴的な「意味」が託された。そのような、背景の一部でしかなかった細々とした「脇役」、すなわち物いわぬ「静物」が主役に踊り出るのは、16世紀末から17世紀にかけてのことである。
17世紀、静物画の中心地はオランダとフランドルだった。オランダの静物画は、徹底したリアリズムによる目を見張るような質感描写、抑えた色彩、理知的な構図といった特徴があり、やや単純化していえばプロテスタントらしい禁欲的な静物画ということになる。一方で、カトリック文化圏のフランドルでは、モティーフが装飾的に配置された、色彩豊かで豪華な静物画が好まれた。
静物画は、身の回りの現実世界と直接つながる一方で、しばしばヴァニタス(虚栄、空虚、はかなさの意)をテーマとし、地上の存在全てが持つはかなさや移ろいやすさが表された。髑髏や時計、消えかかった蝋燭の火などによって、やがては訪れる死を象徴するが(fig. 8)、一見華やかな花の絵でヴァニタスが表されることもある。たとえば、花瓶からあふれんばかりに盛られた、高価な園芸種の花々は文字通りの「目の保養」だが、盛りを過ぎた花や虫食いの葉、ハエなどの虫がさりげなく描き込まれていることがあり、これらは死ぬべき存在のはかなさを表している(なお、蝶は人間の魂、あるいは復活や救済の象徴と読み解かれる。cat.no. 43)。高価で貴重な花自体が、富と虚栄の象徴という面があるし、そもそも花の命は短く、はかないものである。静物は「物いわぬ」ものながら、しばしばその身に意味を帯び、我々に何かを語りかけているのである。
19世紀半ば以降、静物画は再び盛んに描かれるようになるが、象徴的な「意味」は失われ、もっぱら日常的な「現実」に対する関心によるものか、あるいは色彩やフォルム、構図や構成といった造形的な実験の場となっていく。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
ファンタン=ラトゥールは、印象派の画家と親しく交遊のあった人物だったが、印象派の運動には参加せず、独自のアカデミックな道を歩んだ画家である。その素地は、若い頃よりルーヴルに通い、16世紀ヴェネツィア派や17世紀フランドルの巨匠たちの作品の模写をした絵画体験から生まれている。本作にみられるように彼の表現は、暗色による渋い背景に、堅固で明快な構成をもつ写実的な造形が特徴である。
Tumultuous Changes in Modern and Contemporary Art—World of Art without Rules
第II部で紹介するのは、産業革命と市民革命、資本主義社会の誕生により幕を開けた「近代」における絵画である。オランダでは他国に先がけて、既に17世紀の段階で市民社会が成立し、歴史画以外の多彩な絵画ジャンルが花開いたことは、第I部で見た通りである。フランスにおいても、1789年に始まるフランス革命と19世紀前半の産業革命を経て、近代的な市民社会と資本主義社会が誕生し、社会の構造が急激に変化していく中で、絵画をとりまく既存の価値観も大きく揺らいでいく。第II部では、ジャンルの序列をはじめ、絵画を縛っていた様々な約束事や枠組みに挑戦するようにして生まれてくる「近代絵画」を、その中心地となったフランスの絵画を中心に、描かれた「内容」と「造形」の両面から読み解いていく。
現代では、アカデミズム、あるいはアカデミックな絵画といった場合、決してほめ言葉ではなく、暗に「技術的には上手いかもしれないが、伝統にしがみついて、創造性や独創性に欠ける」と貶しているようなものである。しかしながら、18世紀から少なくとも19世紀前半くらいまでのフランス美術界では、このアカデミズムこそが文字通りの王道であった。国立の美術教育機関である絵画彫刻アカデミー(のちの美術アカデミー)は、古代ギリシア美術やルネサンスのラファエロ(1483–1520)を手本とする古典主義的な理想美を至上とし、アカデミズムの牙城であり権威そのものであった。そして、アカデミーの管轄下で始まり、やがて国家主催の大公募展となった「サロン」は、当時の画家が成功を手に入れるための最も重要な場であった。画家として身を立てるためのほぼ唯一の手段がこのサロンに入選することで、審査を行うのは歴史画を重視する保守的なアカデミー会員だったのである。
18世紀後半から19世紀前半にかけて、文学や音楽、美術などあらゆる芸術分野においてヨーロッパを席巻したロマン主義は、アカデミックな伝統的価値観を根本的に揺るがした。ロマン主義は、フランスの美術界においては、アカデミズムと結びついた新古典主義に対する反発として現れ、古典的な「誰が見ても美しいと思う、絶対的な理想美」に反旗をひるがえしたのである。重視されたのは画家のそれぞれの感受性や感情から生まれる表現であり、客観的な知性や理性よりも個人の情緒や想像力が尊重された。結果、美の価値は、古典美術に範を求めた永遠不変のものではなく、それぞれの画家の主観にもとづくものとして、相対化されていくことになる。新古典主義=アカデミズムの美の基準は普遍的かつ「公的」な性格を持っていたが、古典的な規範を逸脱しようとするロマン主義によって、画家という「個」の数だけ美が並び立ち、「美の多様性」が生まれることになったのである。これ以降、古典という「伝統」や「過去」ではなく、「新しさ」を拠り所とする「独創性」こそが、画家の、あるいは芸術作品の、絶対的な存在理由となる。なお、近代美術を「前衛美術」(アヴァンギャルド)と表現したりもするが、「前衛」とは元々は戦争の最前線にいる部隊を指す言葉である。ロマン主義以降、旧来の約束事や規範が意味を失っていく中で、既成概念やそれまでの枠組みをくつがえし、常に「新しさ」という「最先端」を求めるようになる近代美術の性格を端的に表した言葉である。
