浮世絵でめぐる東京の坂さんぽ
浮世絵に描かれた東京の坂道を実際に訪れ、過去と現在の風景を比較しました。
東京23区には数多くの坂道があります。その多くは江戸時代に庶民によって名付けられました。風景を描いた浮世絵のモチーフにもなったため、資料から過去の様子を知ることができます。このギャラリーでは江戸〜明治時代に描かれた浮世絵をいくつか取り上げ、実際にその場所へ行って現在の風景と比較してみました。
紹介する坂の場所
九段坂(千代田区)
歌川広重(二代)の『東京開化卅六景 九だん坂燈臺』には、桜が咲く坂道にひときわ高い灯籠が描かれています。これは靖国神社(東京招魂社)正面の常夜灯として明治4年(1871)に建てられた高燈籠(常燈明台)です。和洋折衷様式の灯籠は、文明開化の象徴として名所になりました。
絵を見ると、かつての九段坂は今よりも幅狭で急勾配です。関東大震災後の帝都復興計画で、坂を削って緩やかにする道路工事が行われ、灯籠はその過程で昭和5年(1930)に通りを挟んで向かいの現在の位置に移設されました。
九段坂に関する資料
行人坂(目黒区)
『江戸自慢三十六興 目黒行人坂富士』は歌川広重(二代)と歌川豊国(三代)の共作。画面奥には坂の西端となる目黒川の太鼓橋が見えます。現在はアーチ型ではないコンクリートの橋ですが、地形はそのままで東端は目黒駅までの急坂です。
坂上から見て左手には大圓寺があります。この寺は寛永元年(1624)に湯殿山の大海法印という行人(仏教の修行者)が大日如来を本尊とする道場を開いたことに始まり、それから行人が集まるようになったのが坂の名前の由来です。
行人坂をモチーフにした浮世絵には、必ずと言って良いほど富士山が描かれています。現在も天気が良いと、ビル街の向こうにその山容を垣間見ることができます。
行人坂に関する資料
江戸見坂(港区)
明治時代の浮世絵師、小林清親の『武藏百景之内 江戸見坂』です。坂を上ってきた親子が、楽しそうに獅子舞を見ています。同じ場所を描いた歌川広重の『広重東都坂尽 江戸見坂之図』には、階段状の広い坂道で、「玉や」と書かれた傘をさすシャボン玉売りに子どもたちがはしゃぐ様子が描かれています。古くから江戸の人々の憩いの場だったのかもしれません。幕末の地図『江戸切絵図 芝愛宕下絵図』からは、坂の両側が大名屋敷だったことが伺えます。
江戸見坂は坂の上から江戸市街をすべて一望できることから、この名がつけられました。現在は坂下に高層ビルが建ち並び、かつての眺望は残念ながら失われています。
江戸見坂に関する資料
神田明神 男坂(千代田区)
歌川広重の『東都名所 神田明神東阪』です。神田明神の鳥居に至る石段を参詣者が行き交っています。男坂と呼ばれる急坂に対して、比較的緩やかな女坂がその南側に並行しています。石段は天保年間に神田の町火消4組によって奉納され、今は整備された状態でその面影をとどめています。この絵が描かれた時にはまだありませんが、後の天保年間に植樹されたイチョウの木(大公孫樹)が、震災・戦災を乗り越え今も男坂を上がった右手に残っています。親木は枯木のため切り株になり、現存するのはひこばえ(樹木の根本から若芽が育ったもの)です。
神田明神に関する資料
紀伊国坂(港区)
歌川広重(三代)が同じ場所の江戸・明治時代の今昔を描いたシリーズ『古今東京名所』のうち『古 赤坂紀ノ国坂/今 赤坂仮皇居』です。紀伊国坂が描かれた江戸時代の絵(上)を見ると、坂下から槍を掲げた大名行列が向かっており、右側には立派な海鼠(なまこ)壁の塀が続いています。坂の名前は御三家のひとつ紀伊国(現在の和歌山県)の紀州徳川家がこの地に屋敷を構えたことに由来します。現在は赤坂御用地となり、坂を上ったところの迎賓館東門は、徳川家中屋敷の通用口である薬医門を明治時代に移築したものです。
紀伊国坂に関する資料
参考資料
代表画像で使用したコンテンツ
- 「武藏百景之内」「江戸見坂」小林清親,小林 鉄次郎
- 〔江戸切絵図〕 芝愛宕下絵図景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編,尾張屋清七
















