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「憲法発布式之図」 / 立命館大学アート・リサーチセンター

大日本帝国憲法の誕生

大日本帝国憲法は、明治22年(1889)2月11日に公布、翌明治23年(1890)11月29日に施行されました。この憲法は、昭和22年(1947)5月3日に現在の日本国憲法が施行されるまで存続しました。大日本帝国憲法のもとでは、天皇が国の元首として統治権を総攬(そうらん)しましたが、法律の範囲内で、国民は、居住・移転や信教の自由、言論・出版の自由、集会・結社の自由、信書の秘密などが認められました。

【憲法が制定されるまで】

大日本帝国憲法が制定される以前、明治9年(1876)に明治天皇により「国憲起草の詔」が発布されました。これにより、明治政府が憲法を制定する意思が明らかになりました。一方で、板垣退助や後藤象二郎らが明治7年(1874)、民選の議会開設を要望する建白書「民撰議院設立建白書」を政府に対して提出。自由民権運動の機運が各地で盛り上がっていきました。

有司専制を廃し、「民撰議院」を設立し速やかに天下の公議を張るべきと主張しています。この建白書は新聞に掲載され、議院設立の時期などをめぐり論争が展開され、後の自由民権運動に大きな影響を与えました。

【私擬憲法】

自由民権運動では、各地で「私擬憲法」(民間有志による私案憲法)の起草活動が活発化しました。有名なものが「五日市憲法草案」(現在の東京都あきる野市で発見)で、基本的人権などについても触れられていました。

  • 明治の民権家である千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)らによって起草された私擬憲法。全文204条からなる膨大なもので、基本的人権を尊重する内容でした。1968年に東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢家土蔵の中から発見されたことから、この名で呼ばれています。

  • 〔山田顕義ヵ〕

    山田顕義は明治時代の軍人、藩閥政治家。山田は明治14年(1881)に自身の「憲法私案」を当時参議であった伊藤博文に提出しました。

【元老院の憲法草案】

元老院は、国憲取調委員を置き、海外憲法などの調査を行い、明治13年(1880)には、「日本国憲按」と題する憲法草案を奏上しましたが、この案は、我が国の国体に十分適合するものではないとして、成案となるに至りませんでした。憲法制定の本格的な準備は、明治14年(1881)に国会開設の勅諭が発せられたことがきっかけとなって始まります。

勅命を受けて元老院で起草された明治9(1876)年10月の憲法草案(第一次国憲按)。当時元老院幹事の職にあった陸奥宗光の手許に残されたものと推定されます。

【憲法草案作成のキーパーソン】

憲法制定に反対の立場だった右大臣の岩倉具視ですが、自由民権運動の高まりを受け、憲法制定へ動きました。憲法の起草を任されたのは、のちに初代内閣総理大臣となる伊藤博文や井上毅でした。伊藤は明治15年(1882)にヨーロッパへ渡って各国の憲法を調査し、憲法草案を練りました。

憲法について岩倉具視が上奏した意見書を箇条書きで記したもので、起草者は井上毅と言われています。
立憲制度の調査のために、伊藤博文にヨーロッパ派遣を命じた勅書。別紙には、各国の憲法や皇室、議会(上下院)、内閣、司法、地方制度など、31か条にのぼる具体的な調査項目が示されています。
明治20(1887)年の6月から8月にかけて、伊藤博文、伊東巳代治、金子堅太郎らによって憲法草案が作成されました。伊藤の別荘のある神奈川県夏島で審議されたため、「夏島草案」と呼ばれています。

【描かれた大日本帝国憲法発布】

大日本帝国憲法が発布されると「万歳」という言葉でお祝いされました。