民主主義や平等の理念が普及し、美術を享受する層も“民主化”していくと、19世紀半ば以降は、サロンに落選した作品を集めた「落選者展」が開かれたり、サロンや既存の権威に対抗して個展を開く画家や、印象派をはじめ独自で展覧会を開く画家グループが現れるなど、作品発表をめぐる状況は多様化し、圧倒的だったサロンの影響力は徐々に低下していく。また、社会の実権を握った中産階級(ブルジョワジー)の好みにより、風俗画や風景画、静物画といった平易な作品の需要が高くなるにつれ、強固だった歴史画の優位も崩れていき、ジャンルの序列も横並びになっていった。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
II-1. 「物語」の変質
II-1-1. 物語/現実
19世紀に入ると、それまで正統的な主題として神話や聖書の物語、古代史などをとり上げて大画面に表してきた「歴史画」も変質していく(なお、大画面というのは歴史画の重要なポイントで、「国家」をパトロンとするアカデミーが推奨する歴史画は、国の威信を表すためにも、物理的に大きい必要があった)。19世紀前半には、古典や宗教的な題材だけではなく、中世の歴史や文学、そして同時代の「事件」や「戦争」なども歴史画の主題として扱われるようなる(cat.nos. 46, 47)。同時代の事件や出来事を描くこと、つまり絵画が現代の写真のように「時事的な出来事を記録すること」を、我々はごく当たり前のことのように思ってしまうが、実は19世紀以降に一般的になったことなのである。また、18世紀末以降、ギリシアのオスマン帝国からの独立運動や、ナポレオン(1769–1821)のエジプト遠征などをきっかけとして、同時代の中近東(イスラム文化圏)への関心の高まりを反映し、オリエンタリスム(東方趣味)が流行する。このオリエンタリスムは、歴史画に限らず様々なジャンルの絵画に現れ(cat.nos. 50, 51)、長く20世紀まで続くことになる。
他方、近代化が進み市民の生活様式が急激に変化する中で、歴史的な出来事や、神話や文学などの非日常の物語ではなく、同時代の現実や社会に目を向ける画家が現れる。19世紀半ばに、ロマン主義に反発する形でおこるレアリスムは、「写実主義」と訳すこともあるが、「見えているものを本物そっくりに描く」という技術的なことよりもむしろ、身近な現実や実際の社会を理想化せずに描く、「現実主義」的な姿勢を表している。レアリスムの中心画家クールベ(1819–1877)は、田舎の庶民の埋葬式という風俗画的な題材を、あえて“高貴な”歴史画が描かれるはずの大画面に描いてサロンに出品した(fig. 9)。この盛大な“ルール違反”は、アカデミックな歴史画という権威に対する反逆であり、大きな物議をかもしたのである。同時代の現実をとらえようとする姿勢は、次の世代の印象派の画家たちにも明らかで、彼らはしばしば、近代都市の生活や行楽地でのレジャー、流行のファッションなどをテーマにとり上げている(cat.no. 56)。
風景画に目を向けると、19世紀前半から半ばにかけて、ノルマンディー地方やバルビゾン村に住んだ画家たちによって、それまで主流だった理想化された神話的風景ではなく、海岸や都市近郊の田園、農村など現実の風景に即した風景画が描かれ(cat.nos. 52–54)、目まぐるしく発展する都市の喧騒に疲れた都会人の癒しとして受け入れられた。19世紀にはチューブ入りの絵の具が開発されたことにより、屋外で制作するという新しいスタイルが普及し、画家は実際の風景を前に、太陽の下で光の明暗をとらえるようになった(cat.nos. 54, 66)。戸外制作は後に印象派の画家たちに引き継がれ、季節や時間帯ごとの光の変化や水面の揺らぎ、雲や蒸気といった形の定まらないものの、一瞬の「現象」を画面にとどめようとする試みに発展していく(cat.no. 78)。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
Helvoetsluys; the City of Utrecht, 64, Going to Sea
Judith
ドラクロワが描いた東方的主題の作品は、他の追随を許さぬ独創的な成果として知られている。東方趣味はナポレオンがエジプト遠征を行ってからヨーロッパに広まり、19世紀前半にロマン主義絵画のテーマと相俟って流行した。チェルケス人はヨーロッパとアジアの境といわれるカフカス山脈の麓、北カフカス地方の黒海沿岸に住む民族で、中世には奴隷として多くの人々がイスラム諸国へ流出した。マムルーク(奴隷軍人)として重用され、エジプトのマムルーク王朝を建てたことは有名である。本作は、よどみのない自由で流れるような筆致、空のピンクとブルーの色調、小画面ながら宝石のような色彩の輝きは、画家の後期に見られる様式上の特徴をよく示している。この絵は以前「マムルーク騎兵」と呼ばれ、確たる論証もなしに1828年から1835年頃の間に描かれたものとされていた。しかしながら、一般的にマムルークは回教徒のターバンを着けているものである。実際、ドラクロワ、ジェリコー、グロ、カルル・ヴェルネなどの初期作品にはそのような姿で描かれている。また、チェルケス人としての人物の特徴は、たしかに描写に反映されているのだが、空想の要素も衣服に絡み付いていて、確信をもってチェルケス人と見なすことにも不安が残る。そのような意味で、本作はドラクロワが1832年前半に北アフリカ諸国を随行訪問した取材で得た映像の記憶をたぐりながら創作をした図なのであろうという推測が成り立つ。ドラクロワの晩年にあっては、この作品の様式に見るように、東方的な衣装を描く際、そこに独自の芸術的創造を付け加えることに心を奪われていたからである。本作と同じ構図で1858年4月9日の日付が記されている素描があるが、これは油彩画を描く前の準備段階で作られたものと見なされ、本作が1858年頃の制作であることの有力な証拠となっている。
