久高島の歴史と文化
沖縄本島南部に位置する久高島。その歴史と文化を紹介します。
はじめに
久高島は、沖縄本島の南部に位置する周囲8kmほどの小さな島です。2022年8月末時点における人口は235人、世帯数は147世帯で、小規模な漁業と農業、観光業が主要な産業となっています。知念半島の東端に位置する南城市安座真と久高島との間には高速船が運航しており、片道15分ほどで島に渡ることができます。
久高島には、サンゴ礁のひろがる美しい海や鬱蒼とした森、国指定の天然記念物である海岸植物群落など、豊かな自然があります。それだけでなく、島のなかには琉球の神話に登場する聖地や、貴重な文化財、住民たちが受け継いできた祭祀なども数多く存在します。本ギャラリーでは、「なんじょうデジタルアーカイブ」で公開されている資料を中心に、久高島の歴史と民俗について紹介します。なお、「なんじょうデジタルアーカイブ」の公式YouTubeチャンネルでは、「久高島歴史民俗散歩」いう動画シリーズ(全8話)も公開しています。こちらもあわせてご覧ください。
映像シリーズ「久高島歴史民俗散歩」
開闢神話と久高島
1650年に書かれた琉球最初の史書『中山世鑑』には、琉球の開闢にかんする神話が記されています。はるか昔、アマミク(阿摩美久)という神は天帝からの命を受け、土石草木を持参して下界し、広大な海のなかに島々と9つの御嶽を造りました。それから数万年が経ちましたが、一向に人はあらわれず、神の霊威も示されないため、アマミクは天帝に人の種子を乞いました。そこで、天帝はみずからの子である男女を、下界へ降臨させました。その2人の間に生まれた子が、琉球の人々の祖先になったと伝えられています。
- 中山世鑑 全
1650年、羽地朝秀著。初めての琉球正史。主に中国の年号を用い和文で書かれている。中国側の資料としては皇帝の詔勅・文書・冊封使録等が使われ、日本側の資料としては『琉球神道記』『南浦文集』等が使われている。また沖縄最初の王、舜天が源為朝の子であるという説が『保元物語』から採られ、後世の史書に踏襲されている。
下界に降臨したアマミクが最初に造った御嶽のひとつとされるのが、久高島の「コバウ森」です。現在、「コバウ森」はクボー(フボー)御嶽とよばれ、久高島の主要な聖地のひとつとなっています。クボーという名は、沖縄の方言で「クバ」とよばれるビロウの木(ヤシ科の常緑高木)が、御嶽の周辺に生い茂っていることに由来します。王府が編纂した、琉球最古の地誌『琉球国由来記』(1713年)には、この御嶽の祭神として「コバヅカサ」「ワカツカサ」「スデヅカサ」「ヤクロ河」の名が記されています。御嶽の入り口から中に入り、小道を進むと、鬱蒼とした森に囲まれた小さな広場に到着します。この広場が、主神「コバヅカサ」へと祈りをささげる、クボー御嶽の中心的な祭祀場です。広場から少し離れた場所には、「ワカツカサ」と「スデヅカサ」の祈願所(イビ)があり、それらは首里と玉城への遥拝所として機能しています。
クボー御嶽は、琉球王府にとって重要な聖地のひとつであり、久高島行幸の際には、国王が神女から祝福を受ける儀礼がおこなわれました。島の人々にとって、クボー御嶽は大切な祈りの場であり、部外者の立ち入りは固く禁止されています。
- 琉球国由来記集
琉球国由来記は、琉球国に関する最古の体系的な地誌資料。1703年に琉球の旧記由来を正す目的で王府に旧記座(きゅうきざ)が置かれ、琉球各地の旧記や由来記が収集され、それらの資料にもとづき旧記由来寄奉行(きゅうきゆらいよせぶぎょう)と中取(なかどり:奉行の補佐役)が編集を行い、1713年、尚敬王即位年に「琉球国由来記二十一巻」が完成された。<br>本書は各間切における諸史料を調査し収集された資料を整理編集したものから、渡嘉敷間切由来記(とかしきまぎりゆらいき)、中城間切の神女であるヨキヤノロの祭祀・儀礼について書かれた、「よきやのろくもい伝来記(よきやのろくもいでんらいき)」、久高島由来記(くだかじまゆらいき)、越来間切(ごえくまぎり)大工廻村(たくえむら・ダクジャクムラ)につたわる「御養父ノ由緒(ごようふのゆいしょ)」、(兪)氏系図抜書(ゆうじけいずぬきがき)、神歌主取家元祖由来記(おもろぬしどりけがんそゆらいき)、おもろ主取日記抜書(おもろぬしどりにっきぬきがき)、絃歌之由来(げんかのゆらい)を写したものである。国文学研究資料館が推進し、琉球大学が参画している「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」によりデジタル化された資料です。
