東京市養育院年報. 第50囘(大正10年度) / 国立国会図書館デジタルコレクション
社会公共事業
渋沢は、企業経営への関与だけでなく、社会福祉、教育の振興にも尽力しました。渋沢が関わった社会公共事業は約600にのぼります。
社会福祉事業
東京市内の生活困窮者等を保護するため、明治5年(1872)に東京養育院が設立されました。渋沢は、明治7年(1874)に養育院の事務長に就任、明治9年(1876)に院長に就任すると、92歳で世を去るまで院長を務め、養育院の運営に尽力しました。画像は板橋本院事務所前景です。渋沢栄一の銅像が見えます。
養育院は大正12年(1923)に東京府板橋町(現在の東京都板橋区)に新築移設されました。画像は板橋本院の鳥観図です。
貧民医療を目的に、明治天皇からの恩賜金を基金として恩賜財団済生会が明治44年(1911)に設立されました。渋沢は、多額の寄付を行ったほか、済生会顧問・評議員に就任しました。画像は貞明皇后(大正天皇の皇后)が済生会芝病院に行啓した際の写真。
教育
森有礼、福沢諭吉を中心として、明治8年(1875)に商法講習所(のちの一橋大学)が設立されました。渋沢は、建学の精神や矢野二郎校長の教育方針に賛同し、経営委員として学校の運営等で支援を行いました。
大倉喜八郎(1837-1928)は、還暦と銀婚式の記念事業として大倉商業学校(のちの大倉高等商業学校、東京経済大学)を設立しました。渋沢は、協議員の一人として開校に尽力しました。
渋沢は、成瀬仁蔵(1858-1919)の女子教育観に賛同して、明治34年(1901)の日本女子大学校の設立に支援を行い、昭和6年(1931)には、日本女子大学校第3代校長に就任しました(同年11月に91歳で死去)。
日本女子大学の第1回卒業生の集合写真です。明治34年(1901)開校当時の学生は、年齢が18歳から30代半ばまで、教員経験者など様々な経歴をもっていました。
渋沢は、明治19年(1886)に女子教育奨励会創立委員会(委員長:伊藤博文)の委員に就任します。女子教育奨励会が明治21年(1888)に東京女学館を開校すると、渋沢は会計監督、学長、理事長を歴任しました。
二松学舎 編,二松学舎
渋沢は、二松学舎創立者の三島中洲(1830-1919)との交流により論語への理解を深めました。大正8年(1919)には、渋沢は二松学舎の舎長(理事長)に就任し、漢学教育の発展に尽力しました。