陶磁器の町セーヴルで磁器職人の子に生まれたトロワイヨンは、最初は絵付職人として磁器工場で働いていたが、その後画家を志し独学で絵を学び、さらに風景画家としての基本を友人の画家ジュール・デュプレとナルシス・ディアズに教わった。1840年代のはじめ、パリ近郊フォンテーヌブローの森で制作していたトロワイヨンは、やがてバルビゾンでテオドール・ルソーやポール・ユエらとも交友を結ぶようになり、バルビゾンの画家たちの絵画観に共鳴してゆく。風景画家として実力を磨くなか、1847年、オランダでの1年間にわたる滞在は、彼の絵画の方向性を決定する重要な転機となった。トロワイヨンはオランダの画家パウルス・ポッテルやアルベルト・カイプの作品に触れ、大きな感化を受け、以後「動物画」の世界に独自の画境を拓いてゆくようになる。帰国後、彼は風景の中に家畜、特に牛の群れや牛のいる風景を主に描き、動物画家としての地歩を固めた。本作には風景画家と動物画家の両方の特徴がよく出ている。地平線の高さを画面のほぼ中央に定め、画家は眼の高さをそれと同じにして画架を立てている。近景の牛の群れを主役に大きく扱い、遠近法の消失点をその向こうの人物付近に置いて、画面の中央の彼方へと視線が届くような構図となっている。先頭の牛二頭が左方向を向いているのは、畜舎がそちらの方にあるのか、また牛の姿を斜め横から美しく描くためにそうしたのか、画面からは定かではない。午後の放牧から帰る牛や羊の群れに、夕暮れの抒情を託して描いた動物画家の典型的な小品のひとつである。
1849年春にパリからバルビゾン村に移り住んだミレーは、1867年のサロンに本作と同じ題名の《鵞鳥番の少女》という作品を出品した。同年に友人のサンスィエに宛てた手紙で彼は、この出品作について「私は鵞鳥の鳴声が画面一杯に響き渡るように描きたい。ああ、生命よ!みんな一緒の生命よ!」と記している。本作は友人サンスィエの旧蔵品で、前出のサロン出品作と同時期に同じ場所で描かれたものらしく、「鵞鳥の番をする少女」をテーマにしたシリーズの中核をなす作品。下描きの線が透けるほど油絵具を薄く塗り、まるで水彩画のような効果で夏の日ざしに照らされた水辺の雰囲気をよく表している。この鵞鳥番の少女というテーマは、大人の労働を描いたミレーの宗教的ともいえる作品群とは趣きを異にし、純粋に牧歌的な世界を表している。農民生活と自然環境の調和を見事に描いた本作は、円熟したミレー晩年の傑作である。
ドービニーは、普仏戦争を避けて家族とともにヴィレールヴィルおよびロンドンへ旅行をしている。この絵もその旅行中に描かれたものであろう。ヴィレールヴィルはノルマンディーの小さな町で、セーヌ川の河口に当たる。浜辺の風景はドービニーの主要なモチーフで、絶えず水のそばから霊感を引き出していた彼独自の世界である。干潮時に、牡蠣や貝を採る女たちの姿を点景として、磯の香漂う抒情を描いた大作。
クールベの海景は、1865年から1873年にかけての9年間に集中している。この時期、彼は英仏海峡に面した美しいノルマンディーの海岸を訪れ、静かな海、荒れ狂う海、船のある浜辺、絶壁が海に迫り出す特異な景観で知られるエトルタの断崖などを連作風に描いている。とくに1869年のエトルタ滞在中には、生涯で最も多くの海景画を残した。その数はカタログレゾネに所収の作品だけでもおよそ50点以上にのぼる。クールベは、1871年に国会議員、パリ市会議員の選挙で続けて落選。その後、パリ・コミューンの際にサント=ペラジー監獄に入牢。しかし病気のため手術をうける。1873年にスイスに亡命するまでの間、生まれ故郷のオルナンですごすが、体調は思わしくなかった。こうした困難な時期に、クールベにとって絵画上の最良のモチーフとなったのは、ノルマンディーで見た重厚な迫力で押し寄せてくる荒れた嵐の海であった。本作は、友人の手紙によると、クールベがこのオルナンに滞在していた1872年から73年にかけて制作した一連の海景画のうちの一枚だと推測される。オルナンはスイス国境に近い地方都市で、海には全く縁がないところであるが、1869年のエトルタでの集中的な制作のおかげで、以後数年間は海景をしばしば再創造することができたのであろう。動感あふれる大波の塊は彼の絶好のテーマで、波の内側に秘められた自然界の力強さを、パレットナイフを駆使して重量感豊かに描いている。この「波」の連作は、有名な「鹿」の連作と並んでクールベ絵画の代名詞ともいえるものである。
本作には、ルノワールが好んだ〈赤い色〉〈美しい服〉〈若い女性の肌〉〈穏やかさ〉といった要素を見つけることができる。また黄色い帽子も大切な脇役で、ルノワールの絵画にしばしば登場するポイントのひとつとなっている。この絵が描かれたと思われる1890年代前半は、ルノワールがいわゆるアングル風の「古典の時代」から「真珠色の時代」と呼ばれる新しい画風を確立しつつあった時期にあたる。彼はいよいよ晩年の様式の完成に向かって、新たな一歩を踏み出していく。1880年代の「古典の時代」での厳格な線による写実主義はすでに影をひそめ、本作にも見る事ができるように、輪郭線は流れ去り、衣服は震えるような色調を帯び、人物は背景とともに光の中に溶け込むかのようである。そこには、柔らかで、穏やかな眼差しの、まるで果実のような典型的な〈ルノワールの女〉がある。人物と背景は、互いに影響しあい、光の中で融合するかのようで、遠近法は失われ、空間は平面に近づいている。色彩はモノの固有色にしばられずに、色そのものの美しさが画家のテーマとなっている。モノの形によってではなく、色彩の輝きによって見る者に働きかける。ルノワールの作品に見られるこれらの特徴は、ジャン・クレイが『印象派』の中で分析したように、印象派の画家が伝統的な絵画法を解体して獲得した全く新しい視覚の喜び、ともいうべきものである。なおこの作品は、ベルネーム=ジュンヌ画廊、デュラン=リュエル画廊というルノワール作品を取り扱った最大手の画商から世に出た経歴が残っている。
