嵯峨天皇宸翰光定戒諜 /
宸翰 天皇の書1
奈良時代から鎌倉時代までの宸翰の名品。
天皇の自筆(宸筆)であるすべての書きものの総称。日記・記録・文書(書状・宸筆綸旨・宸筆女房奉書など)・詠草・懐紙・短冊・経文・奥書・賛などの多岐にわたる。もっとも古いものとしては、奈良時代の聖武天皇のものが2点あり、それにつづく孝謙天皇・淳仁天皇にも各1点がある。平安時代では嵯峨天皇・宇多天皇・醍醐天皇・後朱雀天皇・後白河天皇・高倉天皇のものが伝存する。鎌倉時代以降になると後鳥羽天皇をはじめ、土御門・後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見・後二条・花園の諸天皇など伝存数も多くなり、南北朝時代では後醍醐天皇、後村上天皇の数十点のほか、北朝の天皇の宸翰もかなりの数が遺されている。後小松天皇以降、室町時代から江戸時代の天皇の伝存数は非常に多い。これらの主要な部分は帝国学士院編の『宸翰英華』に収録されている(北朝天皇の宸翰を除く)。宸翰は政治・経済・宗教・学問・文芸などあらゆる方面の歴史研究の資料として重要であり、また、各天皇の事歴・人格・資性・教養を知るにも貴重な文化財である。
奈良・平安時代
聖武天皇 聖武天皇御画御施入文(『宸翰英華 乾 』)
聖武天皇(701―756)の「聖武天皇御画御施入文」。天平勝宝元年(749)閏5月20日の勅書。年紀の上の「勅」の字のみが聖武天皇の宸筆。平田寺蔵。
伝・聖武天皇 賢愚経(大聖武)
『賢愚経』は、賢者と愚者に関する比喩的な物語を収めた経典。聖武天皇を伝承筆者とするところから、「大聖武(おおじょうむ)」と称される。大ぶりな文字、量感ある力強い筆跡で、端正な気迫に満ちている。古筆を集めた「手鑑」では、「大聖武」の一葉を巻頭に置くのを通例とした。
孝謙天皇 沙金請文(『宸翰英華 乾 』)
孝謙天皇(718―770)の「沙金請文」。天平勝宝9年(757)1月18日、造東大寺司が沙金の下付を請うた文書で、これを認可する意味の「宜」の一字が天皇の宸筆。正倉院蔵。
淳仁天皇 施薬院請文(『宸翰英華 乾 』)
淳仁天皇(733-765)の「施薬院請文」。天平宝字3年(759)3月19日の請文。施薬院に不足した薬用の桂心が不足したので他から補うことを請うたもの。これを認可する意味の「宜」の一字が天皇の筆とする。正倉院蔵。
嵯峨天皇 光定戒牒(『宸翰英華 乾 』)
嵯峨天皇(786-842)の「宸筆 光定戒諜」(部分)。最澄の弟子・光定が大菩薩戒を受けた際の戒牒。延暦寺蔵。嵯峨天皇は、空海、橘逸勢 (たちばなのはやなり) とともに三筆に数えられる。
伝・嵯峨天皇 金光明最勝王経注釈断簡(飯室切本)
東大寺の僧、明一(728-98)が編纂した『金光明最勝王経』の註釈書。これは、もと比叡山横川飯室別所に伝来したことから「飯室切」と呼ばれ、伝称筆者が嵯峨天皇とされる。
宇多天皇 宸翰 周易抄 (『宸翰英華 乾 』)
宇多天皇(867-931)の「宸翰 周易抄」(部分)。『周易』講義の際の手控えとして書写されたものか。東山御文庫蔵。
醍醐天皇 宸筆 白居易詩 (『宸翰英華 乾 』)
醍醐天皇([885-930)の「宸筆 白居易詩」(部分)。空海を思わせる書風で、自在な運筆を見せる。東山御文庫蔵。
後朱雀天皇 宸筆御記文(『宸翰英華 乾』)
後朱雀天皇(1009-1045)の「宸筆御記文」。端書に「当今御筆長久五年」とあり、長久5年(1044)は天皇36歳にあたる。近衛家に伝来したもの。陽明文庫蔵。
後白河天皇 宸筆神護寺起請文御奥書 (『宸翰英華 乾 』)
後白河天皇(1127-1192)の「宸筆神護寺起請文御奥書」。元暦2年(1185)1 月19日筆。天皇の「御手印」が捺されている。神護寺蔵。
高倉天皇 宸筆消息(『宸翰英華 乾』)
高倉天皇(1161-1181)の「宸筆消息(部分)」。治承2年11月13日、高倉天皇が兄の守覚法親王に宛てた消息。中宮の平徳子の出産にあたって、孔雀経法を修法したことに対する礼状。高倉天皇唯一の筆跡とされる。このとき生まれたのが安徳天皇。仁和寺蔵。
鎌倉時代
後鳥羽天皇(1180-1239)の和歌懐紙。線の強弱、墨の濃淡を駆使し、和様の豊潤さと法性寺流の鋭さをみごと融合させ、自分なりに昇華している。
土御門天皇(1195-1231)の「宸筆御消息(部分)」。後鳥羽上皇宛に、借用した笛を返却する旨を書いた手紙に、上皇が返事を直接書き入れて戻されたもの。右肩の斜めの点(合点)に添えらえたのが上皇による返事で、「必々可有入後候也(2行目)」などと書かれている。このような、来た手紙に直接返事を書いて返す手紙を勘返状という。