島に流れ着いた壺
久高島の玄関口である徳仁港から15分ほど歩くと、島の東海岸にひろがるイシキ浜に到着します。白砂が美しいこの浜は、『琉球国由来記』に記載されている、穀物の由来にかんする話の舞台として登場します。
ある日、久高島に住むアナゴノ子という男が、イシキ浜に白い壺が流れ着いているのを見つけました。彼は、その壺を取ろうとしますが、寄せては返す波のせいで、なかなか拾い上げることができません。そこで家に帰り、アナゴノ子は妻であるアナゴノ姥に相談しました。アナゴノ姥は、彼に対して身を清めてから壺を取りに行くべきであると助言します。そこで、アナゴノ子は、島の西海岸にあるヤグルガーという井戸で沐浴し、白衣をまとって再びイシキ浜に向かいました。すると、今度は難なく壺を拾うことができました。開けてみると、壺のなかには麦や粟、キビ、豆など、7種類の植物の種子が入っていました。この麦は、島の中央付近にあるハタスという場所に蒔き、壺も同じ場所に埋められました。『琉球国由来記』には、のちに壺を掘り出そうとした2人の男が鍬を打ち立てたところ、吹いてきた大風によって病気になり、死んでしまったという話が記されています。ハタスには、壺を埋めた際に造られたという石囲いが今も残されています。
イシキ浜、ヤグルガー、ハタス
久高島に残る伝承では、イシキ浜に漂着した壺を拾った人物として、アナゴノ子とアナゴノ姥のかわりに、アカッチュミーとシマリバーという兄弟夫婦が登場します。この夫婦は、旧家のひとつである大里家(ウプラトゥ)の始祖とされ、大里家は長い間、ハタスの管理を担ってきました。現在、この家は無人となっており、関係者が母屋の隣にある神屋で祈願をおこなっています。
大里家については、次のような話も残されています。琉球王国17代目の王である尚徳王は久高島を訪れたとき、大里家の娘で、神女(ノロ)でもあるクンチャサという女性に出会いました。彼女に心を奪われた王は、首里へ帰るのを忘れて島にとどまりました。そうしたなか、首里城ではクーデターが発生しました。尚徳王は急いで島を発ったものの、首里城がすでに制圧されたことを途中で知り、絶望のあまり海に身を投じました。そのことを知ったクンチャサは、悲しみに暮れ、屋敷の近くで自らの命を絶ってしまいました。尚徳王の遺体は久高島の浜に漂着し※、彼が身に着けていた簪(かんざし)は、大里家で祀られました。簪は戦前まで現存していましたが、戦争中に行方不明になってしまったそうです。
※簪だけが島に流れ着いたという話もある。
大里家
久高島の地割制
島の中で目につくのが、短冊状に区切られた畑です。これは、地割制とよばれる土地の所有と利用にかんする古い制度に由来するものです。琉球王国では、農民による私有地の所有が原則的に認められず、田畑や原野、山林は村落が所有していました。農民は村落から割り当てられた土地で農耕を営み、田畑は数年から数十年のサイクルで割り替えられていきました。これが地割制です。1899(明治32)年から実施された土地整理事業により、地割制は廃止され、沖縄では土地の私有化が進みました。
そうしたなか、久高島でも土地の所有にかんする議論がおこなわれました。伊波普猷の『沖縄女性史』(1919年)によると、島の男性たちは集会を開き、共有地を私有化して分配することを決議しました。久高島では、男性は漁業や海運といった海の仕事に従事し、島を留守にすることが多かったため、農耕は女性を中心におこなわれてきました。そのため、女性たちは「神代以来の制度を変更するのはよくない。そのうえ、土地は古来女が関係してきたものであり、男が勝手に処分する道理はない」と、この決議に強く反発しました。結局、私有化の決議は取り消され、久高島では土地の共有管理を継続することになったのです。
- 沖縄女性史
伊波普猷 著,小沢書店