オランダに生まれたゴッホは、ブリュッセルで素描の基礎を学び、1881年、28歳の時、牧師であった父の任地であったオランダ南部のエッテンヘ赴く。この年の終わり、ゴッホは画家になることに反対だった父との衝突からハーグへ移り、ハーグ派の画家たちと出会っている。オランダ時代のゴッホの作品は、ハーグ派の画家たちや17世紀のオランダの巨匠たちの作品の影響を受け、全体的に落ち着いた暗い色調で描かれている。1883年、30歳の時、ハーグを起ったゴッホはやはり父が赴任していたオランダ南部のニューネンへ移る。この頃より、ゴッホは油彩画に本格的に取り組み、農民や職人、ニューネン近郊の風景を精力的に描いている。ニューネン時代は、農民画家としてのゴッホが形成されていった重要な時期で、オランダ時代のゴッホの集大成ともいうべき《馬鈴薯を食べる人たち》(1885年)が描かれている。本作は、《馬鈴薯を食べる人たち》が描かれた翌月の、1885年の6月に描かれた作品。ゴッホは弟テオへ宛てた手紙の中で、「今は、ここ(ニューネン)から2時間のところで仕事をしているので、全ての時間を有する。私が求めているのは、あといくつかのきれいな荒野の農家。既に4つ、前回送った大きさが2点と、小さいのがいくつかある。」と述べており、この作品は、この手紙の中で「いくつか」と言及されている作品。農民が暮らす場所を描くことは、ミレーを崇拝するゴッホにとって、農民の生活の厳しさや、自然との深い結びつきを表現する重要なモチーフであった。ゴッホは愛情を込め、農民の家を、雀より小さな野鳥のミソサザイの巣に喩え「農民の巣」と呼んでいる。その力強いタッチと落ち着いた色調は、大地に根ざして生きる農民のたくましさと、自然の持つ包容力を描きだしている。同じ時期に描かれた、同じモチーフの作品が、いくつも残っており、このモチーフがゴッホにとって、重要なものであったことが伺える。
婦人はヴュイヤールの姉マリーで、2人の子どもはその娘と息子である。マリーはヴュイヤールの生涯の親友であり画家のケル=グザヴィエ・ルーセルの妻であったが、ヴュイヤールはルーセルの田舎の邸宅をしばしば訪れ、彼ら家族の絵を描いた。本作でマリーは茶色を主とした簡素なシルエットのドレスに身を包み、姪のアネットは白い帽子、赤いストライプの服を身につけている。ヴュイヤールにとってアネットはとりわけお気に入りのモデルで、他の作品にも同様の出で立ちで描かれている。家族のスナップ写真のアルバムをめくるような、日常生活の親密で温和なモチーフを描いたヴュイヤールらしいショットである。
アポリネールやピカソとの出会いを通じて相次ぐ20世紀の絵画革新の波を体験したローランサンであったが、その作風は甘美で、繊細で、叙情的な彼女独自の世界を創りあげている。真珠の首飾りが描かれるようになるのは1929年以降のことで、バラの花を持つポーズもお馴染のもの。ローランサンの晩年は、からだも未成熟な美少女をアトリエに侍らせ、薄い布をまとわせて絵を描く日々であったという。詩人の言葉を借りれば、それは“女性的なるもの”による“人工楽園”であった。
イタリアのリヴォルノに生まれたモディリアーニは、1906年1月、絵を描くためにパリに出た。その翌年の11月、本作のモデルとなっている人物───医師で美術愛好家のポール・アレクサンドル博士と知り合う。モディリアーニの作品に関心をもった最初の人である。彼は1914年に第一次世界大戦に出征を余儀なくされるまで、モディリアーニのパトロンであり、この若い画家を激励し、その作品を買い続けた。フランス人で知識豊かな美術愛好家であったポール・アレクサンドルは、無名の芸術家を公衆、画商、収集家に紹介するチャンスのある公的機関にもよく通じており、さまざまな面でモディリアーニを支援し、その芸術活動を支えた。1908年になると、モディリアーニはポール博士とその弟ジャンが創設した芸術家コロニーにしばしば通うようになる。1909年には同博士の3点の肖像画が描かれたが、その中では本作が最も完成度が高く、素晴らしい出来映えを示している。同年に描かれた《乗馬服の女》(ニューヨーク、個人蔵)と同じように、左手を腰にあてたポーズの4分の3分身像となっている。この博士の肖像画シリーズは、ある意味では「芸術のパトロンが画家へ出資することによって彼の肖像画が描かれる」というルネサンス以来のイタリア絵画の伝統を思い起こさせる。ちょうどこの絵が描かれた頃、モディリアーニは彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと友情を結び、以後の数年間は彫刻に没頭することになる。しかし絵画を放棄したわけではなく、1914年以降の細長く平面的にデフォルメされたいわゆるモディリアーニ様式に繋がってゆく。本作は若いモディリアーニの瑞々しい感覚が漂う初期の秀作といえよう。
II-1-2. 幻想の世界へ
レアリスムや印象派は、発展する近代社会や近代的な合理精神を背景に、目の前の現実をとらえようとする意識のもと展開したが、一方では、科学技術や文明の進歩を謳歌する近代的な価値観からこぼれたものを拾おうとする芸術家が現れてくる。現実の向こうにあるもの、たとえば、抑圧された精神や無意識、夢や幻想などを表現しようとする傾向は、レアリスム以前のロマン主義にも見られるが、19世紀末の象徴主義に、より顕著に現れてくる。20世紀に入ると、人間の根源的な孤独や不安、都市の神秘などを表した形而上絵画から、人間の意識下にひそむ非合理的なイメージを表そうとするシュルレアリスムへと展開していく(cat.nos. 64, 65)。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
「サーカス」は彼の絵の重要なテーマの一つ。大勢の観衆が見守るなか、舞台では白馬に乗った女曲馬師がピエロのもつ大きな輪の前にたち、その向こうには空中ブランコをする女曲芸師や鶏を持った男、ロバの頭をした人物の姿も見える。澄んだブルーをバックに、黄色や赤などの色彩が散りばめられた画面はまるで子どもの夢の中の出来事のようである。自己の内面世界を詩情に満ちた幻想的な画面として作品化したシャガールの不思議な美しさに満ちた作品である。
本作の主題は、ホメロスによって謳われたトロイア戦争の物語の一場面。トロイアの勇将ヘクトルは、愛する妻のアンドロマケに別れを告げ、戦場に赴く。ここでは二人はキリコが偏愛を寄せた無機的なマネキンに変えられ、背景には冷たい構築物が特異な遠近法によって描かれる。このような彼の形而上絵画に現れる街路の映像に霊感を与えたのは、トリノのア─ケ─ド街だったという。イタリアの街かどの憂鬱を描いたキリコの作品は、20世紀が若かった時代にシュルレアリスムの風を受けて生まれた特異な産物であった。