後嵯峨天皇(1220~1272)の宸翰消息。寛元4年(1246)4月15日付。仁和寺門跡の道深法親王宛。地震の頻発などの凶事を収めるため、道深法親王が修した孔雀経法に対する礼を述べる。後嵯峨天皇は、後深草天皇に譲位するが、深草天皇の弟亀山天皇を愛し、後深草天皇の子を差し置いて亀山天皇の子(後宇多天皇)を皇太子に立てたため、大覚寺・持明院両統対立のもととなった。
後深草天皇(1243-1304)の宸翰消息を一巻に成巻したもの。正応から永仁年間(1288~99)にかけての消息、二十通が収められるが、もともとは後深草天皇の供養のために、伏見天皇によって発願された消息経であったことがわかる。
亀山天皇(1249-1305)の「宸筆御起願文(部分)」。永仁7年(1299)3月5日付。正応4年(1291)に亀山法皇が自らの離宮を寺院として禅林禅寺(のちの南禅寺)と名付け、その8年後に寺の繁栄を願って記した文書。原本は焼失して掲出はその草案本。南禅寺蔵。
後宇多天皇(1267―1324)が、伏見天皇へ譲位して7年後の永仁2年(1294)11月15日、みずから斎戒書写したもの。聖武天皇の国分寺経の先例にならって諸国に班置し、鎮護国家・万民撫育を祈願する。
「宸筆御消息案(部分)」。延慶元年(1308)2月12日付。前月の26日に教王護国寺(東寺)で伝法灌頂を終えたのをうけての手紙。教王護国寺蔵。
伏見天皇(1265-1317)の「宸翰御願文(部分)」。正和2年(1313)2月9日、石清水八幡宮に参籠して「紺紙金字金光明経」を書写、奉納したさいの願文。伏見天皇は和歌・書道にすぐれ、和歌では『玉葉和歌集』を勅撰、書道では伏見院流とよばれる流麗な筆跡で知られ、日本書道史上有数の能書家とされる。その和歌切は広沢切と称されて尊重されている。
上下に藍の繊維を漉きこんだ雲紙に、伏見天皇が『古今和歌集』巻第18雑歌下の23首を書写したもの。伏見天皇30歳頃の筆。その書風は、上代様、ことに藤原行成の書風を習ったあとがよくうかがえる。
伏見天皇が、日頃詠まれた和歌を歌集としてまとめるために書き留められた草稿。世に「広沢切」と称され鎌倉時代における仮名の名筆として珍重されている。
右半分に宿紙(すくし・しゅくし)という一度使用した紙の漉き返し紙を使用している。宿紙は平安時代以来、図書寮付属の製紙工房・紙屋院(かみやいん)でつくられた薄墨色の料紙で、「広沢切」のなかでも、宿紙に書写されたものは珍しい。
延慶2年(1309)10月21日、花園天王の大嘗会の御禊行幸の行列を見物した際の記録。東山御文庫蔵。
皇子寧永親王(法名法守)の出家に関して、仁和寺宮寛性法親王の近侍に差し出した書状である。
伏見天皇の御製は『新後撰和歌集』以下の勅撰集に294首を数えるが、この1巻は、「むら雨の」以下「うきみにも」まで夏部30首、恋部10首、雑部10首の計50首の和歌が書写される。流麗な書で、歴代屈指の能書として知られる天皇の書風を伝えるものである。
後伏見天皇(1288-1336)の宸翰消息。持明院・大覚寺の両統迭立(りょうとうてつりつ)に関わる、いわゆる文保の御和談について記した後伏見天皇(1288~1336)の震翰消息。文頭の「両御所御問答」とは、後宇多・伏見両法皇によるやりとりを指し、緊迫した両統の交渉の様子を今に伝える貴重な消息。
後伏見天皇が、「古今和歌集」を書き写したもの。その書風は伏見天皇によく似て、美しく気品高いことで知られる。
元享元年(1321)10月4日、石清水八幡宮で、皇子量仁親王(光厳天皇)の速やかな立太子を祈願した願文の草案。蘆山寺蔵。
後二条天皇(1285~1308)が式部省の大学寮にかけられている孔子と顔回ら十哲の画像を修復後、同寮に返す前に拝見したい旨を伝えた消息。父・後宇多天皇にあてたもの。空海に傾倒した父の雄渾な書風と比べると、おおらかな感じをうける。現存する唯一の遺墨。
花園天皇(1297-1348)が尊円親王に宛てた宸翰消息。元弘元年(1331)8月24日夜、後醍醐天皇が神器を奉じて京を脱出し、奈良から笠置山へ入ったことを驚き嘆く内容。
元弘の変後の騒然たる世相のなかで、花園天皇が尊円親王に宛てた消息。「金剛山事」「西国悪党等又同時蜂起」など、千早城に拠った楠木正成軍を攻める幕府軍のことや播磨苔縄城における赤松則村の挙兵の動向が記される。重要文化財。
後醍醐天皇(1288-1339)の宸翰消息。嘉暦4年(1329)、郢曲・和琴の師であった綾小路有頼の死を悼み、その子敦有に秘曲の相伝を許された時の消息。後醍醐天皇42歳の時の宸筆と考えられる。雄渾な筆勢が見事に発揮された宸翰様のなかでも格調高い屈指の名品である。重要文化財。