久高島における地割制の運用は、アジア・太平洋戦争の前後で変化しました。戦前までは、1月4日のシンユエー(新寄合)において話し合いがもたれ、16歳の男子にチュヂー(一地。約600坪)が与えられました。この土地は、1カ所に集約されるのではなく、島内に小さく分散した形で配分されました。これには、集落から畑までの距離や、畑の土質になどに大きな個人差が生じるのを回避し、土地利用の平等性を確保することができるという利点があったと考えられます。個人に分配された土地は、50~60歳ころになると村落に戻され、再び次世代へと分配されました。
戦後になると、土地は女性を含めた家族の員数に応じて家単位で分配され、永続的に利用するように制度が改められました。また、1989年には「久高島土地憲章」が制定され、国有地などをのぞく島内の土地は、すべて字の総有であることが明文化されました。住民が住居や耕地として利用する土地は、あくまでも字からの「借り物」であり、久高島では今も地割制に由来する土地の共有制度が運用されているのです。現在は、土地管理委員会がこの憲章にもとづき土地の管理をおこなっており、島を無秩序な開発から守る役割を果たしています。
イザイホー
久高島では、住民たちの健康や繁栄、豊穣を祈願するために、年間をとおしてさまざまな儀礼がおこなわれています。こうした儀礼は、クニガミ(国神)とよばれる8人の神役を筆頭とする祭祀組織によって受け継がれてきました。
さまざまな儀礼のなかでも、とくに多くの研究者からの注目を集めてきたのが、イザイホーです。久高島の女性は、30歳から41歳までの間に、祭祀組織に加入します。女性たちは、年齢にあわせて異なる集団に所属しながら、それぞれの成員としての役割を儀礼のなかで果たし、70歳になると引退します。もっとも下層の年齢集団に加入するための儀礼がイザイホーで、これを経験した女性たちはナンチュとよばれます。
イザイホーは、午年の旧暦11月に、4日間にわたりおこなわれます。初日には、あらたにナンチュとなる女性たちが、祖母の香炉から霊的な力をもつ灰を、自身の香炉に分けてもらいます。その日の夕方、ナンチュになる女性たちは、村落の中心的な祭祀場であるウドゥンミャーに集まります。神アサギの前に設けられた「七つ橋」を7回往復したのち、神アサギの裏に立てられた「七つ屋」という小屋に入り、そこで三夜にわたり籠ります。2日目、3日目も儀礼は続き、最終日には神女たちと成人男性が向き合い、綱を上下に揺らすアリクヤーという儀礼のあとに、各家をまわり、ナンチュと兄弟が対面します。最後に、ナンチュや先輩の神女たちが、ティルル(神謡)をうたいながら、神酒が入った桶を回り踊り、4日間にわたるイザイホーは幕を閉じます。
1966年のイザイホー
戦後、久高島では若者が進学や就職のために島を離れ、人口の減少が進みました。1966年には25人がイザイホーを経てナンチュになりましたが、78年にはわずか8人にとどまりました。そして、90年以降はナンチュになる資格を持つ者(イザイニガヤー)がいなくなり、以降イザイホーは一度もおこなわれていません。
78年のイザイホーでナンチュになった女性たちは、2008年までに全員、祭祀組織を引退しました。祭祀をとりまく社会環境は戦後、大きく変化しましたが、「神の島」ともよばれる久高島では、現在も住民たちの協力によって、数多くの儀礼が執り行われています。
久高島をより深く知るために
- [本標題:標題関連情報/責任表示]イザイホー調査報告 / 沖縄県教育庁文化課編
[本標題:標題関連情報/責任表示]イザイホー調査報告 / 沖縄県教育庁文化課編,[本標題等の読み]イザイホー チョウサ ホウコク,[著者名典拠レコードID]DA02590754,[著者標目形]沖縄県教育庁文化課,[著者標目形の読み]オキナワケン キョウイクチョウ ブンカカ
- 沖縄久高島調査報告書 : 「沖縄久高島の言語・文化の総合的研究」報告書
法政大学沖縄文化研究所久高島調査委員会 編,法政大学沖縄文化研究所
- 南城市の御嶽
南城市教育委員会
市内1000か所以上の拝所を字ごとに紹介。年中行事表も収録。 第一章 佐敷の拝所/第二章 知念の拝所/第三章 玉城の拝所/第4章 大里の拝所/第五章 特別寄稿「南城市・嶽々グスク物語」/第六章 用語解説
- 歴史のなかの久高島 : 家・門中と祭祀世界
赤嶺政信 著,慶友社





