この作品に描かれた人物は、特徴のない既成の服を着せられ、顔を消されることによって、人間でありながら人間そのものから引き離されている。同じように宙に浮かぶリンゴもその個性を消されている。無性格にされた二つの物体は、一見互いに脈絡をもたずに、絵のなかでこそ可能な出会いを果たす。シュルレアリスムの、そしてマグリットの手法の典型である「日常の中ではあり得ない出会い」。そこには、通常の意識を突き抜け、驚きの入り混ざった超現実的な感覚が引き起こされる。
II-2. 造形の革新
II-2-1. 光と色彩の饗宴
アカデミックな絵画においては、感覚的な色彩よりも理知的な素描が重視され、筆の痕を残さずに絵画の表面を鏡のようになめらかに仕上げることが良しとされた(cat.no. 30)。そして、遠近法や陰影表現によって奥行きと立体感を感じさせること、つまりはカンヴァスという二次元平面に三次元的なイリュージョン(幻影)を生みだすこと、それがルネサンス以来の「上手い絵」の条件であった。表面をツルツルに仕上げるのは、物理的な筆痕が残っていると、目の前にあるものが単なる「絵具」という「物質」に過ぎないという現実を見る人に突きつけてしまい、画家がせっかく構築した三次元のイリュージョンがそこで破綻しかねないからである。
アカデミズムが否定した筆痕や筆触は、近代絵画においてダイレクトに色彩と結びついていく。ドラクロワ(1798–1863)は、北アフリカで目にした明るい光と鮮烈な色彩を色彩理論とともに消化し、補色を意識した輝かしい色彩表現を自己のものとした。そしてそれを活かしたのは、筆の痕が残るのも辞さない、自由で力強い筆触だった(cat.no. 51)。19世紀後半、陽の光が注ぐ屋外で制作を行った印象派の画家たちは、画面の明るさを損なわず、また光と色彩の微妙な変化をとらえるために、色が濁らないように絵具をなるべく混ぜない方法を考え出した。補色の効果も狙いながら、原色に近い明るい色彩の筆触を並べて置いていく「筆触分割」という技法である(cat.nos. 67–70)。筆の痕がカンヴァスに生々しく残り、近くで見ると絵具のシミや斑点にしか見えないものが、ある程度離れて見ると驚くほどリアルに見えてくる。このような印象派の作品は、表面を鏡のように仕上げるアカデミックな絵画とは、まさに対極に位置していた。続く新印象派の画家たちは、印象派の画家たちが経験的、感覚的に行っていた筆触分割を、科学的な色彩論や光学理論を突き詰めて、印象派の筆触よりもさらに細かな「点描」を用いて、緻密な画面を作り上げた(cat.no. 67、p. 188参照)。印象派以降、色彩は筆触とともに自立の度合いを高めながら、時には平面的な色面となり、また時には画家の感情と結びついて奔放さを増し、20世紀冒頭のフォーヴィスムにおける大胆で激しい色彩表現までつながっていく。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
Autumn, Morning, Cloudy, Eragny
ルーヴシエンヌはパリの西郊約25キロの静かな村で、以前はのどかな風景が広がり、風景画を描くには絶好の場所であったが、現在はパリへ通勤をする人たちのベッドタウンに変わりつつあるようだ。印象派の画家たちは、1874年の第1回印象派展が始まる前の数年間、この地によく画架を立てて制作をした。おそらく最も早くここを訪れた印象派の画家はピサロで、1868年秋にポントワーズからルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までと、その後の1871〜72年の間ここに住んだ。ルノワールは母親が1868年にこの近くに越してきたので、その後の数年間ここで過ごしたことがある。1869年、モネは愛人カミーユと息子を連れてブージヴァルに移り、この地域で制作をした。ルノワールとモネが一緒に「ラ・グルヌイエール」で描くのは、この年の初秋のことであろう。しかし、ルーヴシエンヌに最も結びつきが深い画家というとシスレーである。シスレーは1869年の冬に彼らを訪問し、翌70年の夏頃にルーヴシエンヌに移り住んだ。それから1875年にマルリー=ル=ロワに転居するまで、1870年代の前半をこの地で過ごし、制作を行った。この時期のルーヴシエンヌ風景は柔らかな印象主義的手法で描かれ、緑豊かで起伏と変化に富んだこの土地の印象を穏やかなタッチで捉えている。またルーヴシエンヌを離れた後もしばしば訪れ、季節感にあふれる作品を残している。本作に描かれた場所は、ヴェルサイユ街道からマルリー=ル=ロワの「水場」の方向に降りてゆく道か、あるいは逆にマルリー=ル=ロワの丘の方からルーヴシエンヌの方向を望んだ眺めか、定かではないが、画面左側から右側の方向へゆるやかな傾斜面になっているようにも見える。右手にカーブする道の曲線は、この画面に重要な要素を与えており、近景に広がる牧草地で草を食む牛が三頭、画面の中心を形づくっている。その傍らの画面左手には大木が聳え、一人の女性が幹に寄りかかっている。ここには、シスレーの初期の作品に見られる特徴──樹木の葉、夏空と雲、空間の広がり、曲がり道、光と影など──が勢いよく表現されており、ヴァルール(画面の各部間の色彩の色相、明度、彩度の相関関係)の均整のとれた美しさを見ることができる。本作は1874年4月の第1回印象派展に出品された5点の風景画のうちの1点であった可能性がある。
1897年、シスレーは数ヵ月の間、南イングランドと南ウェールズを訪れ、カーディフ、ペナースの海岸を描いた。秋、現地で制作した25枚ほどの絵画を携えて戻ってきたが、本作はこの中に含まれていたと思われる。シスレーはこの頃すでに喉頭癌に冒されていたが、最後の生命力をふりしぼるように美しい海岸線をカンヴァスに描きとどめた。近景の人物はシスレーの家族であろうか。ラングランド湾は南ウェールズの港で、シスレーはこの海岸の波打ち際と岩場を淡々とした筆致で描いている。
