終戦の詔書 / 国立公文書館
終戦と憲法改正への動き
昭和20年(1945)8月14日、日本はポツダム宣言を受諾したことにより、戦争が終わりました。天皇はポツダム宣言受諾に関する詔書を国民に発布。この内容はいわゆる「玉音放送」として翌8月15日正午にラジオで放送されました。以後、日本は連合国の占領下に置かれ、憲法改正が行われることになります。
【GHQの憲法草案】
連合国最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサーは、昭和20年(1945)10月4日、訪問してきた東久邇宮内閣の無任所大臣であった近衛文麿に対し、憲法改正の必要を示唆しました。これにより、憲法改正に向けた動きが本格化します。昭和21年(1946)2月4日、GHQはGHQ草案(マッカーサー草案)の作成を始め、2月8日、日本政府は「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」などをGHQに提出しました。
政治家、公爵。明治24年(1891)~昭和20年(1945)。昭和12年から16年まで、三次にわたり首相を務めました。軍部の台頭を押さえるべく期待されて首相となりましたが、日中停戦に失敗。新体制運動を起こし、大政翼賛会を組織するも、軍を押さえることができず、日米交渉にも挫折しました。敗戦後、A級戦犯の容疑者として逮捕直前に自殺。「悲劇の宰相」と呼ばれました。
近衛国務相・マッカーサー元帥会談録 1945年10月4日
近衛が国内の戦争主導勢力についての見解を述べた後、政府の組織等について意見を求めたところ、マッカーサーは「憲法ハ改正ヲ要スル」、改正して自由主義的要素を十分取り入れなければならないと述べました。
マッカーサー3原則(「マッカーサーノート」) 1946年2月3日
マッカーサーは、憲法草案に盛り込むべき必須の要件として3項目、いわゆるマッカーサー3原則を提示しました。そのうちの一つが、第9条の淵源となった戦争放棄に関する原則でした。
昭和21年(1946)2月8日、日本政府は「憲法改正要綱」を説明資料とともにGHQに提出しました。日本政府は、GHQの内部で憲法草案作成の作業が進行していることを知りませんでした。
GHQは、昭和21年(1946)2月13日、日本側の憲法改正要綱を拒否するとともに、吉田茂外務大臣らにGHQ草案を渡しました。
Constitution of Japan
昭和21年(1946)2月13日、GHQが日本政府に提示した草案。
GHQ草案を外務省が仮訳したもの。
【帝国議会での審議】
昭和21年(1946)2月18日、日本政府側は「憲法改正案説明補充」を提出しましたが、これも拒否されたため、日本政府はGHQ草案を受け入れた日本政府案を作成。3月6日に「憲法改正草案要綱」が発表されました。
松本烝治国務大臣がGHQの再考を促すための 再説明書として用意したのが本資料。英訳され、2月18日、白洲次郎終戦連絡事務局参与によりGHQに送達。しかし、ホイットニー民政局長は、「松本案」については考慮の余地はなく、GHQ草案を受け入れその原則を盛り込んだ改正案を作成するかどうかを20日中に回答せよと述べました。
1946(昭和21)年3月6日午後5時、「憲法改正草案要綱」は、勅語や内閣総理大臣の談話などとともに内閣から発表され、謄写刷り版にして新聞社その他の報道機関に配布、翌7日の各紙に掲載されました。マッカーサーの要綱支持の声明も同時に発表されました。
この要綱の発表が突然であったこと、また、その内容が予想外に「急進的」であることについて、国民は大きな衝撃を受けましたが、おおむね好評でした。
日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法の改正手続に従って行われました。昭和21(1946)年6月、枢密院で可決された憲法改正案は、第90回臨時帝国議会に提出され、貴族院・衆議院両院でいくつかの修正が行われた後、同年10月7日に可決されました。
政府案からの修正には、国民主権の原則を明確にしたこと、戦力の不保持を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という文言を挿入したこと、生存権の規定を追加したことなどが挙げられます。
帝国憲法改正案
6月25日、帝国憲法改正案は衆議院本会議に上程され、吉田総理の提案理由の演説後、6月28日まで4日間にわたり合計11人による本会議質疑が行われました。この資料には、答弁準備のための佐藤達夫法制局次長による書込みが随所に見られます。
報告書 帝国憲法改正案(政府提出)
衆議院特別委員会が本会議に提出した修正議決の報告書には、貴族院での修正箇所も一部手書きで記されています。英語のciviliansに対応する用語が、「武官の職歴を有しない者」から「文民」に落ち着いた経過がこの資料からもうかがえます。