1866年以降、4年続けてサロンに落選していたセザンヌは、30歳になった1869年、パリで後に妻となる年若いモデルのオルタンス・フィケと出会った。1872年には二人の間に長男ポールが誕生し、その年の夏、ピサロが移り住んだばかりのポントワーズへ家族とともに赴き、セザンヌは同地でピサロと一緒に制作に励むようになった。同年秋、セザンヌがしばらく滞在したオーヴェール・シュル・オワーズで、ピサロは自らの主治医であり、前衛絵画の熱心な蒐集家であった医師のガシェ博士にセザンヌを紹介した。これを機縁にガシェ博士は、セザンヌに自分の家族と一緒に住むように提案。こうした環境のなかで、セザンヌとピサロは画架を並べて制作し、田園的な主題への愛好、厚塗りの絵具と十分に描き込んだ画面を特徴とするポントワーズ派として知られる新しい様式を発展させた。このようにセザンヌは、ピサロの影響下にあって、それまでの文学的なテーマへの関心を放棄し、目に見える外界の自然を真摯に見つめるようになったのである。1873年にはオーヴェールに移り、その年の大半は同地で過ごして風景画の制作にいそしんだ。この時期に描いた《首吊りの家》《モデルヌ・オランピア》《オーヴェール風景》の3点は、翌1874年の第1回印象派展に出品されたが、全くの不評に終わった。しかし、セザンヌにとっては真に重要な画家としての出発点であった。《首吊りの家》と《モデルヌ・オランピア》は、初期セザンヌの記念碑的な作品として、今日オルセー美術館の壁面を飾っている。(もう1点の《オーヴェール風景》は、その絵柄の確証がなく、現在フィラデルフィア美術館所有の作品かワシントン・ナショナルギャラリー所有の作品ではないかと推測されている)いずれにせよ、セザンヌが1872年から74年にかけてポントワーズとオーヴェールに滞在した時期は、彼の画家としての胚胎期であったし、絵画上の師や援護者と出会ったことは、後の成長の決定的な要因となったことは間違いない。セザンヌにとって貴重な体験は、師ピサロの熟練した画法と、眼前に広がる自然に対して見せる謙虚さを学びとりながら、共に制作活動に従事できたことであろう。ガシェ博士によれば、セザンヌは一日に2回、写生に出かけたという。いわく「朝に1回、午後に1回、曇りの日、晴れの日、彼は死にもの狂いでカンヴァスに戦いを挑んだ。季節が流れ、年月がたち、1873年に描いた春の絵は、74年には雪景色に変わっていたのである」本作は、第1回印象派展の出品作ではないが、セザンヌが最初にオーヴェールに滞在した時期に制作されたものである。曲がった道、慎ましやかな住居、視点の高さなど、他の作品との共通性も多い。ここでセザンヌは、縦長の画面を用いて道と空を強調している。また、後のセザンヌ絵画の特徴ともなる「斜めの」「構成的な」筆触の萌芽も見られる。同じ頃に同じ場所を描いて、本作と類似した作品が2点オルセー美術館にある。《オーヴェールの村の道》と《オーヴェールのガシェ博士の家》で、切り取られた風景を捉える眼や画法は、本作と全く同じ系統のものであり、この時期に徹底して風景を描く訓練を重ねていたことが偲ばれる。ちなみに本作は、著名なアメリカ人蒐集家で、アメリカに印象派絵画を最初にもたらした功労者であるハヴメイヤー夫妻が、友人の画家メアリー・カサットとともに1901年、パリのヴォラール画廊で見つけ購入したものとされている。いわばアメリカに渡ったセザンヌ作品の第一号という歴史的な過去を持っている作品なのである。
ポン=タヴェンは、ケルト民族の伝統を継承した文化や風習を色濃く残した、ブルターニュ地方の小さな村で、1860年代以降、多くの画家たちがこの場所に魅了されていた。1886年に初めてこの村を訪れたゴーガンもまたこの村の魅力に惹かれ、86年から94年の間に4度滞在している。本作は、ゴーガンの2度目のポン=タヴェン滞在時に描かれており、印象派の要素を残しつつも、より革新的な構図と色彩への変化を見て取ることができる。画面右を上下に貫く木の幹が印象的で、歌川広重の浮世絵を彷彿とさせる。本作の構図にとって重要な構成要素ともなっているこの木は、じつは1938年以降の所有者によって塗りつぶされてしまっていた。近年修復によって元の姿を取り戻しているが、この木を消すことにどのような意味があったのか、改変者の意図は不明である。描かれている場所では、19世紀末から20世紀初頭にかけて川の浚渫が行われていた。右奥には赤い茅葺き屋根の建物があるが、その前の道には川の浚渫で出た土砂が積まれているのがわかる。また、画面左にある丘も山肌があらわになっており、道路として造成中であることがわかる。現在このあたりはボートを係留する船着場として利用されている。この絵を描いた年の10月、ゴーガンはゴッホの誘いをうけてアルルを訪れ、ゴッホとの共同生活を行う。二人の共同生活は2ヶ月で悲劇的な終わりを迎えるが、やがてゴーガンは、目に見える世界を描写する印象派のスタイルを脱却して、人間の原初の姿にやどる精神的な実在を、単純化された色彩とフォルムの調和によって描き出す独自の様式を創造していく。
フランスの古都トゥールーズで家具職人の息子として生まれたマルタンは、地元の美術学校で学んだあと奨学金を得てパリに出て、1879年にジャン・ポール・ローランス(1838-1921)のアトリエに入った。学生の個性を重視するローランスのもとでは、中村不折(1866-1943)といったパリに留学した日本人洋画家たちが指導を受けたことでも知られる。ローランスのもとで学んだマルタンは、4年後にサロンで一等賞を獲得し、さらにその2年後にはイタリア旅行の奨学金を得るなどその才能を伸ばした。もともとは古典主義的な作品を描いていたが、友人のアマン・ジャンやローランを通してスーラの新印象主義の技法を取り入れるようになり、晩年に向かうにつれて、その細かい筆致の色彩は冴えわたった。晩年、フランス南部の小さな町ラバスティド・デュ・ヴェールに移り住んだマルタンは、町が見渡せる小高い丘に大きな邸宅を構え、美しい花々が咲き香る自宅の庭園やそこから望む自然の美しい風景を描いている。本作に描かれているのも、晩年彼が好んで描いた自宅の庭である。手入れが行き届いた庭には、赤やピンク、白など色とりどりの花々が咲き誇っている。暖かな陽光が草花を包み込んで淡い輝きを放っている。
緑濃い木々の間を縫って差し込む木漏れ日が、点描による美しいタッチで詩情豊かに描かれている。柔らかな光線の振動、微かな空気のゆらめきを、夏の日のひとときの印象として見事に捉えた名画である。白布の上の果物、パン、ワインなどの小道具が、背景の木陰の大道具とともに《草上の昼食》のシーンを想起させる。手前の枝に掛けられた帽子や放り出されたバラの花は、若い女の匂いを漂わせている。人影はないが、人の気配は明瞭である。
陽が暮れ落ちて、夜のしじまを待つばかりの街角の小径。霧のヴェールに包まれているかのような乳白色の静寂。深まりゆく闇の中で、室内に点された灯がほのかな光の効果を生んで印象的である。また淡い紫色と黄色の補色関係にある色彩の組み合わせは、点描による色彩の調律の美しさとともに、この作品を更に魅惑的なものにしている。人物はどこにも描かれていないが、人の気配を感じさせる手法は、ル・シダネルの特徴でもある。この絵の舞台となったのは、画家が愛したパリ北方の小さな町ジェルブロワで、ここで彼は、この街並みがもつ古風な情緒を美しく描き出している。作者は夕方の風景を描くときの心情について、こう語っている。「私はよくあなたの注意を黄昏どきに向けさせた。そしてあなたは、私がどうして何度も黄昏に魅了されるのか、訊ねた。わざと黄昏を選んだのだろうか。または、内面の感情に流されない人でさえ突然感じる音楽的共鳴のようなもの、または感情的な感覚のようなものにとらわれていたためであろうか」(ヤン・ファリノー・ル・シダネル、レミー・ル・シダネル『ル・シダネルー絵画・版画作品集』660ページ)ル・シダネルは、1894年にサロンに初出品し、その後サロン・ナショナルや1900年のパリ万国博覧会に出品した。印象派や新印象派の影響を受けながら、どこか暗い霧に包まれたような静謐な風景や室内を描いた。本作において見られるように、点描画法を駆使した作風には、印象派、新印象派の新技法の影響が顕著である。なおこの作品は、1929年、パリのジョルジュ・プティ画廊で開催された個展に出品された。
ユトリロはエコール・ド・パリの画家たちの中にあって、マリー・ローランサンとともに、ほとんど唯一の純粋なフランス人であった。他のエコール・ド・パリの画家はモンパルナスのカフェを中心に活動したが、ユトリロの活動拠点はモンマルトルの丘であった。彼は精神病院を転々とする重症のアルコール中毒患者で、1917年に母の画家シュザンヌ・ヴァラドンに「あなたの席はルーヴルにありますが、僕の席は病院にあります。僕は16歳のとき人生を投げ出したので、今となっては社会に馴染むには遅すぎます」と苦しい胸のうちを告白している。もっとも入院先の病院の医師の勧めで絵筆をとったのが、画家ユトリロの誕生であった。彼の作風は一般的に以下の4つの時期に分類されている。1903—06年の初期の時代、1906—07年の印象派時代、1907—13年の「白の時代」、1913年以降の「色彩の時代」がそれである。特に本作が描かれた1910年代後半は、それまでの白を中心としたパレットがさまざまな色彩の広がりを見せていくが、白はまだ主要な色として用いられている。ノルヴァン通りは、モンマルトルの丘の上に立つサクレ=クール寺院へと続く小路で、ユトリロはしばしばこの付近を描いた。人影もまばらな狭い道の両側には白い壁が続き、その先にはサクレ=クール寺院の白亜の円蓋がそびえている。哀愁を帯びた裏通りの淡い詩情をたたえた空間が印象的な本作は、ユトリロが傑作を最も多く生み出した1910年代の典型的な佳品のひとつといえるであろう。
茶色い大柄な文様のある黒い花瓶に色とりどりのバラやチューリップ、ポピー、ミモザなどが美しく咲き誇っている。背景の白地の下に透けて見えるわずかなブルーが花々の赤やピンク、黄色などの色彩の鮮やかさをいっそう引き立てている。キスリングの描く花は、彼の描く人物たちがそうであるように、澄んだ色彩、丸みを帯びたかたち、明暗の差のはっきりした明快な陰影法、そして平滑なマチエールなどに見るように、おおらかで健康的である。
II-2-2. フォルムと空間
基本的に、印象派の画家たちは、伝統的な遠近法による空間表現から大きく逸脱することはなかった。ただ、モネ(1840–1926)の後期作品、たとえば睡蓮の連作は明らかに奥行きが浅くなり、空間の平面化が進んでいる。モネは、睡蓮をモティーフにする際には、しばしば水平線や空を描かずに、画面いっぱいに水面をクローズアップしているため、奥行きの感覚がつかみにくいだけではなく、上下左右まで分かりにくくなっている(cat.no. 78)。
印象派を乗り越えようとしたポスト印象派以降の絵画空間は、絵画本来の平面性が強調されたり、歪みを見せたり、抽象性を帯びたりと、様々な揺らぎを見せていく。「近代絵画の父」と称されるセザンヌ(1839–1906)は、若い頃は印象派からスタートしたが(cat.no. 70)、モネに典型的な、描く対象が光の中に溶けていくような、印象派のフォルムと構成の「緩さ」に限界を感じ、印象派の色彩の明るさを保ちながら、対象の本質に迫る揺るぎないフォルムと、構築的な空間構成を追究していく。セザンヌは、「自然を円筒形と球形と円錐形によって」とらえつつ、必ずしも空間を遠近法によって統一的に表現するのではなく、同一画面に複数の視点(多視点)をとり入れ(fig. 12)、20世紀初頭のキュビスムを準備した。キュビスムにとどまらず、後世の画家へのセザンヌの影響ははかり知れないが、そのボリューム豊かで実在感のあるフォルムや堅牢な構図は、セザンヌ論を著したベルナール(1868–1941)をはじめ、ヴラマンク(1876–1958)やモランディ(1890–1964)といった後の世代の画家の、若き日のいしずえにもなっている(cat.nos. 79, 81)。
(茨城県近代美術館 澤渡麻里)
Water Lilies
ベルナールは、1890年前後にゴーガンを中心にブルターニュの小村に集まって活動したポン=タヴェン派の理論的なリーダーであった。このグループは後期印象主義の世代に属するが、その様式は装飾性、平面性の強いものであった。しかし彼の画歴の後半では、古典的な手法に戻っている。ここに描かれたスミュールは、12世紀の古城のあるパリ南東の町。仄暗い色調に沈む本作品においてはゴーガンのもとで展開していた個性的な画風はすでに影を潜めている。
マルケは、マティスなどとともにフォーヴィスムの代表的画家の一人に数えられているが、本質的には色彩の強烈さよりは、微妙なニュアンスの諧調にいっそう鋭敏であった。後期になると、その色彩は更に柔らかさを増していった。マティスの親友であった関係から、フォーヴの運動に参加はしたが、グループからは距離を保っていた彼は、その気質からして、コローやクールベの伝統に連なる写実主義者であった。マルケの才能は、情景を澄明な明晰さをもって表わすことにあった。港の風景は、彼が好んで描いたテーマの一つである。本作においてマルケは、穏やかな色調を用いて、温暖で陽光あふれる南仏の入り江を描き出している。トゥーロンは、フランス南部の地中海に臨む軍港都市で、マルセイユの東方約50kmほどのところに位置し、西から東に突き出す岬によって守られた湾に面している。セザンヌが制作をしたエクス・アン・プロヴァンスにもほど近い。16世紀にアンリ4世が港と城を整備し、海軍工廠を設置してより、軍港・造船工業都市として発達し、フランス革命では王党反革命派の拠点であった。マルケは1909年頃より、ヨーロッパや地中海沿岸各地を訪れるようになるが、生まれ故郷ボルドーの記憶がそうさせたのか、彼が足を運ぶ先には、必ず水や港のモティーフがあった。本作に描かれているのも、そのような港の風景である。1938年、多忙な日々を送っていたマルケと妻のマルセルは、この夏、友人からの招待を受け、トゥーロンの港町の近郊にあるカップ・ブランを訪れている。このときマルケはほぼ同じ場所からの風景を数点描いていることから、本作もこの時に描かれた1点と思われる。地中海の暑い、霧がかった夏の日の印象が、淡い色彩と単純化された構図によって見事に捉えられている。
フランドル人の血を父方から継いでパリに生まれ、正規の美術教育を受けずに絵を描き始めたヴラマンクは、1901年頃、シャトゥーでドランと共同アトリエを営み、制作活動をはじめた。ゴッホに刺激されたフォーヴィスムの画家を代表する一人として、チューブからひねり出したままの絵具による溢れるばかりの色彩を駆使し、強い原色と奔放な筆触、スピード感のあるすばやいタッチで、ダイナミックな風景世界を描いた。その傾向は生涯を通じて変わらないものであったが、更に後期には彼独特の表現主義的な描写へと画風を発展させていく。こうした画風の展開の中で、1908年頃から1914年にかけての数年間だけ、セザンヌの影響を受けて、より堅固な構成と空間の把握を求め、構成的な画風に転じた時代があった。本作は、まさにこの「セザニスム」の特徴を良く示す作品である。形態のヴォリュームを強調し、空間の奥行きを勘案し、よく構成された構図を追求していたことが分かる。色調は、赤い屋根、白い建物、緑の樹木のアンサンブルに還元され、程よい音楽的な響きを醸し出している。この色彩は、モチーフの固有の色を離れ、緊張感をもった絵画空間をつくるために赤と緑の原色による補色関係で配置されている。建物や木々の細部は省略され、説明的な描写を残しながらも、対象はより単純な形の連続によって造形されている。セザンヌの洗礼を受けることは、20世紀初頭の多くの前衛画家に共通した現象であったが、ヴラマンクはわずか数年でセザンヌの主知主義と訣別し、このあと、彼の後期の特徴ある表現主義的風景画へと突き進んでゆくことになるのである。
モランディは、アトリエのテーブルの上に整然と並べられた瓶や器を描いた静物の主題を生涯にわたり執拗に繰り返した。瓶は一種の記号であって、それ自体が重要なのではない。その存在を通して量塊や調子、色や形に還元する作業=絵画という行為そのものの深化なのである。乳白色を基調とした柔らかな色彩のハーモニーに導かれ、純粋なリズムに溢れた構図は、静謐な均衡と荘厳さに満ちており、古典の伝統と近代の手法を融合した永遠の光を放っている。
ここに描かれているのは、ミロが生涯にわたり好んでテーマに取り上げた、故郷カタロニアの風景である。地元バルセロナのガリの美術学校で学んだミロは、1919年パリに出てピカソと知り合い、その後ダダの運動やシュルレアリスム展にも参加する。この作品は、彼がパリに出る前、ガリの美術学校を卒業し、本格的な制作活動を始めた1916年に描かれている。この頃の彼は、大胆な色彩を用いた、荒々しいタッチや、写実的表現によらない自由な形態など、フォーヴィスムの影響の色濃い作品を描いている。
展覧会開催記録
東京富士美術館ホームページの貸出終了した収蔵品一覧ページ(該当展覧会出品作品リスト)が表示されます。
- ヨーロッパ絵画 美の400年 —珠玉の東京富士美術館コレクション— 2019/9/3〜10/22 山口県立美術館
- 名画を読み解く —珠玉の東京富士美術館コレクション 2020/2/20〜4/12 茨城県近代美術館
- 西洋絵画400年の旅 —珠玉の東京富士美術館コレクション 2020/7/22〜9/6 大分県立美術館
- 美の旅 西洋絵画400年 —珠玉の東京富士美術館コレクション展— 2020/9/12〜11/3 宮崎県立美術館
- 名画を読み解く —珠玉の東京富士美術館コレクション— 2020/12/15〜2021/1/31 沖縄県立博物館・美術館
- ヨーロッパ絵画400年の旅 珠玉の東京富士美術館コレクション 2021/7/9〜8/29 岡山県立美術館
- 名画でたどる西洋絵画400年-珠玉の東京富士美術館コレクション 2021/10/23〜12/26 栃木県立美術館
- ヨーロッパ絵画 美の400年―珠玉の東京富士美術館コレクション― 2022/3/19〜5/8 佐賀県立美術館
- 美の旅 西洋美術400年 ー珠玉の東京富士美術館コレクション 2022/7/16〜9/4 熊本県立美術館
- 西洋絵画400年の旅―珠玉の東京富士美術館コレクション展― 2022/9/17〜11/20 富山県美術館















































































